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2011年9月30日 (金)

シャーロック・ホームズの愉しみ方

『シャーロック・ホームズの愉しみ方』目次

はじめに
序章 名探偵登場

第1章 ホームズは実在の人物だった?
1 シャーロック・ホームズ小伝
2 シャーロック・ホームズ文献の研究
3 ドクター・ワトソンの洗礼名
4 ワトソンは女だった

第2章 意外な愛読者たち
1 T・S・エリオットのホームズ論
2 マクルーハン、ホームズを語る
3 「ホームズさん、巨大な犬の足跡だったのです」
4 シャーロック・ホームズの茶気

第3章 ホームズ、漱石、嘉納治五郎
1 シャーロック・ホームズと柔術
2 バリツの起源
3 嘉納治五郎とシャーロック・ホームズ

第4章 皇太子、チャーチル、ホームズ
1 プロの美人たち
2 モリアーティ元教授の職業

むすびにかえて
あとがき
主要参考文献

平凡社新書9月新刊http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=series.sinsho/

 本屋の店頭に並ぶのは9月16日です。もちろんアマゾンなどでも買えます。
 ご覧のように、当ブログに載せたものと藤原編集室の「書斎の死体」に載せてもらったものがほとんどです。しかし書籍化するにはかなりお色直しをしております。英語のままだった箇所はもちろん和訳し、全体に編集部の助言で刈り込んだり付け足したりしています。縦書きの本になったので、じっくりと読んでいただけると思います。
「はじめに」と「序章 名探偵登場」は、平凡社新書の読者はマニアだけではないので一種の入門篇です。次のような具合。

はじめに

 名探偵シャーロック・ホームズの名前を知らない人はいないだろう。彼の親友で助手をつとめたのは? 医学博士で元インド陸軍軍医のジョン・H・ワトソンであった。これもたいていの人が知っているはずだ。それでは、

(1) ホームズとワトソンの下宿の住所は? 下宿の女将の名前は?
(2) ホームズの宿敵、悪の巨魁、「犯罪界のナポレオン」と呼ばれた男の名前は?
(3) ホームズがいつも「あの女」と呼んで敬意を払っている女性の名前は?
(4) シャーロック・ホームズ譚に登場するスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の刑事の名前を四人以上挙げてください。
(5) シャーロック・ホームズを主人公にした小説は長短併せて全部で何篇ありますか?

 いくつ答えられますか?

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一番の傑作は?

 正典六十篇のうち、一番の傑作はどれだろうか。私は「まだらの紐」がベストだと思う。読者のアンケートでも毎回これがトップに来る。ドイル自身も一番気に入っているようだ。「あり得ない話だ」とは誰もが言うことだ。トリックはアガサ・クリスティやドロシー・セイヤーズの時代にはもう通用しなくなったものだ。セイヤーズが一九三五年にオックスフォード大学で行った講演『アリストテレスの探偵小説論』(セイヤーズは『詩学』が最古の探偵小説論だという)で

「科学的な細部についてはあくまで正確でなければならないとアリストテレスは考えていました。もし仮に何かあり得ないような仕掛け(即効性の猛毒で検出不可能なものなど)がないと芸術的効果が出せないのならば、非常手段として使うのも止むを得ないとは言っていますが」

