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2011年3月 1日 (火)

漂泊のジプシー(2)

 1985年5月28日、ドイツ連邦議会におけるヴァイツゼッカー大統領の演説

 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。

 大統領はZigeunerが使えなくてSinti Romaと言った。我々日本人はジプシーを何十万人もつかまえて殺したわけではないので、自粛しなくてよい。それに水谷驍『ジプシー』によれば、「我々はロマではない」と主張するジプシーもいるらしい。

 ハヤカワ文庫の大久保康雄訳はジプシーとしている。
「差別語」のモンダイはむつかしい。ジプシーや支那まで使ってはいけないと言い出すバカがいるから、使えるときは公共の福利のためがんばって使っておかねばならない。
 しかしどこまで突っ張るかはむつかしいところだ。「ジプシーでなくてはだめです」とあくまでがんばるべきか。
 高島俊男先生は「支那はわるいことばだろうか」を書かれたが、支那でつまづく読者を遠ざけないように中国も使っている。小谷野敦先生だってバカは相手にしないとは言わない。

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