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2010年12月30日 (木)

ワトソン博士伝(11)

 ワトソンは久しぶりにベイカー街で楽しく過ごしたが、ホームズとの関係が元に戻ったというわけではない。ホームズはワトソンの幸せな結婚生活の圏外にあった。ワトソンは新生活のパートナーの元へ急いで戻った。医院は繁盛し始めていたのですぐに仕事を再開した。ベイカー街の雰囲気を懐かしがっている暇はなかった。ワトソンは分別のある男だったから、ホームズをその「完全にボヘミア的な気質」に反する交際に引っ張り込もうとはしなかった。しかし1888年3月20日になって旧友にぜひ会いたくなった。往診の帰りにベイカー街を通ってブラインド越しにホームズの影を見て矢も楯もたまらなくなったのだ。

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ワトソンのベイカー街再訪は絶好のタイミングだった。このときホームズは一通の手紙を受け取ったところで、これがカッセル・ファルシュタイン太公にしてボヘミア王であるヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモンド・フォン・オルムシュタインの来訪を予告していたからだ。ワトソンは翌日午後3時にまた来て、その日は一日中王様の写真をめぐる喜劇で重要な役割を演じた。その次の日の早朝の大団円に備えて彼はベイカー街に泊まった。
 ホームズとのパートナー関係がこのように間歇的に再開されるのが、ワトソンの結婚生活初期の特徴である。これは一見家庭の不安定を示すかのごとくであるが、実はまったく逆なのである。ワトソン夫人は一貫して夫の名探偵との関係に好意的だった。愛する夫と出会えたのはホームズのおかげなのだ。ホームズの方もワトソン夫人への敬意を失わなかった。夫が旧友の捜査を助ける機会があれば妻はいつでも協力してあげなさいというのだった。だからホームズも真夜中に突然やって来て泊めてくれといい翌朝十一時ウォータールー駅発の汽車でワトソンを現場に連れて行ったりした(『背の曲がった男』)。学校時代の友達から困っているという手紙が来れば夫がすぐにホームズのところへ駆けつけるのを妻は止めたりはしない(『海軍条約事件」)。ボスコム渓谷事件でイングランド西部に二日ばかり行こうという電報がホームズから来たときも、妻は「たまには気分転換なさった方が体にはよくってよ」と言って出かけるようにすすめたのだった。
 ワトソン夫人はこのように夫の独身時代の付き合いを尊重したが、そのほかにも夫婦仲がよかったことはうかがえるのである。結婚生活が幸福かどうかは二つの点で分かると言われる。一つはむつまじい朝食であり、もう一つは静かな晩である。ワトソン夫妻が一緒に朝食を取っていたことは明らかであり(『ボスコム渓谷事件』)、夕食後は二人ともゆったりくつろいでいたようだ。夫は忙しい一日の後で小説か英国医学会会報を読み、妻は針仕事をするのだった。十時半ごろになると召使たちが戸や窓を閉める音がする。それから半時間ほどたってワトソン夫人が寝室に行く。十一時四十五分ごろになるとワトソンが最後のパイプの灰を落とす(『背の曲がった男」)。退屈な散文的なブルジョワ的な光景だと笑う向きもあろうが、ワトソンにとっては大切なものだった。多彩な女性経験を経て、ワトソンは今や静かな家庭に碇を下ろしていた。しかしホームズはワトソンのことをいつも「もてる男」だと思っていたようだ。「ワトソン、女性は君の専門領域だ」と彼は言った。ベイカー街に「ロンドン一美しい女性」が訪れたときのことを、ワトソンは「スカートの衣擦れがだんだん小さくなって、終いにはドアがバタンと閉まる音がした」と生き生きした筆で描いたのである(『第二の汚点」)。

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2010年12月29日 (水)

ワトソン博士伝(10)

 しかしワトソンの結婚の話であった。結婚式については具体的な記録がない。しかし俗悪な派手なものではなかったに違いない(玉姫殿で、お色直しはゴンドラに乗ってなんてのではなかったはずだ)。モースタン嬢はベイカー街をはじめて訪れたとき、小柄で上品なブロンドで趣味はよいが質素で地味ななりをしていた。花嫁衣装もごく質素なものだったはずだ。ホームズが花婿付添人になったとは思えない。そこまでしてもらったらワトソンが記録を残さないはずはない。新郎新婦には親戚といっては伯母一人しかいなかったから、式はカンバーウェルの聖マルコ教会か聖ヒルダ教会で地味に行われたようだ。モースタン嬢の伯母とセシル・フォレスター夫人が出席したのだろう。(もちろん登記所で婚姻届を出すだけだった可能性もある。しかしワトソンも花嫁も教会での挙式を選んだはずだ。婚約したときには二人とも思わず神に感謝しているくらいだから。)
 ハネムーンはワトソンには思い出があるハンプシャーに出かけたが、ごく短いものだった。開業の準備でワトソンは忙しかったからだ。ベイカー街からそう遠くないところを探して、パディントンに恰好の医院を見つけた。ファーカーという開業医がここで一時は1200ポンドの収入をあげていたが、寄る年波には勝てずおまけに聖ヴィタス舞踏病にかかってしまった。世間というものは自分の病気も治せない医者に他人の病気が治せるはずがないと考えがちなもので、患者が減って収入は四分の一まで落ちていた。ワトソンにとっては大きなチャンスだった。自分の能力とエネルギーには自信があったから、元のように繁盛させてみせると決意して開業権を買い取った。三ヶ月間は懸命に働いたから、ベイカー街を訪ねる暇などなかった。ホームズの方も仕事の用向き以外にはどこへも出かける男ではなかった(『株式仲買店員』)。ワトソンはいくらかでも余暇があれば家庭で妻とともに過ごしたはずだ。この上なく幸福で体重も半ストーンほど増え「はじめて一家の主となった者が自分の身辺に発見する家庭中心の気分」がワトソンの心を奪っていた(『ボヘミアの醜聞」)。もちろんどの家庭にも付きものの苦労はあった。結婚したばかりのころは召使は一人しか置けなかった。メアリー・ジェインであるが、この女はどうしようもなくて暇を出した。もう少し後になると人数を増やしたらしい。ワトソンはthe servantsと複数形を使っている(『背の曲がった男』)。
 夫婦仲はよかったが、ワトソンは決して妻ノロではなく尻に敷かれていたわけではない。結婚後の9月に細君が伯母を訪問している間、ワトソンはベイカー街の旧居に泊まった。昔のように暖炉をはさんで坐り、ワトソンはクラーク・ラッセルの面白い海洋小説を読み、ホームズの方は犯罪記録に索引を付けた。

