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2011年7月31日 (日)

中老人

ちゅうろうじん〔中老人〕
〈名〉An elderly man
◆彼は若いどころか五十になんなんとする中老人だ 
So far from being young, he is an elderly man close on fifty.

しょろう〔初老〕
〈名〉The age of forty

としま〔年増〕
〈名〉A young woman
◆中年増、大年増 a middle-aged woman



とし‐ま【年増】
娘盛りをすぎて、やや年をとった婦人。江戸時代には二○歳過ぎをいった。

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2011年7月22日 (金)

ヘッドロック

 試合開始のゴングが鳴る。通常の場合、レスラーは時計と反対周りにグルグルと回った後、おもむろに組む。お互いが左腕を相手の首に回し、右腕を相手の肘に当てて組む体勢をロックアップ(もしくはファンダメンタル・ポジション)と呼ぶ。左右が逆になることは決してない。ロックアップはプロレスのひとつの型であり、約束事なのだ。 
 ロックアップの次に行われるのは、通常の場合ヘッドロックだ。世界中どこでもヘッドロックは左腕でかける。レスラーの利き腕がどちらだろうと、右腕でヘッドロックをかけることは決してない。レスラーたちは、あらゆる技を左腕や左足を中心として行うようにトレーニングされている。
(1976年、p.72)

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2011年7月21日 (木)

コナン・ドイルのお父さん(2)

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 アーサ・コナン・ドイルの父親、チャールズ・アルタモント・ドイルはエディンバラ市で建築関係の仕事をする公務員であったが、過度の飲酒のため馘首された。家族は彼をスコットランド北部にあるアルコール中毒患者の療養所ブレアーノ・ハウスに入所させた。しかし彼はここでは手に負えないと判断され、1885年にモントローズ精神病院に送られた。入院時に診察した医師の記録では彼は「非常に精神が混乱した状態」にあった。彼の精神の混乱は続き、カルテには短期記憶に問題があるとの記述が繰り返し出てくる。ドイルはコルサコフ症候群であったようである。しかし彼は絵を描き続け、創造的な仕事と認知能力の低下が少なくとも一時的には両立しうることを示した。この絵はモントローズ精神病院の塔の周りに馬と人間の形をしたものが漂っている様子を描いている。ドイルがモントローズで描いた絵は多彩で、病院内の生活のほか、巨大な鳥や妖精、一角獣、植物の繁茂する様子などが題材になっている。入院中の作品の一部は
Baker, M. (1978) The Doyle Diary (Paddington Press)
 に収められている。上の絵もここから取ったものである。本誌の十二月号にドイルの別の絵を掲載する。
The British Journal of Psychiatry (2007) 191)
http://bjp.rcpsych.org/cgi/content/full/191/5/373-a18

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2011年7月19日 (火)

コナン・ドイルのお母さん(6)

 尊敬すべき医師として今やドイル家に居着いたウォラーは、チャールズを施設に入れるのが本人のためだとメアリを(おそらくはアーサーをも)説得したのかも知れない。1881年の国勢調査では、チャールズはブレアーノ・ハウスというアルコール中毒療養所の18人の入所者の一人であるという記録が残っている。メアリ・ドイルはジョージ・スクウェア23番地の「家長」で、家族は「医学生」のアーサー(21歳)、ジョン・イネス(8歳)、ジェイン(アイダ)(6歳)、ブライアン(ドードー)(4歳)、それにアイルランド人のメイド、メアリ・キルパトリック(17歳)がいた。アネット、ロティ、コニーの三人の娘はポルトガルで家庭教師をしていた。
 1883年にメアリ・ドイルは下の三人の子供を連れてエディンバラを去り、メイソンギル・コテージに引っ越した。コテージという名前がついていたが実際はかなり広い家でウォラーの地所に建っていた。彼女はここに家賃は払わずに30年以上にわたって住み続けることになる。長男が一緒に住みましょうと誘うのを断り続けたのである。ここにいる間にメアリはローマ・カトリックの信仰を捨て、ウォラーの宗旨である英国国教会に属するようになった。彼の影響がどれほど大きかったかが分かる。1896年にウォラーはセント・アンドリューズ大学の教授の娘と結婚したが、メアリ・ドイルへの愛着は変わらなかった。メアリと食事をともにして妻を悩ませることが多かったが、自分の好きなカレー料理の作り方を知っているのはメアリだけだと言うのだった。
 ウォラーの結婚には子供がなく、おそらく愛もなかった。冷淡で傲岸であり――小作人には帽子をとって挨拶させたし子供は目障りだから自宅から見えるところに近づけなかった――彼は妻に対しては元の下宿の女将に対して示したような愛情を示さなかった。妻は地所にメアリ・ドイルが住み続けて夫と関係(どういう関係であっても)があるのを恨んだ。この奇妙な三角関係は1917年になってメアリがようやく考えを改めて今や有名人になっている長男の近くに引っ越すまで続いた。彼女が去ってからウォラーは衰えはじめ、毎晩眠りにつくまで(しばしば夜明けまで)妻に本を朗読させた。ウォラーは1932年にメイソンギルで死んだ。
(p.44からp.47まで)

