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2010年12月10日 (金)

ワトソン博士伝(2)

 インドですっかり健康をそこねたワトソンは兵員輸送船オロンテーズ号からポーツマスの波止場に降り立ったが、彼は「大英帝国中の無為徒食の輩が押し流されて行く、あの巨大なる汚水溜め、ロンドンヘと当然のように落ちて行った」という。ワトソンは根が正直な男である。その彼が自分の生まれた町をこんなふうに描写するだろうか。彼はハンプシャーかバークシャーで生まれたと考えられる。『ぶな屋敷』の事件でハンプシャー州ウィンチェスター市(「むかしのイングランドの首都」と彼は呼んだ)まで出かけたときは、田舎の自然美に感動したのではなかったか。うららかな春らしい日で、空は明るい青みを帯び、白い綿のような雲が西から東へと漂っていた。大気はひんやりと心地よく……農家の赤や灰色の小さな屋根が明るい新緑の間に頭をのぞかせていた。「実にさわやかで美しいじゃないか」とワトソンは叫んだ。ところがホームズは……

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 それにワトソンは8月のロンドンには我慢がならんとも言っている。暑いのが困るというわけじゃない(何しろインドで戦ってきたのだから華氏90度くらいは平気なのだ)。彼を悩ませたのはむしろ郷愁なのだ。「ニューフォレストの林間か、サウスシーの砂浜」にでも出かけたかったのだ。(『ボール箱事件』)
 ワトソンは両親については奇妙な沈黙を守っている。父親(H・ワトソン)が裕福だったことは、五十ギニーの時計を所有していたこと、長男に有望な前途を約束してやれたこと、次男をよい学校(卒業生がケンブリッジを経て外務省に入った)にやれたことで明らかだ。ワトソンが兄のことで寡黙なのは驚くにあたらない。兄は父親の残した遺産を蕩尽して貧窮のうちに暮らし、「ときたま金回りのよいこともあった」。画家でときには絵が売れたのだろうか。あるいはギャンブルに凝っていたのか。いずれにせよ、飲酒がもとで1886年ごろになくなっている。(この没年については後に論ずる。ワトソンは『四人の署名』で「最近この懐中時計を手に入れた」と言ったのだった。)
 ワトソンの少年時代については、二つの事実が明らかである。彼は一時期オーストラリアにいたことがあるが、イングランドの学校にやられた。オーストラリアの件は明らかで動かせない。ポンディシェリー・ロッジの庭でミス・モースタンと二人で「子供みたいに」手をつないで立っていたとき、少年時代に見た光景が蘇ってきたのだった。「そっくりの光景をバララットの近くの山腹で見たことがあります。山師が金を求めて掘り返していたのです」おそらくワトソンのオーストラリア時代は13歳になる前だったと言えるだろう。
(ワトソンと「おたまじゃくし」フェルプスは同じ年齢の生徒だった。ただ、ワトソンがオーストラリアを知ったのはもっと後の時期だという可能性も残っている。)

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