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2010年7月30日 (金)

「嘉納柔術」の教則本

 1905年にThe Complete Kano Jiu-Jitsuという本がアーヴィング・ハンコックとヒガシ・カツクマの共著で出版されたという話は、柔道か柔術か(3)で紹介した。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/3_969c.html
 このヒガシ・カツクマという人は嘉納治五郎の弟子に違いないと思っていたが、そうではないことが分かった。

 1905年、ロンドンとニューヨークにおいて、初めて英語で出版された柔道の教則本は、『The Complete of Kano Jiu-Jitsu (JUDO)』(アーヴィング・ハンコック、ヒガシ・カツクマ)、つまり『嘉納柔術(柔道)の全て』と題された五〇〇頁を超える大著だった。続いてドイツ語訳、フランス語訳が出版され、『嘉納柔術(柔道)の全て』はヨーロッパ各国で版を重ねた。戦後の1961年にも再版されるなど、いわば西欧世界における柔術(柔道)の古典である。
 この著者ヒガシ・カツクマは同志社英学校(現在の同志社大学)出身、堤宝山流の柔術家である。当時は〈柔術〉のインストラクターとしてニューヨークに在住していた。この大著を出版した同年にはプロレスの試合にも出場している。
(和良コウイチ『ロシアとサンボ』p.p.74-75)

 和良氏の労作は、サンボの起源について流布していた憶説を根底から覆す画期的なものだ。(これについてはまた)
 この柔道/柔術の教則本について

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 和良氏がThe Complete of Kano Jiu-Jitsuと書いておられるのは写し間違い。completeという単語は形容詞であって名詞ではないからThe Complete of---という形はあり得ない。
 しかしヒガシ・カツクマは堤宝山流の柔術家でしたか。新発見ですね。
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がJiujutsuというエッセイを書いて嘉納治五郎の柔道を紹介したのが1893年である。これは1895年刊行の『東の国からOut of the East』に収録された。
→ラフカディオ・ハーンの柔術論http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/1-bc81.html

 ヒガシは講道館とは無縁の人だったようだが、柔術を広めるために嘉納治五郎の名前を利用したのだろう。嘉納は怪しからんと怒ったか? 必ずしもそうではないようだ。嘉納自身、自分の柔道を外人に英語で説明するときにはジュージュツという言葉を使った。
→嘉納治五郎の柔術http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-665d.html

 嘉納の自伝には、1930年ごろドイツへ行ったところ、本だけを見て怪しげな「柔術」を覚えたドイツ人が多くて閉口したと書いてある。ハンコックとカツクマの本の独訳本だろうか?

 この本(英語版)は595ドル(5万円強)で入手できる。http://www.louellakerrbooks.com.au/cat112.htm
 1924年版(改訂版?)が1938年に再販になったもので500頁強。柔術の技を示す写真入り(その一部が和良氏の本の75頁に紹介されている)。売り出している古本屋の紹介文をそのまま訳しておくと

嘉納柔術(柔道)大観。日本政府の公式の柔術。ホシノとツツミによる補足あり。致命的打撃に関する章および活(日本の蘇生術)に関する章を含む。

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2010年7月24日 (土)

ワトソンの資格(9)