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2010年12月27日 (月)

ワトソン博士伝(9)

 しかし『ライゲイトの地主』と『五つのオレンジの種』については記録が不正確だと考えるべき理由はない。二つの事件の年月日が正しいとすれば、結婚は1887年の4月から9月の間ということになる。5月挙式は縁起が悪いという迷信にはモースタン嬢もとらわれていただろう。これはたぶん6月だ。『海軍条約事件』は1887年7月であるが、「私の結婚のすぐ後」だったと書いてある。パーシー・フェルプスの手紙を見て、これは一刻も早くホームズさんにご相談なさいと妻が言うので、ワトソンがベイカー街の下宿を訪ねるとホームズは……

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 したがって『四人の署名』は1886年という結論にならざるを得ない。この年の8月にワトソンは婚約したのだ。1887年の初めごろにはワトソンは忙しかった。まず開業している医院を買い取り、新居をとととのえ、その他することはいくらでもあった。この年にもホームズは大変な数の事件を扱ったが、ワトソンが完全な記録を残しておいたのが少ないのはこのためだ。ワトソンは大まかな覚え書きは作ったが仕上げをする時間はなかった。「これら諸々の事件については、そのうちに書くこともあろう」とワトソンは記している(諸々というのは『パラドール部屋』『アマチュア乞食団』などの事件である。『五つのオレンジの種』参照)。ともかく1887年6月に結婚したと仮定すると『ボヘミアの醜聞』の冒頭部分の意味がよく分かる。1887年6月から1888年3月の間にワトソンは幸せな結婚生活のおかげで体重が7ポンド増え、ホームズはオデッサに呼ばれハーグにも赴いたのである。
 上記が絶対に正しいとは言い切れない。しかし作業仮説としては無視できないのではないだろうか。
 ワトソンがモースタン嬢と結婚したのが何年何月何日だったかまでは正確には分からない。しかし少なくとも初めの数年はごく幸せな結婚生活だったことは明らかだ。新所帯は「家庭的ボヘミア主義」を絵に描いたようなもので、ワトソンにはしっくり来る雰囲気だったようだ。モースタン嬢が大変な財産を相続する見込みがある間は、徳義上思慕の念を口に出せなかった。しかしアグラの財宝が失われ「黄金の障壁」がなくなってようやくワトソンは求婚した。かくして中年の医師は「あんな魅力的なお嬢さんははじめてだ」とホームズも誉める女性と狭いながらも楽しい我が家を構えたのだ。ホームズはモースタン嬢を高く評価して「この方面(探偵の仕事)には天稟がある」とまで言っている。ホームズが女を賞賛するのは珍しく、これに勝るのはアイリーン・アドラーだけだった。「あの女」は別格で「女性全体を圧倒し顔色ならかしめる存在」であった。

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ワトソン博士伝(8)

 1884年と1885年にもワトソンの言行の記録がない。このころにもワトソンは大陸に行っていたのか。ところが1886年になると、ワトソンの伝記的研究上重要な問題が生ずるのである。すなわちいつ結婚したかである。
 この問題を正しく考察するためには、感傷に流されてはならない。ワトソンが最初に物した事件記録をホームズはどう評したか。
「探偵の仕事は精密科学だ。少なくともそうあるべきで、科学と同じく冷徹非情に扱わなくてはならない。ところが君はロマン主義の味付けをして……」
 ワトソンの恋愛と結婚を扱うときは伝記作家も「しかしロマンスはあったのだ」と言うべきかも知れない。しかし基本的には結婚の年月日は一つの問題であって、我々は客観的なデータを検討しなければならない。
1. 『四人の署名』では、モースタン嬢はワトソンによれば「六年ほど前、正確に申しますと1882年5月4日に……」と言った。すなわちこの事件は1888年の4月から6月の間だということになる。
2. 『ボヘミアの醜聞』は1888年3月20日とはっきり日付が書いてあり、ワトソンの結婚よりかなりあとであるようだ。ワトソンはベイカー街を離れており、ホームズはオランダやオデッサなどにも出かけている。
3. 『ライゲイトの地主」は1887年4月であるが、ホームズとワトソンはまだベイカー街で同居している。
4. 『五つのオレンジの種』は1887年9月であるが、ワトソンの結婚よりあとである。(ワトソンは妻が伯母を訪問している間しばらくベイカー街の旧居に滞在していたのだった。)
 こうして簡単にまとめたものがすべてのデータを包含するとは言えないが、ホームズでも解決できかねるような矛盾があることは明らかだろう。
 たとえばワトソンとモースタン嬢の婚約は1888年だとする従来の説を受け入れるとすると、結婚はその年の夏の終りか秋になる。それでは『ボヘミアの醜聞』と『五つのオレンジの種』にはっきりと日付が書いてあるのはどう扱えばよいか。
 一つだけ明らかなことがある。ワトソンは何でも注意深く記録しておく人だが、こと年月日についてはいつも正確だとは限らなかった。『四人の署名』が1888年だと言われてきたのは、モースタン嬢の言葉をワトソンが聞いて書いたものに基づいている。『ライゲイトの地主』と『五つのオレンジの種』はワトソン自身が直接記録したものだ。
『四人の署名』を書いたときのワトソンの心理状態を我々は考えなければならない。いつもの平静で実務的なワトソンだったか。モースタン嬢がベイカー街221Bの部屋に入ってきた瞬間から「夢想の鬼火」に惑わされてしまったではないか。ウィンウッド・リードの『人類の苦難』を開いてみたが読めるものではなかった。どうしてもモースタン嬢のことを考えてしまう。「彼女の微笑、深く豊かな声、そして彼女の人生を覆う不思議な謎……」それに昼飯のときにボーヌの赤を飲んでいた。自分で認めているように、ワトソンが物語冒頭で憤激したのはホームズのこれ見よがしの態度のせいだが、ワインの影響もあった。全体として果たして正確な記録を残すにふさわしい精神状態であったか。

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2010年12月23日 (木)

シャーロック・ホームズの名台詞?

