« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月31日 (月)

ワトソン博士伝(14)

 年月の経過とともに、ホームズはワトソンへの好意をだんだん表に出すようになってきた。初めのころにはごくさりげない友情だったのとは様変わりしている。ブルース・パーティントン設計図の事件が山場に来ようというとき、ホームズは忠実な友ワトソンの手をぎゅっと握りしめて、その目には「一瞬、今まで見たことのないような優しみがきらめいた」ように見えた。『悪魔の足』の事件では、勇敢なワトソンが迅速に行動したおかげでホームズは自分の実験がもたらした「凍りつくような恐怖」から逃れられたのだった。おぼつかない声でホームズはワトソンにありがとうと言った。ホームズが真情をこれほど見せたことはなかった……
 1902年の秋に、ホームズはある意味では彼の生涯の最高の時を迎えた。これは『高貴な依頼人』の事件であり、半世紀を経た今日でも(原文発表は1954年)名前は伏せられたままである。ワトソンは悪名高きアデルベルト・グルーナー男爵の裏をかくのに重要な役割を果たしてホームズに誉められた。おかげでホームズは男爵の悪行の明白な証拠をド・メルヴィル嬢に見せて、ようやく婚約解消を確実にしたのだった。
 さて、この次に記録されている冒険(『白面の兵士」)はワトソンではなくホームズが書いている。なぜだろう。一つにはワトソンにはすこぶる執拗なところがあって「君が自分で書いてみればいいじゃないか」と責め立てたからである。もう一つはホームズが一人だったからだ。彼は「我が善良なるワトソンは当時私を捨てて結婚していた。彼が利己的な行動に出たのは我々のつきあいを通して後にも先にもこの時だけだった」と書いている。この「当時」が1903年1月であるのはホームズ自身がはっきり書いていて動かせない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月30日 (日)

レスラーとしてのリンカーン

Cd1998lincolnfr

 米国第16代大統領(1861―65)エイブラハム・リンカーン(1809―65)は、若いころレスラーだった。左の背の高い方がリンカーンでしょう。

Cd1998lincolnbk_2

「すべての歴史家が米国史上最も偉大な大統領の一人とみなしているエイブラハム・リンカーンは、若いころ辺境スタイル(backwoods-style)レスリングの優れたレスラーであった。(どんなスタイル?) 彼の一番有名な試合は、1831年にイリノイ州ニューサーレムで行われ、彼は地元の強豪ジャック・アームストロングに勝った。この試合を描いた絵はアイオワ州ニュートンの国際レスリング博物館に展示してある。対アームストロング戦のとき、リンカーンは6フィート4インチ(193cm)、185ポンド(84kg)だった。」
http://www.wrestlingsbest.com/collectibles/wrestuffcards014.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月29日 (土)

疎い総理大臣

110101kan

 疎いのは困る。
 しかし、国債の格付けとは何か?

S&Pによる主な国の信用格付け2011年1月27日(ウィキペディアより)

◎AAA   米国、英国、スイス、ドイツ、フランス、カナダ、オーストラリア
◎AA+    ベルギー
◎AA    スペイン、カタール、スロベニア
◎AA-   日本、中国、台湾、クウェート、サウジアラビア
◎A+    イタリア、チリ
◎A    アイルランド、韓国
◎A-    ポルトガル
◎BBB   ロシア
◎BB+   ギリシャ

 前には「ボツワナ以下」ということもあった。

Bondrank

「現在債務不履行状態になっている債権の多くに、最良の格付けが付けられていた。そのため、世界中の投資家がそれを信用して、投資したのである。しかしそれら債権は、債務不履行となった。そのため米格付け会社の格付けは、今回の世界経済危機の原因の一つに数えられており、根拠の無い恣意的なものとされている。」http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2009/05/post-13b9.html より。

 上記ブログqazxを書いたのがどんな人かは知らない。専門家ではなさそうだ。
 首相なら少なくともこれくらいの知識があって「そんなもの信用できない」とか何とか言ってもらわないと困る。
 しかし、アメリカの格付け会社に舐められるのは仕方がないところもある。もう一度同じブログの昨日付け記事を引くと

「格付け会社も日本国債の格付けが低いのは、日本が軍事力を持たないからだとはっきり言えば良いのである。確かに、日本は対外資産世界最大であるにもかかわらず、その資産を担保する軍事力を持たない。
しかし軍事力を持たないから格付けを下げたなどと言えば、日本国内はそれこそ大騒ぎになることだろう。」
http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2011/01/post-e079.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月28日 (金)

態度がデカイ総理大臣

(昭和21年11月3日)皇居前広場で開かれた「憲法公布記念祝賀都民大会」には、十万人の民衆がつめかけた。国会議員、都議会議員のほか、市長、区長、校長、隣組長、各団体役員など、長のつく者たちがずらりと並び、かしこまった。…………

Kenpo2

……もちろん音楽も使われた。作曲は「東京音頭」の中山晋平、作詞は「リンゴの歌」のサトウ・ハチローという黄金コンビニより、名曲「憲法音頭」が誕生した。こんな歌である。

  踊りおどろか チョンホイナ
  あの子に この子
  月もまんまる 笑い顔
  いきな姿や 自慢の 手ぶり
  誰に遠慮がいるものか ソレ
  チョンホイナ ハ チョンホイナ
  うれしじゃないか ないか
  チョンホイナ

 意味はまったく不明だが、とにかくすばらしい歌である。
「憲法音頭」は、上野の博物館で、ご婦人方の踊りと共に披露された。憲法音頭で踊った人の数は百万人に達したという。(憲法普及会による報告)(p.p. 73-4)

http://www.utagoekissa.com/utagoe.php?title=kenpouondo に憲法音頭の歌詞とメロディーあり。楽譜もある。必見! 「うたごえ喫茶 のび」http://www.utagoekissa.com も見るべし)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月27日 (木)

ミステリの美学(2)

『ミステリの美学』はいい題だけれど、The Art of the Mystery Storyをそのまま訳して『ミステリ小説術』ではどうか。アマゾンのコピー
 
内容(「BOOK」データベースより)
クイーンの短編小説観、カーの密室講義、チャンドラーの殺人美学、黄金時代を築いた作家たちが、惜し気もなく披瀝する小説作法の神髄。海外ミステリを愉しむための道標としての22編。バウチャーが論じるスパイ小説、ハメットの辛辣な書評、ガードナーは起源を探る。読む者も、書く者も、なぜこれほどミステリを愛してやまないのか。詳細なコレクターズ・ガイドを収録して、大御所ヘイクラフト畢生の名著を新訳。

「チャンドラーの殺人美学」というのは、Raymond Chandler, The Simple Art of Murderの訳題『素朴な殺人美学』から。『殺人は簡単だ』くらいでよいはず。artは「術」です。「美学」なんて意味はない。題名は忠実に訳すべし、という決まりはないけれど。
 しかし
エドマンド・ウィルソン『誰がアクロイドを殺そうが』
ドロシー・セイヤーズ『犯罪オムニバス』
ロナルド・ノックス『探偵小説十戒』
 などは面白かった。そのほかにも余所では読めないものがたくさんある。

レックス・スタウト『ワトスンは女性だった』
G・K・チェスタトン『探偵小説を弁護する』
 は翻訳が変だ。
 レックス・スタウトのものは、私が本ブログで訳した。ワトソンは女だった(1)-(7)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/1-4317.html 
 チェスタトンのものは原文がhttp://www.chesterton.org/gkc/murderer/defence_d_stories.htm にある。英語が凝っているから大変だけれど、この訳ではいけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月26日 (水)

ミステリの美学(1)

 探偵小説というものは普通、血湧き肉躍る読み物であるが、『四つの署名』が作者の代表作のレベルにあるとはとても思えない。それはぞっとするような事件満載の奇妙なごった煮で、不吉な財宝とかくれんぼうをしているのが異色の一団なのはまちがいない。義足の囚人、彼のお伴である残虐で不格好な小男、醜い双子、愛想の良い懸賞拳闘家、賢い探偵と愚かな刑事、そして物語の語り手を恋人に持つ心優しい娘が、もつれ合いながら乱舞し、謎と宝を終局に導く荒れ狂う奔流となってクライマックスを迎える。ドイル医師の崇拝者たちはこのささやかな小説に熱中して最後まで読み進むだろうが、その後、再読のために手に取ることはないだろう。
(「アセニアム」より、ロンドン、一八九〇年一二月六日)
(p.p. 196-7 「名作ミステリの同時代書評四選」より、他の三篇は『月長石』『トレント最後の事件』『ベンスン殺人事件』)

 アセニアムはAthenaeumという雑誌らしい。
『四つの署名』(『四人の署名』)はThe Sign of the Fourというタイトルで月刊リッピンコット誌1890年2月号(ロンドンおよびフィラデルフィアで発売)に一挙掲載された。この雑誌の値段は英国版が1シリング、米国版が25セントだった。いま古書価は数千ドルになるそうだ。1890年10月に単行本として出たときのタイトルは英国版も米国版もThe Sign of Fourだった。

Lippincotts_sign_of_four_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月25日 (火)

ワトソン博士伝(13)