 ドイルの代理人、A.P.ワットは『ボヘミアの醜聞』をストランドマガジンに送った。幸い編集長のグリノー・スミスは気に入ってくれて連載を頼んできた。眼科専門医の看板を上げても患者は一人も来なかったから、ドイルは10時から4時まで執筆に専念した。「デボンシャー・プレイスには待合室と診察室があった。私は診察室で待っていた。待合室には誰も待っていなかった」。
 日記を見ると、ドイルの筆がいかに速かったかが分かる。『ボヘミアの醜聞』を送ってから一週間後の4月10日金曜日に「花婿の正体書き上げる」とある。20日月曜日には「赤毛連盟送る」と書いてある。27日には「ボスコム渓谷の謎送る」である。続いて『五つのオレンジの種』を書き上げたが、これは5月18日になるまで発送しなかった。4日に重いインフルエンザにかかったからである。朝デボンシャー・プレイスまで歩いて行ったが、「ゾクゾクと氷のような寒気を感じた」のである。ドイルは自宅に戻って倒れ込んだ。一週間危篤であり、続く一週間は弱り切って赤ん坊ほどの力しかなかった。やがて頭がはっきり冴えてきて悟ったことがあった。一人も患者が来ない「眼科専門医」を読者がたくさんいる作家の収入で支えるなんて馬鹿げている。「医学とは縁を切って自分の筆力だけを頼みにやって行くのだと決心すると喜びが込み上げてきた。今でもよく覚えているが、掛け布団の上にあったハンカチを弱った手につかみ、うれしさのあまり天井に向けてへ放り投げものだ。やっと独立できるのだ。もう医者らしい服装をせずに済み、他人の機嫌を取らなくてもいいのだ。どこでも好きなところへ行って好きな暮らしができる。これは我が生涯の最大の歓喜の瞬間だった。1891年8月のことである。」自伝には8月と書いてあるが、日記によれば5月であり、日記の方が正しい。ウィーン行きの場合と同じように、ドイルの記憶の中で猶予の期間が延びてしまったのである。医業を捨て文筆でやって行く決心がついたのがよほどうれしかったのだろう。これは危険な賭ではなかった。4月の日記を見ると、『製造番号249番』という短篇で57ポンド8シリング9ペンス、『ラッフルズ・ホー』の米国連載権で40ポンドの収入があったこと、さらには『ボヘミアの醜聞』では英国連載権で30ポンド12シリング、米国連載権で50ポンドを得たことが分かる。後年になると、ドイルはシャーロック・ホームズの短篇一つで初めのころの十倍の原稿料を受け取ることになった。ストランド誌に載った『シャーロック・ホームズの冒険』の前半の6篇の原稿料は30ポンドずつであり、後半の6篇で45ポンドずつだった。

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 患者が一人も来なかったおかげで、我々はシャーロック・ホームズが読めるのだ。しかしドイルはウィーンで何もしなかったのに「眼科専門医」を名乗ることはできた。専門医の資格について明確な規定はなかったようだ。ワトソンの資格も……

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2010年7月19日 (月)

ワトソンの資格(8)

 現代のイギリスでは、専門医の資格にはやかましい規定があるらしい。昔はその辺がいい加減だった。
 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝

(1890年、コナン・ドイルはロベルト・コッホが結核の新療法を開発したと聞いてベルリンに取材に行った。)
 ベルリンまでの列車の中で、ドイルはハーレー街に診察室を構えるマルコム・モリスという皮膚科の専門医と一晩中話して過ごした。モリスはドイルにこう言うのだった。あなたほどの人が田舎医者ではもったいない。眼科に興味がありますか。それなら、ウィーンへ半年ばかり勉強に行けばよい。あちらで箔をつけてくればロンドンで眼科専門医(eye specialist)として十分やって行けます。上等の暮らしができて暇もたっぷりあるから文学もやれますよ、というのだ。サウスシーに戻ったときは、ドイルは「生まれ変わったような気がしていた」。モリスに言われたことが頭の中で鳴り響いていた。妻も賛成してくれたので、娘はお祖母さんのところに預けることにして出発の準備をした。「後始末は簡単だった。医院はごく小規模のものだったから誰かに売るなどは考えられず、畳んでしまえばそれでよかった」。1890年12月12日、ポーツマス文芸科学協会の会員たちはグローズヴナー・ホテルでドイルの送別会を開いてくれた。数日後、ドイルは8年半前にやってきたときの興奮を思い出しながらブッシュ・ヴィラに別れを告げた。自由と冒険がまた始まるのだ。
 二人は1891年1月5日月曜日にウィーンに着いた。吹雪でひどく寒かった。眼科専門医としてスタートする日だというのに幸先が悪い。ところが講義が始まると実際に前途は多難だった。ドイルは前もってドイツ語の術語を覚えておかなかったので、なかなかついて行けなかったのである。ドイルは1891年1月から始めて20年ばかり日記をつけていたが、これはごく簡単なもので、特に後年になると収入金額とクリケットの結果しか書いてないので、ここから分かることは少ない。ところがこの1891年、彼の「驚異の年」に限っては、日記が大いに役に立つのである。ウィーン到着の翌日、1月6日には、「ラッフルズ・ホー書き始める」とある。その後しばらくは何も記入がなく、1月23日に「ラッフルズ・ホー書き終わる」とある。またしばらく空白があって、2月3日に「ラッフルズ・ホー150ポンド」とある。
 ウィーン到着と同時に書き始めて旅行の費用を捻出しようというのはいかにもドイルらしい。しかしこの小説は、これまで彼の作品の中では一番できが悪い。『ラッフルズ・ホー行状記』の主人公は化学者で、彼は卑金属を金に変える方法を発明して億万長者になる。ところが彼は善行をなすのが自分の使命だと思って貧しい者を援助する。その結果はどうなったか。彼は勤勉な男を怠け者に変え、不平不満の空気を醸し出し、熱心な画家をぐうたらにし、恋愛結婚をつぶし、人一人気違いにし、全般的に社会を堕落させた。最後まで読んでみると、ドイルは化学の知識をひけらかすためにこのテーマを選んだのではないかという気がする。
 自伝には、ウィーンでは妻と二人で社交とスケートで楽しい4ヶ月を過ごしたと書いてあるが、日記を見ると実際はそうではなかったことが分かる。ウィーンには6ヶ月はとどまるべきだと言われてきたのに2ヶ月で滞在を切り上げている。講義はほとんど理解できなかったようで、8週間の間スケートと社交で時間をつぶした後、良心のとがめを感じ始めたらしい。その証拠は日記にある。