There is the great standing perennial problem to which human reason is as far from an answer as ever.
「絶えざる難問に悩む人間の叡智は、常に解答からはるか遠くをさまようのだ」
(諸兄p.195)

 この日本語は全然デタラメ。英語の訳になっていない。誤訳なら誤訳なりに意味があってもよいはずだが、これでは意味不明である。英語の方は『ボール箱』の最後の一文である。もう少し前から見てみよう。

"What is the meaning of it, Watson?" said Holmes solemnly als he laid down the paper. "What object is served by this circle of misery and violence and fear? It must tend to some end, or else our universe is ruled by chance, which is unthinkable. But what end? There is the great standing perennial problem to which human reason is as far from an answer as ever."

 ホームズは書類を下におきながら、まじめな口調でこう言った。「ワトソン、この出来事にはいったいどんな意味があるんだろうねえ。このような苦悩と暴力と恐怖の繰り返しが何の役に立っているのだろう。何か目的がなければならない。さもなければ、この世はただの偶然が支配する場所になってしまうが、そんなことは考えられない。では、どんな目的があるのか? その問いは永遠につづく大問題で、人間の理性は、いつまでたってもその答えを見いだせないでいるのだ」
(ちくま文庫、井村元道訳)

 意味はこれでよく分かるし正しい訳だ。
 There is the---のところに構文上の問題がある。そこをごまかしてしまうと、当てずっぽうの「訳」しか書けない。

 There is a book on the table. と言うが、  *There is the book on the table. とは言わない。これはどの英文法の本にも書いてある。 ところが「There is the---という形はそもそもありません」なんてことを言う人がいる。参考書に書いてあったりするから困る。
 あるじゃないか。なるべく直訳で考えてみよう。

There is the great standing perennial problem……
そこに(what end?というところに)大きな永続的な永遠の問題がある。

 standingはもちろん「立っている」という意味ではない。standing armyは「常備軍」。「一時的ではなく永続的な」という意味だ。standingとperennialは類義語を重ねて用いたので、井村訳のように「永遠につづく」と一つにまとめてしまうのもよい。「大きな永遠につづく問題」をひっくり返して「永遠につづく大問題」とする。
 There is the --questionは、井村訳ではThat is the --questionと書いてあるかのように訳している。そう書いてもよいはずで、むしろその方がふつうの英語だろう。だからこの訳でよろしいのだ。

……to which human reason is as far from answer as ever.
人間の理性は、その問題への解答からいつも遠く離れている。

 これも井村訳が正確だ。延原謙氏の訳はどうか。

「これは何を意味するんだ、ワトスン」ホームズはその供述書を下において、おごそかにいった。「この苦難と暴行と不安の循環は何の役をはたすのだ? 何かの目的がなければならない。さもなくばこの世は偶然によって支配されることになる。そんなことは考えられない。では何の目的があるというのか? これは永遠の問題としてのこされる。人知のおよぶところではない」

 これでよろしいと思うけれども、human reasonはやはり「人間の理性」の方がよいのではないか。our universeは私なら「この宇宙」とする。
 このあたりは「神」と「宇宙(人間の世界も含む)」と「人間の理性」の関係の考察が裏にあるのだ。
 コナン・ドイルはイエズス会の教育を受けた元カトリックだった。ホームズも学生時代にはチャペルに通ったことがある(『グロリア・スコット』)。『ボール箱』の事件のときは35歳くらいだったはずだが、むかしの神学的議論を思い出したのだろう。

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2010年12月21日 (火)

ワトソン博士伝(7)

