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2011年6月30日 (木)

アリストテレスの探偵小説論(8)

大団円を構成する「発見」には色々な種類があるとアリストテレスは言います(16章)。ふつうは犯人の正体の発見か、殺しの方法の発見であります。
(1)最悪なのは作者自身による発見です。こういうのは全く非芸術的であって本物の探偵小説では許されません。スリラー用です。しかし犯人の正体は分かっているけれども、犯人対探偵が相互に対抗する動きを描いてみせて面白い話を作ることはできます(ウィルキー・コリンズの『ノー・ネイム』やオースティン・フリーマンの『歌う白骨』など)。
(2)身体的特徴による発見はよくありますね。『メアリ・デュガンの裁判』では、ある人が左利きだということが有罪判決の決め手になった。『オシリスの目』では「エジプトのミイラ」と失われた死体が実は同一人物だったことが、虫歯治療跡と腓骨骨折から分かりました。
(3)記憶による発見もよく使われる手です。『不自然な死』では、大動脈に空気が入って閉塞になったことを探偵が発見するのは、オートバイにガソリンを入れるときに同じように空気が入ったことを思い出したからでした。
(4)推論による発見はたぶん一番多い。犯人はそのとき同じ家にいて、電気技師であり、背が高くて煙草はソブラーニを吸う。これらの特徴全部に当てはまるのはXだけだ。したがってXが犯人だ。
(5)アリストテレスが五番目に挙げるのは相手の誤った推論による発見であります。ところが彼がここで挙げている例はどうも曖昧だ。たぶんテキストの混乱があるのでしょう。それに引用している劇ももう残っていないものです。しかしアリストテレスが本当に言いたかったことは「ブラフによる発見」だと私は思います。つまり、探偵が容疑者に武器を見せて「もしあなたが犯人じゃないというのなら、これがあなたのところにあるのは何故ですか?」容疑者が答える。「でもそれは凶器じゃありませんよ」「ほう、そうですか。どうしてそういうことをご存じなのかな?」

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2011年6月23日 (木)

格闘技の研究者

 古い格闘技の英文資料を次々と発掘して紹介しているサイトがある。
 海外における柔道家の他流試合 http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100330/

① 1898.8.25 タケザワ 対 ヘラクリデス 

② 1905.3.8 前田光世 対 J・F・ネーシング 

③ 1905.3.17 鈴木あらた 対 G・バティスト

④ 1905.4.6 東勝熊 対 G・ボスナー

⑤ 1905.11.30 東勝熊 対 谷幸雄  

⑥ 1906.2.8 東勝熊 対 フィッシモンズ  

⑦ 「イヴニング・ポスト」より・1909 覆面レスラーが柔術家に挑戦  

⑧1911 オール・イン=パンクラチオン=柔拳試合?  

⑨ 1913.3.30 柔術少女ナルスカ・アイ、MSGに登場す  

⑩ 谷幸雄と三宅太郎  

⑪ ニューヨーク・タイムズのプロレス記事

 どれも面白そうでしょう。内容は実に豊富だ。
 私は以前に⑩谷幸男と三宅太郎の一部 1904.4 谷幸雄 対 J・メラー http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100703/
 を紹介させてもらったことがある。谷幸雄、レスリングをする http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/1-5716.html
 インターネット上でも、これだけの英文資料を集めるのが、どれだけ大変か。
 上の「海外における柔道家の他流試合」は、この研究者のサイトのほんの一部だ。
インデックスページ WWDプロレス観戦日記http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/

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「プロレスとわたし」http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/38980840/
 によると
Ⅰ 1975~1983 小・中学生
Ⅱ 1984~1990 高・大学生
Ⅲ 1991~1999 社会人
Ⅳ 2000~
 という年齡らしい。奥ゆかしく「自分語り」をほとんどしていないので、どういう人なのかは分からない。
 格闘技に関心のある人は、ぜひ見てください。那嵯涼介さんも見てください。昔のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのことが分かりますよ。
 

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2011年6月21日 (火)

アリストテレスの探偵小説論(7)

