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2010年12月21日 (火)

ワトソン博士伝(7)

 ベイカー街には「221B、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソンの下宿跡」という扁額が貼り付けてある家屋はない。最近の空襲(本稿は1953年発表)でやられたのかも知れない。しかしベイカー街には今でもワトソンのオーラが残っている。十一月の濃霧の中にパタパタと足音がするのはベイカーストリート・イレギュラーズが走り回っているのか。二輪馬車が出て行くような気配がある。乗っているのは事件の調査に出かけるホームズとワトソンだろうか。
 同居し始めてからしばらくの間は、ホームズという男はワトソンにとっては謎であった。しかし1881年3月4日に、自分は諮問探偵であるとホームズが打ち明けた(「おそらく世界中で僕一人だろう云々」)。その日のうちにローリストンガーデンの怪事件についてグレグソン警部が手紙をよこした。ずいぶんためらってからホームズは事件に着手することにした。「さあ、帽子をかぶりたまえ」ワトソンの方はこの新しい友達にくっついてブリクストン通りまで出かけるのにそんなに熱意があったわけではない。しかしホームズが発したぶっきらぼうな言葉が実はワトソンの新生活開始を告げるラッパの響きだったのだ。『緋色の研究』という題名で後世に残ることになった冒険の過程で、ワトソンが医師としてなかなか鋭いことが明らかになった。例の錠剤が水に溶けることはすぐに見抜いた。ジェファーソン・ホープの大動脈瘤はもちろん見逃さなかった。「貧弱な建物の中で強力な機関を運転しているように胸壁がガタガタ振動しているのである。部屋が静かなので、そこから発する乱れた鈍い振動が直接聞こえるほどであった」。このときにはワトソンとホームズの友情はまだ発展段階にあった。ホームズはワトソンを「ドクター」と呼んでいた。しかしこのはじめての冒険でワトソンは自分のメチエを発見したのである。「僕は事実を全部日記につけているから、そのうちに世間に公表するよ」
 1881年から1883年(『まだらの紐』の年)の間は、ワトソンの行状の記録はほとんどない。彼はベイカー街とクラブの間を行ったり来たりして静かな生活を送っていたのか。あるいはこの期間に外国に行ったこともあるだろう。いずれにせよ心身共に元気を取り戻してきていた。英国に家族親戚はいなかった。ホームズとの同居生活は難儀なこともあった。もう少し後になってワトソンは「多くの国と三大陸にわたる女の経験」があると豪語した(『四人の署名』)。三大陸というのはヨーロッパ、インド、オーストラリアであろう。しかしオーストラリアにいたときはまだ子供だった。インドでは女といってもペシャワールの病院の看護婦(看護師ではない)くらいしかいなかったはずだ。大人になってからオーストラリアを再訪問したという可能性はないとは言えないが少ないだろう。ヨーロッパ大陸には確かに行ったはずで、特にカジノのある保養地などを好んだに違いない。ワトソン家の男はみなギャンブル好きだった。ワトソン父はオーストラリアで山師としてギャンブルをして勝った。長男は人生を賭けて負けた。次男は競馬好きで(『ショスコム・オールド・プレイス』)株式投資にも少々手を出した(『踊る人形』)が、カジノではまず勝ったり負けたりだったようだ。
『まだらの紐』のころになると、ホームズとワトソンの関係はかなり親密なものになっていた。呼び方ももう「ドクター」ではなくて「マイ・ディア・ワトソン」になっている。ホームズは依頼人に対して、このワトソンという男は「親友で相棒」ですから彼の前で何でも話してくださって構いませんという。危険がありそうなときワトソンの考えることは一つしかない。何か役に立てるか? 「君がいてくれれば大いに助かるのだ」とホームズが言ったのは『まだらの紐』の事件のときだった。「それならもちろん行くよ」とワトソンはすぐ答えた。彼はアフガニスタンで戦って負傷した勇士なのだ。

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