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2011年1月13日 (木)

海音寺潮五郎、コナン・ドイル、山本周五郎

 この不思議な組み合わせはポプラ社の「百年文庫」という新シリーズの一冊『絆』に載っている。

海音寺潮五郎『善助と万助』
コナン・ドイル『五十年後』
山本周五郎『山椿』

 よくこういう組み合わせを考えたものだ。編集者は偉い。しかしコナン・ドイルはいいけれども、海音寺潮五郎と山本周五郎のものはあんまり頂けないと思う。
『善助と万助』は黒田節の侍が主人公である。日本一の槍を福島正則から呑み取ったのが万助だが、この男は酒が強いだけではない。生涯に七十以上の首級を挙げた豪傑だ。しかし女っ気なしである。善助と万助の男同士の絆の話であって、ちょっと寂しい。
 山本周五郎の『山椿』には辟易する。美談である。美談でもいいが時代錯誤じゃないか。もちろん「恋愛は西洋で発明されて明治期に輸入された」は俗説で、小谷野敦を読むべきではあるが……

 しかし『山椿』はいくら何でも「近代的恋愛」に過ぎませんかね。登場人物は本当に侍なのか。
 コナン・ドイルのものも大美談である。けれどもドイルはこれからa tall storyを語りますよ、という信号を出している。延原謙氏の訳文は見事なものである。書き出しは

 大宇宙のどこかに存在する渺たる一個の惑星であるにすぎないこの地球の表面で、とるにも足りぬきわめて些細なでき事がいろんな結果を生み、それがたがいに交錯し、働きあって、無数の思いもよらぬ実をむすぶことを考えてみると、じつに不可思議な感にうたれる。たとえばここに、どんな微弱でもよいから、ひとつの波動を人為的におこさせてみる。それがどこまで伝わってゆき、いかなる結果を招来することか、誰かよく予知しうる者があろうぞ!………………

 読みたくなりますね。
 コナン・ドイルの『五十年後』にプロットが似ていて拮抗しうるのは森鴎外の『じいさんばあさん』である。(三幅対のもう一つは何がよいか?)書き出しは

 文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布竜土町の、今歩兵第三聯隊の兵営になっている地所の南隣で、三河国奥殿の領主松平左七郎乗羨と云う大名の邸の中に、大工が這入って小さい明家を修復している。近所のものが誰の住まいになるのだと云って聞けば、松平の家中の士で、宮重久右衛門と云う人が隠居所を拵えるのだと云うことである。なる程宮重の家の離座敷と云っても好いような明家で、只台所だけが、小さいながらに、別に出来ていたのである。近所のものが、そんなら久右衛門さんが隠居しなさるのだろうかと云って聞けば、そうではないそうである。田舎にいた久右衛門さんの兄きが出て来て這入るのだと云うことである。
 四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬ爺いさんが小さい荷物を持って、宮重方に著いて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭をしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構な拵の両刀を挿した姿がなかなか立派である。どう見ても田舎者らしくはない。
 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆あさんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷に結っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。
 この翁媼二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若しあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。中には、あれは夫婦ではあるまい、兄妹だろうと云うものもあった。その理由とする所を聞けば、あの二人は隔てのない中に礼儀があって、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎているようだと云うのであった。

 この話も大変な美談である。しかし若いころの刃傷沙汰のために「じいさんばあさん」になるのだ。江戸期でも侍は潜在的には殺人専門家だった。その上に鴎外の文章があるから美談が成り立つのだ。
 1948年、戦争抛棄の新憲法ができて間もなく書いた『山椿』では登場人物がまるでサラリーマンだから困るのだ。

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