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2010年9月30日 (木)

朝日の記事

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2010年9月29日 (水)

嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(6)

 ホームズは佐藤センセイから嘉納治五郎のことを聞いてぜひ会いたいと思った。ストランド街のレストラン「シンプソンズ」での会見の様子をホームズは日記にこう書いている。

 立ちあがって挨拶した男はまだ若かった。28歳くらいだろう。身嗜みがよく挙措は上品で控えめだ。身長は低い方で、髪は黒く大きな口ひげを生やしている。
 レスラーやボクサー特有の身体的特徴はほとんどない。鼻がつぶれてもいないし耳がカリフラワーになってもいない。顔の左右対称が崩れてはいないし拳が肥大しているわけでもない。しかし手首は非常に太く下腿三頭筋がよく発達してズボンはふくらはぎのあたりで張りつめている。

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 スーツと山高帽は新しかった。スーツは英国仕立てだ。私の間違いでなければサヴィルローのジーブズ&ホークスで作ったものだ。肘がすり切れたりズボンの膝が出たりはしていない。山高帽を脱ぐと(右手を使った)、内側のバンドにGustave de Rubempre, Milliner, 27 rue de la Tour, Marseillesとあるのが見えた。靴もフランス製だったが傷一つなく新品のようだ。
 握手をするとマルセイユ石鹸の匂いがかすかにした。握手は驚くほど強くしっかりしている。爪は短く整えてあり変色や変形やひび割れはない。
「すこし前までマルセイユにご滞在でしたね」と言ってやると、やはり驚いたようだ。

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2010年9月28日 (火)

毛沢東思想を再学習せよ

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 マルクス主義の国家学説にかんする観点からみれば、軍隊は国家権力の主要な構成要素である。国家権力を奪取し、しかもそれを保持しようとするものは、強大な軍隊をもつべきである。われわれを「戦争万能論」だと笑うものがあるが、そのとおり、われわれは革命戦争万能論者である。それはわるいことではなく、よいことであって、マルクス主義なのである。ロシア共産党の鉄砲は社会主義をつくりだした。われわれは民主共和国をつくろうとしている。帝国主義時代の階級闘争の経験は、労働者階級と勤労大衆が武装したブルジョアジーと地主にうち勝つには、鉄砲の力によるほかはないことをわれわれに教えている。この意味から、世界全体を改造するには鉄砲によるほかはない、ということができる。 「戦争と戦略の問題」(1938年11月6日)、『毛沢東選集』第2巻 )

http://maoist.web.fc2.com/mao/archive.htm (日中愛好協会(正統)のサイト)

 菅直人と仙石由人は毛沢東思想を再学習して出直せ!
  小沢一郎はちゃんと毛沢東思想の真髄をつかんでいたぞ。

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2010年9月27日 (月)

政治の文化大革命

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2010年9月26日 (日)

仙石粛々

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中国暴慢求謝罪

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2010年9月24日 (金)

嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(5)

(英国バリツ協会の記事続き)
 ホームズはまもなく佐藤というサムライあるいは柔術家を見つけた。この男はイーストエンドのテムズ側北岸のライムハウス(阿片窟の多いところ)で果物屋と種の卸屋を営んでいた。佐藤は関口流の柔術家で、明治10年(1877年)の西南戦争勃発の直前に日本から追放されたのだった。彼の家族がウォッピングに住んで法に触れかねない危うい仕事をしていたが、佐藤のホームズとの関係のおかげでスコットランドヤードもある程度見て見ぬふりをしたようだ。
 ホームズは2年ばかり関口流柔術を熱心に学んだ。しかし事件があるときは当然中断した。
 1889年(明治22年)9月になって、ホームズは嘉納治五郎博士を知った。嘉納博士は経済学の教授であったが、日本の文部省の命令で欧州教育事情の視察に来ていたのだ。嘉納はまだ28歳であったが、すでに武道界での名声は高かった。彼は長らく天神真楊流を学んだが、五大流派の長を採り短を捨てて独自の強力な柔術を確立し、これを柔道と呼んでいた。

