« 煙草の火を | トップページ | 鳩山さんの恩返し »

2010年8月25日 (水)

サンボの起源(3)

 ロシア暦1892年12月25日(西暦1893年1月7日)、帝政時代の徒刑・流刑地、北サハリンのアレクサンドロフスク地区の村落で、農民で未亡人のマリア・オシェプコワは男の子を産んだ。老司祭のアレクサンドル・ウニンスキーは冷え切った教会で赤ん坊に洗礼を施し、その子にワシーリーと名付けた。後にサンボの創始者となるワシーリー・セルゲイビッチ・オシェプコフである。
 母のマリヤはアレクサンドルスク収容所の徒刑囚であった。徒刑囚は教会での結婚は認められていたが、その子供は私生児としてカウントされた。ワシーリーは、生まれながらに"徒刑囚の私生児"という烙印が押されていたのである。(p.20)
 
 あとは本を買ってお読み下さい。面白いこと請け合い。
 ワシーリーの母オシェプコワは同じく徒刑囚であるセルゲイ・サバラヴィッチ・プリサクと結婚させられて男の子を産んだ。徒刑囚の子は私生児と決められていたから、ワシーリーは父の苗字ではなく母の苗字を名乗った。苗字は男女で語尾が異なり、母はオシェプコワ、息子はオシェプコフである。カレーニンの妻がアンナ・カレーニナになるのと同じである。セルゲイビッチというのは「父称」で「セルゲイの息子」という意味である。父称はあったのに私生児扱いだったのか。
 1891年には文豪チェーホフがサハリンを訪れている。村上春樹の1Q84にも出てきた『サハリン島』には、「きのどくなギリヤークじん」のことだけでなく、徒刑囚の子供たちのことも出てくる。和良氏は21頁で一部を引用している。

 オシェプコフは悲惨な子供時代を送り、日露戦争の始まった1904年に11歳で孤児になる。1908年(明治42年)、14歳のオシェプコフは日本留学が決まった。東京のニコライ大司教の神学校の学生になったのだ。お茶の水にあるニコライ堂ですね。そこで柔道に興味を持って、講道館に入門することになる。

Aee67b1a

 アマゾンのレビューアーも書いているけれども、オシェプコフの伝記をもっと詳しく書いてくれるとよかったのだけれど。しかし書くべきことがたくさんあり過ぎて困るくらいだったのだ。
 和良さんはあとがきで「S社のノンフィクション賞の二次で落選した」「多くの欠点がある」があるなんて書いているけれど、むやみに謙遜はしてはいけません。S社に見る目がなかったのだ。欠点はあるかも知れないけれど、すごい本だ。

|

« 煙草の火を | トップページ | 鳩山さんの恩返し »

コメント

http://www.nhk.or.jp/etv22/tue/summary.html
今NHK教育で柔道の歴史番組がやっています

投稿: NダDサク | 2010年8月31日 (火) 22時26分

ありがとうございます。ただ玉木正之氏は格闘技のことはあまり知らないのではないかと思います。いつだったか、ミニマム級のプロボクサーに向かって、MMAの選手を指さして「あんなのよりも君の本物のパンチの方がずっと強いよね」と言って困らせていましたから。

投稿: 三十郎 | 2010年9月 1日 (水) 07時25分

番組を見ましたが講道館 全柔連のプロパガンダでしたね…
全く深く調べていない…
そこいらの講道館本で流されている歴史プロパガンダそのもので
田辺又右衛門を始めとする柔術家に圧倒された史実についても全く触れられていない…
まあ…
冒頭からして現在の肩車などの外国柔道の得意技を封印するルールを迎合するものでしたから今後も期待はしない方が良いでしょう
その辺に関してはあこう堂さんのブログでも描かれていますね
http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1085059.html

玉木氏は朝青竜問題でも品格どうのとよくある寝言をほざいていますので
このオッサンを出すくらいなら柳澤 健氏を出してくれてた方が
よっぽど面白かったでしょうに

投稿: NダDサク | 2010年9月 2日 (木) 12時40分

拙著を好意的に取りあげていただき、ありがとうございました!

投稿: 和良コウイチ | 2010年9月 6日 (月) 01時17分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/36347082

この記事へのトラックバック一覧です: サンボの起源(3):

» Twitter Trackbacks []
[続きを読む]

受信: 2010年9月 1日 (水) 15時13分

« 煙草の火を | トップページ | 鳩山さんの恩返し »