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2010年9月24日 (金)

嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(5)

(英国バリツ協会の記事続き)
 ホームズはまもなく佐藤というサムライあるいは柔術家を見つけた。この男はイーストエンドのテムズ側北岸のライムハウス(阿片窟の多いところ)で果物屋と種の卸屋を営んでいた。佐藤は関口流の柔術家で、明治10年(1877年)の西南戦争勃発の直前に日本から追放されたのだった。彼の家族がウォッピングに住んで法に触れかねない危うい仕事をしていたが、佐藤のホームズとの関係のおかげでスコットランドヤードもある程度見て見ぬふりをしたようだ。
 ホームズは2年ばかり関口流柔術を熱心に学んだ。しかし事件があるときは当然中断した。
 1889年(明治22年)9月になって、ホームズは嘉納治五郎博士を知った。嘉納博士は経済学の教授であったが、日本の文部省の命令で欧州教育事情の視察に来ていたのだ。嘉納はまだ28歳であったが、すでに武道界での名声は高かった。彼は長らく天神真楊流を学んだが、五大流派の長を採り短を捨てて独自の強力な柔術を確立し、これを柔道と呼んでいた。

*原文筆者にかなり誤解があるようだ。嘉納は学習院教頭だったが、宮内省御用掛として明治22年に洋行した。(文部省から留学した夏目漱石などに比べて金銭的には余裕があったようだ。)帰国後に第五高等学校校長(現在の熊本大学学長に相当)になるくらい偉ければ当然ドクターだろうと思われて、英国では「ドクター・カノウ」と呼ばれたらしい。嘉納も初めは一々「ドクターではありません」とことわっていたが、そのうちに面倒になってきたのだろう。英国ではワトソンのようなただの町医者でもドクターなのだ。
「五大流派の長を採り短を捨て云々」もちょっと怪しい。嘉納は少なくとも天神真楊流と起倒流の二流を学んだことは確かであり、自伝の中で「高尚なる柔術各派を研究した」と書いているけれども、原文筆者が想像しているように他流試合を戦って勝ち抜いたわけではもちろんない。
 かなり後の明治39年(嘉納治五郎45歳)の写真が、嘉納がいかにして武道界の覇者(王者?)となったかを暗示している。

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 ゴン格11月号p.97で松原隆一郎氏が言っている。
「面白いことに嘉納師範は武徳会で柔術諸派の人たちに"一緒に形を作りましょう"と、持ちかけているんですね。嘉納師範が委員長、講道館から5人、柔術から14人が参加して(上の写真の人たちである――引用者)、投げの形、固めの形と一週間で次々と制定していった。色んな流派から形を出させて、とりまとめたのです。形稽古が中心だった柔術にとっては死活問題ですから、一つでも多く自流の形を入れようと、揚心流の戸塚は400も披露して、無理がたたり病死するほどだったと言います。これが全国に広まり、現在では講道館の形になったのです」

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コメント

いつも楽しく拝見しています。
武徳会の形に関してなんですが…

磯貝一の回想では無理がたたって病死したのは楊心流でも
香川の平塚葛太の方となっていますね。

また嘉納師範によると
当時の講道館の投、固、勝負の形を土台に追加、改良したもので
「色んな流派から形を出させて」ではありません。

制定のきっかけも、学校体育への柔術、撃剣導入を睨んで
教育内容統一のために作られたもののようです。

ゴン格の松原氏は少しうろ覚えで語ってしまったようですね。

投稿: すずけ | 2010年9月28日 (火) 19時45分

なるほど。ありがとうございます。慌てるよくないですね。

投稿: 三十郎 | 2010年9月28日 (火) 21時39分

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