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2011年8月17日 (水)

アリストテレスの探偵小説論(10)

  たとえば、物語の初めで召使のジョーンズが主人のスミス卿に向かって「かしこまりました、旦那さま。さよう取り計らいます」と言うシーンがあるとすると、推論は、ジョーンズがスミスに話しかけているのならばスミスの方もジョーンズに話しているに違いない、だからその時にスミスは生きていてその場にいたのだ、ということになる。しかしこれは間違った結論です。作者はそんなことを主張してはいないのです。スミス卿はいなかったかも知れない。もう死体だったかも知れない。ジョーンズが話しかけていた相手は、空気かも知れない。別人28号かも知れない。いや、ジョーンズの態度についてだって、安全な結論は引き出せないのです。レコードか何かの装置を使ってジョーンズの声だけを聞かせている(よくあるトリックですね)のではなくて生身のジョーンズがその場にいるのだとしても、誰か別人をスミスだと信じ込んでその別人に話しかけているのかも知れない。あるいはスミスを殺してしまったので、アリバイ作りをしているのかも知れない。あるいはスミスが誰かまた別の者を殺したので、ジョーンズは従犯としてスミスのアリバイづくりに荷担しているのかも知れないじゃないですか。逆に(探偵小説を読み慣れた人なら考えがちですが)スミスの答える声が聞こえないからスミスはその場にいないのだと結論してしまうのも安全ではありません。これはダブルブラフで、読者がなまじ頭がいいのが利用されてしまう。読者はたとえば次のように推論します。

 ジョーンズがスミスに話しかけたけれども、スミスはジョーンズに話しかけなかった。
 多くの作家はこの仕掛けを「スミスが生きていてその場にいた」という誤った推論を行わせるために使う。
 だから私は「スミスはその場にいなかったか死んでいた」と結論することにしよう。

 しかしこの推論も逆の場合と同様に誤りであります。「多くの作家」は「すべての作家が常に」と同じことではない。ときには「ウソに見えるように真実を書く」作家が出てくる可能性は残るのです。
 このダブルブラフを見事に使った例は、ノックス神父の『陸橋殺人事件』であります。男の死体が発見され、顔は見分けがつかないほど潰されている。状況証拠からみると死体はXのものらしい。探偵も読者も次のように推論するでしょう。

  死体はXだと考えられている。
  ところが死体は見分けがつかない。
  したがって死体はXではない。
  したがって死体は別人、すなわちYである。
  加えてXが行方不明なのは明かであるから、たぶんXが犯人だ。

 ところが見分けがつかなくなった死体はやはりXの死体だったことが判明します。いくら巧妙な推論でも誤った前提に基づいていれば誤りなのです。
 また別の種類の推論があって、これは次のような三段論法です。

  Aは明らかに容疑者である。
  しかし探偵小説では、明らかに容疑者である者はいつでも無実である。
  したがってAは無実である。

 しかしこの三段論法の小前提には何ら保証がありません。この命題は普遍的に正しいわけでも論理的に必然でもありません。明らかな容疑者が無実の場合は多いけれども、だからといって作者が「彼を無実にしなければならない」という必要はないのです。 
 探偵小説に書いてあることは、作者が自分でそうだと請け合わない限り、真実であるとみなす必要はありません。たとえば作者がこう書いたとする。

  ジョーンズは10時に帰宅した。

 この場合は、ジョーンズが本当に十時に帰宅したので、別の時間ではありません。ところが次のように書いてあればどうか?

  ジョーンズが家に着いたとき、大時計が十時を打った。

 この場合はジョーンズの帰宅時間について、何ら確定的なことは言えません。時計の証拠を信ずる必要はないからです。探偵小説の登場人物の言うことも、作者自身が「この人物は本当のことを言っている」と保証しない限り、信ずる必要はありません。

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