 以後数年間にわたってワトソンは記録者として多忙を極めた。ホームズ帰還の年1894年だけでも「原稿は厚いノート三冊分」になったし、1895年にはホームズは「心身ともに最高の調子」だった。しかしワトソンも医学への関心を失ったわけではない。11月のある晩、ホームズはパリンプセスト(最初に書いた文字を消して重ね書きした羊皮紙文書)に取り組み、ワトソンは最近の外科の論文を読んでいたことがある(『金縁の鼻眼鏡」)。ワトソンとホームズは趣味も似ていた。特に二人ともオペラとトルコ風呂には目がなかった。違いはワトソンがよく自分のクラブへ行ったのに、ホームズは下宿にこもって顕微鏡や索引カードをいじっている方を好んだことである。もっともホームズはディオゲネス・クラブの落ち着いた雰囲気は気に入っていた(『ギリシャ語通訳」)。ワトソンのギャンブル癖には、ホームズが兄のように監視の眼を光らせていた。ワトソンがビリヤードをやる相手は一人だけだったし、小切手帳はホームズが自分の引出にしまって鍵をかけていた(『踊る人形』)。1894年から1901年の間は全体としてみればワトソンの人生では幸せな時期だったと言えるだろう。この期間を通じてホームズは多忙であった。公になった事件で少しでも厄介なものはすべて彼が協力したし、また表沙汰にならなかった多くの私的な事件でも彼が重要な役割を果たしたのである。ワトソン自身、その多くに関わって一々「詳しい記録」を付けた。事件のために旅行をすることもよくあった。あるときはワトソンが一人ではるばるローザンヌのオテル・ナシオナルまで出かけた(『レディ・フランセス・カーファックスの失踪』)。ホームズとワトソンが古い大学町の小さな宿屋に泊まることもあった。ホームズの初期イングランド勅許状の研究のために二人でオックスフォードへ行ったときに、フォーテスキュー奨学金をめぐる痛ましい事件が起きたのだった。
[筆者ロバーツ氏は『三人の学生』の大学がオックスフォードだという説らしい。ロバーツ氏自身オックスフォードの研究者なので根拠があるのだろう。]

 トリニティカレッジのシリル・オーヴァートン(体重16ストーンの骨と筋肉の塊でケンブリッジ大学ラグビーチームの主将)が突然ベイカー街に訪ねてきたこともあった。このときは二人でケンブリッジに出かけて自転車屋の隣にある宿屋に泊まった。それからトランピントン村まで行って見たのは、下宿の娘で「善良で美しい上に聡明な」女性の悲しい最期だった(『スリークォーターの失踪」)。

Miss50

 ホームズは事件に関わっているときはワトソンに傍にいてもらいたがった。ワトソンがいなかったときのことをホームズはこう書いている。
「こちらの結論やこれからの行動を先読みしてしまうような相棒は危険である。その逆に何か新しい展開がある度に驚いてくれて未来のことは何一つ予測できないという人物がいれば、これこそ理想的な協力者である。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月21日 (金)

Hereditary King of Bohemia (3)

Bohemia

 1196年に王国になったボヘミアの紋章。
 ボヘミアは16世紀にオーストリアに併合された。
『ボヘミアの醜聞』は1887年だったらしい。このころはオーストリア=ハンガリー二重帝国の一部だ。 
「ボヘミア国の今上陛下」がいたか? 
 ホームズがわざわざhereditary King of Bohemiaと言ったのはなぜか。
 hereditaryは訳さないのが正解だと思う。
 しかしもし仮にこの語を含めて訳せば「血筋からはボヘミア王たるべきお方」じゃないかな。
 ワトソンはよく不正確なことを書く。しかしわざと辻褄の合わぬことを書いて読者を惑わすこともあるかも知れん。訳者が出すぎた真似をしてはいけない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011年1月20日 (木)

Hereditary King of Bohemia (2)

 hereditaryを辞書で見ると「遺伝の」「相続の」とある。要するに「親から子に受け継ぐ」ということだ。kingの位を親から子に受け継ぐのは当たり前じゃないか? わざわざhereditary kingなどと言う必要があるか? しかしグーグルで検索してみるとたくさん例がある。
 Kingの位は親から受け継ぐとは限らない。現在のエリザベス女王のあとは息子が継いでチャールズ王になる。これはhereditary kingだ。
 しかし英王室の先祖、ジョージ1世(在位1714―27)はhereditary kingではなかった。グレート・ブリテン王国のアン女王が1714年に亡くなったとき子供がいなかった。仕方がないので親戚筋のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒというドイツ人にジョージ1世として即位してもらった。ゲオルクは英語がほとんど話せなかったので国内政治は臣下に任せることにして、内閣制度ができたのだそうだ。

365pxking_george_i_by_sir_godfrey_k

 ジョージ1世以降は親から子へ王位を受け継いでいて、hereditary kingまたはhereditary queenが続いている。
 日本の場合は天皇をhereditary Emperorとは言わない。天皇の位は125代にわたってhereditaryであることは分かりきっているからだ。
 しかしボヘミアの王位は?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月19日 (水)

Hereditary King of Bohemia(1)

Scan06

Your Majesty had not spoken before I was aware that I was addressing Wilhelm Gottsreich Sigismond von Ormstein, Grand Duke of Cassel- Felstein, and hereditary King of Bohemia.

「ぼくは、陛下がまだひとこともお話にならぬうちから、ボヘミア国歴代の国王でカッセル・ファルシュタイン太公、ヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモンド・フォン・オルムシュタイン陛下であると存じあげておりました」(光文社文庫、日暮雅通訳)

「ボヘミア国歴代の国王」はhereditary King of Bohemiaの訳だろうが、ちょっと変でしょう。
「歴代」が問題だ。歴代将軍といえば、初代徳川家康から15代慶喜までを指すはず。たとえば慶喜一人のことを「徳川家歴代の将軍」とは言わない。斎藤和英大辞典では

れきだい〔歴代〕
〈名〉Successive generations; predecessors
◆歴代の天皇 the successive Emperors―the Imperial predecessors
◆歴代の志を継ぐ to tread in the footsteps of one's predecessors
◆歴代史 a history

 自分ならどう訳すると考えてみた。まず頭に浮かんだのは「累代」という日本語だ。しかしこれはだめだ。歴代も累代も同じだ。延原謙氏はどう訳しているか?

「私は、陛下がまだひと言もお話になりませぬうちから、ヴィルヘルム・ゴットライヒ・ジギスモンド・フォン・オルムシュタイン陛下、カッセル・ファルシュタインの太公、すなわちボヘミア国の今上陛下にあらせられると存じあげておりました」

 なるほど、これでよろしいか。原文にはもう一箇所hereditary kingsと複数になっているところがある。これは歴代や累代でよいはずだ。

To speak plainly, the matter implicates the great House of Ormstein, hereditary kings of Bohemia.

「はっきり申せば、じつはボヘミア国累代の王室オルムシュタイン家にからまる問題なのです」(延原謙訳)
「いや、はっきり申しあげれば、ボヘミア国歴代の王室、オルムシュタイン家に関わる問題なのだ」(日暮雅通訳)

 延原訳の「今上陛下」というのは、もちろんhereditaryを今上と訳したのではない。この単語を無視して訳さなかったので、これが正解だ。
 hereditary=歴代ではない。どういう意味か? 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年1月17日 (月)

モリアーティ教授

2171662199_cd09225f72

He is extremely tall and thin, his forehead domes out in a white curve, and his two eyes are deeply sunken in his head. He is clean-shaven, pale, and ascetic-looking, retaining something of the professor in his features.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月16日 (日)

昔の異種格闘技戦

 昔といえば猪木対アリ戦? あれはリアルタイムで見たから僕には現代だ。
 現代では異種格闘技戦はむつかしい。

101231dynamite08aokinagashima1_2

 青木真也を非難するのは分かるけれど……ノックアウトまたはギブアップで決まる一本勝負では異種格闘技戦は無理。どうしても変になる。
 もっとずっと昔、19世紀のイギリスやアメリカでは、異種格闘技戦が盛んに行われたらしい。
 ボクシング対レスリングではない。
 レスリングに色々な種類があった。カンバーランド・ウェストモーランド、カラーアンドエルボー、グレコローマン、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンなどの各種スタイルがあって専門選手がいたから、五本勝負や三本勝負の異種格闘技戦ができた。一本目はカンバーランド・ウェストモーランド、次はグレコローマン、その次にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンという具合にスタイルを変えてやればよいのだ。
 カンバーランド・ウェストモーランドだと倒れたら負けで寝技なしだ。グレコやキャッチでもピンフォールで勝負がつく。不得意種目で負けても次に取り返せばいい。
 ボクシング対レスリングなどになると「一本目はノックアウトされたけれど、二本目は……」というわけには行かない。猪木対アリになるか、青木対自演乙になるか。
 レスリング対柔術も三本勝負ではほんとうは無理。たとえば柔術家が「腕折り」をしてしまえばどうなるか。ところが前田光世が少なくとも一試合している。
 英語版ウィキペディアを訳した前田光世伝(6)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/6-c309.html

(1905年)12月18日、前田はジョージア州アトランタでサム・マーブルガーとプロレスの試合をした。この試合は三本勝負で、二本は柔道着着用、一本は裸であった。前田は柔道着着用の二本は勝ち、裸の一本は負けた。前田はアラバマ州セルマのYMCAに滞在していると地元紙は報じている。

 百年以上前のジョージア州アトランタの新聞を調べれば、試合内容が詳しく分かるはず。ルールを適当に調整したのだろう。

 アメリカで1875年に行われたカンバーランド・ウェストモーランドとカラー・アンド・エルボーの五本勝負の記事を発掘した人がいる。「グレコローマンとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100918/ この頁の四つめの記事『WRESTLING IN AMERICA 米国のレスリング』である。このサイトはすごい。必見!