 3月9日 ゼンメリング行き
 3月10日 ヴェニス行き
 3月16日 パリ着
 3月24日 ロンドン着

 ロンドンへ帰ってきたときには『コーンヒル・マガジン』に『白衣の騎士団』の連載が始まっていたので、ドイルは自信を得た。 しかし金を稼ぐにはやはり医者ではなくてはと思っていたから、モンタギュー街に住居を構えてから、ハーレー街の近辺で眼科専門医として看板を上げられる場所を探した。ウィンポール街の端に理想的な物件があった。家賃は年に120ポンドで、デボンシャー・プレイス2番地の正面の一部屋(プラス裏の一部屋の共同使用権)を借りることができた。4月6日月曜日の日記には「診察室準備完了」とある。しかしその三日前、4月3日金曜日の日記に、文学史に残る記述がある。
「『ボヘミアの醜聞』をA.P.ワットに送る」

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2010年7月17日 (土)

すべからく

……その本に、こんな記述がある。
「カンボジアのクメール・ルージュにいたっては読書人をすべからく虐殺した」
 水村美苗は、クメール・ルージュの反文化的な蛮行を、当然の義務だとして支持しているらしい。クメール・ルージュも粗暴な文化破壊者だが、水村美苗もまた恥ずかしい文化破壊者である。
(呉智英p.p.11-12)

 有名な小説家がこんな誤用を指摘されているようでは、確かに日本語は滅びるね。
 呉先生には論語の本もある。さすがに支那人、漢文はよく読める。 

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2010年7月16日 (金)

ワトソンの資格(7)

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「そうです。私は結婚して病院を辞めました。同時に顧問医師としてやって行こうという望みも捨てたのです。所帯を持つのが先決だから」

『バスカヴィル家の犬』の初めの方でジェームズ・モーティマー医師(博士ではない)がこう言った。顧問医師にはもうなれないとあきらめて都落ちしてダートムアくんだりの開業医になったのだ。
 原文は

  "Yes, sir. I married, and so left the hospital, and with it all hopes of a consulting practice. It was necessary to make a home of my own."

