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2010年8月31日 (火)

挙党態勢

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2010年8月29日 (日)

鳩山さんの恩返し

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さあ、これで総理にまで導いていただいた小沢さんに恩返しができるぞ、と意気込む鳩山由紀夫さん。撮影は2010年8月27日、モスクワにて?

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2010年8月25日 (水)

サンボの起源(3)

 ロシア暦1892年12月25日(西暦1893年1月7日)、帝政時代の徒刑・流刑地、北サハリンのアレクサンドロフスク地区の村落で、農民で未亡人のマリア・オシェプコワは男の子を産んだ。老司祭のアレクサンドル・ウニンスキーは冷え切った教会で赤ん坊に洗礼を施し、その子にワシーリーと名付けた。後にサンボの創始者となるワシーリー・セルゲイビッチ・オシェプコフである。
 母のマリヤはアレクサンドルスク収容所の徒刑囚であった。徒刑囚は教会での結婚は認められていたが、その子供は私生児としてカウントされた。ワシーリーは、生まれながらに"徒刑囚の私生児"という烙印が押されていたのである。(p.20)
 
 あとは本を買ってお読み下さい。面白いこと請け合い。
 ワシーリーの母オシェプコワは同じく徒刑囚であるセルゲイ・サバラヴィッチ・プリサクと結婚させられて男の子を産んだ。徒刑囚の子は私生児と決められていたから、ワシーリーは父の苗字ではなく母の苗字を名乗った。苗字は男女で語尾が異なり、母はオシェプコワ、息子はオシェプコフである。カレーニンの妻がアンナ・カレーニナになるのと同じである。セルゲイビッチというのは「父称」で「セルゲイの息子」という意味である。父称はあったのに私生児扱いだったのか。
 1891年には文豪チェーホフがサハリンを訪れている。村上春樹の1Q84にも出てきた『サハリン島』には、「きのどくなギリヤークじん」のことだけでなく、徒刑囚の子供たちのことも出てくる。和良氏は21頁で一部を引用している。

 オシェプコフは悲惨な子供時代を送り、日露戦争の始まった1904年に11歳で孤児になる。1908年(明治42年)、14歳のオシェプコフは日本留学が決まった。東京のニコライ大司教の神学校の学生になったのだ。お茶の水にあるニコライ堂ですね。そこで柔道に興味を持って、講道館に入門することになる。

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 アマゾンのレビューアーも書いているけれども、オシェプコフの伝記をもっと詳しく書いてくれるとよかったのだけれど。しかし書くべきことがたくさんあり過ぎて困るくらいだったのだ。
 和良さんはあとがきで「S社のノンフィクション賞の二次で落選した」「多くの欠点がある」があるなんて書いているけれど、むやみに謙遜はしてはいけません。S社に見る目がなかったのだ。欠点はあるかも知れないけれど、すごい本だ。

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2010年8月24日 (火)

煙草の火を

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2010年8月23日 (月)

サンボの起源(2)

『ロシアとサンボ』を要領よく紹介しようと思ったのだが、少々手に余る。膨大なロシア語資料を集めて本書をまとめた和良コウイチ氏の苦労は大変なものだったはずだ。仕方がない。当方は和良氏の本から離れて勝手なことを書く。ともかくこの本は読むべし。

 サンボを作ったのはロシア人の柔道家ワシーリー・セルゲイビッチ・オシェプコフ(1893―1937)である。オシェプコフが講道館で学んだ柔道に独自の工夫を加えて、現在サンボと呼ばれている格闘技を作った。グレーシー一族が前田光世から学んだ柔道(柔術)からブラジリアン柔術を作ったのと同じだ。
 ブラジリアン柔術は出藍の誉れを示した。実戦/格闘技戦ではどうやら柔道より強い。柔道ルールの試合でも寝技に持ち込んで柔道家を圧倒する強豪が出現した。これに対して木村政彦は……この辺はゴン格の増田俊也氏や柳澤健氏の連載を読んでください。