Collarwrestling1

カラー・アンド・エルボーは着衣で襟と肘をつかみ合った状態から始めるレスリングだ。http://neohemas.wordpress.com/2009/01/08/rules-for-irish-collar-elbow-wrestling/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月15日 (土)

スネークピットについて(7)

V0_master

 ボクシングでは、たとえば18世紀末にイングランドのチャンピオンだったユダヤ人、ダニエル・メンドーザはThe Art of Boxingという本を書いて広く読まれた。メンドーザをはじめ主要なボクサーについては伝記が書かれ、誰がいつどこでどういう試合をしたかが分かっている。

 柔術では、ロンドン武道会を創立した小泉軍治は英語で柔術の本を何冊か書いた。谷幸雄も上西貞一も、英国人に手伝わせたのだろうが、英語で柔術の本を書いている。小泉軍治には英国人の書いた伝記がある。

 北辰一刀流の千葉周作は上州で馬庭念流と戦ったとき、いつどこで誰と試合してどういうふうに勝ったか詳細な記録を残している。これをもとに司馬遼太郎が『北斗の人』を書いた。

 日本人はプロレスでも記録に残そうとする。ジャイアント馬場の下で前座をやっていたレスラーのインタビューなんてものまで『Gスピリッツ』に載っている。
 英国では階級によってするスポーツが違い、記録に対する態度が違う。
 階級の違いは話す英語に現れる。キャメロン首相の英語とベッカムの英語は違う。サッチャー首相は父親が食料品店主で「中流の下」の出身だったから、英会話学校に通って「中流の上以上の英語」に発音を直したという。
 日本には階級がないから英国の事情が分からないことがある。
 炭鉱労働者の町ウィガンの記録を残したのは、パブリックスクールを出たジョージ・オーウェルである。

 ウィガンの労働者たちは余暇にレスリングをしたが、黙々とトレーニングをして記録を残さなかったし、サブミッション技の起源などには無関心だったようだ。
 武道会で柔術/柔道を学んだ中流以上の階層は「起源」にも関心があった。「日本文化を学ぼう」という気を起こす人もいた。

Mayer3
[外人女性初の黒帯サラ・マイヤー女史、右は八田一朗氏の母親。http://judoinfo.com/mayer.htm]
 
「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」をめぐる混乱には階級の問題がある。ボクシングにはクインズベリー侯爵やコナン・ドイルが関わったが、レスリングにはそういう人がいなかった。プロレスはあくまで労働者階級のスポーツで、記録を残す文化がないのが日本との違いだ。

Charlie_greene_poster_200

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月14日 (金)

スネークピットについて(6)

 英語の問題が大きい。catch-as-catch-canが日本人には分からないし、現代の英米人でも分からない人がいる。
 1908年のロンドン五輪では、グレコローマンとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの二種類のレスリングが行われた。
 国際レスリング連盟(Fédération Internationale des Luttes Associées)は1912年、ストックホルム五輪直前に結成された。ルールはフランス語で、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはlutte libreとなり、再英訳の「フリースタイル・レスリング」が正式名称になった。ところがその後も「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の方を使う人がかなりいた。日本で一昔前まで老人が「活動写真」や「省線」などの言葉を使ったのと同じだ。あるいは講道館柔道のことを「柔術」と呼んだのと同じか。
 OEDにはcatch-as-catch-canはthe Lancashire style of wrestlingだと書いてある。1957年版のエンサイクロペディア・ブリタニカから取った例文がある。

The Lancashire style, generally known as catch-as-catch-can, is practised in Lancashire, throughout Great Britain generally, and is the most popular style in the United States, Canada, Australia, Switzerland.

一般にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンとして知られるランカシャー・スタイルは、ランカシャーと英国全体で行われ、合衆国、カナダ、オーストラリア、スイスでもっとも人気があるスタイルである。

 これはブリタニカ旧版である。現在の版ではcatch-as-catch-can wrestlingの項目に

Formerly known as the Lancashire style in England, catch-as-catch-can became the most popular form of wrestling in Great Britain and the United States and, with slight modifications, was introduced into Olympic and international competition as freestyle wrestling.

かつてはイングランドでカンカシャー・スタイルとして知られていたが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは英国と米国でもっとも人気があるレスリングの形式となり、わずかな修正を加えてフリースタイル・レスリングとしてオリンピックや国際大会に導入された。

 日本人で「省線」を知らない人がいるように、英米人でも「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の本当の意味を知らない人がいるのだ。
 ロイ・ウッド氏のサイトの英語は、辞書や百科辞典に載っている標準英語から逸脱している。http://darrenwoodwigan.co.uk/aowc/page5.html たとえば

The style of wrestling was Lancashire Catch as Catch Can also known as Submission.(どう訳せばよいか?)

 別のものを混同している。英国プロレスには記録を残す文化がなかったからだろう。階級の問題なのだ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月13日 (木)

海音寺潮五郎、コナン・ドイル、山本周五郎

 この不思議な組み合わせはポプラ社の「百年文庫」という新シリーズの一冊『絆』に載っている。

海音寺潮五郎『善助と万助』
コナン・ドイル『五十年後』
山本周五郎『山椿』

 よくこういう組み合わせを考えたものだ。編集者は偉い。しかしコナン・ドイルはいいけれども、海音寺潮五郎と山本周五郎のものはあんまり頂けないと思う。
『善助と万助』は黒田節の侍が主人公である。日本一の槍を福島正則から呑み取ったのが万助だが、この男は酒が強いだけではない。生涯に七十以上の首級を挙げた豪傑だ。しかし女っ気なしである。善助と万助の男同士の絆の話であって、ちょっと寂しい。
 山本周五郎の『山椿』には辟易する。美談である。美談でもいいが時代錯誤じゃないか。もちろん「恋愛は西洋で発明されて明治期に輸入された」は俗説で、小谷野敦を読むべきではあるが……

 しかし『山椿』はいくら何でも「近代的恋愛」に過ぎませんかね。登場人物は本当に侍なのか。
 コナン・ドイルのものも大美談である。けれどもドイルはこれからa tall storyを語りますよ、という信号を出している。延原謙氏の訳文は見事なものである。書き出しは

 大宇宙のどこかに存在する渺たる一個の惑星であるにすぎないこの地球の表面で、とるにも足りぬきわめて些細なでき事がいろんな結果を生み、それがたがいに交錯し、働きあって、無数の思いもよらぬ実をむすぶことを考えてみると、じつに不可思議な感にうたれる。たとえばここに、どんな微弱でもよいから、ひとつの波動を人為的におこさせてみる。それがどこまで伝わってゆき、いかなる結果を招来することか、誰かよく予知しうる者があろうぞ!………………

 読みたくなりますね。
 コナン・ドイルの『五十年後』にプロットが似ていて拮抗しうるのは森鴎外の『じいさんばあさん』である。(三幅対のもう一つは何がよいか?)書き出しは

 文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布竜土町の、今歩兵第三聯隊の兵営になっている地所の南隣で、三河国奥殿の領主松平左七郎乗羨と云う大名の邸の中に、大工が這入って小さい明家を修復している。近所のものが誰の住まいになるのだと云って聞けば、松平の家中の士で、宮重久右衛門と云う人が隠居所を拵えるのだと云うことである。なる程宮重の家の離座敷と云っても好いような明家で、只台所だけが、小さいながらに、別に出来ていたのである。近所のものが、そんなら久右衛門さんが隠居しなさるのだろうかと云って聞けば、そうではないそうである。田舎にいた久右衛門さんの兄きが出て来て這入るのだと云うことである。
 四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬ爺いさんが小さい荷物を持って、宮重方に著いて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭をしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構な拵の両刀を挿した姿がなかなか立派である。どう見ても田舎者らしくはない。
 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆あさんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷に結っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。
 この翁媼二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若しあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。中には、あれは夫婦ではあるまい、兄妹だろうと云うものもあった。その理由とする所を聞けば、あの二人は隔てのない中に礼儀があって、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎているようだと云うのであった。

 この話も大変な美談である。しかし若いころの刃傷沙汰のために「じいさんばあさん」になるのだ。江戸期でも侍は潜在的には殺人専門家だった。その上に鴎外の文章があるから美談が成り立つのだ。
 1948年、戦争抛棄の新憲法ができて間もなく書いた『山椿』では登場人物がまるでサラリーマンだから困るのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月12日 (水)

スネークピットについて(5)

 英国のプロレス関係者は歴史に関心がないようだ。ウィガンにアスプル・オリンピック・レスリング・クラブを設立したロイ・ウッド氏が同クラブの「歴史」を書いている。http://darrenwoodwigan.co.uk/aowc/page5.html
 ところがこれがまことにお粗末で、歴史の名に値しない。何年に何があったか、年号が一切書いてない。大先輩のビリー・ライリーが何年に生まれ何年にレスリングを始めたかなど、事跡を書き残しておくのが後継者の義務ではないか。ウィガンのレスリングは最近のプロレスと違って「本物のレスリングREAL WRESTLING」だったとロイ・ウッド氏は言う。それなら本物のレスリングがどのように発達してきたか探求しようと思わないのか。しかし、これは日本人の発想なのだろう。
 歴史については日本人が真面目に考えた。Gスピリッツに那嵯氏が書いた記事を読めば1950年代初頭のプロレス全英ライト級チャンピオンの名前まで分かるのだから大したものだ。
 ライターだけではない。日本ではプロレスラー自身が歴史を考えている。

