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2010年7月24日 (土)

ワトソンの資格(9)

 ドイルの代理人、A.P.ワットは『ボヘミアの醜聞』をストランドマガジンに送った。幸い編集長のグリノー・スミスは気に入ってくれて連載を頼んできた。眼科専門医の看板を上げても患者は一人も来なかったから、ドイルは10時から4時まで執筆に専念した。「デボンシャー・プレイスには待合室と診察室があった。私は診察室で待っていた。待合室には誰も待っていなかった」。
 日記を見ると、ドイルの筆がいかに速かったかが分かる。『ボヘミアの醜聞』を送ってから一週間後の4月10日金曜日に「花婿の正体書き上げる」とある。20日月曜日には「赤毛連盟送る」と書いてある。27日には「ボスコム渓谷の謎送る」である。続いて『五つのオレンジの種』を書き上げたが、これは5月18日になるまで発送しなかった。4日に重いインフルエンザにかかったからである。朝デボンシャー・プレイスまで歩いて行ったが、「ゾクゾクと氷のような寒気を感じた」のである。ドイルは自宅に戻って倒れ込んだ。一週間危篤であり、続く一週間は弱り切って赤ん坊ほどの力しかなかった。やがて頭がはっきり冴えてきて悟ったことがあった。一人も患者が来ない「眼科専門医」を読者がたくさんいる作家の収入で支えるなんて馬鹿げている。「医学とは縁を切って自分の筆力だけを頼みにやって行くのだと決心すると喜びが込み上げてきた。今でもよく覚えているが、掛け布団の上にあったハンカチを弱った手につかみ、うれしさのあまり天井に向けてへ放り投げものだ。やっと独立できるのだ。もう医者らしい服装をせずに済み、他人の機嫌を取らなくてもいいのだ。どこでも好きなところへ行って好きな暮らしができる。これは我が生涯の最大の歓喜の瞬間だった。1891年8月のことである。」自伝には8月と書いてあるが、日記によれば5月であり、日記の方が正しい。ウィーン行きの場合と同じように、ドイルの記憶の中で猶予の期間が延びてしまったのである。医業を捨て文筆でやって行く決心がついたのがよほどうれしかったのだろう。これは危険な賭ではなかった。4月の日記を見ると、『製造番号249番』という短篇で57ポンド8シリング9ペンス、『ラッフルズ・ホー』の米国連載権で40ポンドの収入があったこと、さらには『ボヘミアの醜聞』では英国連載権で30ポンド12シリング、米国連載権で50ポンドを得たことが分かる。後年になると、ドイルはシャーロック・ホームズの短篇一つで初めのころの十倍の原稿料を受け取ることになった。ストランド誌に載った『シャーロック・ホームズの冒険』の前半の6篇の原稿料は30ポンドずつであり、後半の6篇で45ポンドずつだった。

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 患者が一人も来なかったおかげで、我々はシャーロック・ホームズが読めるのだ。しかしドイルはウィーンで何もしなかったのに「眼科専門医」を名乗ることはできた。専門医の資格について明確な規定はなかったようだ。ワトソンの資格も……

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