「顧問医師」という日本語を英訳するとconsulting physicianになるのが、これは英和辞典に出ている。consulting doctorという言い方もあるようだ。consulting surgeonという英語もあることは、グーグルでフレーズ検索してみると分かる。そういう医師としてやって行くことがa consulting practiceである。
 正典ではconsulting practiceというフレーズはホームズが自分の仕事についても用いている。

「いざとなれば自分で現場に行きます。しかし、私は諮問探偵としての仕事が多く、各方面から始終要請がありますから、無期限にロンドンを離れるわけには行かないのです。If matters came to a crisis I should endeavour to be present in person; but you can understand that, with my extensive consulting practice and with the constant appeals which reach me from many quarters, it is impossible for me to be absent from London for an indefinite time. 」

 ホームズは世界でただひとりのconsulting detectiveだった。これはふつう「諮問探偵」と訳するようだ。

「僕は独自の商売があってね。世界中で僕一人だと思うよ。諮問探偵というやつなんだけれど、分かるかなあ。このロンドンには、政府の探偵やら私立の探偵やらが大勢いる。こういう連中がしくじって途方に暮れると、僕のところにやって来る。それで僕が正しい方向を示してやるのだ。証拠は全部そろえて持ってくる。こちらは犯罪の歴史の知識があるから、まあ大体は正解を教えてやれるね。犯罪相互間には顕著な家族的類似性がある。だから千件の犯罪を詳しく知っていれば、千一件目を解明できない方が不思議だろう。レストレードは有名な探偵だが、最近ニセ札事件で行き詰まっている。だからよく来るのだ」

 諮問医師(「顧問医師」の方がふつうの言い方か?)は、諮問探偵と同じように仕事をする。ふつうの医師が匙を投げそうなケースについて相談に乗ってやるのだ。ジェームズ・モーティマー氏もチャリングクロス病院でもう少し我慢して研修医を続けておればそういう偉い医者になれたかも知れない。しかし結婚したのなら仕方がない。
 医者の資格としては、顧問医師、専門医(specialist)、(全科診療)開業医(general practioner)があって、だいたいこの順番に偉かったらしい。
 コナン・ドイルは、顧問医師にまではなれなくても専門医になろうとした。しかし、資格と言っても、これこれの条件を満たすべしという明確な規定があったわけではないようだ。

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2010年7月15日 (木)

ワトソンの資格(6)

 1878年に私はロンドン大学で医学博士号を取り、陸軍軍医(surgeons in the Army)養成の課程を履修すべくネトリー病院に進んだ。そこでの研修を終え、軍医補(assistant surgeon)として第五ノーサンバランド・フュージリアーズ連隊に配属された。当時、連隊はインドに駐在していたが、私の着任前に第二次アフガン戦争が勃発した。ボンベイに上陸してみると、我が軍はすでに山道伝いに進んで敵地に深く侵入していた。同じ立場の将校は多かったから、私は彼等とともに後を追い、無事にカンダハールに着くと連隊がいたので直ちに初めての任務に就いたのである。

 それからどうなったかというと

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 その結果、イギリスに帰って、シャーロック・ホームズ君と知り合うことになったのでした。
 ワトソンは元は陸軍の軍医だった。正式の資格はassistant surgeonだが、「軍医補」という訳でまずよいでしょう。裁判官も任官後何年かは「判事補」である。軍医の場合は「補」が付くか付かないかで別に仕事の内容が異なるわけではなく、階級の違いを表すだけのようだ。
 軍医は陸軍でも海軍でもphysicianではなくてsurgeonである。仮に兵隊が結核のような病気にかかればすぐに除隊させてしまえばよいので、軍が内科医を抱えている必要はない。
 外科医の仕事も、内臓の手術はほとんどなかった。砲弾や銃弾や銃剣による傷の手当てが大部分を占めていたはずだ。手足を切断しなければならないケースも多かったことは、ジョナサン・スモールの述懐からも明らかだろう。

「ちょうど川の真ん中まで泳いだところで、鰐に襲われて右足を持ってかれたんで。膝のすぐ上を、まるで軍医(surgeon)がやったみたいにきれいに噛み切って行きやがった。」

 これはインド大反乱(1857-59)の勃発前のことである。当時は軍医が片足切断の手術をするとしても麻酔はなかった。「男だろう、我慢せよ」とか何とか言ってメスとノコギリで切り取ったはずである。
 ワトソンのころになると麻酔術は発明されていたが、戦場では設備がなかった。ただ、1860年にジョゼフ・リスター(1827-1912)がはじめて無菌手術を行って以来、手術中の殺菌は徹底するようになっていて、死亡率は低下していた。リスターは1902年にエドワード7世を脅して虫垂炎手術をさせた人である。