Fuji97

 藤波辰巳選手は1997年にランカシャーで「温故知新」のプロレス・トーナメントを開催した。(上の写真のあったロイ・ウッド氏のサイトは消滅。ウッド氏は「私は何度もニュージャパンプロレスに教えに行った。ミスタ・フジナミは素晴らしい云々」と取り留めのない文章を書いていただけなので詳細は不明)
 藤波選手は2005年にはアメリカの有名なアマチュア・レスラー、ダン・ゲーブル(1972年ミュンヘン五輪金メダリスト)と協力して、CATCH: THE HOLD NOT TAKENという60分のドキュメンタリー・フィルムを製作した。http://en.wikipedia.org/wiki/Catch:_The_Hold_Not_Taken
 これは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=最強のレスリング」説にもとづいたプロレス伝説の映像化であるらしい。アマゾンで調べてみたがDVDは出ていないようだ。Amazon.uk.にもない。那嵯氏といい藤波選手といい日本人は偉いものだ。ただ言語の壁があるのが……Dynamic_resize

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年1月11日 (火)

スネークピットについて(4)

 1951年の初頭にベルギー人レスラーのカール・イスタス(ゴッチ)はウィガンにあるスネークピット・ジムを訪ねた。このときビリー・ライリーはすでに50歳を越えていたが、ジムでは多くの現役レスラーが練習していた。
 ヘビー級のゴッチから見れば小柄なレスラーが多かった。しかしスパーリングをしてみると誰もが強く、ゴッチは簡単にタップを奪われるのだった。ライト級の選手にもタップを奪われた。
――というのは、私が調べたのではなくて、那嵯涼介氏の研究による。GスピリッツVOL8の『ベルギーのカレル・イスタス――カール・ゴッチの欧州時代――』(p.50~59)にもっと詳しく書いてある。
 ゴッチは1948年のロンドン五輪で、グレコローマンとフリースタイルでライトヘビー級(87kg以下)に出場したが予選で敗退した。
 ゴッチはプロレスに転向し、1950年10月にアントワープでデビュー戦を行った。
「この試合はリングもロープもなく、アマレス用のマットが使用されたという。ルールもアマレスのものが採用された。」(GスピリッツVOL8, p.63)

Karl_gotch8

 1951年の初頭にゴッチがスネークピットに来たとき、彼はグレコローマンとフリースタイルの戦い方を知っていた。しかし関節を極めてタップを奪うという戦い方は知らなかったようだ。ゴッチはスネークピットでこの技術を習得しようとした。
 ダブルリストロックのかけ方などはここで学んだのだろうか。ベルギーにはサブミッション・レスリングはなかったようだ。(那嵯氏は「サブミッション・レスリング」という言葉を使っていない。別の言葉を使っていて、それは「違う」のだが、ここでは議論を蒸し返さない。)
 このサブミッション・レスリングの起源は何か、などはゴッチもロビンソンもビリー・ライリーも考えなかったようだ。いくらかでも歴史に関心があれば、1896年生まれのビリー・ライリーがまだ子供だった1900年代に谷幸雄という柔術家が活躍したことを思い出したはずだ。谷幸雄は「柔術着着用、サブミッションあり」では不敗で、ランカシャーのレスラーにも勝っている。
 ヘルス&ストレングス誌1903年12月号の記事(柔道か柔術か(54))http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/54-5da9.html

「器用な日本人レスラーのタニ・ユキオは、最近リーズのティボリ・ミュージックホールに出ている。自分と15分間戦うことができれば誰にでも20ポンド進呈するという触れ込みであるから、ランカシャーとヨークシャーの最強のレスラーたちが挑戦しているが、まだ誰も20ポンドを獲得した者はいない。英国のレスリングとしてはジャップのやり方は邪道だと評する向きもある。有名なランカシャーのレスラー、アクトンも7分半で敗れた。」

 どういう技を使ったのかは、スポーツマン紙1907年12月10日号

「今週のチェルシー・パレスのスターは柔術家のタニ・ユキオである。彼は自分に勝てば100ポンド、15分間ギブアップしなければ20ポンドの賞金を出すという。最初に挑戦したのはフルハムのフォスター・スカンチャで、体重147ポンドの有名なレスラーである。彼は2分23秒、アームロックで敗れた。バッターシーのトム・ピアスが続きなかなか健闘したが、5分38秒、アーム・アンド・レッグ・ホールドで敗れた。続いて、アルフ・ジェームズが3分27秒戦い、地元レスラーのビル・ウィリアムズは8分11秒も戦った。今夜はジャック・マッデンがタニと雌雄を決する。」

 20世紀の初めに英国のレスラーたちは「柔術、柔術と大騒ぎしているが、サブミッションなんてのは俺たちのスタイルにも昔からある技術なんだぜ」(GスピリッツVOL9, p.55、那嵯氏の記事)と言っただろうか? サブミッション技としてのアームロックやアーム・アンド・レッグ・ホールドは谷幸雄が初めて披露したのではないだろうか。レスリングにも同じような技があったのならば、そう簡単に極められなかったはずだ。

 谷幸雄の持ち込んだ柔術は二通りの方向で英国に広まった。
 1918年、小泉軍治がロンドン武道会を設立し谷幸雄を師範にして柔術を教え始めた。これは1948年の英国柔道協会設立につながる。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/2-7e00.html 
 英国で柔術/柔道を正式に学んだのは中流以上の階層である。柔道着購入やレッスン料の支払いはかなり費用がかさむ。女まで柔術をやるというのも中流以上の発想である。(スネークピットでは、子供はだめ、女もだめであった。)

Mayer4

 労働者階級のレスラーたちはどうしたか?
「ジャップの柔術技はよく効くなあ。俺たちもやってみようぜ。別に柔術ジャケットなんか着ないでいい。裸でもアームロックはできるはずだ」
 柔術が取り入れられ、やがて1930年、英国初の「オールイン」の興行がロンドンで行われた。

「オールイン」とは、要するに当時ひろく行われていた三つのレスリング・スタイル、すなわち柔術(柔道)、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、グレコローマンを混ぜ合わせたものである。従来よりも刺激的で観客受けする新しいレスリングを作ることが目的であった。二人の巨人がマット上で組み合って何時間も戦い続けるのは時代後れになったのだ。レスリングは組織的なものになった。レスリング監理委員会ができ、ラウンド制が導入され、勝負は2フォールまたは2サブミッションまたはノックアウトで決められた。(オールインについて http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-8e47.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 9日 (日)

スネークピットについて(3)

 私は那嵯涼介氏の記事が「高級だ」と書いたので、「正しい」というのではない。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味に関する限り、正しくなく間違っている。しかしGスピリッツの記事は読み応えがある。「ジャーマンスープレックスはドイツ人カール・ゴッチが発明した」などと書いてある英語の低級な記事とは比べものにならない。
 ビリー・ライリーとスネークピット・ジムについて、GスピリッツのVOL8とVOL9を読み直してみよう。VOL8のp.62から10ページを使って『ウィガンにあった黒い小屋――"蛇の穴"ビリー・ライレー・ジムの実像――』という那嵯涼介氏の力作が載っている。 
 那嵯氏の記事によれば、

「ライレーは1896年にウィガン郊外のリーという町でアイルランド人の両親から生まれた。母親の反対を押し切りレスリングを始めたのは、彼が10歳前後のころであったと思われる。鋳型工の見習いをしながらレスリングジムに通い、大人の炭鉱夫に混じって練習しているライレーはすぐに頭角を現し始める。
 1910年に若干14歳で初めてプロとして賞金マッチを行い、19年には100ポンドの賞金を賭けて、地元ウィガンのスプリングフィールド公園でボルトンのビリー・ムーアズと対戦、大英帝国ミドル級タイトルを獲得した。この日は4000人の観客を集めたという。」(65頁)

「40年代初頭にジムを開設したビリー・ライレーは、"初代師範代"としてウィガンから程近い町ボルトン出身のジョージ・グレゴリーを迎える。グレゴリーはオール・イン・レスリング興行の初期からリングに上がっており、ヘビー級の体軀ながらキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを高いレベルで習得していたレスラーであった。」(66頁)

 ビリー・ライリーの生年は1896年であった。ウィキペディアに書き加えるべきだろう。
 しかし、1940年代初頭にジムを開設した? 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドヘ侵攻して第2次世界大戦が始まった。このときビリー・ライリーはもう四十歳を越えていたから徴兵はされなかったのだろう。しかし40年代初頭にはまだドイツ軍がドーバー海峡をわたって上陸してくる恐れがあった。プロレスのジムなんか開いている場合か。これはウィキペディアにあるように1950年代初頭の開設の方が正しいのではないか。
 ビリー・ライリーは1910年に14歳で初の賞金マッチを行い、1919年には100ポンド賞金マッチに勝った。この賞金マッチがどういう試合だったか記述はない。
 このころの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの賞金試合」がどういうものだったかは、当ブログにいくらか書いている。

Greatgama4

 1910年8月8日、グレート・ガマ対ベンジャミン・ローラーの200ポンド懸賞試合が行われた。この試合はガマが1分40秒と9分10秒にピンフォールを奪って楽勝した。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/3-06d5.html
 同年9月10日にグレート・ガマ対ズビスコの250ポンド懸賞試合が行われた。この試合は亀になったズビスコにガマが張り付いたまま膠着して2時間35分に引き分けに終わった。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/4-bcff.html
 これは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の試合であったが、現在のフリースタイルとほぼ同じルールで、サブミッションなしであった。違いは時間制限がなかったことだけだ。だからなかなか勝負がつかず大凡戦になって非難された。

Yukiotani_2

 1904年4月18日には、谷幸雄対ジム・メラーのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの100ポンド賞金試合が行われた。いつもは柔術家としてサブミッションを使ってレスラーに楽勝している谷がこの試合ではキャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルのルールで戦って勝ち、絶賛された。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/2-519a.html