 結局、小林司氏が正しかったということになる。しかし英語では「性的関係の証拠はないthere is no evidence of a sexual relationship」という書き方をするのですね。

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2011年7月18日 (月)

コナン・ドイルのお母さん(5)

 アーサーが戻ってからしばらくして、メアリ・ドイルはまた妊娠した。彼女が最後に生んだ第九子は、女の子なのにウォラーの名前をもらった。ブライアン・メアリ・ジュリア・ジョゼフィーヌ(ジュリアはブライアンの母の名前だった)は1877年3月に生まれ(ブライアン・ピュー氏の年譜A Chronology of Sir Arthur Conan Doyleでは1878年三月生まれ)、ドードーと呼ばれるようになった。このときチャールズ・ドイルがどこにいて何をしていたかは明かではないが、不在だったか酔っ払っていたに違いない。彼女の出生届はメアリ・ドイルが自分で出した(これまで出生届と死亡届二件はチャールズが出していた)。ドードーの名付け親はウォラーとその母親だった。メアリ・ドイルの末子の名前はいかにも奇妙で、ウォラーが父親ではないかという憶測を呼んだ。しかし性的関係があったという証拠はなく、22歳の医学生が所帯やつれした40にもなろうという女にひかれるというのは考えにくいことである。しかしメアリ・ドイルとブライアン・ウォーラーの関係は確かに下宿人と女将の関係を越えていたし、その後何年も続いたのである。
 ウォラーは1853年にメイソンギルの屋敷に生まれた一人っ子で、むかしアジャンクールでフランス王の従兄弟を生け捕りにしたナイトの子孫を自称していた。ウォラー家の紋章はこの手柄を記念するためにフランス王家の紋章を取り入れていた。またピューリタン革命で議会軍を指揮したウォラー将軍もオリヴァー・クロンウェルとチャールズ王の両方をたたえる詩を書いたエドマンド・ウォラーも先祖筋であり、王の死刑判決に署名したハードレス・ウォラーもそうだということだった。ウォラーの伯父、ブライアン・ウォラー・プロクターは詩人で劇作家としてロンドン文壇で有名であり、サッカレーの『虚栄の市』は彼に捧げられている。みじめな生活の中で先祖だけが誇りだったメアリ・ドイルが、傲慢そうでひどいどもりの下宿人にひかれたのも無理からぬところがあった。
 ウォラーは1876年に医学部を卒業し、2年後には博士号を得た(論文には金賞をもらった)。そのころにはエディンバラ市の高級住宅街ジョージ・スクウェア23番地にある立派な家の二階と三階全部を借り、ここに「病理学専門の顧問医師」として診察所を構えた。ドイル家の人々――チャールズとメアリとまだ家にいる子供たち全員――は一緒に引っ越した。1年に85ポンドの家賃はウォラーが全額払った。1879年には彼はエディンバラ大学医学部の病理学講師に就任したが、4年後には医業を廃してヨークシャーに戻り、1877年に死んだ父親から受け継いだメイソンギルの屋敷に引きこもった。

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2011年7月16日 (土)

コナン・ドイルのお母さん(4)