と述べたとき、聴衆も「まだらの紐」を思い浮かべたはずだ。しかし五年前に亡くなった大先輩をセイヤーズは尊敬していた。ホームズ譚が優れているのは「イマジネーションとスタイルのため」だと言ったのはエドマンド・ウィルソンだが、セイヤーズも賛成したに違いない。読んでいるときは情景がありありと目に浮かび、「蛇があんなことを?」などと考える暇がない。
 本書で紹介した英米の批評家や作家はみなシャーロック・ホームズを真面目に取り扱っている。作家はすべて「ホームズに負うところ」がありコナン・ドイルは「同時代でもっとも偉大なドラマ作家の一人」であろうとエリオットは言う。ところが第一章のロバーツ、ノックス、セイヤーズ、スタウトによる論考には、コナン・ドイルの名前は一度も出てこない。ホームズとワトソンは実在したのであり、原稿を編集して自分名義でストランド・マガジンに載せた「著作権代理人」のことは無視するのがエチケットなのだ。しかしシャーロキアンと文芸批評家はホームズ正典を高く評価することでは一致している。
 日本でもシャーロック・ホームズは百年以上前から広く読まれている。ホームズ研究もある程度進んでいるが、実在論に立脚したシャーロキアーナが少ないのは、たいていの読者が翻訳で読むからだろう。ドクター・ワトソンの英語はできれば原文で読みたいものだ。
 本書では私もシャーロック・ホームズをあくまで真面目に扱った。彼のことを真面目に考えていると、不思議なことにまるで探偵本人が実在するような気がしてこないだろうか? そうすると自然に読み方も変わる。それに正典の読みについては、延原謙氏が訳を始めた昭和初年とはずいぶん事態が変わった。「西洋事情」を知らないための誤解は少なくなったし、何でも調べる手段には事欠かない。延原氏の知らなかった飛び道具(インターネットなど)を活用すれば、誰でも斯学の発展に寄与することができる。
 しかしシャーロック・ホームズは別に研究すべきものではない。読んで愉しめばよいのだ。面白いことは請け合いである。
 幸い本文はペーパーバックで簡単に手に入る。インターネット上でも、たとえばCamden Houseというサイトhttp://www.ignisart.com/camdenhouse/ でストランド・マガジンに載った挿絵入りのテキストが見られる。
 翻訳の中では依然として新潮文庫の延原謙訳がベストだと言わざるを得ない(遺憾ながら)。新訳は出ているがどれももう一つだということはこれまで述べてきた。決定版が必要なのではないだろうか。これには乃公出でずんば……
(『シャーロック・ホームズの愉しみ方』の「むすびにかえて――さらにホームズを愉しむために」)

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2011年9月26日 (月)

神保町再訪

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 喫茶店サボウルに入る。何年ぶりか。昔のままで少しも変わっていない。
 まず「灰皿は要りますか?」と聞かれる。「要らない」。昔はそんなことは聞かれなかった。初めから灰皿が出してあって、僕は煙草を吸ったのだった。
 コーヒーを飲みながら買ったばかりの本の頁を繰ってみる。気分は植草甚一である。
 隣のテーブルのおっさん二人は盛んに煙草を吸いながら議論している。喫茶店はこうでなくちゃ。スタバなんかに入るやつの気が知れないよ。

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2011年9月25日 (日)

間違いひとつ

 エー、弘法も筆の誤りとか、猿も木から落ちるなんてえことを申しますな。人間誰しも間違いはするもので、本を一冊書くなんてことになると、間違いは避けられないものです。だから校閲者と編集者がチェックしてくれるのですが、それでも間違いが残ることはあるもので……
 今回の本にも間違いがひとつあるのに気づいた。
 John Everett Millaisという画家の名前が出て来ますが、これを私はジョン・エヴァレット・ミリアスと書いてしまった。Millaisを「ミリアス」と読むなんてどうかしている。これは「ミレイ」ですから直しておいてください。

 

ミレイ,サー・ジョン・エヴァレット Millais, Sir John Everett
英 1829-96
画家.ハンプシャー州サウサンプトン生まれ.11歳から王立美術院で学び,ラファエロ前派の設立者の一人となった.この画風の作品には議論を呼んだ「両親の家のキリスト」(1850,ロンドンのテート・ギャラリー)がある.その後の作品には肖像画が多いが,風景画も何点かある.雑誌の木版挿絵でも有名になった.1885年に准男爵に叙された.後期の作品「しゃぼん玉」(1886)は非常な人気を呼んだ.