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2010年7月10日 (土)

エドワード七世の虫垂炎手術

 エドワード7世(1841-1910)は、1901年1月22日、母ヴィクトリア女王の死と同時に即位した。

「女王さまが亡くなられた。王さまばんざい The Queen is dead! Long live the King!」

 戴冠式は1902年6月26日にウェストミンスター・アベイで行われる予定であった。
 ところが6月24日になって、王が虫垂炎に罹っていることが判明した。
 麻酔術はすでに50年前に発明されていたので、手術は可能であった。ところが虫垂炎の手術例はまだほとんどなく、初期死亡率は50%を越えていた。
 エドワードは手術を嫌がったので、王室付き外科医のフレデリック・トリーヴズ(1853-1923)は有名な先輩外科医のジョゼフ・リスター(1827-1912)に王様を説得してもらった。リスターはエドワードを
「どうしても手術は嫌で、明後日の戴冠式に出席したいと仰せられますか? それでは殿下は死体として式に臨席なさることになります」
と脅かして手術に同意させた。
 トリーヴズはリスターの援助を得て、腹部に開けた小さな穴から虫垂を切除することに成功した。二週間後、王様が危機を脱したことが発表されて国民を安堵させた。戴冠式は8月9日に行われた。同じ日にコナン・ドイルはナイトの位を受けたが、シャーロック・ホームズはこれを断った。もちろん、ドイルと同席するわけには行かなかったからである。

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 この手術の成功により、虫垂炎は手術療法が主流となった。近年になって内視鏡手術が始まるまで、術式はこのときからほとんど変わらなかったようだ。
 フレデリック・トリーヴズはこの功績によって準男爵に叙せられた。トリーヴズは1886年にエレファント・マンをロンドンに連れてきたことでも有名である。

 エドワード七世の病気が虫垂炎手術の普及のきっかけとなったというのだから、それまで内臓の手術はほとんど行われていなかったのだろう。
 ジョン・H・ワトソン(1852-?)は1878年に「陸軍外科医」になった。彼は1880年7月3日のマイワンドの戦いで負傷し後送されたので実績は余りないのだが、軍医として執刀したのは、弾丸の摘出、銃剣や刀による傷の治療、化膿した手足の切断などのケースがほとんどだったはずだ。内臓手術の経験はなかったと思う。
 1901年に北里柴三郎が第一回ノーベル医学賞をもらい損ねている。このころは近代医学の黎明期であった。

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2010年7月 9日 (金)

鉛筆の削り方

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「……このNNというのは何かね? ある単語の最後の部分だ。Johann Faberヨハン・ファーバーというのが有名な鉛筆製造業者の名前だということは知っているだろ。鉛筆はヨハンという単語の続きの書いてある部分しか残っていないことは明らかじゃないかね?」

『三人の学生』の事件におけるシャーロック・ホームズの発言でした。この事件は1895年(明治28年)のことだという。この年にはまだヨハン・ファーバー氏は健在だった。
 ニューヨーク・タイムズ紙1901年(明治34年)1月16日号にファーバー氏の死亡記事が出ている。
http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=2&res=9E02E0DF143AE63AA15755C1A9679C946097D6CF

 ヨハン・ファーバー氏死す

ニュルンベルク発、1月15日。
 鉛筆製造業者ヨハン・ファーバー氏が亡くなった。彼はニュルンベルク近郊のシュタインに生まれ、長年にわたりA・W・ファーバー氏の鉛筆製造工場に勤務していた。12年前に彼はA・W・ファーバー氏と関係を絶ち、子息たちとともにファーバー製造会社を設立した。
 ファーバー氏は5年前に引退し、以来事業は子息が経営している。遺族は子息三人と令嬢が一人である。夫人は一年前に他界している。
 

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年寄病

 ながらく更新を休んでいましたが、実はちょっとした年寄病にかかってしまい、「まだそんな年ではないのに」とショックを受けていたからです。幸い全快しましたが。
 病院の待合室で爺さん連に囲まれているのは憂鬱で、とうていブログ更新する気にはならなかった。
 また始めますのでよろしく。

Holmes

(ブログ筆者近影)

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