 世界中で柔道をする者が必ず講道館に従わねばならぬ理由はない。ブラジル式でも何でも新流儀を立てたければ立てればよいのだ。
 ソ連人として、「靴を履かず裸足で戦うなんて不自然だ」「体重階級制にすべきだ」「柔よく剛を制すなんて「観念論」は駄目だ」「足関節技禁止はおかしい」「もっと合理的なトレーニング法がある」などと思えば、「ソビエト柔道」を作ってしまえばよかったのだ。
 ソビエト柔道ではなくて、サンボになったのはなぜか? 1998年版の日本の百科辞典の「サンボ」の項目になぜオシェプコフの名が出てこないのか?
 オシェプコフの没年は1937年、44歳である。
 オシェプコフは1937年10月1日深夜に「日本のスパイ」として逮捕され、10月11日に留置場で心臓麻痺で死んだ。世界大百科事典によれば、サンボはこのときまだ出来ていない。


 
1938年体育スポーツ委員会がサンボという名称をつけて発足させ,翌39年には第1回全ソ連個人選手権大会が開かれた。」

 和良コウイチ氏の労作は予備知識を要求する。たとえば「トハチェフスキー」という名前はご存じだろうか? 柔道や格闘技には無関係で、和良氏のこの本にも出てこない人物であるが、知っているといないとでは本書の理解度が違う。

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 複雑に絡まり合った歴史がある。オシェプコフ一人の筋を追うだけでも大変だ。しかし格闘技と現代史に関心のある人ならば『ロシアとサンボ』は読んで面白いことは請け合う。

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2010年8月21日 (土)

Oscar Wilde on Cigarette Smoking

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Basil, I can't allow you to smoke cigars.  You must have a cigarette.  A cigarette is the perfect type of a perfect pleasure.  It is exquisite, and it leaves one unsatisfied.  What more can one want?
(The Picture of Dorian Gray)

煙草を吸うのは、完璧な快楽の完璧な象徴だ。洗練されていて、しかも、満足はあたえてくれない」と言った。(p.82)

 河内恵子氏の訳は立派な翻訳であるが、この部分だけは誤訳。河内氏は煙草を吸わない人らしい。
 いや、翻訳は正しいので、ジャイルズ・ブランドレスの英語原文がワイルドを間違って引用しているのかも知れない。

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2010年8月20日 (金)

ピカソ、スターリンの肖像画を描く

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 1953年、パブロ・ピカソ(1881―1973)は自分をフランス共産党に入党させた友人の詩人ルイ・アラゴン(1897―1982)の頼みでヨシフ・スターリン(1879―1953)の肖像を描いた。さすがによく描けてますね。ところが、この肖像画は大問題になった。スターリンの威厳を損ねているというのだ。戦前の日本の不敬罪騒動よりもひどいくらいの大騒ぎになった。
 それまでスターリンの肖像といえば

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 アラゴンは自殺未遂をし、フランス共産党書記長モーリス・トレーズが自己批判をしたが、ピカソは平然としていた。
 そのころスターリンの威信がどれくらい高かったかはなかなか分からないだろう。
 ジャーナリストで参議院議員の有田芳生氏は1952年に生まれたが、父親の有田光雄氏が共産党員だったので、ヨシフ・スターリンのような立派な偉い人になるように芳生(よしふ)と名付けられたのだという。
 ピカソのスターリン肖像画の話を私が知ったのは、加藤周一『世界漫遊記』を読んだからだ。毎日新聞社刊の元版で読んだのだが、手元にないので記憶で書くと

 1953年、加藤周一氏はパリに留学していた。あるときフランス人の女性が部屋を訪ねてきて「クロサワの羅生門、見ました」と言って迫ってきた。相手にならないでいると「あなたは医者でしょう。診てください」とソファに横たわった。加藤氏が「あのピカソの描いたスターリンの肖像画は……」と言いかけると、横になったままでは議論はできないので、女性はむっくりと起き上がった。やれやれ危うく逃れたというのだが、据え膳食うのは潔しとしなかったと見える。
 加藤周一氏は一度講演を聴いたことがある。端正な容貌の老紳士だった。若いころはさぞもてただろう。フランス人には三船敏郎と加藤周一の見分けはつかなかったらしい。
 和良コウイチ『ロシアとサンボ』の話に繋げるつもりだったが、それはまた今度。

