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2010年10月10日 (日)

イナゴかバッタか

「いなご」は日本語訳の聖書にたびたび登場し、なかでも有名なのは『出エジプト記』の一節だろう。エジプトからの脱出を求めるモーセの要求を拒むファラオに対して、神が与える10の厄災の一つとして、こう書かれている。
「もし、あなたがわたしの民を去らせることを拒み続けるならば、明日、わたしはあなたの領土にいなごを送り込む。イナゴは地表を覆い尽くし、地面を見ることもできなくなる。そして、雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす」(新共同訳、10章、4~5節)。
 残念ながら、厳密にいえば、これは誤訳である。英訳『聖書」ではlocustとなっているのだが、この単語はバッタ類を指すものであって、イナゴではない。
(『悩ましい翻訳語』p.24)

「汝もしわが民を去しむることを拒まば明日我蝗をなんぢの境に入しめん。蝗地の面を蔽て人地を見るあたはざるべし。蝗かの免かれてなんぢに遺れる者すなはち雹に打のこされたる者を食ひ野に汝らのために生る諸の樹をくらはん」(文語訳聖書)

 いなごの大群は山を越えてやってきた。はじめのうち、それは巨大な暗雲に見えた。次にぶうんという地鳴りがやってきた。いったい何が起ころうとしているのか、誰にもわからなかった。アイヌの青年だけがそれを知っていた。彼は男たちに命じて畑のあちこちに火を焚かせた。あらいざらいの家具にあらいざらいの石油をかけて火をつけた。そして女たちには鍋をもたせ、すりこぎで力いっぱい叩かせた。彼は(あとで誰もが認めたように)やれることはやったのだ。しかし全ては無駄だった。何十万といういなごは畑に降りて作物を思う存分食い荒らした。あとには何ひとつ残らなかった。
 いなごが去ってしまうと青年は畑につっぷして泣いた。農民たちは誰もなかなかった。彼らは死んだいなごをひとまとめにして焼き、焼き終わるとすぐに開墾のつづきにかかった。
(村上春樹、『羊をめぐる冒険』における蝗害(こうがい) 今日の看猫 20090919 から
http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/bc3a2f9e991933ad222ae257d8f84111

「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」

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