*原文筆者にかなり誤解があるようだ。嘉納は学習院教頭だったが、宮内省御用掛として明治22年に洋行した。(文部省から留学した夏目漱石などに比べて金銭的には余裕があったようだ。)帰国後に第五高等学校校長(現在の熊本大学学長に相当)になるくらい偉ければ当然ドクターだろうと思われて、英国では「ドクター・カノウ」と呼ばれたらしい。嘉納も初めは一々「ドクターではありません」とことわっていたが、そのうちに面倒になってきたのだろう。英国ではワトソンのようなただの町医者でもドクターなのだ。
「五大流派の長を採り短を捨て云々」もちょっと怪しい。嘉納は少なくとも天神真楊流と起倒流の二流を学んだことは確かであり、自伝の中で「高尚なる柔術各派を研究した」と書いているけれども、原文筆者が想像しているように他流試合を戦って勝ち抜いたわけではもちろんない。
 かなり後の明治39年(嘉納治五郎45歳)の写真が、嘉納がいかにして武道界の覇者(王者?)となったかを暗示している。

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 ゴン格11月号p.97で松原隆一郎氏が言っている。
「面白いことに嘉納師範は武徳会で柔術諸派の人たちに"一緒に形を作りましょう"と、持ちかけているんですね。嘉納師範が委員長、講道館から5人、柔術から14人が参加して(上の写真の人たちである――引用者)、投げの形、固めの形と一週間で次々と制定していった。色んな流派から形を出させて、とりまとめたのです。形稽古が中心だった柔術にとっては死活問題ですから、一つでも多く自流の形を入れようと、揚心流の戸塚は400も披露して、無理がたたり病死するほどだったと言います。これが全国に広まり、現在では講道館の形になったのです」

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2010年9月23日 (木)

粛々と(2)

和文英訳の仕事をやっていると、どう英訳してよいのか困る表現にぶつかることが多い。
「粛々と進める」などもその一つだ。さいわい私は今までこれを訳させられたことはない。
 しかし官房長官の発言を英訳している人はいるはずだ。どう訳しているのだろう? 他人事ながら気になる。
 辞書を引いてみよう。研究社和英大辞典

しゅくしゅく【粛々】
○粛々と 〔しめやかに〕 quietly; silently; in hushed silence; 〔おごそかに〕 solemnly
・葬列は粛々と進んだ. The funeral procession moved on in silence.
・神事は粛々と執り行われた. The Shinto ritual was held with great solemnity.

 なかなか工夫している。しかし領海侵犯と公務執行妨害の容疑者の起訴を「粛々と進める」の訳には使えない。もちろん辞書が悪いのではない。「粛々と」という言葉を使う人が悪いのだ。ごまかすために意図的にあいまいな言葉を使っているのであるから、どう訳せばよいかは辞書や語学の問題ではない、政治的に決めなくてはならない問題なのだ。
 どう訳しているのだろう?

 斎藤秀三郎の和英大辞典(1928年版)

しゅくしゅく〔粛々〕〈副〉Solemnly
◆鹵簿{ろぼ}粛々として進む The Imperial procession progressed is solemn silence. (isはinの誤植でしょう)

鞭声粛々 With hushed and noiseless whip and spur, 
夜渡河  By night I cross the tide; 
暁見千兵 Grey morn reveals a thousand troops 
擁大牙  Muster their chief beside. 
遺恨十年 A decade of unglutted ire 
磨一剣  Hath whet and steeled my blade― 
流星光底 Beneath the flash of meteor light 
逸長蛇  The lengthy snake is fled!

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2010年9月22日 (水)

粛々と?

 中国人船長の起訴手続は「粛々と進める」だけではだめだ。
 温家宝はニューヨークで「我々は日本に対して必要な強制的措置を取らざるを得ない」と自信満々の顔で言った。

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 事情を知らない外国人が
「尖閣というのは中国の領土だからだろう。だからあんなに正々堂々と主張するのだろう」
 と思っても不思議ではない。
 菅直人首相も直ちに
「尖閣は日本の領土であり、日本の領土を侵して日本の沿岸警備隊(海上保安庁の英訳はこうなる)の公務執行を妨害した者に罰を与えるのは当然である」
 と声明しなくてはだめだ。
「粛々と」などというわけの分からん言葉をつぶやくだけで外人も事情を察してくれるか? 甘すぎるよ。