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2010年8月19日 (木)

サンボの起源(1)

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旧ソ連各地に伝わる各種の民族格技をハルラムピエフ A. A. Kharlampiev が中心になって統一ルールを作った新競技。sambo とは,〈武器〉〈不所持〉〈自己防衛術〉の三つのロシア語を組み合わせた造語。10m2のマット上に敷いた8m2のキャンバスの上で投げ技,固め技(抑え技,関節技)によって勝敗を競う。9階級制で競技時間は6分。レスリング用の短いパンツと柔道着に似たサンボ着,かかとのない靴を着用する。日本では絞め技のない柔道として理解されている。1938年体育スポーツ委員会がサンボという名称をつけて発足させ,翌39年には第1回全ソ連個人選手権大会が開かれた。69年に国際アマチュア・レスリング連盟の正式管理種目となり,国際的にも認知されている。日本には1965年笹原正三が中心となって日本サンボ協会(1972年日本サンボ連盟と改称)が誕生。66年には全日本選手権大会が開催された。67年の第1回国際サンボ選手権大会では,日本はソ連に次ぐ好成績を挙げ,第2回大会でも柔道の高段者が優勝するなどの活躍をしている。⇒レスリング               浅田 修司(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 平凡社世界大百科事典の1998年版から。サンボの創始者はハルラムピエフではないことはもう分かっていたはずなのに、何に遠慮していたのだろう?

 古賀徹著(ビクトル古賀監修)『サンボ―ユーラシアに生まれた格闘技』は「ユーラシア・ブックレット」の1冊として2006年に刊行された。

(1917年の)十月革命後、アナートリー・アルカデビッチ・ハルラムピエフは、新しい総合的な格闘技の体系の創造を考え、ソビエト国内各地を踏査しながら各種の土着民族格闘技を分類整理し、新しい体系をつくりあげていきました。こうしたハルランピエフの考えに賛同した多くの学者、教師、スポーツ関係者などの積極的な協力により研究が進み、サンボの原案が作成されたのです。…………
 ハルラムピエフの調査が進められていく以前に、彼の師であるワシーリー・オシェプコフが柔道のサークルを指導していたことから、その体系化の中に日本「柔道」が影響を与えたともいわれています。(p.p.12-13)

 ようやくオシェプコフと柔道が出てきた。しかし言葉遣いが微妙である。従来のハルラムピエフ起源説と真実との矛盾を何とかして取り繕おうとしている。
  サンボの起源についておかしな話がまかり通っていたのは、スターリンの時代に何でも「ウリナラ起源説」ならぬ「ロシア起源説」が強力だったためだ。その名残りが2006年になってもまだあったらしい。
 サンボの起源について知りたい人はまず和良コウイチ『ロシアとサンボ』を読め。 

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2010年8月18日 (水)

Famous Pipe Smokers

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2010年8月17日 (火)

シャーロック・ホームズとチャーリー・チャップリン

 チャーリー・チャップリン(1899―1977)は、ウィリアム・ジレット(1855―1937)の『シャーロック・ホームズ』に出演したことがある。ビリーの役を演じた。

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 1905年11月10日付けのデューク・オブ・ヨーク劇場のプログラム。
  配役にSHERLOCK HOLMES-------WILLIAM GILLETTEとあり、下の方へ見て行くと役名が字下げになる前に
 BILLY-------CHARLES CHAPLIN
 と書いてある。(CHARLIEではなくCHARLESと読める。)
 このときチャップリンは16歳だった。
 プログラムの写真は本物だと思うが、下のビリーに扮したチャップリンの写真は顔が鮮明すぎるような気もする。
http://www.gettyimages.co.jp/detail/3253261/Hulton-Archive?language=ja&location=JPN