 今回も校閲の人が短篇の訳題が食い違っていたのを発見してくれた。敏腕編集者のH氏はフランス語の間違いを見つけてくれた。
 校閲はどなたが担当か知らないが優秀な人であった。『シャーロック・ホームズの回想』の出版年を私は1893年と書いておいたが、「1894年ではありませんか?」と鉛筆で書き込んであった。ウィキペディアでは日本語版でも英語版でも1894年と書いてあるのだから、ここに目をつけるのは当然である。
 ところが、これはウィキペディアの方が間違っているのですね。The Memoirs of Sherlock Holmesのアメリカ版は確かに1894年に出ている。しかし英国版は1893年12月13日に出ているのだ。

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2011年9月23日 (金)

著者である

 むかしクラウン仏和辞典が新発売だったころ、神保町の三省堂書店で本を見ていると、見たことのあるような顔のおっさんが入って来た。おっさんは平積みになっているクラウン仏和辞典をつまみ上げて店員に見せ
「どや、売れてるか?」
「はあ?」
「わしが著者や」
 多田道太郎氏だった。
 あれは真似してみたいなあ。

 9月16日、拙著『シャーロック・ホームズの愉しみ方』が新発売になった。県内では最大の売り場面積を誇る某書店まで車を走らせること20分。平凡社新書9月新発売の『シャーロック・ホームズの愉しみ方』はどこにあるか? こちらです。
 平凡社新書今月の新刊は5冊である。http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/series.sinsho/sinsho2.html

 ところが平積みになっていない。政治主導の落とし穴だけ2冊あるのを除いてほかは1冊ずつしかないから、縦に置いてある。「吾輩が著者である」どころではない。
 同じ日の後刻、友人がその本屋へ買いに行った。「二冊くれ」。その友人にはお世話になったお礼をかねて一冊だけ発売日前に進呈していた。読んでくれて、面白いから人に勧めようと買いに行ってくれたのだ。ありがたい!
 東京の本屋では平積みになっていますが、地方では平凡社新書を置いてない本屋もあります。5冊ともいい本です。インターネットで買ってください。
 
 
 

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2011年9月19日 (月)

手に手をとって(4)

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「仲良きことは美しき哉」
 ベトナムの写真です。http://blog.goo.ne.jp/moto1-26/c/0ddbcc2efb8bc6a20e6f3f6e57ba5b66/1からお借りしました。

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2011年9月17日 (土)

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 プロレスは言葉だ。口から出るものばかりではない。相手にフォールされた時、必死に跳ね返せば、観客には選手のやる気が伝わる。すべての技、すべての動きを言葉にして観客に伝えること、それがプロレスラーの仕事なのだ。
 観客は常に心に響く言葉を求めている。(1985年、p.94)

  一瞬でも「怖い」「凄い」と思わせれば、観客はもう自分のものだからだ。
 相手の技から逃れるためにロープに手を伸ばす。長与千種は決してふつうにはつかまらない。ドラマチックに演出する。
 やや広げた指先に力を込めて数センチずつ動かし、指を一本ずつ、第一関節から第二関節へとゆっくりとロープに乗せた上でようやくつかむ。その間、息を止めていることも重要だ。観客は自分が応援している選手に合わせて呼吸しているものだからだ。レフェリーがロープブレイクを命じると、長与千種はそこで初めて深い息を吐き、観客も一緒に息を吐く。こうして観客は、千種と一体になって試合を戦っているような感覚を得るのだ。(p.p.103-104)

『完本 1976年のアントニオ猪木』ではあの猪木に鋭く切り込んだ柳澤健氏だ。鬼をも拉ぐ猛者かと思いきや、ジャケット裏の著者近影では優男である。強そうに見えない。『木村政彦はなぜ力道山を』の増田俊也氏がいかにも柔道家らしいのとは好対照だ。
 しかし柳澤氏は格闘技を知らないのではない。『1976年』では猪木のレスリングにタックルがないことを鋭く指摘している。『1985年』でもプロレス技術論と「人生」がない交ぜになっている。
『1993年』でも感じたことだが、柳澤氏の強みはインタビューの技術だ。「プロレスは言葉だ」の逆は「言葉はプロレスだ」。プロレスラー柳澤の技の冴えを見よ。