 ベイカー街には「221B、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソンの下宿跡」という扁額が貼り付けてある家屋はない。最近の空襲(本稿は1953年発表)でやられたのかも知れない。しかしベイカー街には今でもワトソンのオーラが残っている。十一月の濃霧の中にパタパタと足音がするのはベイカーストリート・イレギュラーズが走り回っているのか。二輪馬車が出て行くような気配がある。乗っているのは事件の調査に出かけるホームズとワトソンだろうか。
 同居し始めてからしばらくの間は、ホームズという男はワトソンにとっては謎であった。しかし1881年3月4日に、自分は諮問探偵であるとホームズが打ち明けた(「おそらく世界中で僕一人だろう云々」)。その日のうちにローリストンガーデンの怪事件についてグレグソン警部が手紙をよこした。ずいぶんためらってからホームズは事件に着手することにした。「さあ、帽子をかぶりたまえ」ワトソンの方はこの新しい友達にくっついてブリクストン通りまで出かけるのにそんなに熱意があったわけではない。しかしホームズが発したぶっきらぼうな言葉が実はワトソンの新生活開始を告げるラッパの響きだったのだ。『緋色の研究』という題名で後世に残ることになった冒険の過程で、ワトソンが医師としてなかなか鋭いことが明らかになった。例の錠剤が水に溶けることはすぐに見抜いた。ジェファーソン・ホープの大動脈瘤はもちろん見逃さなかった。「貧弱な建物の中で強力な機関を運転しているように胸壁がガタガタ振動しているのである。部屋が静かなので、そこから発する乱れた鈍い振動が直接聞こえるほどであった」。このときにはワトソンとホームズの友情はまだ発展段階にあった。ホームズはワトソンを「ドクター」と呼んでいた。しかしこのはじめての冒険でワトソンは自分のメチエを発見したのである。「僕は事実を全部日記につけているから、そのうちに世間に公表するよ」
 1881年から1883年(『まだらの紐』の年)の間は、ワトソンの行状の記録はほとんどない。彼はベイカー街とクラブの間を行ったり来たりして静かな生活を送っていたのか。あるいはこの期間に外国に行ったこともあるだろう。いずれにせよ心身共に元気を取り戻してきていた。英国に家族親戚はいなかった。ホームズとの同居生活は難儀なこともあった。もう少し後になってワトソンは「多くの国と三大陸にわたる女の経験」があると豪語した(『四人の署名』)。三大陸というのはヨーロッパ、インド、オーストラリアであろう。しかしオーストラリアにいたときはまだ子供だった。インドでは女といってもペシャワールの病院の看護婦(看護師ではない)くらいしかいなかったはずだ。大人になってからオーストラリアを再訪問したという可能性はないとは言えないが少ないだろう。ヨーロッパ大陸には確かに行ったはずで、特にカジノのある保養地などを好んだに違いない。ワトソン家の男はみなギャンブル好きだった。ワトソン父はオーストラリアで山師としてギャンブルをして勝った。長男は人生を賭けて負けた。次男は競馬好きで(『ショスコム・オールド・プレイス』)株式投資にも少々手を出した(『踊る人形』)が、カジノではまず勝ったり負けたりだったようだ。
『まだらの紐』のころになると、ホームズとワトソンの関係はかなり親密なものになっていた。呼び方ももう「ドクター」ではなくて「マイ・ディア・ワトソン」になっている。ホームズは依頼人に対して、このワトソンという男は「親友で相棒」ですから彼の前で何でも話してくださって構いませんという。危険がありそうなときワトソンの考えることは一つしかない。何か役に立てるか? 「君がいてくれれば大いに助かるのだ」とホームズが言ったのは『まだらの紐』の事件のときだった。「それならもちろん行くよ」とワトソンはすぐ答えた。彼はアフガニスタンで戦って負傷した勇士なのだ。

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2010年12月19日 (日)

ワトソン博士伝(6)

 イングランドには友人も親戚も一人もおらず健康は損なわれ一日あたり11シリング6ペンス(年収では200ポンド以上)の手当しか収入がなかったのであるから、性格の弱い男なら絶望の淵に沈んでしまうところだ。しかしワトソンはすぐにわびしい無意味な生活の危険を悟った。ストランドの粗末なホテルでさえ、金がかかりすぎる。ある日「すっかり痩せこけて真っ黒に日焼けした」ワトソンがクライテリオン・バーに立っていると、後ろから肩を叩く者がある。セント・バーソロミュー病院で彼の助手をしていたスタンフォード青年だった。見知った顔に出会って大喜びしたワトソンは早速ホルボーンまで連れて行って昼食をおごった。実はひとつ差し迫った問題があってね。どこか手頃な値段の下宿はないだろうか。スタンフォード青年はワイングラス越しにちょっと妙な目つきでワトソンを見た。スタンフォードには自分が文学史上最大の仲介者になるという予感があっただろうか。彼がこれからお互いに紹介する二人は、百年以上前にコベントガーデンのラッセル街でトマス・デービスが引き合わせた二人に匹敵する大物だった。

[もちろん原著者ロバーツ氏が言うのは、1763年5月16日のサミュエル・ジョンソンとジェームズ・ボズウェルの出会いである。このとき二人がはじめてかわした言葉は

[Boswell:] "Mr. Johnson, I do indeed come from Scotland, but I cannot help it."
[Johnson:] "That, Sir, I find, is what a very great many of your countrymen cannot help."

ジョンソン博士の辞書にある燕麦の定義は有名だ。

Oats : A grain, which in England is generally given to horses, but in Scotland appears to support the people. (Samuel Johnson, 1755, A Dictionary of the English Language)

燕麦:穀物の一種であり、イングランドでは馬にやるがスコットランドでは人に喰わせる。

S・C・ロバーツ氏はジョンソン博士研究が本業である。]

 ワトソンをセント・バーソロミュー病院の化学試験室へ連れて行って、スタンフォード青年は歴史的使命を果たしたのである。

「こちらはワトソン博士、こちらがシャーロック・ホームズ氏です」
「初めまして。あなたはアフガニスタンにおられたのですね」
「え、どうしてそれが分かりますか」

 というのが二人がはじめてかわした言葉だ。ホームズとワトソンはすぐにベイカー街にある下宿に同居することを決め、ワトソンは肩の荷が下りたのだった。それに
「(ホームズは)謎なんだね。実に面白い。彼を紹介してくれてほんとにありがとう。『人間にふさわしい研究課題は人間だ』と言うからね」

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2010年12月17日 (金)

ワトソン博士伝(5)

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 1880年春にワトソンはインドで勤務すべく他の将校たちとともに出発した。ボンベイに上陸すると、自分の連隊はすでに峠道を通って敵地深く侵入していることを知った。カンダハールは7月になって英軍が占領したが(Walker, History of the Northanberland Fusiliers, p.414)、ここまで行ってようやくワトソンは連隊に加わることができた。しかし彼は連隊とともに実戦に参加することはなかった。「第5ノーサンバランド・フュージリア連隊はペシャワールに後退し、そこからさらにローレンスポアまで戻り、9月に帰国命令を受けた。したがって第5連隊はマイワンドの悲劇には参加しなかったのである」(Walker, 前掲書)。しかしワトソンには1880年7月27日のマイワンドの戦いは鮮烈な記憶となった。彼は原隊を離れてバークシャー連隊(歩兵第66連隊)付きを命ぜられていたのである。マイワンドにおける第66連隊の英雄的な抗戦は軍事史に残るものであった。(Hanna, The Second Afghan War, p.416)