 ビリー・ライリーの1910年と1919年の賞金マッチがこれらの試合とは異なって「サブミッションあり」だったとは考えにくい。また那嵯涼介氏もそうは書いていない。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 8日 (土)

旅順の陥落

Ryojun_2

V・I・レーニン 1905年1月14日

 「旅順は降伏した。
 この事件は、現代史上のもっとも大きな事件の一つである。きのう電報で文明世界のすみずみにつたえられたこの数語は、圧倒的な印象、巨大で恐ろしい破局、言葉ではつたえがたい不幸の印象、を呼びおこす。強大な一帝国の精神的力が地に落ち、まだしかるべき発展を遂げることができなかった若い一人種の威信がうすれつつある。一個の政治体制全体に判決がくだされ、長々しい野心の連鎖が中断され、大きな努力がうちくだかれつつある。もちろん、旅順の陥落はすでにはやくから予見されていたし、人々はすでにはやくから口さきでごまかし、用意の文句で自分をなぐさめてきた。しかし、目に見えて明らかな、なまの事実が、因襲的な虚偽の全体をうちくだいている。いまでは、生じた崩壊の意義を緩和することはできない。ここにはじめて旧世界は取りかえしのつかない敗北ではずかしめられたが、この敗北は、あれほども神秘につつまれた、見たところ少年のように若い、きのう文明へ呼びだされたばかりの新世界によって、くわえられたのである」。
 ヨーロッパのある大ブルジョア新聞は、この事件の直接の印象のもとに、こう書いている。ところで、ここでみとめなければならないのは、この新聞はヨーロッパのブルジョアジー全体の気分をあざやかに表現することに成功したにとどまらないということである。新しいブルジョア世界の成功に不安を感じ、長いあいだヨーロッパの反動のもっとも頼りになる砦とみなされてきたロシアの軍事力の崩壊に肝をつぶした、旧世界のブルジョアジーの真の階級的本能が、この新聞の口を通じてかたっているのである。戦争に参加していないヨーロッパのブルジョアジーさえもが、やはりはずかしめられ圧倒されたように感じているのは、ふしぎなことではない。彼らは、ロシアの精神的力とヨーロッパの憲兵の軍事力とを同じものと見ることに、それほど慣れていたのである。彼らにとっては、若いロシア人種の威信は、現代の「秩序」をかたくまもっている、ゆるぎのない強力なツァーリ権力の威信と、切りはなしえないようにむすびついていた。だから、支配者、命令者たるロシアの破局が、ヨーロッパのブルジョアジー全体に「恐ろしいこと」とおもわれるのも、ふしぎなことではない。この破局は、全世界の資本主義的発展が異常に促進されること、歴史が促進されることを意味するが、ブルジョアジーは、このような促進がプロレタリアートの社会革命を促進するものであることを、非常によく、あまりにもよく知っており、苦い経験によって知っているからである。西ヨーロッパのブルジョアジーは、長いあいだの停滞の空気のなかで、「強大な帝国」の庇護のもとで、大いに身の安全を感じていた。ところがとつぜん、ある「神秘につつまれた、少年のように若い」力が、大胆にもこの停滞を打破し、この支柱を粉砕するのである。
  そうだ、ヨーロッパのブルジョアジーには、おそれるだけの理由がある。だが、プロレタリアートには、喜んでよい理由がある。われわれのもっとも兇悪な敵の破局は、ロシアの自由が近づいていることを意味するばかりではない。それは、ヨーロッパのプロレタリアートの新しい革命的高揚をも予告しているのである。
 しかし、なぜ、そしてどの程度に、旅順の陥落は真に歴史的な破局なのか?
 まず第一に目につくのは、戦争の経過におけるこの事件の意義である。日本人にとっての戦争のおもな目的は達成された。進歩的な、すすんだアジアは、おくれた、反動的なヨーロッパに、取りかえしのつかない打撃をあたえた。一〇年まえ、ロシアを先頭とするこの反動的ヨーロッパは、若い日本が中国を壊滅させたことに不安をいだき、日本から勝利の最良の果実を奪いとるために結束した。ヨーロッパは、旧世界の既成の諸関係と特権、その優先権、アジアの諸民族を搾取するという、長い年月によって神聖化された古来の権利を、まもった。日本が旅順をとりもどしたことは、反動的ヨーロッパ全体にくわえられた打撃である。ロシアは六年のあいだ旅順を領有し、幾億、幾十億ルーブリを費して、戦略的な鉄道をしき、港をつくり、新しい都市を建設し、要塞を強化した。 この要塞は、ロシアに買収され、ロシアに奴隷的につかえているヨーロッパの多数の新聞がみな、難攻不落だとしてほめたたえたものである。軍事評論家たちは、旅順の力は六つのセヴァストーポリに等しいと言っている。とごろが、イギリスとフランスがいっしょになってセヴァストーポリ一つの占領にまる一年もかかったのに、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、八ヵ月でこの要塞を占領したのである。この軍事的打撃は取りかえしのつかないものである。制海権の問題も――これはこんどの戦争における主要で根本的な問題なのだが――決定された。はじめのうちは日本の艦隊にまさるともけっしておとらなかったロシアの太平洋艦隊は、決定的に壊滅させられた。艦隊の作戦基地そのものが奪いとられ、ロジヂェストヴェンスキー艦隊は、あらたに数百万ルーブリを空費したのち、イギリスの漁船にたいするいかめしい戦艦の大勝利ののちに、すごすごとあとへひきかえすよりほかに仕方がなかったのである。艦隊だけでロシアのこうむった物質的損失だけでも、三億ルーブリの額に達するとみられている。しかし、さらに重大なのは、一万人もの優秀な海兵隊を失ったこと、一つの陸上軍をそっくり失ったことである。多くのヨーロッパの新聞は、いまではこれらの損失の意義をかるく見ることにつとめ、そのさい、こっけいなまでに熱を入れ、あげくのはては、クロパトキンは「重荷がおりた」、旅順についての配慮を「免除された]とまで言っている! ロシア軍は、一軍全体をも免除されたのだ。捕虜の数は、イギリスの最近の資料によれば、四万八千人に達し、さらに幾千人かが、金州付近の戦闘と要塞そのものの付近の戦闘でたおれている。日本軍は、遼東半島全体を完全に占領し、朝鮮、中国、満州に圧力をくわえるための測りしれない重要性をもつ拠点を獲得しようとしている。それはまた、八万―一○万の歴戦の一軍、しかも巨大な車砲力をもった一軍の手をあげて自由にクロパトキンとたたかいうるようにした。そして、この重砲力が沙河に到着すると、日本軍はロシア軍主力にたいして圧倒的に優勢となるであろう。 
 そうだ。専制はよわめられた。いちばん信じようとしない人々までが、革命がおこることを信じはじめている。人々が全般的に革命を信じることは、すでに革命の始まりである。それの続きについては、政府自身がその軍事的冒険によって、配慮している。そして、重大な革命的攻撃を支持しそれを拡大させることについては、ロシアのプロレタリアートが配慮するであろう。
 外国新聞の報道によれば、専制政府は、ぜがひでも戦争を継続することにきめ、クロパトキンに二〇万人の軍隊をおくることに決したといわれる。戦争がまだ長くつづくことは大いにありうることだが、しかし勝利の見込みがないことはすでに明らかである。そして、およそ戦争が長びけば、ロシアの人民が専制のくびきをなおしのんでいることからこうむる測りしれない困苦は、つよまるばかりであろう。いままででも日本軍は、どの大会戦のあとでも、自己の軍事力をロシア軍よりすみやかに、豊富に補強してきた。ところで、完全に制海権をにぎり、ロシアの一軍を全滅させた今では、日本軍はロシア軍よりも二倍も大きな増援軍をおくりうるであろう。日本軍の優秀な砲兵力の全量は、要塞戦につかわれていたにもかかわらず、日本軍はいままでロシアの将軍たちをつづけざまにうちやぶってきた。日本軍はいまやその兵力の完全な集中をなしとげたが、ロシア軍はサハリン〔樺太〕ばかりでなく、ウラヂヴォストックにも気をくばらなければならない。日本軍は、満州の最良の、もっとも人口の多い部分を占領したのであって、彼らはここで、征服した国の資材で、しかも中国の援助を得て、軍隊を給養することができる。ところが、ロシア軍は、ますますロシアからはこばれてくる糧食だけにたよらなければならなくなり、隊をこれ以上増強することは、十分な量の糧食の輸送が不可能なため、クロパトキンにとってまもなく不可能となるであろう。
 しかし、専制がこうむった軍事的崩壊は、わが国の政治制度全体の破滅の兆候として、よりいっそう大きな意義を得ている。戦争が雇い兵か、もしくは人民からなかば切りはなされたカストの代表によって行われていた時期は、またとかえらぬ過去となった。戦争は、いまでは国民によって行われる。――ネミロヴィチ-ダンチェンコの証言によれば、クロパトキンでさえ、この真理が単なる飾り文句でないことを、いまでは理解しはじめているという。戦争は、いまでは国民によって行われるのであり、だから、現在では戦争のつぎのような大きな特性がとくにはっきりと現れてくる。それは、いままではごく少数の自覚した人々にしかわかっていなかった、人民と政府との不一致を、数千万の人々の月のまえに現実に暴露するということである。ロシアのすべての進歩的な人々が、ロシアの社会民主党が、ロシアのプロレタリアートが、専制にくわえている批判は、いまや日本の武器の批判によって裏書きされている。しかも、その裏書きの仕方は、専制がなにを意味するかを知らない人々でさえが、また、このことを知っていながらしかも全心をうちこんで専制をまもろうとしている人々でさえが、専制のもとで生きることの不可能なことをますます感じつつあるほどのものである。人民が実際に自分の血で専制の勘定を支払ってやらなければならなくなるやいなや、専制が社会発展全体の利益や全人民(ひとにぎりの官吏とかお歴々以外の)の利益と両立しないことが目に見えて明らかになった。専制は、ばかげた犯罪的な植民地冒険によって袋小路にはいりこんだのであって、この袋小路からは、人民自身だけが、しかもツァーリズムの破壊という代価をはらってはじめて、脱げだすことができるのである。