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2011年9月14日 (水)

アマチュアリズムの伝統

丸谷 イギリスには、アマチュアリズムの伝統というものがあるんです。もっともアマチュアといっても、日本の素人とはまったく別の意味ですよ。
 一番の典型が、シャーロック・ホームズなんです。シャーロック・ホームズはたいへんな名探偵であり、警視総監もかなわない。それによって食べているわけじゃなくて、一流の知識人が、趣味として探偵をしているにすぎない。
 こういった態度がイギリスのあらゆる知的行動の基本にあるんですね。文学の場合もそうです。もちろん職業的文学者というものも存在するわけだけれども、その職業的文学者も、心がけとしてアマチュアであることを大事にしている。アマチュアがたまたま文学によって収入を得ている。知的な人間が素人藝として文学をする。しかし、その藝そのものは、シャーロック・ホームズと同じで、玄人以上である。それが大事なわけですね。(p.p.50-51)

 しかし重要なのは単にスコットランド・ヤードを批判することではなくて、その批判の性質である。ルコックにもむろんライバルはいた。ところがこのライバルというのが彼の上司なのに悪意で邪魔をして、あろうことか囚人が独房の窓越しにメモを受け取るのを見逃してやるのである。レストレイドのライバル意識にはむろんこのような唾棄すべき要素はない。プロの誇りであり、本職がアマチュアに反発しているのである。ソクラテスがソフィスト連中に憎まれたのは報酬を取らなかったからだ。ホームズも報酬を受けた事件はほとんどない。「ボヘミアの醜聞」では初めに千ポンドを受け取っているが、あれは当座の費用ということだったから後で精算したはずである。終幕ではエメラルドの指輪をくれるというのを断っている。シティ・アンド・サバーバン銀行に対してもかかった経費分だけいただければ十分ですと言う。ストーナー嬢には「報酬のことですが、私には仕事そのものが報酬なのです」と言う。一方、緑玉の宝冠を三千ポンドで買い戻したときはホルダー氏から四千ポンドを受け取っている。『緋色の研究』では「僕は連中の話を聞き、連中は僕の意見を聞く。それで料金をいただくわけさ」と言う。「ギリシャ語通訳」では探偵業で生計を立てていると認めている。「最後の事件」のころになると、スカンディナビアの王室やフランス政府から十分な報酬を受けたから引退して化学の研究に打ち込むこともできるのだと言っている。こうして見るとホームズも報酬を受けることはあるが、依頼人が支払えるときに限るらしい。それにしても役人ではなくフリーランスだから、昇進のことなどであくせくする必要はない。さらに方法が正反対である。ホームズは一旦捜査に取りかかれば枝葉の問題や眼前の事実によって惑わされたりはしない。これがソフィストの徒輩との違いである。(p.p.70-71 「シャーロック・ホームズ文献の研究」

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2011年9月 9日 (金)

医者の白衣

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『緋色の研究』における有名な出会い。シャーロック・ホームズの方が実験室用の白衣を着ている。ところが白衣なしのイラストもあるのだ。

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1875年、アメリカの医学校での公開手術授業。

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1889年、同じくアメリカ。手術中は白衣を着るようになった。アメリカとイギリスの違いはあるかもしれないが、1859年生まれのコナン・ドイルも1852年生まれのワトソンも授業は白衣なしのスタイルだったのではないか。医者になってからも手術中は白衣を着るとしても、普段の診察のときはフロックコートというスタイルがしばらく続いたのではないだろうか?
 アメリカの手術風景は
http://virtualmentor.ama-assn.org/2007/04/mhst1-0704.html