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 戦いが始まってまもなく、ワトソンは戦友がめった斬りにされるのを目撃したがさらに動じなかった(『緋色の研究』)。しかし左肩にジザイル銃の弾丸を受けて倒れた。骨を砕かれた上、鎖骨下動脈も少しかすった。しかし勇敢な従卒のマレーの献身的な働きにより凶悪な回教戦士の手に落ちることなく、駄馬に載せられて(肩の傷の痛みはひどかったが)無事に英軍の戦線まで連れて帰られたのである。ワトソンの戦友については分かっていることが少ない。しかしこの戦争から7年後になって彼が「旧友のヘイター大佐」についてアフガニスタンで手当をしたと言っている(『ライゲイトの地主』)。ヘイターは「立派な古強者で見聞も広い人物だった」のでモデルを見つけるのはたやすい。彼は第二次アフガン戦争時にカブール輜重隊の指揮を執っていたチャールズ・ヘイター少佐であることは明らかだ(Hanna, 前掲書pp. 470, 525)。
 ペシャワールの本隊病院へと送られ、そこで徐々に回復したこと、しかし「わがインド領のあの呪うべき腸熱」にやられて数ヶ月もの間命が危ぶまれたこと、とうとう除隊して英国に送り返されたことなどは、彼自身が書いている(『緋色の研究」)。ポーツマスに上陸したのは1880年の暮れか1881年初めだろう。

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2010年12月15日 (水)

ワトソン博士伝(4)

 ワトソンの医学生時代についても記録は少ない。セント・バーソロミュー病院からは文人医師が輩出していて、彼もその伝統に連なることになった。(トマス・ブラウン、ウィリアム・オスラー、ノーマン・ムーア、ジェフリー・ケインズなどの名前が頭に浮かぶ。桂冠詩人ロバート・ブリッジス(1844―1930)ならばワトソンの面白い挿話を教えてくれただろうか。)

  ワトソンがふつうに教科書で本筋だけ勉強して満足しているようなタイプではなかったことは明らかだ。非常に珍しい神経障害に関するパーシー・トレヴェリアンの高度に専門的な論文も、売れないと出版社がこぼすくらいなのに、ワトソンは見逃さなかった(『入院患者』)。彼はフランスの心理学者の研究(idée fixeについてにも通じていた(『六つのナポレオン』)。このように神経科方面の先端的な研究にも関心があったのに陸軍軍医になったのは奇妙なことのようでもある。しかし植民地育ちという背景を考えれば、若い盛りに退屈な町医者なんぞやっておれるかと思ったのは納得が行く。勇ましい活動の生活と軍人の同志愛の魅力は抗しがたかった。そういうわけで彼はネトレーの陸軍軍医養成課程に進むことになる。ワトソンがポーツマスのユナイテッド・サービシズ・クラブでラグビーをしたかどうかは分からない。彼はすでにブラックヒースというクラブでスリークォーターを務めていたくらいだから、かなりの技倆だったことは確かだ。〔それならワトソンは俊足のはずだが『バスカヴィル家の犬』ではレストレイドよりは速いけれどホームズには引き離されている。ホームズが格別に足が速いのだろう。〕
  しかしこのころになるとワトソンの興味は馬の方に移っていたらしい。彼はバークシャー州ショスコムで夏を過ごしたことがあって、競馬にはかなり入れ込んだ。何しろ傷痍年金を半分もつぎ込んでいるくらいだから(『ショスコム・オールド・プレイス』)。
 軍医養成課程を終えるとワトソンはつつがなく軍医補として第五ノーサンバーランド・フュージリアーズ連隊に配属された。彼は早速チャリング・クロスのコックス銀行に口座を開き、ブリキの文書箱や熱帯用ヘルメットなどインド勤務に必要なものをそろえた。あのJohn H. Watson, M.D.という文字を文書箱の蓋にペンキでかかせたときはさぞ満足だったろう。しかし事態の進展は早く、ワトソンが連隊に着任しないうちに第二次アフガン戦争が勃発した。

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2010年12月14日 (火)

ワトソン博士伝(3)

 ワトソンの書いたものを読めば誰でも気づくのは母親の奇妙な取り扱いである。(「取り扱いも何も、ワトソンは母親のことは一言も口にしていないぞ」と言われるか? ホームズなら「それが奇妙な取り扱いです」と答えるだろう。)これはもちろんワトソン夫人が早くに、おそらく次男を産んでまもなく亡くなったからだろう。彼女はオックスフォード運動に傾倒する敬虔な女性であったので、死の床で夫に最後の願いをこう述べたのではないか――この子の名前はあの偉大なニューマンにあやかってジョン・ヘンリーとつけてください。[ジョン・H・ワトソンのHはHenryだったという説ですね。これに対してオカシイと異議を唱えたのがドロシー・セイヤーズ女史。「ドクター・ワトソンのクリスチャンネーム」参照。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_b26f.html

 

  妻のいない寂しい家の暮しに耐えられなくなったワトソン(父)は息子たちを連れてオーストラリアに渡った。バララット近辺で金を掘り当てたのか、何かほかの投機に成功したのか、いずれにせよ彼が金持ちになったことは明らかだ。ワトソンの性格にはオーストラリア育ちらしい特徴がずいぶんある。彼はたくましい常識家で、冷静で、ダートムアなどの厳しい環境にも容易に適応できる。これは植民地生活で心身共に鍛えられたからに違いない。後にロンドン子になったけれども、ワトソンはいざとなればいつでもポケットに拳銃を入れて魔犬にも殺人犯にも平気で立ち向かったので、その勇気は着実で地味だった。しかし、ワトソンの少年時代の話であった。彼がイングランドのパブリックスクールで学んだことは疑い得ない。親友の一人がパーシー・フェルプスで、彼は大秀才だったので、ケンブリッジで華々しい成績をあげて外務省に入ったのだった。フェルプスは大変な名門の出であった。「我々はまだ子供だったが、彼の母方の伯父が有名な保守党政治家のホールドハースト卿だということは知っていた」とワトソンは書いている。しかしワトソンは植民地育ちらしく学童にもある俗物根性とは無縁で、フェルプスの偉い親戚のことなど気にもとめなかった。ほかの生徒も似たようなもので、フェルプスは「おたまじゃくし」という芳しからざるあだ名をつけられ、運動場で彼を追い回してクリケットの柱で脛をひっぱたくのが痛快な遊びだとされていた。ここでは「運動場」にplay-fieldではなくplay-groundを、「クリケットの柱」にstumpの代わりにwicketを用いている。この学校の用語は一風変わっていたようだ。ラグビーをさせる学校だったことは間違いない。そうでなければワトソンが後年になってブラックヒースのチームのスリークォーターを務められるはずがない。いかにもワトソンらしくラグビーで活躍したなどとは自分からは言わない。読者に分かるのは「ビッグ・ボブ・ファーガソン」が「オールド・ディア・パークで君をロープ越しに観客席に放り込んだ云々」と言ったからである*(『サセックスの吸血鬼』)。勉強の方ではワトソンはまあまあという成績で優等生ではなかった。彼はおたまじゃくし・フェルプスと同じ年齢だったのに2級下だった。彼の学級番号は32番だった(『隠居絵具屋』)。