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2010年8月16日 (月)

サンドウのトレーニング

ホームズ「あの側卓の下にあるものは、あれはなんです?」
執事「旦那さまのダンベルでございます」
ホ「うむ、一つしかないね。もう一つはどこにあります?」
執「存じませんです。初めからこれ一つだけなのかも知れません。久しいまえから、いっこう気がつきませんでした」
ホ「うむ。片っ方しかしかないダンベルね……」
(延原謙訳による)

 もちろん『恐怖の谷』ですね。これは1914年(大正3年)から翌年にかけてストランドマガジンに連載された。事件そのものは1888年(明治21年)のことらしい。
 ダンベルが片っ方しかないことが手掛かりになるのでした。しかし片方だけでは変だけれども、1セットだけというのは普通のことだったらしい。何キロのダンベルだったのだろう?
 ユージン・サンドウという人はボディビルの元祖だという話だったから、彼の著書が復刻されているのを買ってのぞいてみた。

 この本にはコナン・ドイルが序文を書いている。しかし「ボディビルの元祖」はちょっと違うのではないか? ボディビルやウェイトトレーニングの原則は、軽い重量から始めて徐々に使用重量を増やして行くことだ。私だってむかしは100キロ以上のバーベルを使っていた。ところがこの本に書いてあるのは、小さなダンベル1セットを使う運動だけだ。ユージン・サンドウが勧めて長塚節やコナン・ドイルやパールストン荘のダグラスが行ったのは、「ダンベル体操」と呼んだ方がよいだろう。

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 サンドウはダンベル体操を普及させて日本人の健康増進にまで寄与したけれども、自身の怪力養成にはまた別のトレーニングをしたのだろう。

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2010年8月15日 (日)

サンドウの来日?

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 ユージン・サンドウ(1867―1925)。ボディビルとウェイトトレーニングの先駆者であるが、現代とはやはり少々感覚が違う。イチジクの葉っぱは今から見るとへんてこりんだ。体形はこれくらいが自然でよろしいと思う。(現代のボディビルダーは広背筋と大胸筋を過剰発達させてウェストを絞った逆三角形の体を作ろうとする。)

 前にコナン・ドイルとの関係でサンドウのことを書いたら、カナダ留学中の学生の方から、サンドウが1905年(明治38)年の春か夏に来日したかも知れないという話がある――という情報をいただいた。
 サンドウが本当に来日したかどうか? 来日はしてないように思う。日本に来たのなら、当時の体育界のボス嘉納治五郎と接触があるはずだ。相撲取とどちらが強いか力比べなどをして話題になったはずだ。しかしひょっとすると来ているかも知れない。どなたかご存じの方はご教示ください。
 日本に来たかどうかはともかく、サンドウのダンベル運動は世界的なブームになっていたらしく、正岡子規(1867―1902)の『病床六尺』にも「サンダウの亜鈴」の話が出てくる。『病床六尺』は子規の死去の年の1902年(明治35年)の五月から九月まで日本新聞に連載された。
 左千夫は伊藤左千夫、節は長塚節である。

〇左千夫いふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼らぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思われずと。節いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思う。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞しき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩せたりといへども毎日サンダウの亜鈴を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。 さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。(五月十三日)

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2010年8月11日 (水)

ゲイの社会(2)

 コナン・ドイルはもちろん同性愛のことを知っていた。
「オスカー・ワイルドさんは偉いけれども、あれはどうもなあ」
 奥さんのルイーズの方はそんなものが存在することを知らなかったはず。昔のイギリスには腐女子なんてなかった。ヴィクトリア朝の中流以上の女性は、結婚前に「おしべとめしべの話」を聞かされた(かも知れない)くらいで、性的な話題は禁忌であった。
 gayが同性愛を意味するようになったのはもっと時代が下ってからです。こういうのはOEDを見ればよい。

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1. a. Of persons, their attributes and actions: Full of or disposed to joy and mirth; manifesting or characterized by joyous mirth; light-hearted, exuberantly cheerful, sportive, merry.