 旅順の陥落は、ツァーリズムのもろもろの罪悪にもっとも大きな歴史的総決算の一つをつけるものである。これらの罪悪は、戦争がはじまった当初から表面に出はじめたが、いまやますます広範に表面に出て、ますますおさえがたくなるであろう。わが亡きのちに洪水きたらばきたれ!――大小のアレクセーエフたちはみな、洪水がほんとうにやってくるとはおもいもしなければ信じもしないで、こう論じていた。だが、将軍や軍司令官たちが無能でくだらない連中であることがわかった。一九〇四年の戦役の全史は、イギリスのある軍事評論家の権威ある証言(『タイムス』紙上の)によれば、「陸海戦略の初歩的原則を犯罪的なやり方でないがしろにしたもの」であった。 文武の官僚は、農奴制度の時代とまったく同じ、ごくつぶしの汚吏であることがわかった。将校は、無教育で、未熟で、訓練を欠き、兵士との緊密な結びつきをもたず、彼らの信頼を得ていないことがわかった。農民大衆の蒙昧、無知、無学、萎縮は、近代技術が要求すると同様の、高い質の人的材料を必然的に要求する近代戦において、進歩的な一国民とぶつかったとき、おそろしいほどあからさまに現れた。創意に富んだ意識的な兵士や水兵なしには、近代戦での成功は不可能である。小口径速射銃と機関銃の時代、艦船が複雑な技術的構造をもち、陸上の戦闘に散開隊形がとられる時代には、どんな忍耐強さも、どんな肉体力も、大衆闘争のどんな群衆心理や結束も、優越をあたえることはできない。専制ロシアの軍事的威力は見かけだおしのものであることがわかった。ッァーリズムは、最新の要求に応じうる近代的な軍事組織にとってじゃまものであることがわかった。――しかも、この軍事こそは、ツァーリズムが全心をうちこんできたものであり、なによりも誇りとしてきたものであり、また、人民のどんな反対をもおしきって測りしれない犠牲をはらってきたものである。白く塗りたる墓――専制は、対外防衛の分野で、すなわち、それにもっとも縁が深くて、もっとも身近な、いってみればその専門の分野で、まさにこういうものだったのである。もろもろの事件は、豪華な軍艦の購入と建造に何億ルーブリという金が投じられるのを見てわらって、現代の艦船をあやつる能力がないのだから、また、実際知識をもって軍事技術の最新の改善を利用することのできる人間がいないのだから、これらの出費は無益である、と言っていた外国人たちが正しかったことを確証した。艦隊も、要塞も、野戦堡塁も、陸上軍も、みな時代おくれでなんの役にもたたないことがわかった。
 国の軍事組織と、国の経済体制および文化制度とのあいだの関連が、現在ほど緊密であったことはかつてない。だから、軍事的崩壊は深刻な政治的危機の始まりとならずにはおかなかった。すすんだ国とおくれた国との戦争は、すでにいくたびか歴史上にあったように、こんども偉大な革命的役割を演じた。そして、戦争――あらゆる階級支配一般の必然的で取りのぞきえない同伴物――の仮借することのない敵である自覚したプロレタリアートは、専制を壊滅させた日本のブルジョアジーがはたしているこの革命的任務に、目をふさぐことはできない。プロレタリアートは、あらゆるブルジョアジーとブルジョア制度のあらゆる現れとに敵意をもつが、しかし、このように敵意をもつからといって、プロレタリアートは、ブルジョアジーの歴史的に進歩的な代表者と反動的な代表者とを区別する義務をまぬかれはしない。だから、革命的な国際社会民主主義のもっとも一貫した断固たる代表者であるフランスのジュール・ゲードとイギリスのハインドマンとが、ロシアの専制を粉砕しつつある日本にたいする同情を率直に表明したことは、まったく当然である。もちろん、わがロシアでは、この問題でも思想の混乱をしめした社会主義者があった。『レヴォリュツィオンナヤ・ロシア』は、ゲードとハインドマンをしかりつけて、社会主義者が支持できるのは労働者の日本、人民の日本だけであって、ブルジョアジーの日本ではない、と声明した。この叱責がばかげているのは、ちょうど、保護関税派のブルジョアジーとくらべて自由貿易派のブルジョアジーのほうが進歩的であるとみとめたからといって、社会主義者を非難しようとするのと同じである。ゲードとハインドマンは、日本のブルジョアジーと日本の帝国主義を擁護したのではない。彼らは、二つのブルジョア国の衝突の問題で、両国のうちの一目の歴史的に進歩的な役割をただしく指摘したのである。「社会革命派《エス・エル》」の思想の混乱は、もちろん、わが国の急進的インテリゲンツィアに階級的見地と史的唯物論とが理解できないことの避けられない結果であった。新『イスクラ』も混乱をしめさずにいることはできなかった。同紙は、はじめのうちは、ぜがひでも平和だという空文句をすくなからずしゃべっていた。のちに、平和一般のためのえせ社会主義的な運動は、進歩的ブルジョアジーと反動的ブルジョアジーとのどちらかの利益にかならず奉仕することになるのを、ジョレースがはっきりとしめすというと、この新聞は「前言を訂正」しようともがいた。いまではこの新聞はついに、日本ブルジョアジーの勝利を「あてこむ」(!!?)ことは時宜をえたものでないとか、戦争は、それが専制の勝利におわろうと敗北におわろうと、「それにはかかわりなく」災厄であるとかいう、月なみの議論を吐くまでになっている。
 そうではないのだ。ロシアの自由の大業とロシア(および全世界)のプロレタリアートの社会主義のための闘争の大業は、専制の軍事的敗北に大いにかかっている。この大業は、ヨーロッパの現秩序守護者のすべてに恐怖の念をあたえている軍事的崩壊から、大きな利益を得た。革命的プロレタリアートは、戦争反対の煽動を倦むことなく行わなければならないが、そのさい、一般に階級支配が存続しているかぎり戦争は除去されえないことを、つねに記憶していなければならない。平和にかんするジョレース流の月なみ文句は、被抑圧階級には役にたたない。被抑圧階級は、二つのブルジョア民族のあいだのブルジョア的な戦争にたいしては責任がなく、あらゆるブルジョアジー一般を転覆するためにあらゆることを行っており、そして、「平和な」資本主義的搾取の時期にも人民の災厄が限りなく大きいことを知っている。しかし、自由競争に反対して戦争しながらも、われわれは、それが半農奴制度とくらべては、進歩的であることをわすれることはできない。あらゆる戦争とあらゆるブルジョアジーに反対して闘争しながらも、われわれは、煽動を行うさいには、進歩的ブルジョアジーと農奴制的専制とを厳格に区別しなければならず、また、ロシアの労働者が不本意ながらも参加者となっている歴史的戦争の偉大な革命的役割につねに注意しなければならない。
 古いブルジョア世界と新しいブルジョア世界との戦争に転化したこの植民地戦争をはじめたのは、ロシアの人民ではなく、ロシアの専制である。恥すべき敗北に陥ったのは、ロシアの人民ではなく、専制である。ロシアの人民は専制の敗北によって利益を得た。旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。戦争はまだけっしておわっていないが、戦争が継続すれば、それだけロシアの人民のなかでの動揺と憤激はかぎりなく拡大し、新しい偉大な戦争、専制にたいする人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいてくる。ヨーロッパのもっともおちついて冷静なブルジョアジーさえもがひどく狼狽しているのも、理由のないことではない。彼らは、自由主義にたいするロシアの専制の譲歩には心から同感してはいるが、ヨーロッパ革命の序幕としてのロシア革命を火よりもおそれているのである。
 ドイツ・ブルジョアジーのこうした冷静な機関紙の一つは〔『フォシシェ・ツァイトゥング』、 一九○五年一月六日〕つぎのように書いている。「ロシアに革命が爆発するなどということはまったくありえない事がらだ、という意見が、かたく根をおろしていた。人々はこの意見を、ありとあらゆる論拠で擁護している。ロシアの農民の不動性とか、彼らはツァーリを信仰し、僧侶に依存しているとかいうことが、引合いに出される。不平分子のなかの極端な分子は一にぎりの人間にすぎず、盲動(小さな燃えあがり)とテロリスト的な暗殺を組織することはできても、全般的な蜂起を呼びおこすことはけっしてできないと人々は言う。不平分子の広範な大衆には、組織と武器がたりず、そしてこれが主要なことだが、危険をおかしてやってみる決意が欠けている、とわれわれは聞かされる。ロシアのインテリゲンツィアは、普通ほぼ三〇歳ぐらいまで革命的気分をもっているだけで、そのあとは、官職の居心地のよい巣にぐあいよく身をおちつけてしまう。こうして、熱狂家の大部分は平凡な役人への転化をなしとげるのである」。しかし――と、この新聞はつづけて言う、いまでは、いくたの兆候が一大変化を証拠だてている。ロシアの革命についてかたっているのは、もはや革命家ばかりではなく、〔イェ・エヌ・〕トルベツコイ公爵のような――内務大臣あての彼の手紙は、いま外国のあらゆる新聞に転戦されている――、「熱中」などとはまったく縁のない、秩序の堅実な支柱でさえも、それをかたっている。「ロシアで革命が懸念されているのには、あきらかに事実的な根拠がある。なるほど、ロシアの農民が熊手を手にとって憲法をたたかいとりにでかけるなどということは、だれも考えていない。しかし、革命ははたして農村でおこるのだろうか? 現代史における革命運動の担い手には、ずっとまえから大都市がなっている。ところが、ロシアでは、南から北まで、東から西まで、ほかならぬ都市に動揺がおこっている。この結末がどうなるかについては、だれも予言しようとするものはないが、しかし、ロシアでは革命はありえないと考えている人々の数か日一日と減少しつつあることは、疑いない事実である。そして、もし重大な革命的爆発があとにつづいてやってくるなら、極東の戦争でよわめられた専制がそれを制御できるかどうかは、まったく疑わしい」。
 そうだ。専制はよわめられた。いちばん信じようとしない人々までが、革命がおこることを信じはじめている。人々が全般的に革命を信じることは、すでに革命の始まりである。それの続きについては、政府自身がその軍事的冒険によって、配慮している。そして、重大な革命的攻撃を支持しそれを拡大させることについては、ロシアのプロレタリアートが配慮するであろう。

