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2011年1月25日 (火)

ワトソン博士伝(13)

 以後数年間にわたってワトソンは記録者として多忙を極めた。ホームズ帰還の年1894年だけでも「原稿は厚いノート三冊分」になったし、1895年にはホームズは「心身ともに最高の調子」だった。しかしワトソンも医学への関心を失ったわけではない。11月のある晩、ホームズはパリンプセスト(最初に書いた文字を消して重ね書きした羊皮紙文書)に取り組み、ワトソンは最近の外科の論文を読んでいたことがある(『金縁の鼻眼鏡」)。ワトソンとホームズは趣味も似ていた。特に二人ともオペラとトルコ風呂には目がなかった。違いはワトソンがよく自分のクラブへ行ったのに、ホームズは下宿にこもって顕微鏡や索引カードをいじっている方を好んだことである。もっともホームズはディオゲネス・クラブの落ち着いた雰囲気は気に入っていた(『ギリシャ語通訳」)。ワトソンのギャンブル癖には、ホームズが兄のように監視の眼を光らせていた。ワトソンがビリヤードをやる相手は一人だけだったし、小切手帳はホームズが自分の引出にしまって鍵をかけていた(『踊る人形』)。1894年から1901年の間は全体としてみればワトソンの人生では幸せな時期だったと言えるだろう。この期間を通じてホームズは多忙であった。公になった事件で少しでも厄介なものはすべて彼が協力したし、また表沙汰にならなかった多くの私的な事件でも彼が重要な役割を果たしたのである。ワトソン自身、その多くに関わって一々「詳しい記録」を付けた。事件のために旅行をすることもよくあった。あるときはワトソンが一人ではるばるローザンヌのオテル・ナシオナルまで出かけた(『レディ・フランセス・カーファックスの失踪』)。ホームズとワトソンが古い大学町の小さな宿屋に泊まることもあった。ホームズの初期イングランド勅許状の研究のために二人でオックスフォードへ行ったときに、フォーテスキュー奨学金をめぐる痛ましい事件が起きたのだった。
[筆者ロバーツ氏は『三人の学生』の大学がオックスフォードだという説らしい。ロバーツ氏自身オックスフォードの研究者なので根拠があるのだろう。]

 トリニティカレッジのシリル・オーヴァートン(体重16ストーンの骨と筋肉の塊でケンブリッジ大学ラグビーチームの主将)が突然ベイカー街に訪ねてきたこともあった。このときは二人でケンブリッジに出かけて自転車屋の隣にある宿屋に泊まった。それからトランピントン村まで行って見たのは、下宿の娘で「善良で美しい上に聡明な」女性の悲しい最期だった(『スリークォーターの失踪」)。

Miss50

 ホームズは事件に関わっているときはワトソンに傍にいてもらいたがった。ワトソンがいなかったときのことをホームズはこう書いている。
「こちらの結論やこれからの行動を先読みしてしまうような相棒は危険である。その逆に何か新しい展開がある度に驚いてくれて未来のことは何一つ予測できないという人物がいれば、これこそ理想的な協力者である。」

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