  アーサーが(1876年7月にオーストリアのイエズス会の学校フェルトキルヒ校から)エディンバラに帰ると、母の置いた下宿人が家庭の中で重大な役割を持つようになっていることに気づいた。父はほぼ不在であった。おそらく憂さ晴らしを求めて夜はほとんど飲み屋で過ごすようになっていたのだ。アーサーが帰宅したときも母メアリ・ドイルは出迎えなかった。彼女はヨークシアにブライアン・ウォラーの母親の家メイソンギルを訪ねていた。ウォラーという他人が父の地位を「簒奪」している。割り込んできたやつと母の愛情を分け合わなければならないのをアーサーが忌々しく思ったのは当然だろう。
 ウォラーはアーサーより6歳年上に過ぎなかった。オックスフォードを卒業して、詩集を一冊出版していた。アーサーが弟のイネスと妹のロティに宛てた手紙の口調からは、この裕福で教養のある下宿人にお母さんがべたべたするのを苦々しく思っていたことは明かだ。しかしウォラーが下宿代として払うもののおかげで以前の陰鬱な環境から抜け出してアーガイル・パーク・テラス2番地の明るいフラットに移れたことも確かだった。張り出し窓からメドウズという木々に囲まれた広い公園を見下ろすことができた。このあたりはエディンバラの医師や弁護士やホワイトカラー層向けの新開住宅地であった。自立心の強いアーサーにとっては、一家が今やウォラーの好意にすがって暮らさなければならないのは辛かった。
 ウォラーはエディンバラ大学の医学部に入り直したが、彼の資力があれば一軒の家を構えて召使を何人も置いて暮らすことができたはずだ。ところがどういうわけか彼はメアリ・ドイルと飲んだくれの夫と騒々しい子供たちといっしょに引っ越すことを選んだ。新居では今や酒にとりつかれたチャールズ・ドイルに代わって事実上の家長の地位を占めた。
 これまで公刊された伝記の中には、ウォラーがこのような過密状態を我慢したのは長女のアネットに恋をしていたからだと書いてあるものもある。彼の死後1932年に公刊された詩集の中に『アネットの音楽』と題する一篇があって、これは失恋の悲しみをうたった叙情的でひどく哀調を帯びた詩である。しかしアーサーがストーニーハースト校から出した手紙を見ると、アネットは1975年5月にはもうポルトガルに行って家庭教師をしていたはずである。ウォラーはなぜ彼女の出発前に恋を告白しなかったのか? メアリから見れば理想的な娘婿だったはずだ。アネットが彼の求愛にこたえなかったのだろうか。彼が冷たく自惚れ屋の俗物だ(のちにこのことは明らかになる)と見抜いたのだろうか。もしそうならば、ウォラーがわざわざドイル一家との不便な生活を選んだのはなぜだろうか? 

2008年刊の最新のコナン・ドイル伝です。著者ラッセル・ミラーはアメリカのノンフィクション作家。アンドリュー・ライセットのコナン・ドイル伝は2007年刊。ダニエル・スタシャワーのコナン・ドイル伝の原著は1999年刊。
本書は2004年以降に大英図書館で閲覧できるようになった新資料を使っている点ではライセットのものと同じだが、上の一節でも窺えるようにドイルの手紙を引用している点が新しい。

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2011年7月15日 (金)

アリストテレスの探偵小説論(9)

 さて、ここまで来ると、我々はぜひ24章の一節を見なければなりません。ここでアリストテレスはまさに天才だけに可能なひらめきによって小説家の問題の核心を射貫き、探偵小説を書く技術を一語に要約して見せます。すなわちParalogismos(英語Paralogism)であります。

cf.リーダーズ英和辞典 paralogism
【論】 偽(ぎ)推理《論者自身の気づかない誤った推論》
 
 この言葉はすべてのミステリ作家の書斎の壁に金文字で書いておくべきであります。作家の導きの星であり読者をたぶらかして沼地に誘い込む鬼火であります。すなわち偽推理、誤った推理をさせる術でありますが、アリストテレスはもっとむきつけに率直な言葉を使っております。ではこの一節を見てみましょう。きわめて重要な箇所です。
 ホメロスは――アリストテレスが現代人だったらもっと適切な例を、たとえばノックス神父だとかアガサ・クリスティ女史だとかを挙げたでしょうが、ここではオデュッセウスを念頭においているのでしょう、ホメロスを例に取っています。
「ホメロスはほかの誰にも増して我々に正しくウソをつく方法を教えてくれる。すなわち偽推理の利用である。もしAがあればその後件としてBがあるという場合、人は逆に「BがあればAがある」と考えがちであるが、これは誤った結論である。それゆえ、Aは偽であるが「もしAが真ならばその後件としてBがある」という場合は、Bをつけ加えて示さなければならない。後件が真であることを知っていると、我々は前件も真であるという誤った推論を行いがちである。」