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嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(4)

 シャーロック・ホームズが英国式ではなく日本式レスリングの研究に向かったのは、当時ようやくフランスから英国にも波及して来た日本ブームが関係しているようだ。
 1885年(明治18年)にはギルバート(脚本)とサリヴァン(作曲)のミカドが上演されて記録的な大ヒットになった。

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 また1885年から1887年まで「ナイツブリッジの日本村」があった。これはロンドン中心部の繁華街ナイツブリッジにあるハンフリーズ・ホールに工芸職人とその家族など男女子供を含めて百人ほどの日本人を住まわせて日本の生活を再現して見せたもので、大人気を呼んだ。英語版ウィキペディアhttp://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_Village,_Knightsbridge

 ホームズが初めて柔術に言及したのは、1888年1月10日付けのマイクロフト・ホームズ宛の手紙である。ただ、このテキストには英国バリツ協会の編集者が手を入れて改悪してしまったらしい。シャーロック・ホームズなら使うはずがない英語が使われている。だから原文に忠実な翻訳はあまり意味がないので、適当な訳です。

 親愛なるマイクロフト、お元気ですか。僕も元気です。……
 近ごろ柔術という日本式レスリングのことをよく聞く。これは高度に発達した科学的なグラップリングであって、解剖学・生理学の知見に基づいているようだ。投げ技は最近脚光を浴びているランカシャー式レスリングに似たところもあるが、てこの原理を大いに活用するものだ。日本式レスリングの特徴は関節技にある。手足や肩や首の関節の逆を取る技である。これによって力の強い相手も制することができる。
 兄さんも知っているように、僕は格闘の際は立ったままで拳を使う戦いになれている。最近、支那のカンフーをかじって肘、膝、足を使うことを少々覚えたが、これでは十分ではない。
 格闘のときに地面に転がるなんてことはしたくないのだけれども、やむを得ずそうなる場合もあることは最近経験した。そういうときに柔術は大いに役に立つのではないかと思う。
 何とかしてサムライを見つけて柔術を教えてもらいたいと思っている。日本人は頑固だし外人も警察も嫌いらしいから(ロイロット博士のように僕が「スコットランドヤードの小役人」だと誤解する者は多い)なかなかむつかしいだろうが。……

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2010年9月21日 (火)

尖閣の事件は

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2010年9月20日 (月)

谷幸雄の飛びつき腕十字

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 1905年ごろの絵葉書。マネージャーのアポロを相手に飛びつき腕十字のデモンストレーションをする谷幸雄。
http://www.bartitsu.org/index.php/2010/06/yukio-tanis-flying-armbar/
 アポロは本名ウィリアム・バンキア、ミュージックホールに出演して怪力芸を見せていた。
 アポロはウィリアム・バートン=ライトが開いた「バーティツ」の道場を見学に行った。そこでインストラクターを務めていたのが谷幸雄である。アポロは「あんなチビが強いはずはない」と思ったから手合わせを所望した。ところが三角締めでいとも簡単にやっつけられてしまった。ちっぽけなジャップは汗一つかかずににやりと笑って「どうだ、参ったか」というのだった。感心したアポロはマネージャーになって谷幸雄を売り出しにかかった。「スモール・タニ」はたちまち有名になった。
 谷は英国各地のミュージックホールや劇場を巡業した。「柔術着着用」「関節技・絞め技あり」の条件で戦う限り、どんな大きな相手にも負けなかった。谷に勝てば賞金100ポンド、勝てなくても15分間ギブアップせずに戦えば賞金25ポンドを提供するとしたから挑戦者には事欠かなかった。谷は年間500人ほどを相手に戦う巡業を何年にもわたって続けた。谷は日本人の三宅太郎に一敗した以外は不敗であった。15分以上戦って賞金25ポンドを獲得した者は数人いるようだ。

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 1903年11月には、谷はプロレスのチャンピオンであったジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけた。自分と柔術着着用で戦ってみろというのである。ハッケンシュミットは「裸でグレコローマンスタイルでならば戦ってもよい」と答えて戦いを避けた。

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2010年9月18日 (土)

嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(3)

 シャーロック・ホームズは、護身術としては打撃技だけで十分だと思っていたが、1887年(明治20年)4月に「組み討ち系」の格闘技の必要性を実感させるできごとがあった。
 4月14日にワトソンはリヨンから電報を受けた。ホームズがオテル・デュロンで寝込んでいるというのである。ワトソンがホテルに急行してみると、ホームズは極度の過労が原因で倒れたのであった。ワトソンはさっそくホームズを連れて帰り、サリー州ライゲイトにある長年の友人ヘイター大佐の邸に二人で滞在させてもらうことにした。
 ところがホームズの行くところに事件が起こらないはずがない。彼はカニンガム父子を相手にすることになったが……
 証拠をつかんだと思ったら、父子が立ち向かってきたのだ。まず先にかかって来た息子のアレック・カニンガムに左ジャブをかませたが、驚いたことに相手はパンチを物ともせずに強烈なタックルでホームズをテイクダウンした。すぐに親父の方ものしかかってきて二人でホームズを

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 ワトソンとヘイター大佐が助けてくれたからよかったようなものの……打撃技だけでは足りない。グラップリングをマスターしなければ、とホームズは痛感したのであった。カニンガム父子はボクシングの経験がありレスリングはベテランであった。アレックはジャブを受けても断固としてタックルに飛び込めばテイクダウンでき、あとは寝技で勝てると見たので実際にその通りだった。(ミルコ対藤田戦のようにタックルに対してキックを合わせることができれば別であるが……)
 しかし組技、寝技が必要だと実感したとして、ホームズはなぜ英国伝統の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」に向かわなかったのだろうか?
 フランスから英国にも波及してきていたジャポニスムが関係しているようだ。

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2010年9月17日 (金)

嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(2)

 英国バリツ協会のサイトは
http://www.bartitsu.org/index.php/the-bartitsu-legacy/sherlock-holmes-and-bartitsu-part-one/
である。直接英語で読みたい人は見てください。
  原文は少々冗長なので、ここでは縮約版を載せることにする。

 ホームズと嘉納治五郎の関係について述べているのは、マイケル・バートラム・ウースターという人の手記である。彼の祖父が第9代準男爵サー・ヘンリー・セントジョン・メリヴェイル(1871―1965)であったが、彼は第1次世界大戦前に英国の防諜組織を作った。このサー・ヘンリーが外務省の高官であったマイクロフト・ホームズと仕事上のつながりがあり、例のディオゲネス・クラブのメンバーでもあったからかなり親しかった。その縁で孫のウースター氏はパリのヴェルネ財団にあるホームズ家関係資料にアクセスできたのだという。
 ウースター氏によれば
 ホームズはスポーツマンであり、シングルスティック(棒術ではない。木刀術あるいは応用面に着目して「ステッキ術」)、ボクシング、フェンシングに秀でていた。
 子供時代はヨークシャーで過ごしたが、ここでアイルランド伝統の棍棒術であるBataireachtを教わった。どう発音するのだろう? これを教えてくれたのはアイルランド人の幾何学教師で名前はモリアーティといった。

 ホームズは特にボクシングに生まれつきともいえる才能があった。大人になってからも「肉屋小僧」の異名を取ったウォルター・マクマードというプロボクサーの引退記念試合で3ラウンドのエキシビションの相手になったほどである。マクマードはこのときのアマチュア・ボクサーのライトクロスが強烈だったことをよく覚えていた。4年後に偶然再会したときは
「あたら才能を無駄にしたねえ、旦那。プロになってたらいいとこまで行ったのに」
と言った。これはお世辞ではなかった。また別の機会には左ストレート一発で乱暴な相手をのしてしまった。

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 ホームズはボクシングには自信があったから、護身術としてはこれで十分と思っていた。ところがその自信を揺るがせるようなできごとが起きて、ホームズはマーシャルアーツに関心を持つようになったのである。

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2010年9月16日 (木)

嘉納治五郎対シャーロック・ホームズ(1)