 科学的な細部についてはあくまで正確でなければならないとアリストテレスは考えていました。もし仮に何かあり得ないような仕掛け(たとえばすぐに効いて死をもたらすが検出はできない毒など)を使わなければ芸術的効果が得られないのならば、非常手段として使うのもやむをえないという意味のことを言っています。

「しかしもし技術的正確性を犠牲にせずに同じ程度の芸術的効果が得られるのならば、「あり得ない」ことを正当化してはならない。もしできるならば、記述はいかなる誤りをも含んではならないからである。」(25章)

 だから、ジョン・ロード氏の『自動車の死体』でラジオから検知できないガスが出るというのは、科学的に不可能とは言えないのでまず許容できます。しかし同じ著者の『毒をどうぞ』でゴム製湯たんぽからシアン化水素ガスというのは、どんなものでしょう。実際には効果がないだろうという話ですが。
 さて、探偵小説の筋に必要不可欠な三つの要素、ペリペテイア(運命の逆転)、発見、苦難については、アリストテレスは正しい意見を多々述べています。苦難については縷説に及ばないでしょう。アリストテレスの定義によれば、これは「人が破滅したり苦痛を受けたりする行為であり、たとえば殺人、拷問、負傷、その他これに類することである。」(12章) もちろん探偵小説ではこういうのはいくらでもあります。言っておくべきことがあるとすれば、苦難は何らかの形で筋を前に進めるものでなければならないということです。単に感情をかきたてるため、ましてや筋の弱さから注意を逸らすために苦難を強調するというのはいけません。
 運命の逆転は登場人物全員に起こることもあれば一部の者だけということもあります。被害者は、大金持ちのことが多いけれども、単なる死体にされてしまいます。あるいは読者の期待を裏切って実は死んではいなかったという場合もある。容疑者にされた人は大変な不幸を経験したわけですが、死刑囚監房から解放されて恋人の腕の中に帰る、大逆転であります。探偵は何度も間違ったあげくにようやく正しい解決を見つける。このようなペリペテイアが話を前へ進ませ、読者の恐怖や同情などを呼び起こします。こういう出来事は偶然に起こるのではなくて、何らかのハマルティア、すなわち主人公の宿命的過ちによってもたらされるのがベストです。この過ちには色々な種類がある。主人公自身が性格が悪いから苦難を受けるのか、それとも悪い女と結婚したからか。愚かにも素性の怪しい金を借りてしまうとか、たまたま大金が手に入ったのが間違いの元ということもありますね。無実の被疑者が愚かにも殺された人と大げんかをしてしまったとか、誰か他人をかばおうとして証拠を隠したせいで疑いを招くこともある。このようにあらゆる種類の欠陥がゆたかなペリペテイアをもたらすのです。

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2011年6月19日 (日)

1993年の女子プロレス

『1976年のアントニオ猪木』の柳澤健氏の新しい本が出た。
 しかし、女子プロレス? そんなもの一度も見たことがないぞ。
 アマゾンの紹介
 
 社会現象にまでなったクラッシュ・ギャルズが引退し、女子プロレス界が迎えた冬の時代。それを打ち破ったのは、ヒールのトップに立つブル中野だった。観客の心を掴む天才・長与千種の手によりクラッシュブームは生まれた。デビル雅美が「男子も含め、100年に一人の天才レスラー」と評した長与の天性の表現力に対抗するため、ブル中野は過激で激しいプロレスに活路を見出すようになる。ヒールでありながら、完璧なジャーマンスープレックスを繰り出す技術。100キロを超える巨体で殴り、蹴り、そして飛ぶ迫力。アジャ・コングとの2年にもおよぶ抗争の中で、かつて女子中高生が黄色い歓声を上げていた観客席は、マニアックな男のプロレスファンが大半を占めるようになっていた。
 1990年11月14日、横浜文化体育館。ブル中野は、金網の最上段に立ち、顔の前で手を合わせて拝んだ。「背骨が突き抜けて死ぬかもしれないけど、まあいいや」。そう思った次の瞬間、ブルは4メートル下のリングに横たわる宿敵・アジャ・コング目がけて飛んだ。この夜、ブル中野は「ブル様」として、また伝説のダイビング・ギロチンを受けたアジャは「アジャ様」として特別な敬意を払われるレスラーへとなった。
http://www.youtube.com/watch?v=PvjmB_MZ88M