ランダムハウス英和辞典の【1】陽気な,明るい,快活な. が基本的な意味であることが分かる。

「同性愛」という意味は、OEDではもっと後に出ている。

2.c.  c. Of a person: homosexual. Of a place: frequented by homosexuals. slang.

一番古い例文は1935年である。次が1951年。

 1935 N. Ersine Underworld & Prison Slang 39  Geycat, a homosexual boy  (geyという綴りになっている。まだ一般的な用法ではなかったらしい。)
 1951 E. Lambert Sleeping-House Party vii. 74  In a way it was an odd threesome. It occurred to me that Esther rather hung round our two gay boys.(第二次大戦後によく使われるようになった?)

 OEDはいま新版を準備しているところで、あるいはもう少し前の例文が見つかるかも知れないが、コナン・ドイルのころにはgayに同性愛の意味はなかった。オスカー・ワイルドだって「陽気な」という意味でgayを使っているはずだ。

 societyを「社会」とするのも何とかの一つ覚え。
 次は誰の台詞で、どういう意味ですか?

  "I was amused by her society, and she could see that I was amused."

 答え。独身貴族の四十男、セントサイモン卿がハティ・ドーラン嬢についてこう言ったのでした。
「彼女と付き合って楽しかった云々」
 be amusedの使い方がいかにも偉そうですね。だから振られるのだ。(ヴィクトリア女王がときどき「We are not amused.朕は面白うないぞ」と仰せられると臣下は恐懼した。)
 それはともかく、societyは社会とは限らない。「付き合い」「社交」「交際」ですね。
 gay societyは「陽気な社交」なんて訳さなくても単に「社交」でよろしいでしょう。

 ついでに、ニーチェのgay scienceとは何でしょうか? 
 fröliche Wissenschaftの英訳です。和訳ではふつう「悦ばしき知識」と言っているようだ。

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2010年8月10日 (火)

ゲイの社会(1)

 和訳してみて下さい。コナン・ドイル夫妻のウィーン滞在の話です。
 
……The Conan Doyles spent their days ice-skating, sipping coffee on the banks of the Danube, and enjoying "a little of gay  Viennese society."

 まさか「ウィーンのゲイ社会」という日本語が出て来なかったでしょうね。それはとんでもない間違いです。
 当ブログではすこし前にワトソンの資格(8)で同じ話を書いた。

自伝には、ウィーンでは妻と二人で社交とスケートで楽しい4ヶ月を過ごしたと書いてあるが、日記を見ると実際はそうではなかったことが分かる。

In his autobiography Doyle says that he and his wife spent four very pleasant months at Vienna, enjoying some gay society and excellent skating; but the diary tells a different story.

  gayは「ゲイ」「同性愛」とは限らない。辞書を見ると

gay
【1】陽気な,明るい,快活な.現在では【7】の意で用いられることが多く,使用には注意が必要:
……
【7】〈人が〉同性愛(者)の,ホモの,同性愛を支持する;〈場所などが〉同性愛者の集まる.同性愛者間では好んで用いられるが,それ以外では軽蔑的に用いられることがある:

「使用には注意が必要」は老婆心でしょう。今では誰でも知っている。薬が効きすぎたと言ってよいくらいだ。
 コナン・ドイルが奥さんと二人で、アイススケートをしたりドナウの川辺でコーヒーを飲んだりするのはよいとして、「ウィーンの同性愛社会を垣間見たりして」は変でしょう。

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2010年8月 9日 (月)

女冒険家

"The facts are briefly these: Some five years ago, during a lengthy visit to Warsaw, I made the acquaintance of the well-known adventuress, Irene Adler. The name is no doubt familiar to you."

