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2011年1月 3日 (月)

小泉軍治伝(2)

 1919年には小泉は英国在住日本人に医療、雇用、住居を提供することを目的として共済会を設立した。小泉がこの会の事務局長になり、武道会内に事務局を置いた。1920年に嘉納治五郎がアントワープ五輪に選手団長として赴く途中、武道会を訪問した。このとき小泉と谷幸雄はしばらく協議して柔術から柔道に切り替えることを決めた。嘉納は二人に講道館2段を与えた。
 1922年に小泉軍治は東洋の漆器の専門家としてヴィクトリア&アルバート美術館の顧問に就任し、後に同館所蔵の漆器すべてのカタログを作成した。小泉は1925年に著書Lacquer work: A practical exposition of the art of lacquering together with valuable notes for the collectorを出版した。1932年には柔道4段に進んだ。

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[右から二人目の柔道着の男がG.K.小泉軍治。その左が谷幸雄。その左の眼鏡の男はイシグロ。石黒敬七であろう。]

 第二次大戦中も武道会での柔道の稽古は続けられたが、これは小泉軍治には大きな財政的負担を強いた。小泉の伝記を書いたリチャード・ボウエンによれば、この期間に「小泉は拘留されず行動に制限は受けなかった」という。1948年に小泉は6段に進んだ。彼は1948年7月24日の英国柔道協会設立を助けた。彼は同協会の初代会長に就任した。40年代末までに彼は事業から引退し英国における柔道教授に専念した。1951年には7段に進んだ。
 小泉は結婚してハナという名前の娘が一人いた。彼女は弟子のパーシー・セキネと結婚した。
 1954年9月19日に、小泉軍治は50年ぶりに日本に帰郷した。彼の妹や親戚とともに講道館館長の嘉納履正を初めとする柔道家たちが羽田空港で彼を迎えた。講道館は小泉を賓客として歓迎した。小泉は日本から英国に帰った。小泉は
Judo: The basic technical principles and exercises, supplemented with contest rules and grading syllabus (1958) 
My study of Judo: The principles and the technical fundamentals (1960)
 など、柔道に関する本を書いている。彼は1960年代も柔道を教え続けた。
 小泉が死去する前夜、弟子の一人チャールズ・パーマーは、いつもと様子が違うように思った。『ブラックベルト』誌の通信員ケイ・ツムラによれば、「いつものように笑ってお休みという代わりに彼はパーマーの手を握って「さよなら」と言った」という。1965年4月15日、小泉の自殺が発見された。彼は盛装して気に入りの椅子に坐り、ガスストーブを傍に置き頭にプラスティックの袋をかぶっていたという。
 小泉の死は柔道界に衝撃を与え議論が起きた。自殺は不名誉だとする者もいたが、彼の死は名誉あるサムライの死であるという者もいた。グラントが1965年に書いた伝記では小泉は死の前に八段に進んだとしているが、1982年のフロムとソームズの伝記では講道館から八段が追贈されたとしている。

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