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2011年9月17日 (土)

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 プロレスは言葉だ。口から出るものばかりではない。相手にフォールされた時、必死に跳ね返せば、観客には選手のやる気が伝わる。すべての技、すべての動きを言葉にして観客に伝えること、それがプロレスラーの仕事なのだ。
 観客は常に心に響く言葉を求めている。(1985年、p.94)

  一瞬でも「怖い」「凄い」と思わせれば、観客はもう自分のものだからだ。
 相手の技から逃れるためにロープに手を伸ばす。長与千種は決してふつうにはつかまらない。ドラマチックに演出する。
 やや広げた指先に力を込めて数センチずつ動かし、指を一本ずつ、第一関節から第二関節へとゆっくりとロープに乗せた上でようやくつかむ。その間、息を止めていることも重要だ。観客は自分が応援している選手に合わせて呼吸しているものだからだ。レフェリーがロープブレイクを命じると、長与千種はそこで初めて深い息を吐き、観客も一緒に息を吐く。こうして観客は、千種と一体になって試合を戦っているような感覚を得るのだ。(p.p.103-104)

『完本 1976年のアントニオ猪木』ではあの猪木に鋭く切り込んだ柳澤健氏だ。鬼をも拉ぐ猛者かと思いきや、ジャケット裏の著者近影では優男である。強そうに見えない。『木村政彦はなぜ力道山を』の増田俊也氏がいかにも柔道家らしいのとは好対照だ。
 しかし柳澤氏は格闘技を知らないのではない。『1976年』では猪木のレスリングにタックルがないことを鋭く指摘している。『1985年』でもプロレス技術論と「人生」がない交ぜになっている。
『1993年』でも感じたことだが、柳澤氏の強みはインタビューの技術だ。「プロレスは言葉だ」の逆は「言葉はプロレスだ」。プロレスラー柳澤の技の冴えを見よ。

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