« ワトソン博士伝(4) | トップページ | ワトソン博士伝(6) »

2010年12月17日 (金)

ワトソン博士伝(5)

Maiwand_map

 1880年春にワトソンはインドで勤務すべく他の将校たちとともに出発した。ボンベイに上陸すると、自分の連隊はすでに峠道を通って敵地深く侵入していることを知った。カンダハールは7月になって英軍が占領したが(Walker, History of the Northanberland Fusiliers, p.414)、ここまで行ってようやくワトソンは連隊に加わることができた。しかし彼は連隊とともに実戦に参加することはなかった。「第5ノーサンバランド・フュージリア連隊はペシャワールに後退し、そこからさらにローレンスポアまで戻り、9月に帰国命令を受けた。したがって第5連隊はマイワンドの悲劇には参加しなかったのである」(Walker, 前掲書)。しかしワトソンには1880年7月27日のマイワンドの戦いは鮮烈な記憶となった。彼は原隊を離れてバークシャー連隊(歩兵第66連隊)付きを命ぜられていたのである。マイワンドにおける第66連隊の英雄的な抗戦は軍事史に残るものであった。(Hanna, The Second Afghan War, p.416)

66thfootmaiwand

 戦いが始まってまもなく、ワトソンは戦友がめった斬りにされるのを目撃したがさらに動じなかった(『緋色の研究』)。しかし左肩にジザイル銃の弾丸を受けて倒れた。骨を砕かれた上、鎖骨下動脈も少しかすった。しかし勇敢な従卒のマレーの献身的な働きにより凶悪な回教戦士の手に落ちることなく、駄馬に載せられて(肩の傷の痛みはひどかったが)無事に英軍の戦線まで連れて帰られたのである。ワトソンの戦友については分かっていることが少ない。しかしこの戦争から7年後になって彼が「旧友のヘイター大佐」についてアフガニスタンで手当をしたと言っている(『ライゲイトの地主』)。ヘイターは「立派な古強者で見聞も広い人物だった」のでモデルを見つけるのはたやすい。彼は第二次アフガン戦争時にカブール輜重隊の指揮を執っていたチャールズ・ヘイター少佐であることは明らかだ(Hanna, 前掲書pp. 470, 525)。
 ペシャワールの本隊病院へと送られ、そこで徐々に回復したこと、しかし「わがインド領のあの呪うべき腸熱」にやられて数ヶ月もの間命が危ぶまれたこと、とうとう除隊して英国に送り返されたことなどは、彼自身が書いている(『緋色の研究」)。ポーツマスに上陸したのは1880年の暮れか1881年初めだろう。

|

« ワトソン博士伝(4) | トップページ | ワトソン博士伝(6) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/38103305

この記事へのトラックバック一覧です: ワトソン博士伝(5):

« ワトソン博士伝(4) | トップページ | ワトソン博士伝(6) »