Lenin

http://www.geocities.jp/meltext001/lenin/l08/l08-033.htmlより

http://www.geocities.jp/meltext001/ で『共産党宣言』『国家と革命』などが学習できます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 7日 (金)

アンダマン島の土人

Andamanese

『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』
(延原謙訳)

Mapandamanislands

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 6日 (木)

スネークピットについて(2)

 英語版ウィキペディアでBilly Rileyを見てみよう。http://en.wikipedia.org/wiki/Billy_Riley

 ビリー・ライリーはキャッチ・レスリングの実践者である。彼は英国人で、イングランドのグレートマンチェスター州ウィガンにある「スネークピット」と呼ばれるトレーニング・スクールでキャッチ・レスリングの技を教えた。
 
 ビリー・ライリーはウィガンでキャッチ・レスリングを教えようと決意した。彼は1950年代にウィガンのヴァイン・ストリートに狭い土地を買った。そのジムはスネークピットと呼ばれた。スネークピットのルールは単純であった。子供はだめ、もちろん女もだめであった。トイレットのような贅沢な設備はなかった。ビリーはコンディションがよくない者や痛みに耐えられない者は相手にしなかった。
 まもなくこのジムは世界中でもっともタフなキャッチ・レスラーを生み出すことで人気が出た。カール・ゴッチ(イスタズ)、バート・アシラッティ、メルヴィン・リス(ボブ・ロビンソン)、ジョン・フォレー、ジャック・デンプシー(トミー・ムーア)、ビリー・ジョイス(ボブ・ロビンソン)、ビル・ロビンソン、ビリー・ライリーの息子であるアーニー・ライリーなどがスネークピットでトレーニングした。
 1970年代になると新しい「ショー・レスラー」連中にとってはスネークピットは邪魔になってきた。またライリーのラフなスタイルも需要が減ってきた。スネークピットは荒廃し忘れられた。(以下略)

 日本語版よりよほどひどい。原文はかなり知的水準の低い幼稚な英語である。
 同じスネークピットを扱った文章でも、たとえば那嵯涼介氏が『Gスピリッツ』誌などに書いたものなどはこれよりはるかに高級である。英訳して読ませてやれば向うのプロレスファンはびっくりするだろう。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 5日 (水)

スネークピットについて(1)

 ウィキペディアの「ビリー・ライレージム」を見てみよう。

ビリー・ライレージム(英: Billy Riley Gym)は、イギリス・ランカシャー地方のウィガンにかつて実在し、幾多の名レスラーを輩出したランカシャースタイルレスリングのジム。
通称 Snake pit(蛇の穴)。

Riley

ビリー・ライレージムは、1950年代初頭にビリー・ライレーが創立した。当時のウイガンは炭鉱の町として栄え、ランカシャーレスリング(通称キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、シュートレスリング)の盛んな土地柄で、力自慢の炭鉱夫達はランカシャーレスリングで「ストリートファイト賞金マッチ」に出場し猛者として名が知れていたビリー・ライレーにこぞって挑戦した。
ビリー・ライレーは、そんな大柄で腕自慢の挑戦者達を次々と打ち負かし大金を手にし、母親に家をプレゼントしたうえジムまで建ててしまったという。息子のアーニー・ライレー、ジャック・デンプシー、ジョン・ウォリー、ジョー・ロビンソン(ビリー・ジョイスの兄)などが練習し、全盛期には狭いジムながら30人程のレスラー達が激しいトレーニングを積んでいた。
1951年頃、カール・ゴッチが入門し、以後3年間程トレーニングを積む。ゴッチは最初のスパーリングで師範代ビリー・ジョイスにわずか1分程でサブミッションを極められてしまったことから、入門を決意したという。
ビリー・ライレージムの出身者は「シュート・レスリング」を習得した者として知られ、倒されてもSnake(蛇)のようにしつこく攻撃をかけ続けるファイトスタイルで、また当時のウイガンには、いたる所にPit(炭鉱の穴)があった事から「Snake pit」として恐れられるようになった。しかし、次第にトレーニング・マシンを使ったトレーニングジムが主流となり、またフリースタイル・レスリングのルールが整備されサブミッションが禁止されていった事により、伝統的で危険なトレーニングのビリー・ライレージムはレスラー達に敬遠されるようになり徐々に衰退した。
そして1977年に創設者のビリー・ライレーが死去するとジムはさらに衰退した。しかし、1989年、ヨークシャー・テレビジョンがドキュメンタリー番組「FIRST TUESDAY: The WIGAN HOLD」を放映すると、これがきっかけとなりイギリススポーツ評議会がランカシャーレスリングへの支援を表明。1990年、火災によりビリーライレージムは焼失してしまうが、以後ライレー・ジムの出身者であるロイ・ウッドが当地にアスプル・オリンピック・レスリング・クラブを設立し、後進の指導に当たっている。(以下略)

・アスプル・オリンピック・レスリング・クラブについてはhttp://darrenwoodwigan.co.uk/aowc/page5.html

・Rileyの教科書的な発音はライリーである。ビル・ロビンソンやロイ・ウッドなどはライレーと発音したのかも知れない。

 しかしビリー・ライリーの没年は1977年であるとして生まれたのが何年かも分からないのか?
 スネークピット・ジムの設立年が「1950年代初頭」と曖昧なのはどういうことか? 
 小泉軍治がロンドン武道会を設立したのは1918年1月26日と日付まで分かっている。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/1-f616.html
「講道館は明治10年代に設立された」「ボクシングのクインズベリー・ルールは1860年代に制定された」「北辰一刀流は幕末にできた」などという記述が通用するだろうか?
 
「フリースタイル・レスリングのルールが整備されサブミッションが禁止されていった事により……」というのは何年ごろのことか? 英国では1908年にロンドン五輪とプロレスの「世界チャンピオン決定戦」が開かれた。つまりプロとアマチュアが同じ「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル」のレスリングをしていた。これは「サブミッションなし」だった。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/67-00fd.html
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/68-10b1.html
 
 この執筆者は歴史の書き方を知らない。プロレスには温故知新ということがないのか?
 英語版ウィキペディアならいくらかマシだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 4日 (火)

ワトソン博士伝(12)

 ワトソンの医業については遺憾ながら一貫した記録が残っていない。寂れてしまった医院を買い取って精励恪勤したので、患者がどんどん増えたことは確かだ。1888年4月にはワトソンは重症の患者がいて一日中つききりだった(『花婿失踪事件」)。同年6月にも仕事が忙しいと書いている(『株式仲買店員」)。同じころ夜中に突然訪ねてきたホームズは、往診に馬車を使うくらいだから相当繁盛しているはずだと言い当てている(『背の曲がった男」)。一年後には、夜遅く疲れ切って帰ってきたところにベルが鳴った(『唇のねじれた男」)。このころまでには医業は着実に拡大していて、パディントン駅に近いから鉄道員の患者もよく来た(『技師の親指」)。『青いガーネット』の事件は1889年の年末だろうが、ワトソンは相変わらず忙しいようだ。ホームズのところへ挨拶に行ったのはクリスマスも過ぎた27日の朝のことだった。その日にまたベイカー街へ戻ったのはある患者に手間取ったため夕方6時半を少し過ぎていた。
  ところが1890年の秋になると医師としてのワトソンは様変わりしている。「今日は特にすることもない。仕事の方は大して忙しくないんだ」と彼は言う(『赤毛連盟」)。6ヶ月後、ホームズが明日大陸へ行かないかと誘うと、ワトソンは少しもためらわずに「今のところ患者は少ないし、隣に親切な同業者がいるから喜んでお伴する」と答えた(同業者はアンストルーザーではなくジャクソンだろう)。ワトソンがすぐに行けると言ったのは妻が不在だったからだ。このころからワトソン夫人の健康が衰え始めたと考えざるを得ない。ワトソンの医業再開は妻と家庭への献身に深く結びついていた。急に不熱心になったのには大きな原因があるはずだ。ワトソン夫人が亡くなったのは1891年夏から1894年春の間であろう。(同じ期間にワトソンはホームズがぐしゃぐしゃにつぶれてライヘンバッハの滝壺に沈んでいると思っていた。)ワトソンは自分では妻に死なれたとは書いていない。帰還したホームズが親友の不幸に触れて、悲しみには仕事が一番の良薬だ、と言ったのだ。ワトソン自身が少し前から同じ方針で働き始めていた。先に見たように1891年にはワトソンの医院は閑散としていた。彼は「当時妻は不在だった」と書いているが、これには不吉な響きがある。おそらくワトソン夫人はサナトリウムに入っていたのである。しかし結局は転地も功を奏しなかったのだろう。[コナン・ドイル夫人の場合とよく似ている。]
 長らく微かな希望にすがり続ける生活はワトソンをむしばみ、以前のように精力的に働けなくなっていた。しかし遂に終焉が訪れたとき(おそらく1893年だろう)、ワトソンは悲しみに負けはしなかった。以前に病気除隊して帰国したときに無気力な生活から立ち直ったように、今度も彼は立ち直った。1894年の春には再び往診で忙しくしている(「私は患者の家を回診しながらも一日中この事件のことを考えていた云々」と『空き家の冒険』にある)。しかし悲しい思い出の残るパディントンからは当然引っ越した。独身に戻ったワトソンはケンジントンに居を構えメイドを一人だけ置いていた。過去3年の生活はよほどこたえたらしい。ホームズの帰還の仕方はむやみにメロドラマ的で、よほど鈍い者でも仰天したに違いないが、本来ならワトソンほどの古強者が女じゃあるまいし気絶などするはずがない。心労と悲しみで体が弱っていたのである。しかしワトソンが心身共に回復するにはシャーロック・ホームズの出現が最良の薬だった。「私は昔とまったく同じように、ポケットに拳銃、胸には高鳴る期待を抱いて、ホームズと並んで二輪馬車に腰を下ろしているのだった」とワトソンは書いている。こうなると次のステップは決まってくる。数ヶ月後、ワトソンはケンジントンの医院をヴァーナーという若い医者に驚くほどの高値で売った。ワトソンはそれから何年か経って、このヴァーナーがホームズの遠縁であり、資金はホームズが出したことを知った。ホームズの縁戚関係への言及*も珍しいが、それよりも興味深いのはホームズがワトソンを何としても再びベイカー街に取り戻したがったことである。