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2011年9月 8日 (木)

高島先生健在

 前々から「黄色い」という言い方に違和感を持っている。「色」という語(名詞)に直接「い」をつけて形容詞にしていることが違和感の理由である。
 通常、名詞に「い」がついて形容詞になることはない。「山い」「花い」などの形容詞がないこと言うまでもない。
 「色い」にしても、現在言えるのはこの「黄色い」と、比較的最近言われるようになった「茶色い」だけである。そのほかは、「空色い」「水色い」「草色い」「チョコレート色い」など皆言わない。「茶色い」につづいて言われ出すのは「桃色い」ではなかろうかという気がする。
 最近、友人たちとの携帯電話メールのやりとりのなかで色の名の話が出た。それでこの「黄色い」についてちょっと書いておこうという気になった。
(『お言葉ですが別巻4』p.135)

 さりげなく自慢している。携帯電話メールのやりとりだって。高島俊男先生は昭和十八年に国民学校に入ったというお年である。
 この「「黄色い」ということば」のほか、「いぎたない」「中華民国牡丹江省……?」「チャリンコ」「「なのる」の意」「女の学校」がむかしの『お言葉ですが』のスタイルである。連載しているのだったら読者がどんどん手紙を寄せただろう。ところが別巻4は一篇を除いて全部書き下ろしである。てっきり講談社の『本』に連載しているものをまとめたものだと思っていた。
 高島先生健在である。買わなければ損。

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目次(全体320頁)

ことばと文字と文章と(120頁)
いぎたない
「黄色い」ということば
中華民国牡丹江省……?
チャリンコ
「なのる」の意
女の学校
富永仲基の画期性
平田篤胤と片山松斎(30頁)
ラバウルの戦犯裁判(55頁)
閔妃殺害(23頁)
昭和十年代外地の日本語教育(50頁)

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2011年9月 7日 (水)

文豪の翻訳力(2)

文学が行き詰まったとき、転機に差し掛かったとき、現状を打開し新たな可能性を切り拓くものとして、「作家翻訳」は期待され、また機能してきた。(本書のカバーより)

 そうかなあ? 「まるで英語の読めない人が翻訳した」のでは新たな可能性などないだろう。もちろん、英語が読めないことはたとえば富岡氏の詩や小説の価値に何の関係もないことだ。ありがたいことに現代の日本では、日本語(翻訳を含む)だけを読んで文学ができる。昔は英語くらい読めないと困ったとまでは言い切れないが、読めた方がはるかに有利だった。たとえば『金色夜叉』について、ウィキペディアによれば

1980年代になって、硯友社文学全体の再評価の中で、典拠や構想についての研究が進み、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものであるという説が有力になり、2000年7月、堀啓子北里大学講師が、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) 『WEAKER THAN A WOMAN(女より弱きもの)』が種本であることを解明した。

 本書で取り上げている「作家翻訳」は、村上春樹、谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介、堀辰雄、中島敦、三好達治、立原道造、堀口大学、中村真一郎、長谷川四郎、三浦朱門、古井由吉、吉行淳之介、富岡多恵子、池澤夏樹、小島信夫、野坂昭如のものである。
 この中で原語がよく読めて下訳を使わなかったのは、村上春樹のほかには堀口大学、中村真一郎、古井由吉、池澤夏樹くらいだろう。英語やフランス語で小説を読んで訳すなんて辛気くさいことはなかなかできないのである。
 たとえば谷崎潤一郎は中学生のときにプラトンを英訳で読んだというから英語はよくできたはずである。しかし

 もちろんこの時代の谷崎が創作を差し置いて、翻訳のような手間がかかって報われるところの少ない作業に、地道に従事したとは考えにくいので、その多くの訳業において下訳を活用したことはまず間違いないだろう。(本書p.109)

