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2011年3月19日 (土)

東南海の大地震

 今回の大地震は、当方の生活にはあまり影響がなく、テレビで見て気の毒に思うだけだ。東京では計画停電で困っているらしいが。
 母は昭和十九年の昭和東南海地震を思い出すという。これは

1944年(昭和19年)12月7日に午後1時36分から、紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20km(北緯33度8分、東経136度6分)を中心とする震源で発生した巨大地震。「昭和東南海地震」と呼ばれることがある。 地震規模を示すマグニチュードは7.9と推定されている。一般に死者・行方不明者数は1223を数えたとされる(統計によりいくらか数字の大小はある)。――ウィキペディア

 震源に近い母の里の村では、みんなすぐに裏の山へ避難して無事だった。これより90年前、1854年の安政東海地震のときの津波の記憶が残っていたからだろう。安政東海地震についてはhttp://www.bo-sai.co.jp/anseitoukai.htm によると

 安政元年11月4日(1854年12月23日)、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という巨大地震が発生した。
 この地震が発生した年は嘉永7年で、当時の瓦版や記録はすべて嘉永としているが、この地震の32時間後にはM8.4と推定される安政安政南海地震が連続して発生し、さらに広範囲に被害をもたらせたため、この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。年表上は安政となるため後に安政東海地震と呼ばれるようになった。(東海地震・警戒宣言)
 この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あった。また、甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせた地震であった。
 地震発生から数分~1時間前後に大津波が発生し、東海沿岸地方を襲った。伊豆下田、遠州灘、伊勢、志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの被害を出した。伊豆下田では推定6~7mの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っている。また、江浦湾でも6~7m、伊勢大湊で5~6m、志摩から熊野灘沿岸で5~10m大津波が襲来し数千戸が流失した。

 昭和東南海地震のときは、母の曾祖母が九十何歳かで健在だったという。母の曾祖母は、安政東海地震のときの大津波(5mから10m)を子供のときに体験していたのだ。
 母の実家は海岸から数メートルのところにあるから、安政時代にも昭和時代にも津波にやられた。昭和のときは、一階の鴨居まで浸水して、ふすまが全部流されたという。しかし、このときは家屋が倒れるようなことはなかった。
 今回の地震では、当日の5時ごろに叔父に電話してみたが、避難から戻ってきたところで、別に何ともなかったという。

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