*このあたりは原文筆者ロバーツ氏の勘違い。スリークォーターだったのはボブ・ファーガソンである。ワトソンのポジションは書いてない。ワトソンがボールを持って走りファーガソンのタックルで観客席に放り込まれた――というのが一番ありそうなケースだから、ワトソンもスリークォーターだったかもしれないが。
 ワトソンのブラックヒースとファーガソンのリッチモンドはいずれもロンドンのクラブチームの名前である。ワトソンはロンドン大学医学部在学中にブラックヒースのチームに加わったのだろうか。ケンブリッジ大学の有名なスリークォーター、ゴドフリー・ストーントンもイングランド代表を5回も務めたが、同じブラックヒースでプレイした。しかし英国の話であるから日本と違って「ワトソン先輩」なんてことは言わない。(『スリークォーターの失踪』)

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2010年12月13日 (月)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの迷妄(2)

 しかしアメリカでもやはりこういう話を聞くと「変だな」と思う常識人はいるもので、Histrorical Discussion of Catch Wrestlingというサイトでまともな議論があった。
http://www.bullshido.net/forums/showthread.php?t=79165
 英語を読みたい人は上をどうぞ。なるべく忠実に訳してみる。

引用:キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはどのポジションからでもサブミッションをキャッチできるという意味であり、目的は常に苦痛と損傷を与えることである。
これはプロレスリングやブラジリアン柔術よりずっと古いのである。
(訳者注:原文英語は文法的に間違いで筋が通らない。和訳の意味は推定です。)

 上のようにGojuは投稿しているが、私Joeは違うと思う。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがサブミッション・レスリングの意味になったのは比較的最近のことである。
 20世紀の初頭から中葉のある時点まで、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはその他の西洋のレスリングの大部分と同様に、ピンフォールを奪うことに焦点を置いていた。19世紀後半から20世紀初めのレスリングのマニュアルでキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのルールを完全に記述しているものはたくさんあるが、サブミッションに関する規定はなく、チョークは明確に禁止されている。サブミッションを得るために(相手を仰向けに抑えてピンフォールするためではなく)ホールドを使うべしとしている初期キャッチのマニュアルは、まだ一冊も見たことがない。
 そこで私が言いたいのは、「キャッチ」は柔道と交流してから進化し始めたのだということである。キャッチレスラーは日本人が腕絡みをかけるのを見て悟ったのだ。「ああ、あれはダブルリストロックと同じじゃないか。ただ違いは、相手を仰向けに抑えるためにかけるのではなくて、あの柔道家は相手をギブアップさせるために技をかけているのだ」
 初期キャッチの技のいくつかは柔道の関節技によく似ている。違いは技をかける目的であった。これが分かる者が多くなると、キャッチレスラーも「サブミッション・レスラー」へと進化し始めた。不幸なことに、この進化はプロレスリングが八百長になり始めた時期に起きた。フッキングと本物のサブミッション・レスリングは舞台裏に追いやられ、何人かが細々と伝えるに過ぎなかった。
 やがて90年代のブラジリアン柔術ブームがやってきた。これで突然グラウンドの戦いに人気が出て、裏舞台のサブミッション・レスラーの潜在的記憶が前面に出てきた。「フック」のトレーニングをしていた者が声をあげ始めた。現代のグラップリングをベースにして現代版キャッチを再構成しようという者も出てきた。
 単純な真理は、現在キャッチをやる者は100年前とはまったく違うやり方でやっているので、キャッチがサブミッション・グラップリングのオリジナルな形だと考えるのは間違っているということだ。
(訳終り)

 かなりいい線を行っていますね。
 この人は昔のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのルールや技術が書いてある本を持っているらしい。それなら「19世紀後半から20世紀初めのレスリングのマニュアル」のような曖昧な書き方をしてはだめだ。何年発行の何という本かを明示して一部を引用すべきだ。プロレスファンの教養では「歴史の書き方」までは分からないのだろう。仕方がないか。
(しかし、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのルールに関する上記下線部の記述はいかがですか、那嵯涼介さん? むかしはサブミッションで一本というルールがあった? そういうルールが書いてある本を出してみてください。)

 上の投稿に対する反論が出ている。アド・サンテルは柔道家に勝ったぞなどというものだ。
 もちろん柔道家柔術家がレスラーに負けた例は多い。1904年に前田光世と一緒に渡米した富田常次郎も大男に巴投げをかけようとして潰されている。体力差が大きければ技が通用しないことがあるのは当然で、柔術起源説否定の論拠にはならない。
 あるいは「この写真を見よ。関節技をかけているではないか」という反論もある。そりゃ写真はあるでしょうが……この写真は何年に撮ったもの? 柔術の影響については? キャッチの信者にそんなことを聞いても仕方がない。日米同じだ。

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2010年12月11日 (土)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの迷妄(1)