 嘉納治五郎(1860―1938)とシャーロック・ホームズ(1854―)の関係を示す資料を見つけた。嘉納治五郎が英国または欧州の他の国でホームズに柔術を教えた――というのである。
 シャーロック・ホームズは1891年(明治24年)5月4日にライヘンバッハの断崖上でバリツすなわち柔術を使ってモリアーティ教授の魔手を逃れ得たのだった。一部ではウィリアム・バートン=ライトの「バーティツ」こそバリツの正体であるとする説が行われている。しかし、バートン=ライトが日本から帰国したのは1898年、谷幸雄等を招いて本格的に柔術の教授を始めさせたのは1900年である。 
 嘉納治五郎は1889年から1890年末まで初の外遊をしているから、彼がホームズに教えたという可能性は絶無とは言えないのである。
 しかし嘉納治五郎の書いたものなどを調べてみても、たとえば
「明治22年(1889年)の洋行は官命を帯びて欧州教育事情の視察に出かけたのであるから、これに専念したことは言うまでもない。しかし余暇が全くなかった訳ではなく、体調を整えるための運動は欠かさなかった。一人稽古はなかなか退屈なものであるが、幸いにも柔道を学びたいという奇特な英人某氏(本人の希望により匿名とする)が現れたので、これを相手にして……」
 というような記述は見当たらなかった。
 したがって、ホームズ側の資料の信憑性をチェックする手立てがないのであるが、英国バリツ協会のサイトに

・シャーロック・ホームズのマイクロフト宛て書簡(日本式レスリングについて)
・ホームズの日記に記された嘉納治五郎会見記

 などが紹介されているので、ともかくこれを見ておこう。
  下の写真、右側の青年がシャーロック・ホームズ、ではない。ホームズは嘉納より年上なのだ。(続く)

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2010年9月13日 (月)

広瀬武夫とサンボ(3)

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 ロシア駐在中、あるロシア人将校から「日本人は団体としては強いが、個人としては小弱で到底我らの敵ではない」と言われた広瀬は、「それは面白い。その言葉が本当か試してみよう。貴国海軍の中で最も腕力に優れた三人と勝負をしてみようではないか」
 そう言って、広場でロシア海軍選りすぐりの三人の巨漢と勝負し、柔術の技で次々と投げ飛ばして行った。この噂は皇帝の耳にも届き、ロシアの宮中に招かれて柔術を披露することとなった。広瀬はそこでも屈強の将校達を次々と投げ倒し、皇帝らはその技に驚嘆したという。
http://sakanouenokumo.hp.infoseek.co.jp/hirose.htm から)
 このサイトは一見の価値あり。広瀬武夫の写真など資料が多く充実している。

 広瀬武夫がロシア人相手に柔術を使ったことはあるかも知れないが、御前試合はどうだろう? 帝国海軍から「ロシア事情視察」に派遣されているのだ。皇帝に面会する機会があったら日本に報告しないはずがない――これは和良コウイチ氏の本に書いてある。

 私は別バージョンを知っている。戦前の子供向きの本『軍神広瀬中佐』が家にあって、私が子供のころ(もちろん戦後)に読んだ。本は探したがないので記憶に頼って書くと

 広瀬武夫はロシア海軍の軍艦を視察に出かけた。甲板で水兵たちがレスリングをやっている。
 一人の士官が
「広瀬大尉はジュージツとかいう武術の達人であると聞いている。見せていただけないか」
「よろしい」
 屈強な水兵を三人ばかりいとも簡単に投げ飛ばして見せた。ところが四人目に出てきたのはものすごい大男だ。力も強くて技がきかない。やむを得ん。グラウンドに引き込んで絞め技をかけると落ちてしまった。
「ひどい、殺してしまった」
「人殺し」
「殺さなくてもいいだろう」
 と、ロシア人たちは騒ぎ出した。広瀬は
「諸君、落ち着きなさい。彼は死んでいるのではない。休んでいるだけだ。こうやれば――」
 と活を入れると、たちまち息を吹き返した。やんやの大喝采。
 それから「ガスパージン・ヒロセ、柔術を教えてください」
 と言ってくるロシア人が多くて困ったが、「生兵法は怪我の元」をロシア語に訳して断った。
 しかし、サンボの成立よりはかなり前の話である。

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2010年9月11日 (土)