cf. 前件=antecedent  後件=consequent
  仮言的命題における前半と後半
If Caesar conquered Gaul, he was a great general.
において、Caesar conqured Gaulが前件、he was a great generalが後件。(ランダムハウス英和辞典より)

 これです! これこそ探偵小説の秘訣です。ウソをつく技術であります。1冊の本のはじめから終わりまで、著者の狙いは読者を惑わせること、ウソを信じ込ませることです。真犯人が無実である、無辜の者に罪がある、探偵が正しいとき間違っていて間違っているときに正しいと信じ込ませること。偽のアリバイが成り立つ、現場にいる者が不在である、死者が生きていて生者が死んでいると信じさせること。要するに真実でないことを信じさせることであります。
 ウソをつく技術です。しかし、ここで注意していただきたいのは「正しく」ウソをつく技術ということであります。これが要です。単なるウソならばどんなバカでもつくことができる。どんなバカでも信じることができる。ところが「正しく」というのは、ウソではなく真実を語っておいて頭のよい読者が自分でウソをついてしまうようにさせることです。作家自身が真っ赤なウソをつくというのは、探偵小説の原理に反するのであります。アリストテレスは驚くなかれ二千何百年も前に「読者に対するフェアプレイ」という探偵小説の鉄則を打ち出していたのです。Aは偽でありBは真である。この場合、作家は自分の言葉で「Aである」と言ってはならないのです。作家が自分の言葉で言ったことは、読者が信じられるのでなければならない。しかし作家は「Bである」と言っておいて――これは真である――読者の方が「Aも真である」という誤った結論を引き出すようにさせる――これはもちろん許されるのであります。

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2011年7月11日 (月)

ボール箱?

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 シャーロック・ホームズの題名The Cardboard Boxはどう訳しますか?
『ボール箱』に決まっているだろう? 
 でも「ボール箱」なんて日本語は見たことも聞いたこともない。ボールを入れる箱?
 リーダーズ英和辞典でcardboardを引いてみると
cardboard
―n 厚紙, 板紙, ボール紙; [fig] 実質のないもの.

「ボール箱」で和英辞典を引くと、研究社和英大辞典にはない。斎藤和英大辞典(1928年刊)に
ボール箱
〈名〉A pasteboard box
三省堂のニューセンチュリー和英辞典に
ボール箱
a carton; a cardboard box.

cardboard boxをグーグルで画像検索してみると、たとえば

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 これなら「段ボールの箱」ではないか?
 しかし19世紀末に段ボールなんてものがあったのか? むかし「ミカン箱」というものがあって、これは木箱だった。

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 今ならミカンは段ボール箱に入れるに決まっているがむかしは木の板でできていた。机を買う金がないので、ミカン箱を使って勉強したという話は聞いたことがある(実例は見たことがない)。
 段ボールというのは最近できたものなのか? ウィキペディア。ふつうの百科辞典には出ていない。
 
 段ボール(だんボール、英語 corrugated cardboard)とは板紙を多層構造で強靭にし、包装資材などに使用できるよう加工した板状の紙製品。素材としての段ボールシートのほか、再加工した段ボール箱、その他の段ボール製品を指すこともある。「ダンボール」という表記をされる事もあるが、ダンは日本語の段に由来する。
 段ボールは19世紀のイギリスにおいて当時流行していたシルクハットの内側の汗を吸い取るために開発された。のちに包装資材として利用されるようになったのは、アメリカ合衆国においてガラス製品の包装に使用されたのが始まりである。現在用いられている段ボールを作成し、日本において「段ボール」という言葉を作ったのは井上貞治郎である。

「19世紀のイギリスにおいて」というのだから、シャーロック・ホームズのころにもあったはずだ。でも英語が違う。cardboardというのは、「カード板」のはずだ。カードとして使って、その上に字が書ける紙製の板ではなかろうか。段ボールにも字は書けなくはないが、むかしはマジックインキがなくて普通のペンを使ったはずだから、難しかったと思う。
「ボール箱」というのは一体何だ?