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンについてデタラメを並べ立てるのは日本のプロレスファンだけではないことが分かった。
 たとえばModern Catch As Catch Can: Written By Kris Iatskevich というサイトがある。
http://damagecontrolmma.com/modern-catch-as-catch-can-written-by-kris-iatskevich/

 ここに書いてあるのは、ビル・ロビンソンやカール・ゴッチ、ビリー・ライリーのスネークピットというおなじみの話である。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの衣鉢を継ぐ桜庭和志選手も紹介されている。
 日本の場合と同じで、何年何月何日に誰対誰のどういう試合があったか、という具体的なデータが一切ないのが特徴だ。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルであることは、私が前々から繰り返している。
 最近では、谷幸雄、レスリングをする(1)(2)で、谷幸雄(1880―1950)がライト級チャンピオンのジム・メラーと「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルで戦った試合の記事を紹介した。1904年4月18日に行われた試合で谷幸雄は2フォール対1フォールで勝ったので、この試合はどう見ても現在のフリースタイルとほとんど同じルールである。主な違いは時間制限がなく、どちらかが先に2フォールを取るまで終わりにならなかったことだ。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/2-519a.html
 もしキャッチ・アズ・キャッチ・キャンがサブミッションによる決着を含むレスリングであるというなら、具体的な試合のデータを一つでもよいから出してみてください、と私は那嵯涼介氏に言ったのだった。まだ待ってますよ、那嵯さん。
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルであることは、本ブログでもあちこちに書いているが、フリースタイル・レスリングの歴史http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-d1c0.html
 を見れば一目瞭然に分かるはずだ。
 谷幸雄はジム・メラー以外のキャッチレスラーとは柔術で戦って楽勝したのだ。ハッケンシュミットでさえ、谷と「柔術着着用、サブミッションあり」の試合をするのは避けたのだ。
 
 この英語サイトがデタラメであることは木村政彦について書いてあることだけでも分かる。
 
Another judoka, Masahiko Kimura, also learned Catch as Catch Can while working as a professional wrestler. Kimura would go on to defeat Helio Gracie with a staple hold of CACC the Double Wrist Lock aka ‘’The Kimura’’.
 
もう一人の柔道家木村政彦もプロレスラーとして働いている間にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを覚えた。木村はその後、CACCの定番であるダブルリストロック(別名「キムラ」)でエリオ・グレイシーを破るまでになった。

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2010年12月10日 (金)

ワトソン博士伝(2)

 インドですっかり健康をそこねたワトソンは兵員輸送船オロンテーズ号からポーツマスの波止場に降り立ったが、彼は「大英帝国中の無為徒食の輩が押し流されて行く、あの巨大なる汚水溜め、ロンドンヘと当然のように落ちて行った」という。ワトソンは根が正直な男である。その彼が自分の生まれた町をこんなふうに描写するだろうか。彼はハンプシャーかバークシャーで生まれたと考えられる。『ぶな屋敷』の事件でハンプシャー州ウィンチェスター市(「むかしのイングランドの首都」と彼は呼んだ)まで出かけたときは、田舎の自然美に感動したのではなかったか。うららかな春らしい日で、空は明るい青みを帯び、白い綿のような雲が西から東へと漂っていた。大気はひんやりと心地よく……農家の赤や灰色の小さな屋根が明るい新緑の間に頭をのぞかせていた。「実にさわやかで美しいじゃないか」とワトソンは叫んだ。ところがホームズは……

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 それにワトソンは8月のロンドンには我慢がならんとも言っている。暑いのが困るというわけじゃない(何しろインドで戦ってきたのだから華氏90度くらいは平気なのだ)。彼を悩ませたのはむしろ郷愁なのだ。「ニューフォレストの林間か、サウスシーの砂浜」にでも出かけたかったのだ。(『ボール箱事件』)
 ワトソンは両親については奇妙な沈黙を守っている。父親(H・ワトソン)が裕福だったことは、五十ギニーの時計を所有していたこと、長男に有望な前途を約束してやれたこと、次男をよい学校(卒業生がケンブリッジを経て外務省に入った)にやれたことで明らかだ。ワトソンが兄のことで寡黙なのは驚くにあたらない。兄は父親の残した遺産を蕩尽して貧窮のうちに暮らし、「ときたま金回りのよいこともあった」。画家でときには絵が売れたのだろうか。あるいはギャンブルに凝っていたのか。いずれにせよ、飲酒がもとで1886年ごろになくなっている。(この没年については後に論ずる。ワトソンは『四人の署名』で「最近この懐中時計を手に入れた」と言ったのだった。)
 ワトソンの少年時代については、二つの事実が明らかである。彼は一時期オーストラリアにいたことがあるが、イングランドの学校にやられた。オーストラリアの件は明らかで動かせない。ポンディシェリー・ロッジの庭でミス・モースタンと二人で「子供みたいに」手をつないで立っていたとき、少年時代に見た光景が蘇ってきたのだった。「そっくりの光景をバララットの近くの山腹で見たことがあります。山師が金を求めて掘り返していたのです」おそらくワトソンのオーストラリア時代は13歳になる前だったと言えるだろう。
(ワトソンと「おたまじゃくし」フェルプスは同じ年齢の生徒だった。ただ、ワトソンがオーストラリアを知ったのはもっと後の時期だという可能性も残っている。)

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2010年12月 9日 (木)

ワトソン博士伝(1)