珍しい歴史小説

 村上春樹がいつ歴史小説を書いたのだ?
 しかし慌てて買って「やれやれ」と言わないように。読んだ人は面白いと言っているけれど。
 そう言えば下のようなのもありました。

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2010年9月10日 (金)

あの女

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あの女、アイリーン・アドラー。
コントラルトでスカラ座などに出演した。
「ホームズ君、この写真をご所望か? 惜しいが、どうしてもと言われるのならば遣わそう。ボヘミア王に二言はないのだ」 

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2010年9月 9日 (木)

小沢さんが

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胡錦濤主席を訪問した小沢さん。後ろで菅直人さんが笑っている。どういうわけか村上春樹さんもいるが緊張のためか別人のような表情だ。

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2010年9月 8日 (水)

広瀬武夫とサンボ(2)

「広瀬武夫がロシア皇帝の御前でレスラーと戦った」というのは憶説として和良さんによって完全否定された。
 ところが愛知県サンボ連盟のサイトによれば、これにもヴァリエーションがあるらしい。
 広瀬武夫が御前試合を要請されたのだが、ドイツ出張の要件があり、黒龍会主幹の右翼運動家、内田良平(1874-1937)が代役を務めたのだという。内田は講道館二段だった。(当時の二段は今とは値打ちが違う。)

 明治31年2月20日試合当日がやってきました。場所は冬宮体育館で、内田二段の相手は皇帝自慢のレスラージャハーリンでした。ジャハーリンは当時のロシアの最強レスラーで、クラチスキースタイルを得意とする重量級の選手でした。ニコライ2世をはじめ皇后アレクサンドラ、大蔵大臣ウイッテら高位高官、軍人や各国公使等も参列しての試合です。
 ルールは、クラチスキースタイルと柔道をミックスしたルールで実施することになりました。審判は王室体育館のロシチンがあたりました。ロシチンの合図で試合が始められました。ジャハーリンは腰を低くして構え、内田二段にジリジリと迫ります。機を見て、内田二段はジャハーリンの懐に飛び込み小内刈りで崩し、相手が態勢を立て直すところを横捨て身で投げ、すかさず十字固めでジャハーリンの腕を決めて勝負を決しました。内田二段は数日後、陸軍予備学校で柔道を教えることになり、特に彼の得意とした関節技は好評でロシア人たちに受け入れられていきました。このようなことからも、サンボが数多くの関節技を得意としているは柔道からの影響ではないかと思われます。と言うのも、旧ソ連の民族格闘技には関節技らしきものは殆んど見られず、しかも、外来のレスリングを除いては寝技も見られないのであります。
http://www5.ocn.ne.jp/~ysc2/sambotojudou.htm

 これは年月日が書いてあって記述が具体的である。(引用した部分の前の段落には年月日の明らかな誤記がある。)
 しかし典拠が書いてない。事実ならばサンボの起源に関する大発見だが、創作でないという根拠がない。
 島田謹治『ロシヤにおける広瀬武夫』には

 ウラジオストクに日本人の浪人が集まる梁山伯めいた道場があった。広瀬武夫はその道場に乗り込んで乱暴な柔術家を懲らしめた――という趣旨の記述がある。内田良平の名前は出てこない。
 しかし島田謹治の記述が正しいという根拠もないのである。『ロシヤにおける広瀬武夫』と『アメリカにおける秋山真之』は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書くときに使った本である。ところが文章は司馬よりも島田謹治の方がはるかに「小説的」である。比較文学の研究というのはこういうものなのか。
 広瀬武夫にしても秋山真之にしても、ちゃんとした伝記を書いておく値打ちのある人だ。漱石伝は汗牛充棟のナントカだ。快男児広瀬武夫より漱石の方が偉いという偏見は……
 しかし伝記は伝記で文学などとは無関係にふつうに書けばよろしい。

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2010年9月 6日 (月)

広瀬武夫とサンボ(1)

 和良コウイチ『ロシアとサンボ』が出るまでは日本サンボ連盟でさえも軍神広瀬武夫をサンボの起源に擬していたらしい。
  増田俊也氏によると
http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/search?q=%E5%BA%83%E7%80%AC
「和良さんは長年信じられていた軍神広瀬武夫による伝播説を、このなかで完全否定し、日本サンボ連盟はこの和良さんの説をとり、公式ページからその記述を消した。」