「簡単に申せば、事実はこうだ。――いまから五年ばかりまえ、ワルシャワに長らく滞留中のことであったが、余は名うてのいかがわしい女アイリーン・アドラーと申すものと知りあった。この名前は、むろん君も聞き知っているであろうが」
(延原謙訳)

 actorは俳優でactressは女優、waiterは給仕でwaitressは女給だ。adventurerは冒険家でadventuressは女冒険家か? エベレストに登ったりヨットで太平洋横断をしたりする女か? 違うらしい。

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 しかし現代の英語では、こういうadventuressの使い方は「もう古い」という人もいるらしい。

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 この女の人は「私はadventuressよ」と言っているらしい。
  下はadventuressの人形として売っているようだ。

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2010年8月 8日 (日)

シクラメンのかほり

「かほり」は変だろう。呉智英先生に間違いを指摘されるぞ、と思っていたら、やはり指摘していた。

 しかし今はインターネットという便利なものがあるので、ウィキペディアを見ると

「歴史的仮名遣」では「かをり」が正しいとされるため、タイトルの「かほり」は誤りであると指摘されることもある。この主張に基づいて、この曲の題名においては、作詞・作曲を手掛けた小椋が妻である「佳穂里(かほり)」氏に宛てた愛の賛歌であり、美しいシクラメンを妻に見立て、妻の名「かほり」を付けたことからこの表記が使われたと推測する説がある。ただし、契沖以降の仮名遣いでは確かに「かをり」が正しいとされているものの、それ以前にスタンダードだった定家仮名遣では「かほり」が正しいとされており、必ずしもこの表記が誤りであるとは言えない。

 ということだそうです。
 仮名遣はなかなかむつかしいので、与謝野晶子だって間違えている。有名なあの詩

     君死にたまふことなかれ   
            旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
           
                              與 謝 野 晶 子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

 http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
 注がついていて
 4.「をとうと」の仮名遣いは、歴史的仮名遣いでも現代仮名遣いと同じく「おとうと」ですが、原本通り「をとうと」にしてあります。

 広辞苑で「おとうと」を引いてみると
 
おと‐うと【弟】
(オトヒトの音便)
①同じ親から生れた年下の者、特に男子。おと。おとと。古くは、同性の間で言い、妹をも言った。日本紀竟宴歌「おのが―名はおと姫」

 竜宮城の「おとひめ」は、元来は「妹の姫」なのかな?

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2010年8月 7日 (土)

シャーロック・ホームズの筋書(3)

 ホームズはロンドンヘ行き、死体が埋葬された日の晩に戻ってくる。ホームズ、ワトソン、刑事の三人はホームズがロンドンから連れてきた男を伴って依頼人が疑っている悪者の住む家に行く。ロンドンから来た男は殺された老人に「生き写し」の扮装をしている。やせ衰えた体、しなびた灰色の顔、頭はほとんど髑髏である。さらに竹馬を装備している。悪者の家まで来ると、扮装した男は竹馬に乗り、墓場から蘇ったような声で相手の名前を呼びながら二階の寝室の窓が開いているのに近づいて行く。悪者は良心のとがめで半狂乱になって窓に駆け寄る。月光に照らされて歩み寄って来るのは自分が殺した老人の幽霊だ。近づいてきた幽霊が「お前がわしのところへ来たように、今度はわしがお前のところに来たぞ」とこの世のものならぬ声で呼びかけると、悪者は悲鳴を上げて腰を抜かす。ホームズたちが二階の寝室に駆け上ると、男はあえぎながら窓を指さす。殺された老人がこちらをにらみつけている。男は叫ぶ。「助けてくれ。何たることだ。彼が復讐に来た」 
 この劇的なシーンのあと、犯人はすべてを告白する。彼は拳銃にイニシャルを彫ってから発見された場所に隠した。ハシゴに老人の庭の土をつけたのも自分だ。恋敵を陥れれば女とその金を自分のものにできると思ったのだ。

 ドイルが結局この筋書を使わなかったのは、竹馬の話はやはり少々無理筋だと思ったからだろう。

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2010年8月 6日 (金)