*この若い医者の苗字Vernerはホームズの曾御祖母さんの実家の苗字Vernetが英国風になまったものだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 3日 (月)

小泉軍治伝(2)

 1919年には小泉は英国在住日本人に医療、雇用、住居を提供することを目的として共済会を設立した。小泉がこの会の事務局長になり、武道会内に事務局を置いた。1920年に嘉納治五郎がアントワープ五輪に選手団長として赴く途中、武道会を訪問した。このとき小泉と谷幸雄はしばらく協議して柔術から柔道に切り替えることを決めた。嘉納は二人に講道館2段を与えた。
 1922年に小泉軍治は東洋の漆器の専門家としてヴィクトリア&アルバート美術館の顧問に就任し、後に同館所蔵の漆器すべてのカタログを作成した。小泉は1925年に著書Lacquer work: A practical exposition of the art of lacquering together with valuable notes for the collectorを出版した。1932年には柔道4段に進んだ。

Frankfurt1938_2
[右から二人目の柔道着の男がG.K.小泉軍治。その左が谷幸雄。その左の眼鏡の男はイシグロ。石黒敬七であろう。]

 第二次大戦中も武道会での柔道の稽古は続けられたが、これは小泉軍治には大きな財政的負担を強いた。小泉の伝記を書いたリチャード・ボウエンによれば、この期間に「小泉は拘留されず行動に制限は受けなかった」という。1948年に小泉は6段に進んだ。彼は1948年7月24日の英国柔道協会設立を助けた。彼は同協会の初代会長に就任した。40年代末までに彼は事業から引退し英国における柔道教授に専念した。1951年には7段に進んだ。
 小泉は結婚してハナという名前の娘が一人いた。彼女は弟子のパーシー・セキネと結婚した。
 1954年9月19日に、小泉軍治は50年ぶりに日本に帰郷した。彼の妹や親戚とともに講道館館長の嘉納履正を初めとする柔道家たちが羽田空港で彼を迎えた。講道館は小泉を賓客として歓迎した。小泉は日本から英国に帰った。小泉は
Judo: The basic technical principles and exercises, supplemented with contest rules and grading syllabus (1958) 
My study of Judo: The principles and the technical fundamentals (1960)
 など、柔道に関する本を書いている。彼は1960年代も柔道を教え続けた。
 小泉が死去する前夜、弟子の一人チャールズ・パーマーは、いつもと様子が違うように思った。『ブラックベルト』誌の通信員ケイ・ツムラによれば、「いつものように笑ってお休みという代わりに彼はパーマーの手を握って「さよなら」と言った」という。1965年4月15日、小泉の自殺が発見された。彼は盛装して気に入りの椅子に坐り、ガスストーブを傍に置き頭にプラスティックの袋をかぶっていたという。
 小泉の死は柔道界に衝撃を与え議論が起きた。自殺は不名誉だとする者もいたが、彼の死は名誉あるサムライの死であるという者もいた。グラントが1965年に書いた伝記では小泉は死の前に八段に進んだとしているが、1982年のフロムとソームズの伝記では講道館から八段が追贈されたとしている。

Koizumi_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 2日 (日)

小泉軍治伝(1)

 小泉軍治(1885―1965)は英国に帰化した日本の実業家・武道家である。彼は1918年(大正7年)にロンドンで武道会を設立して柔術家谷幸雄(1880―1950)を師範として雇用した。
 ウィキペディア英語版のGunji Koizumiを見てみよう。http://en.wikipedia.org/wiki/Gunji_Koizumi

Mayer6

 柔道を教える小泉軍治。http://judoinfo.com/mayer.htm

 Gunji Koizumi(小泉軍治、1885年7月5日――1965年4月14日)は、G.K.の愛称で知られたが、柔道を英国に紹介して「英国柔道の父」として知られた。彼はイングランドにおける日本武術協会のさきがけとなるBudokwai武道会を創立した。小泉は英国柔道協会の設立を助け、欧州柔道連盟を創立した。彼は柔道八段であった。1965年、小泉の自殺は世界の柔道界に衝撃を与えた。

 小泉は1885年(明治18年)6月8日に茨城県コマツカ・オオアザ村(?)に生まれた。ここは東京の北20マイルに位置し現在は首都圏に含まれている。彼は小作農である小泉周吉と妻かつの次男であった。兄は千代吉、妹はいくであった。1887年、12歳の小泉は学校で剣道の修業をはじめた。また彼は米国滞在経験のある近所の人に英語を習った。次男として彼は自分で農地を開くか他家に養子に行くしか選択肢がなかったが、どちらも好まなかった。1900年7月、15歳になる直前に彼は東京に出て政府の電信技師養成所に入った。1901年、彼は天神真楊流のタゴ・ノブシゲの下で柔術修業を開始した。電信技師の資格を得て彼はしばらく東京で働いた後に朝鮮の鉄道に就職した。1904年には山田信勝について修業した。小泉は電気を研究するために渡米することを決意した。彼は上海、香港、シンガポール、インドを経由して途中働きながら、まず英国に向かった。シンガポールではアキシマ・ツネジロウについて修業した。
 1906年5月4日に彼は蒸気船ロムズフォード号に乗って北ウェールズのモスティン港に着いた。そこからリヴァプールに行きカラ・アシカガ柔術道場で師範となった。その後ロンドンに出て、元バーティツの師範であった上西貞一がピカデリー・サーカスで開いていた柔術道場で教えた。この期間に彼はロンドン工芸学校や英海軍志願予備隊でも教えた。数ヶ月後彼はニューヨークを目指して出発し1907年5月に到着した。ここでニューアーク公共サービス鉄道会社に就職した。数年後米国の生活に満足できず英国に戻った。彼はロンドンのヴォクソール・ロードで電気会社を設立しようとしたが資本が足りなかった。1912年1月、彼はロンドンのイーバリーストリートに漆器製作所を設立した。1918年には自分で費用を出してロンドンに武道会を設立した。武道会では英国人に柔術、剣道などの日本武術を教えた。小泉はバッキンガム宮殿の裏手にあるロウワー・グローブズナー・パレスに建物を確保し、武道会は1918年1月26日に開設された。(続く)

Mayer7

 ロンドンの漆器製作所における小泉軍治。1921年9月17日。

2011年10月28日付記 
ウィキペディアで議論があるようですね。当ブログ筆者としては自分の訳文(原文がウィキペディアの場合に限る)に著作権を主張するつもりはありません。利用は自由。原英文にも著作権などないのが「ウィキペディアの原則」であると理解しておりますが、いかがですか。

(シャーロック・ホームズの『六つのナポレオン』ではドイツ人ゲルダー氏が石膏像製作所を経営していて、彼が一時雇ったイタリア人の職人が犯罪に関係するのだった。第一次大戦前の英国は外国人が小規模の事業を興すのに好都合だったようだ。『六つのナポレオンの不思議』http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/1-473a.html 参照)

◇コメント欄のKs aka98氏のお勧めに従い(もう一つよく分からんのだけれど)

小泉軍治伝(1)(2)はウィキペディア英語版Gunji Koizumi(http://en.wikipedia.org/w/index.php?&oldid=451423257)の翻訳である(これはもう書いてある)。クリエイティブ・コモンズ - 表示-継承ライセンス 3.0( http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)およびGFDL(http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)の下で公開する(この文の意味がよく分からんけれど)。この翻訳について当ブログ筆者の権利は行使しない。 これでよろしいか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011年1月 1日 (土)

謹賀新年

本年もよろしく

Ist2_6936489whiterabbitlookingatwat

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »