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2011年7月18日 (月)

コナン・ドイルのお母さん(5)

 アーサーが戻ってからしばらくして、メアリ・ドイルはまた妊娠した。彼女が最後に生んだ第九子は、女の子なのにウォラーの名前をもらった。ブライアン・メアリ・ジュリア・ジョゼフィーヌ(ジュリアはブライアンの母の名前だった)は1877年3月に生まれ(ブライアン・ピュー氏の年譜A Chronology of Sir Arthur Conan Doyleでは1878年三月生まれ)、ドードーと呼ばれるようになった。このときチャールズ・ドイルがどこにいて何をしていたかは明かではないが、不在だったか酔っ払っていたに違いない。彼女の出生届はメアリ・ドイルが自分で出した(これまで出生届と死亡届二件はチャールズが出していた)。ドードーの名付け親はウォラーとその母親だった。メアリ・ドイルの末子の名前はいかにも奇妙で、ウォラーが父親ではないかという憶測を呼んだ。しかし性的関係があったという証拠はなく、22歳の医学生が所帯やつれした40にもなろうという女にひかれるというのは考えにくいことである。しかしメアリ・ドイルとブライアン・ウォーラーの関係は確かに下宿人と女将の関係を越えていたし、その後何年も続いたのである。
 ウォラーは1853年にメイソンギルの屋敷に生まれた一人っ子で、むかしアジャンクールでフランス王の従兄弟を生け捕りにしたナイトの子孫を自称していた。ウォラー家の紋章はこの手柄を記念するためにフランス王家の紋章を取り入れていた。またピューリタン革命で議会軍を指揮したウォラー将軍もオリヴァー・クロンウェルとチャールズ王の両方をたたえる詩を書いたエドマンド・ウォラーも先祖筋であり、王の死刑判決に署名したハードレス・ウォラーもそうだということだった。ウォラーの伯父、ブライアン・ウォラー・プロクターは詩人で劇作家としてロンドン文壇で有名であり、サッカレーの『虚栄の市』は彼に捧げられている。みじめな生活の中で先祖だけが誇りだったメアリ・ドイルが、傲慢そうでひどいどもりの下宿人にひかれたのも無理からぬところがあった。
 ウォラーは1876年に医学部を卒業し、2年後には博士号を得た(論文には金賞をもらった)。そのころにはエディンバラ市の高級住宅街ジョージ・スクウェア23番地にある立派な家の二階と三階全部を借り、ここに「病理学専門の顧問医師」として診察所を構えた。ドイル家の人々――チャールズとメアリとまだ家にいる子供たち全員――は一緒に引っ越した。1年に85ポンドの家賃はウォラーが全額払った。1879年には彼はエディンバラ大学医学部の病理学講師に就任したが、4年後には医業を廃してヨークシャーに戻り、1877年に死んだ父親から受け継いだメイソンギルの屋敷に引きこもった。

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