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2011年5月20日 (金)

アリストテレスの探偵小説論(2)

 しかし『詩学』を虚心坦懐に読んでみましょう。アリストテレスはギリシャ文学を研究したというより、むしろ未来の文学を予言していたことは明かであります。彼が批評したのは同時代のギリシャ劇でありました。当時はこれが何よりもすぐに見られる、よく普及した民主的な大衆娯楽として彼の注意を引いたからです。しかし本当に心の奥底で望んでいたのは、よい探偵小説を読むことだった。ところが残念ながら2000年ほど早く生まれてしまった。だから『トレント最後の事件』のペリペテイア(逆転)や『バスカヴィル家の犬』の「発見」を味わえなかったのは仕方がないでしょう。怖いものを見たいという意欲も十分にあった。「もっとも下等な動物や人間の死体の形状のように、その実物を見るのは苦痛であっても、それらをきわめて正確に描いた絵であれば、これを見るのを喜ぶ」(第四章)というのですから、『まだらの紐』のあの恐怖はアリストテレスの気に入ったに違いない。あるいは『自動車の死体』『冷蔵庫の死体』『サイロの死体』なども。でも彼はスリラーのファンではありません。「場面を偏重するものがもっとも劣る。ここにいう場面偏重の筋とは、そのなかの場面の並べ方が、ありそうでもなく、必然的でもない筋のことである」(第九章)。最近出たものの一部、パークレインで機関銃を撃ちまくるとか、飛行機からバーンズ・コモンに爆弾を落とすとか、警視庁刑事捜査課が催涙ガスを使ってウェストエンドのアパートを急襲するとか、あるいはソレント海峡を航行中の豪華クルーザー船上での派手な銃撃戦なんてのもありましたね、ああいうのは「如何なものか」と言うに違いない。恐れと哀れみを引き起こす出来事は「予期に反して」しかも「因果関係によって」起こる場合にもっとも効果を挙げるとアリストテレスは述べています。彼がまさに探偵小説の本質を要約している箇所があります。大団円についてどう述べているか。「ある行為を誰かがなしたか、それともなさなかったかを発見することができる」(第十一章)。これです!

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