     S・C・ロバーツ

「いかなる現象においても始原こそが最も重要である。同様に、いかなる偉人についても、いかなる状況下で地上に生を享けたか、いかにして世に出たか、これを完全に明らかにするまでは(そのような試みが学術に資するか否かにかかわらず)、我々は心安んずることができぬのである」
 トマス・カーライルの言葉である。その浩瀚な著作からの引用をドクター・ワトソンが口にしたことはよく知られている。しかし、ワトソンが地上に生を享けた状況を明らかにすることは、ボズウェルにもむつかしかろう。ボズウェルがロンドン中を走り回りベイカー街を五十往復したとしても、ほとんど成果はないだろう。若年のワトソンを語ってくれる友人や親戚がいるだろうか。学校時代の話ならば「おたまじゃくし」フェルプスが少しは知っているかもしれない。スタンフォード青年はハーレー街に診療所を構えているか田舎に引っ込んでいるか。彼をつかまえれば聖バーソロミュー病院時代のワトソンを語ってくれるだろうか。彼の兄のことはできれば知られたくない一家の秘密だった。最初の妻は結婚後5年か6年して亡くなったらしい。ホームズならば多くを推知できただろうが、あの有名な五十ギニーの懐中時計の挿話を除いて、彼はワトソンの私事にはあまり関わらなかった。若年のワトソンの姿ははとらえがたいのである。「データだ。データがなければ」とホームズは言うだろうか。
 ワトソンがロンドン大学で博士号を得たのが1878年であるから、彼が1852年に生まれたことはほぼ確実である。
 どこで生まれたのかはよく分からない。ロンドン子であったようにも見えなくはない。彼の書いたものからは、彼が大都会ロンドンの提供する匿名性を好んでいたことがうかがえる。ベイカー街、地下鉄、二輪馬車、トルコ風呂、十一月の霧――ワトソンの生活はこういうものから成り立っていたと言えるくらいだ。しかし……

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2010年12月 7日 (火)

杉野はいずこ

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1.轟く砲音、飛来る弾丸
荒波洗ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
杉野は何処、杉野は居ずや

2.船内隈なく 尋ぬる三度
呼べど答へず、さがせど見へず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよあたりに繁し

3.今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神廣瀬と その名残れど

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 広瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長が戦死したのは明治37年(1904年)3月27日である。広瀬武夫にはロシア人の恋人アリアズナがいたが結婚はしなかったので遺族はいない。杉野には妻子があった。
 私の母親は県立女学校を卒業したが、杉野兵曹長の奥さんが裁縫の先生だったという。直接習ったのではないらしい。杉野夫人は母が入学したころにはもう退職していて、入学式だったか天長節だったか、何かの式典の際に来賓として来たのを一度見たことがあるという。

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2010年12月 1日 (水)

戦略防衛「構想」

 ウィキペディア英語版によると、SDIが始まったのは1983年3月23日、ロナルド・レーガン大統領が「核兵器を無力化旧式化するプロジェクトをスタートすべし」という演説をしたときだ。

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"I call upon the scientific community who gave us nuclear weapons to turn their great talents to the cause of mankind and world peace: to give us the means of rendering these nuclear weapons impotent and obsolete."

 エドワード・ケネディがこれを評して「スターウォーズじゃあるまいし」と言ったのでthe so-called Star Wars defenseという呼び方ができたらしい。翌1984年にStrategic Defense Initiative Organization(SDIO)ができた。

 日本では当初はテレビでも新聞でも「SDI、いわゆるスターウォーズ計画」と呼んでいた。1980年代に私は「航空宇宙情報」というニューズレターの翻訳をしていて、この日本語を始終書いていた。あるとき、社長兼編集長に相談を受けた。

「あの「いわゆるスターウォーズ計画」というのはバカみたいに聞こえる。ちゃんとした訳語を考えてもらえまいか」
「ようがず。来週までに考えておきましょう」

 Strategic Defenseは「戦略防衛」しかない。問題はInitiativeをどう訳すかだ。当時使っていた辞書はリーダーズ英和辞典の紙版だった。

initiative
1 第一歩, 手始め; 率先, 首唱, 主導; 【軍】 先制.
・have the initiative 《敵に対して》主導権を握っている.
・take the initiative (in doing, to do) 率先してやる, 自発的に先手を打つ, イニシアティブをとる.
2 先駆けて事を行なう才能, 創業の才, 企業心, 独創力.
3 [the ~] 【政】
a 《議会での》発議権, 議案提出権.
・have the initiative 発議権がある.
b 国民[州民, 住民]発案, イニシアティブ《一定数の有権者が立法に関する提案を行なって選挙民や議会の投票に付する制度[権利];
cf. →REFERENDUM》.
on one's own initiative みずから進んで, 自発的に.
a 始めの, 発端の; 初歩の.
[F (INITIATE)]

  ほかの辞書を見ても適当な訳語はない。それまでレーザービーム兵器、レールガン、運動エネルギー兵器等々のまだ「コンセプト」段階のプロジェクトの翻訳をかなりしていたが、そういうものの総合としてのSDIをどう呼べばよいか? 
 戦略防衛構想でよろしいのでは――これは自分で考えたように記憶している。
 このニューズレターは自衛隊や軍需産業やマスコミ関係者が購読していたから、すぐに「いわゆるスターウォーズ計画」は廃れて「戦略防衛構想」で用語が統一された――のだと思う。
 いま私はDDwinというソフトを使って10種類ばかりの電子辞書を串刺し検索している。initiativeを引いてみよう。
 initiativeに「構想」という訳語を宛てているのは、ビジネス技術実用英語大辞典とジーニアス英和大辞典である。

 ジーニアス英和大辞典ではinitiativeの語義の3番目に
 
3. (事態改善への)新規構想, 戦略(cf. SDI).

  ビジネス技術英和大辞典では

initiative
the ~ 主導権, イニシアチブ, 自発性, 自主性, 率先; an ~ 構想;U (無冠詞)事を始める能力, 起業心

この辞書は適切な例文をたくさん挙げているのが特徴だ。

◆an initiative designed to...  ~するために打ち出された構想
◆under an initiative proposed by Mr. Sanders; under the initiative of Mr. Sanders  サンダース氏が提案した[サンダース氏の]構想のもとに
◆launch an initiative to tackle a problem  問題に取り組むために構想を打ち出す
◆The Internal Revenue Service has embarked on several major initiatives that will improve our service to you, the American taxpayer.  米国内国歳入庁(IRS)は, 米国の納税者の皆さんへのサービス改善[向上]を図って, いくつかの大構想に着手しました.

 編者の海野文男・海野和子氏が翻訳の現場で「構想」という訳語を考え出されたことが分かる。

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