付記。ニューセンチュリー和英辞典で「段ボール」を引いてみた。

だんボール 段ボール
【紙】cardboard, corrugated paper;【箱】a cardboard box.

  すなわちcardboard box=段ボールの箱 になる。
「ボール箱」とか「段ボール」とかいうときの「ボール」は何だ? ballのはずはない。昔の日本人はboardの発音が「ボールド」だと思ったのではないか。最後の「d」は子音だけであって日本語の「ど」ほどはっきり発音はしない。すなわちboard=ボールとなったのでは?

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2011年7月10日 (日)

NHKラジオの受信料?

 一九四七年の秋、浅草で酒屋の配達の仕事をしているときに、満州時代の知り合いとたまたま道で出会った。……
 天吾の父親がまともな職を見つけられずに苦労していることを知って、NHKの集金の仕事をしてみる気はないかと、その役人は持ちかけた。その部署に親しい人間がいるから、口をきいてあげることはできる。そうしてもらえるとありがたいです、と父親は言った。NHKがどんなところかよく知らなかったが、定収入のある仕事ならなんでもよかった。役人が紹介状を書き、保証人にまでなってくれた。おかげで父親は簡単にNHKの集金人になることができた。……
(p.p.170―171, Book 1)

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 そして男手一つで天吾を育てたわけだ。天吾が十歳のときは1964年の東京オリンピックのころか。そのころならもちろんテレビ放送はあった。しかし1947年にはまだテレビ放送は始まっていない。ウィキぺディアによれば

 1953年(昭和28年)2月1日 - 日本放送協会 (NHK) のテレビ放送開始(日本での地上波テレビ放送の開始)。

 それまではラジオの受信料を集金していたのか? 受信料なんてあったっけ。再びウィキペディアの「NHK受信料」

なお、現在ではラジオの受信料というものは存在していないが、これが無くなったのは1968年5月からで、その際にテレビ契約が「カラー契約」と白黒受信を目的とした「普通契約」とに分割された。ラジオの受信料が廃止された当時のテレビの普及率は96.4%(うちカラーテレビは5.4%)である。

 本当だろうか? ラジオの受信料は払った覚えもないし、請求された覚えもない。もっと前、1950年代、1940年代にはラジオ受信料集金人が回っていたのだろうか? 親に聞いてみても、そういうものを払った覚えはないというのだけれど。

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2011年7月 7日 (木)

戒名は

 私の母も自分で決めると申しております。「美麗院良妻賢母大姉」

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2011年7月 6日 (水)

スピード感?

「スピード感」という言葉を最近でよく見聞きする。
「スピード感をもって(進めてまいる所存でございます等)」という日本語を何度か英訳したことがある。
 with a sense of speedと忠実に訳するのではもちろん駄目だ。英訳はspeedilyくらいがよろしい。
 日本語の使い方が間違っているのだ。
 私は近所の坂道を自動車で降りるときに時速70キロくらいのスピードを出している。自転車のときは時速40キロくらいのスピードだ。それでも「スピード感」は自転車の方がすごくて怖い。

 復興に必要なのは「スピード感」ではなくて「スピード」だ。

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2011年7月 5日 (火)

喧嘩過ぎての

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 松本復興相の態度はひどかったね。
 知事は「その態度は何ですか。私は被災者の代表ですよ。直ちに被災者に陳謝しなさい」と言い返せなかったものだろうか? 
 無理でしょうね。あまりひどいのでビックリしてしまったのだろう。
 私も人に無礼な態度を取られて驚いたことはある。後で思い出してくやしくなっても「喧嘩過ぎての棒千切り」だ。その場ですぐに反応して、「何だそれは。表へ出ろ」と言う――これができるのはヤクザだけだ。

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2011年7月 4日 (月)

ブラック・ピーターの米国版

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