読めない人が蛮勇をふるって自分で訳するか、それとも下訳を活用するのが「作家翻訳」らしい。再び本書のカバーを見ると「村上春樹の精力的な訳業は、二葉亭四迷、森鴎外の「作家翻訳」の伝統を引くものか?」とある。違うでしょう。二葉亭四迷も森鴎外も、翻訳は翻訳で生真面目にやった。村上春樹は二葉亭や鴎外のような偉い翻訳家だ、ということは言えるかも知れない。しかし「作家翻訳」なんてものではないだろう。
  こちとらは翻訳職人だ。見くびってもらっては困るぜ。

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文豪の翻訳力(1)

……の訳し方から分かるように、村上(春樹)はセンテンスを自在に切り分けたり、つないだり、表現を補ったりして翻訳する。それは、文章全体のリズムの再現を最優先事項と考えているからである。(p.97)

(村上春樹の翻訳では)無生物主語を人間に置き換える形で構文転換をしていくことも頻繁に行われる。日本語は基本的に動作主体に人間を据えることが自然である言語なので、こうした構文転換は訳文の読みやすさ向上に大きく寄与している。(p.97)

(下線は引用者)。しかし、村上春樹でなくても文豪でなくても作家でなくても、まともな翻訳者なら誰でもこれくらいのことはする。不肖私だって「非文化的雪かき」の翻訳でこういうふうにしている。「文章全体のリズムの再現」を目指さなくても、日本語と英語では構造が違うのだから、正確に読者に分かるように訳すにはいろいろ工夫が要る。
 井上健氏は村上春樹の翻訳をいくつか原文とともに引用している。これで分かるのは、村上春樹の翻訳がたいへんに上手だということだ。 ほかに本書で取り上げている文豪は谷崎潤一郎から野坂昭如まで17人である。この人たちの翻訳は堀口大学など二三の例外を除いて共通点がある。下手なことだ。ずいぶんひどいのもある。
 たとえば「第四章 戦後作家は何を訳そうとしたのか」の「6「声」の再生」では、ガートルード・スタイン、富岡多恵子訳『三人の女』を取り上げている。井上健氏曰く「富岡風の言い方をするなら、訳者が原作の文体の深層で響いているはずの「声」を、何とか再現できるか否かが問われるのである云々」
 しかし、富岡多恵子氏の訳文を見ると、

 彼女はたいてい気にもしないで、ひとつの話を全然違ったものにしてしまうようなおおまかな断片にきざんでいくのであったが、……

 She always, and yet not with intention, managed to leave out big pieces which make a story very different, ……

 全然だめである。大間違いである。この翻訳については、別宮貞徳氏が『特選 誤訳迷訳欠陥翻訳』で「まるで英語の読めない人が翻訳した」「珍訳迷訳の宝庫」であると切り捨てている。別宮氏が正しいので、どこをどう押せば「声の再生」がどうこうという話になるのか? 作家翻訳だろうが何翻訳だろうが、だめなものはだめ。

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2011年9月 1日 (木)

医者らしい服装

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「医学とは縁を切ってペンの力だけを頼みにやって行くのだと決心すると喜びが込み上げてきた。今でもよく覚えているが、掛け布団の上にあったハンカチを弱った手につかみ、うれしさのあまり天井に向けて放り投げものだ。やっと独立できるのだ。もう医者らしい服装をせずに済み、他人の機嫌を取らなくてもいいのだ。どこでも好きなところへ行って好きな暮らしができる。これは我が生涯の最大の歓喜の瞬間だった。一八九一年八月のことである」。自伝には八月と書いてあるが、日記によれば五月であり、日記の方が正しい。ウィーン行きの場合と同じように、ドイルの記憶の中で猶予の期間が延びてしまったのである。
(ヘスキス・ピアソン『コナン・ドイル伝」より)

 ジョン・H・ワトソンはシルクハットに聴診器を入れているのだった。服装はやはり黒のフロックコートだった。白衣の普及は『ボヘミアの醜聞』よりもう少し後になってかららしい。

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