シャーロック・ホームズの筋書(2)

 ホームズとワトソンは村へ行って担当の刑事と一緒に現場を見る。ハシゴ跡が特にホームズの注意を引きつける。彼は考え、見回し、かなりのカサのある物を隠せる場所はないかと尋ねる。涸れた井戸があるが、失せ物などないので探してないという答え。しかしホームズは井戸を探すべしと言う。村の少年がロウソクを持って井戸に降りてもよいという。井戸に入る前にホームズが少年の耳に何事かをささやく。少年は驚いた様子。少年は綱をつけて下ろされ、合図とともに引き上げられる。彼が持って上がってきたのは竹馬だ。
「まさか、まさか、竹馬とは!」と刑事が叫ぶ。「私は分かっておりました」とホームズ。「分かっておられた? どうしてです?」「庭の土に付いた跡は、垂直に立った二本の棒のものです。ハシゴならば壁に立てかけたのだから斜めになるはずでしょう」
(注――土の部分は狭く、あとは砂利を敷いてあるので竹馬の跡は残らない。)
 この発見で証拠としてハシゴの重みは減ずるが、他の証拠はそのままだ。
 次は竹馬を使ったのは誰かを突き止められればよい。しかし向こうも警戒しているから、二日たっても何事も起こらない。検死審問では、依頼者の恋人による殺人という評決が出る。しかしホームズは彼が無実だと確信がある。最後の手段として、ホームズは思い切った派手な手を使うことにした。

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2010年8月 5日 (木)

シャーロック・ホームズの筋書(1)

 伝記作家ヘスキス・ピアソンがコナン・ドイルの遺族の委嘱で彼の伝記を書いた(1943年刊)とき、残された書類を調査して「正典の61篇目」を発見したことは前に書いた。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_cdd1.html
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/61_747c.html
 ピアソンはもう一つ発見をしている。

 彼の書類から私は短篇のシナリオを一つ見つけた。これを見ると、ドイルがまず筋書を考えてから、だんだん肉付けして作品に仕上げたらしいことが分かる。もっとも、この筋書は誰かから買い取ったものかも知れないが。

 シャーロック・ホームズ短篇のプロット
 若い女がシャーロック・ホームズに難問を持ってくる。村で殺人事件があった。彼女の伯父が寝室で射殺された。窓が開いていて外から撃ったらしい。女の恋人が逮捕された。彼に嫌疑がかかるには理由があった。
(1)彼は恋人の伯父と激しく口論した。伯父は、姪が彼と縁を切らなければ遺言書(姪に遺産をやると書いてある)を書き換えると脅した。
(2)拳銃が彼の家で発見された。台尻に彼のイニシャルが彫ってあり、一発発射されている。遺体から回収した弾丸はこの拳銃と一致する。
(3)彼は軽いハシゴを持っている。村にはほかにハシゴはない。寝室の窓の下の地面にハシゴらしき跡があり、ハシゴの下によく似た土が付いたばかりのように見える。 
 男の言い分――拳銃は持っていない、発見場所が玄関の帽子掛に付いた引出であるから誰でも置けたはず。ハシゴについては一月も前に使ったきりなので土のことは分からないと言う。
 このような圧倒的に不利な証拠にもかかわらず、女は恋人が無実だと信じている。彼女の疑っているのは別の男で、こいつは彼女に横恋慕して言い寄っている。もっとも証拠は皆無である。ただ、何でもしでかす悪人だ、と女の直感で思うだけ。
(続く)

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2010年8月 4日 (水)

コナン・ドイル、ホームズを語る(2)

 シャーロック・ホームズが舞台に出たのは、実はこれが二度目だった。最初はずっと前で、ボーア戦争(1899―1902)のころだった。脚本と主演は有名なアメリカの俳優ウィリアム・ジレットで、いずれも見事だった。登場人物は私のもので筋もある程度まで原作によったから、興行収入の歩合を寄越したのは当然で、その収入がなかなか結構だった。ジレットは構想を練っているときに「ホームズを結婚させてよろしいか」と電報を打ってきた。すぐに「結婚させてよし、殺してもよし、お望みしだい」と返電してやった。脚本にも演技にも、それに金銭面にも、私は大いに満足した。仮にも芸術家ならば金のことなどは後回しにすべきだが、それでも実際に実入りがあればうれしいものである。
(p.89)