 日本サンボ連盟まで広瀬武夫説をとっていたのは、一つにはソ連時代の極端な「ロシア起源説」への反動だろう。飛行機はライト兄弟より早くナントカスキーが発明した、ロケットはカントカスキーだ、サンボも……。スターリンが後ろ盾だから、ウリナラ起源説どころの騒ぎではなかった。
「ソ連各地の民族格闘技? 何民族の何という格闘技? 関節技はあったの?」と反問しても答えはない。そちらがそう来るなら、こちらだって軍神広瀬武夫を持ちだす権利があるというものだ。
 「広瀬武夫の影響」説にはヴァリエーションがある。

 「広瀬武夫大尉がコワレフスキー少将と知り合って親しくなり5カ月ほどたった1900年(明治33年)1月下旬に、コワレフスキー邸で上級将校を招待して晩餐会が開催されました。広瀬大尉も特別に招待され、その時にコワレフスキー少将の勧めで柔道を紹介する羽目になり、若手の大男の少将を相手に一本背負い投げで投げ飛ばして喝采を浴びたということです。その後、軍の参謀本部の将校を中心に柔道を教えたということです。このことが後のサンボの成立に影響を与えたと考えられる一つの事実であると思われます。」

 上は愛知県サンボ連盟のサイトhttp://www5.ocn.ne.jp/~ysc2/sambotojudou.htm にある。
 この記述は、島田謹治『ロシヤにおける広瀬武夫』(ロシアではなくロシヤ)に出てくる挿話と一致する点がある。しかし「大男を投げ飛ばして喝采を浴びた」とは島田氏の本にも書いてあるが、この「柔道の技の披露」はどうも一場の座興というおもむきである。

「その後、軍の参謀本部の将校を中心に(広瀬武夫が)柔道を教えたということです」というのはどういう史料によっているのだろう? 事実なら広瀬が報告書を書かなかったはずがないだろう。

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2010年9月 5日 (日)

ブラジリアン物理学

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 1951年(昭和26年)10月23日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、木村政彦(1917-1993)がエリオ・グレイシー(1913-2009)と戦った――これについてはゴン格5月号に詳しい。木村対エリオ戦の動画はhttp://www.youtube.com/watch?v=v2wO3dHUYwQ

 同じ1951年、アメリカの物理学者リチャード・ファインマン(1918-1888)は、リオ大学で10ヶ月間客員教授を務めた。ファインマンは1965年にノーベル物理学賞を朝永振一郎(1908-1979)と同時受賞した人である。ブラジルでの客員教授の話は自伝に出て来る。

 ファインマンは滅法頭がよくて好奇心の強い人で、ポルトガル語をすぐに覚えて学部学生にポルトガル語で講義した。ところがブラジルの学生は全然だめだった。誰一人宿題をやってこない。横着だからではなく出来ないからだった。応用問題は誰一人として解けなかった。ブラジルでは物理学が暗記物になっているのだった。学生が悪いというよりも教育制度が悪かった。
 大学一年生が使う初等物理の教科書をぱらぱらとめくり指の当たった箇所を読んでみると

「「摩擦ルミネセンス」。摩擦ルミネセンスとは、結晶体が潰されたときに発する光である。」

 と書いてあった。こういう定義を意味も分からずに丸暗記すれば試験に合格して物理学をやったことになるのだ。
 アメリカなら、あるいは日本なら「暗いところで氷砂糖や石英などをペンチで潰してみれば、青い光が見えるはずだ……」というふうに書いてあって自分で試してみることができるはずだ。

Crystal2_2

 図は「石英・水晶の摩擦ルミネッセンス」http://www.urap.org/_forum/ashi/FreeStudy/lumine/lumine.htm より

 物理学を暗記物にしてしまって平気なのは、ブラジルが西洋ではないということだ。(それともこれは50年以上前のことで今では事情が違うのだろうか?) 
 ブラジリアン柔術の独自の発展は、ブラジル文化のこういう性格と何か関係があるのだろうか?

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