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2010年9月 8日 (水)

広瀬武夫とサンボ(2)

「広瀬武夫がロシア皇帝の御前でレスラーと戦った」というのは憶説として和良さんによって完全否定された。
 ところが愛知県サンボ連盟のサイトによれば、これにもヴァリエーションがあるらしい。
 広瀬武夫が御前試合を要請されたのだが、ドイツ出張の要件があり、黒龍会主幹の右翼運動家、内田良平(1874-1937)が代役を務めたのだという。内田は講道館二段だった。(当時の二段は今とは値打ちが違う。)

 明治31年2月20日試合当日がやってきました。場所は冬宮体育館で、内田二段の相手は皇帝自慢のレスラージャハーリンでした。ジャハーリンは当時のロシアの最強レスラーで、クラチスキースタイルを得意とする重量級の選手でした。ニコライ2世をはじめ皇后アレクサンドラ、大蔵大臣ウイッテら高位高官、軍人や各国公使等も参列しての試合です。
 ルールは、クラチスキースタイルと柔道をミックスしたルールで実施することになりました。審判は王室体育館のロシチンがあたりました。ロシチンの合図で試合が始められました。ジャハーリンは腰を低くして構え、内田二段にジリジリと迫ります。機を見て、内田二段はジャハーリンの懐に飛び込み小内刈りで崩し、相手が態勢を立て直すところを横捨て身で投げ、すかさず十字固めでジャハーリンの腕を決めて勝負を決しました。内田二段は数日後、陸軍予備学校で柔道を教えることになり、特に彼の得意とした関節技は好評でロシア人たちに受け入れられていきました。このようなことからも、サンボが数多くの関節技を得意としているは柔道からの影響ではないかと思われます。と言うのも、旧ソ連の民族格闘技には関節技らしきものは殆んど見られず、しかも、外来のレスリングを除いては寝技も見られないのであります。
http://www5.ocn.ne.jp/~ysc2/sambotojudou.htm

 これは年月日が書いてあって記述が具体的である。(引用した部分の前の段落には年月日の明らかな誤記がある。)
 しかし典拠が書いてない。事実ならばサンボの起源に関する大発見だが、創作でないという根拠がない。
 島田謹治『ロシヤにおける広瀬武夫』には

 ウラジオストクに日本人の浪人が集まる梁山伯めいた道場があった。広瀬武夫はその道場に乗り込んで乱暴な柔術家を懲らしめた――という趣旨の記述がある。内田良平の名前は出てこない。
 しかし島田謹治の記述が正しいという根拠もないのである。『ロシヤにおける広瀬武夫』と『アメリカにおける秋山真之』は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書くときに使った本である。ところが文章は司馬よりも島田謹治の方がはるかに「小説的」である。比較文学の研究というのはこういうものなのか。
 広瀬武夫にしても秋山真之にしても、ちゃんとした伝記を書いておく値打ちのある人だ。漱石伝は汗牛充棟のナントカだ。快男児広瀬武夫より漱石の方が偉いという偏見は……
 しかし伝記は伝記で文学などとは無関係にふつうに書けばよろしい。

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