 これは確かにすごい。
 柳澤氏はもちろんブル様とアジャ様の両方から話を聞いている。このインタビューがまたすごいのですね。どうすごいか? まあ読んでみることですね。
 誰がどういうふうに話を聞いてくれるかによって、インタビューというのはすっかり話すことが変わってしまうものらしい。
 むかし大宅賞を受けた女流ノンフィクション作家が長与千種をインタビューして、「いかにも」という答えを引き出したらしい。ところが柳澤氏が冒頭でその答えを引用して「……とおっしゃっていました」と聞くと

長与 じつは逆なんです(笑)。

 あっさりひっくり返してしまう。それから二段組み30頁以上のインタビューだ。何でも話す。どうも驚いたね。インタビューはプロレスなのだ。「プロレスラー」としての柳澤氏が分かるためには、インタビューされている場合も読んでみるとよいかも知れない。

『1976年のアントニオ猪木』を紐解く(1)--(5)
http://allabout.co.jp/gm/gc/212934/ 以下。

――話を伺うだけでも、緊張感が伝わってきます。
柳澤「だって相手はアントニオ猪木だよ」

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2011年6月17日 (金)

よく降りますなあ

Syo

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2011年6月16日 (木)

地球温暖化説について

 日本はアメリカが仕掛けた「CO2 による地球温暖化」というお題目に軽々と乗って、ただ一国、真面目にCO2 を削減すると約束しました。そのような科学ではなく「タテマエ」で動いてしまう日本の性質が、福島原発の事故の原因の一つだと私は思っています。(p.56)

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 そして、京都議定書に輪を掛けた自殺行為と言える鳩山政権の「2020年までに1990年比で温室効果ガスを25%削減するという世界公約だけが残ったのです。(p.63)

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2011年6月13日 (月)

アリストテレスの探偵小説論(6)

 しかしもっと重要な問題があります。どんな筋を選べばよいか? ここではProbableとPossibleの対立ということが中心的な問題となります。たとえば、二人の黒人がいて、見た目では区別できぬほどソックリ、ベルティヨン式人体識別法の数値も全く同じ、しかも同姓同名で、この二人が同時に同じ監獄にいる――これは「あり得る」のです。実際にあった事件だから(1903年カンザス州リーヴェンワース刑務所の二人ウィル・ウェスト事件)。しかし仮にこういう偶然の一致に基づいて筋を組み立てたら、とんでもない話になるでしょう。
 実生活上のこのような事件に基づいて話を作るという選択肢はもちろんありです。登場人物を実名にするなどして歴史を証人にすればよろしい。だからブラボの反乱でもクリッペン殺人事件でもペンゲの悲劇でもW・H・ウォレス事件でも本は出ています。事実がよく知られていれば、読者は出来事を書いてある通りに受け取ってくれるはずです。しかし実際には、こうやって書いた話は全くこしらえものの話より説得力がない。知られている事実にわざわざ作り事を混ぜて、真実起こった事件を一層ありそうに見せる必要が生じることが多いのです。これについてアリストテレスは第9章でどう言っているか。
「あくまでも言い伝えられてきた物語に沿おうとしてはならない。」なぜなら「知られている物語でさえも、実際には少数の人しか知らないのだから。」
 だから可能性は全く問題がなく揺るがない場合でも、蓋然性はよく検討する必要があります。
 しかし、登場人物の名前も事件も作り上げるとして、「信じられないけれど可能であることがらよりも、ありそうなのに実際には不可能なことがらの方を選ぶべきである。」(24章)
 人体に撃ち込まれた鉛の弾が火葬した灰から化学的に回収できるかというと、これは不可能でしょう。ところがオースティン・フリードマン博士は科学的な言葉を巧みに使って読者を説得し、ありそうなことだ、いや不可避だと信じさせてしまう。反対の例を挙げましょうか。よい生まれの感じのいいケンブリッジ大学の学生がいるとして、彼が行列に横入りしてタクシーの運ちゃんか何かに「そんなことはやめろ」と言われるというのはどうでしょうか。物理的には可能でしょうが、どうしても本当とは思えない。イギリス人の性格に反しています。私たちはいつでも辛抱強くきちんと列を作る。これはほとんど天才の域に達しているでしょう。アリストテレスはどう言っているか。
「筋は不合理なことがらを部分として構成してはならない。不合理なことがらはできるだけ排除すべきだが、やむをえず取り入れる場合でも、それを筋の外に置かなければならない。」(24章)
 だから『グロリア・スコット』では、トレヴァー老人の前歴は本当と思えないばかりか、年月日から計算すると不可能なのですが、読んでいるときには読者はこれに気づかない。このエピソードが筋の動きの外に置かれているからです。同様に性格についても、Impossible-Probableの方がImprovable-Possibleより優れている。アリストテレスは
「コナン・ドイルの描いた探偵は「あり得ない」としてもあの通りでなければならない。芸術家はモデルを改良すべきであるから」(25章)

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2011年6月 5日 (日)

コナン・ドイルのお父さん

[1893年8月、コナン・ドイルは妻を連れてスイスに出かけた。ライヘンバッハの滝を見て「これはシャーロック・ホームズを葬るにふさわしい場所だ」と思った。ホームズの『最後の事件』はストランド・マガジンの12月号に載った。9月末に、ドイルは妹を結婚させた。]
 10日後、ドイルは父親がダンフリーズ精神病院で死んだことを知らされた。死因はてんかんということだった。アーサーは何年も父親を見舞ったことがなかった。葬儀には出なかった。家族の誰も行かなかった。チャールズ・ドイルは「お母様」の期待を裏切り、子供たちを貧窮に陥れた。弱く男らしくなかったのだ。酒との戦いに勝てなかった。戦うどころか、拳を上げさえしなかった。芸術家気質だったからと言われることがあったが、アーサーは納得しなかった。そんなのは我儘の言い訳に過ぎない。芸術家が同時に強健で責任ある男であることは決して不可能なことではない。(p.84)

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2011年6月 2日 (木)

アリストテレスの探偵小説論(5)

 八章では筋の統一についてアリストテレスが貴重な助言をしてくれます。主人公に関わりのあることを何でもかでも述べる必要は毛頭ない。たとえば、シャーロック・ホームズについて書くとすると(ここではアリストテレスの原文を少し変えて引用します)

「主人公がどこで生まれたか、大学はオックスフォードだったかケンブリッジだったかなどには触れなくてもよろしい。あるいは実際に過去に起きた事件でも、当面の問題に無関係ならば書かない。だからワイン商人のヴァンベリー、アルミニウム製松葉杖、悪名高きカナリア調教師ウィルソン、イザドラ・ペルサーノと謎の虫などの件も詳細は分からなくて当然なのだ。」

 探偵小説の筋は
「行為の再現である限り、統一ある行為、しかも一つの全体としての行為を再現するものでなければならない。さらに出来事の部分部分は、その一つでも置き換えたり引き抜いたりすれば全体が支離滅裂になってしまう、というように組み立てねばならない。」

 つまり、「お気に入りを抹殺せよ」というのが作家心得の第一なのですね。どうしても美文を書きたいのならば、それを解決の重要な手掛かりの中に組み込んでしまうべきです。置き換えたり引き抜いたりできないようにするのです。『トレント最後の事件』でマーローの部屋の描写が出てきますね。あれは彼がO.U.D.S.のメンバーだった、だから演技ができるはずだ、ということを示す手掛かりになっているでしょう。『カナリア殺人事件』のポーカーのシーンも、殺人者の性格に光を投げかけるために必要です。あるいは『月長石』の「ふるえる砂」の描写も、ペンキの付いたナイトガウンの発見に向けた準備になっていますね。そういうふうに組み立てねばならない。

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