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2010年8月 3日 (火)

コナン・ドイル、ホームズを語る(1)

 シャーロック・ホームズが実在人物だと思っている人はかなりいるようだ。一つにはホームズが何度も舞台に現れたためだろう。
 1910年に私はロンドンのアデルフィー劇場を六ヶ月の契約で借り切って『ロドニー・ストーン』を自分のプロデュースで上演し始めた。ところが客が入らない。このままでは破産してしまう。思い切って公演は打ち切ることにした。すぐに閉じこもって全力で新作に取りかかった。一つめざましいホームズ物を書いてやろう。一週間で『まだらの紐』の演劇版を書き上げた。前の出し物がこけてから二週間たたぬうちに新作のリハーサルに取りかかることができたのだ。
 結果はかなりの成功だった。ドクター・グリムズビー・ライラット〔小説のロイロットを演劇版ではライラットとした〕役はリン・ハーディングがやった。癲癇の気味がある恐るべきドクターを、ハーディングは見事に演じてくれた。ホームズ役のセインツベリーもよかった。公演が終わるまでには前作の失敗による損失を取り戻して少々資産を蓄えることができた。『まだらの紐』はレパートリーになって、今でも地方巡業で上演中である。
 タイトルロールには立派な大錦蛇を使った。こいつのことは大いに誇りに思っていたから、ある劇評家が劇をけなしつけたのはよいとして、締め括りに「山場では明らかに人工と分かる蛇が出た」と書いたのには腹が立った。それでは大金を差し上げますからこの蛇と同衾してみませんか、と言ってやろうかと思ったくらいだ。
 蛇は何匹かを交代で使ったのだが、どれも役者の天分はなかった。紐みたいにダラリと垂れ下がるだけだったり、大道具方が尻尾を突っついて刺激しようとすると穴から這い戻って噛み付こうとしたりするのだった。仕方がないので人工蛇を使うことにしたが、大道具方を始め誰もがこちらの方がよいと言った。
(p.p.88-9)

Main
(演劇版『まだらの紐』台本。7500ドルで米国の古本屋にあったけれど売り切れたようです。)

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2010年8月 1日 (日)

ハンコックとヒガシの柔術本

 アーヴィング・ハンコックとヒガシ・カツクマは共著で『嘉納柔術大観The Complete Kano Jiu-Jitsu』を1905年(明治38年)に出版した云々という話を先日書いたら、識者からご教示いただいたことがある。
 ヒガシ・カツクマは東勝熊で、堤宝山流の柔術家である――これは柳澤健氏が『ゴング格闘技』に連載した『光の柔道、影の柔術』に初めて書いたことだ。
 ついでに訂正しておくと、スモール・タニこと谷幸男は不遷流の柔術家だったと英語サイトには書いてあるが、これは間違い。天神真楊流である。谷幸男の兄谷虎雄が天神真楊流の柔術家であったことが『武芸流派大事典』に出ている――これも識者のご教示による。
 
 ハンコックとヒガシのコンビによる柔術本はこの嘉納柔術大観が最初ではない。 
 前年1904年にハンコック一人の名義で(実質的には共著のようだが)Jiu-Jitsu Combat Tricksという本が出ている。

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 この本はアメリカのアマゾンでは12ドルで入手できる(上の写真)。
 日本のアマゾンでは2400円であるが、これはリプリント版だろう。

 この本は今でも簡単に手にはいるので、英語のブログで紹介している人がいる。
http://martialhistory.com/2009/10/the-devils-handshake/
 悪魔の握手Devil's Handshakeのモデルを務めているのが東勝熊であるようだ。

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