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2011年10月30日 (日)

ミレーのオフェリア

 御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前に散らついている。裾模様の振袖に、高島田で、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母さん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑が出来ました」
 余はまた写生帖をあける。この景色は画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
 花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。

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2011年10月27日 (木)

マイクロフトの住まい

マイクロフト・ホームズはPall Mallに住んでいて、毎朝角を曲がってホワイトホール(の何という役所?)まで歩いて行き、夕方には戻ってくる。一年を通じてこれ以外に運動はしない。ほかに彼が行くところはマンションの向かいにあるディオゲネス・クラブくらいしかないのだった。

 Pall Mallの発音は? ペルメルに決まっているだろう。パルマルなんて読んだら笑われるよ。
 ところが、David Timsonが『ギリシャ語通訳』を朗読しているのを聞くと(CDではThe Adventures of Sherlock Holmesに入っている)、パルマルと発音しているからびっくりする。固有名詞の発音は、ネイティブが読めばそれが正しいのだ。

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2011年10月25日 (火)

持ち重りする

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 丸谷才一先生の記者会見はびつくりしましたね。あんなにドスのきいた口調で話す人だとは思はなかつた。しかし、あれでなくては86歳で小説なんか書けないだらうな。

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2011年10月21日 (金)

緋色の習作(2)

 しかし『緋色の習作』という訳語が適切かどうかは別の問題である。次のホームズの台詞にstudyが2度出てくる。

I must thank you for it all. I might not have gone but for you, and so have missed the finest study I ever came across: a study in scarlet, eh? Why shouldn't we use a little art jargon. There's the scarlet thread of murder running through the colourless skein of life, and our duty is to unravel it, and isolate it, and expose every inch of it.

 studyを「習作」で置き換えることができるか? 最初のstudyはどう見ても「研究の対象」という意味ではないか。2度目のstudyはart jargonであって、モーレー氏の言うようにA Study in Such and Such a Colorの形であるが、

  studyをOEDで引いてみる。意味は12に大分類されている。7番目が「研究対象」の意味である。

7. a. That which is studied; the object of one's study. Chiefly with possessive. 
 これは「研究の対象」である。
   
7. b. Something worth studying, or that requires to be studied; an object presenting effects of colour (and the like) attractive to an artist. Hence applied to the face registering an expression of incredulity, etc. (colloq.).
 「研究する値打ちのあるもの」→「見物(みもの)」

 art jargonというが、artに関係する意味は10番目に出てくる。

10. a. An artistic production executed for the sake of acquiring skill or knowledge, or to serve as a preparation for future work; a careful preliminary sketch for a work of art, or (more usually) for some detail or portion of it; an artist's pictorial record of his observation of some object, incident, or effect, or of something that occurs to his mind, intended for his own guidance in his subsequent work. Also, occas., a drawing, painting, or piece of sculpture aiming to bring out the characteristics of the object represented, as they are revealed by especially careful observation.

 下線を付さない部分はだいたい日本語の「習作」でよろしいだろう。下線部は習作ではなくて、それ自身独立の作品だろう。
 ホイッスラーのお母さんを描いた作品は、普通ならばportraitと呼ぶところだ。画家自身はarrangementと呼んだ。画題がお母さんでも景色でも同じだ、と言うつもりか。一般にはstudyと呼ばれた。しかし「習作」ではなくて立派な作品であることは間違いない。
 訳文はやはり「研究」くらいでしょう。A Study in (a) Color(s)でも、「研究対象」の意味になることはある。OEDの7.bの例文

1894 Yellow Bk. I. 192 The harpist, whose nose is a study in purples.

「鼻を紫色で描いてみた」のではなくて紫色は鼻という対象の(一時的ではあるが)属性だ。A Study in Scarletでも、事件そのものが「血の色」をしているのだ。緋色で描いてみたのではない。
 しかし「ダブルミーニング」とも言えなくはないが、英語では研究vs習作ではなくてstudyの一語だ。

◇「何が誤訳なのか、考えてみましょう」だって? 誤訳が誤訳なんですよ。私はそういうのを指摘した。「軍人の家庭教師」と「陸軍士官学校受験予備校の教師」では、大違いのはず。ところが「そんなことはもうずっと前からウィキペディアに書いてあります」と言ってきた人がいる。やれやれ。題名は特殊なので、研究でも習作でも別に誤訳ではない。そういう話ではないのですがね。

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2011年10月20日 (木)

緋色の習作

 米国の有名なシャーロキアン、クリストファー・モーレー(1890―1957)はSherlock Holmes and Dr. Watson(1944年)という高校生向けの本を編集した。この本のはじめにはA Study in Scarletが収録されたが、モーレーはこれに10題のTOPICS FOR DISCUSSIONを書き加えている。その第一は

1. PAGE 23.  Dr. Doyle's title for his first Sherlock Holmes story was conspicuously highbrow. In the art jargon of that day paintings were frequently called "A Study in Such and Such a Color." For instance Whistler's "Nocturn in Green and Gold," or the Portrait of his Mother, often alluded to as "A Study in Black and Grey." Whistler was at the height of his renown when A Study in Scarlet was written.
(The Standard Doyle Company, p.135)

『緋色の習作』の訳題を提案したのは土屋朋之氏であるという。

 以下、英語版ウィキペディア。ホイッスラー母の肖像はA Study in Black and Greyとも呼ばれるが、画家自身はArrangement in Grey and Blackという題を付けたようだ。

Arrangement in Grey and Black: The Artist's Mother, famous under its colloquial name Whistler's Mother, is an 1871 oil-on-canvas painting by American-born painter James McNeill Whistler. The painting is 56.81 by 63.94 inches (144.3 × 162.4 cm), displayed in a frame of Whistler's own design, and is now owned by the Musee d'Orsay in Paris. It occasionally tours worldwide. Although an icon of American art, it rarely appears in the United States.

Whistlersmother

History

Anna McNeill Whistler posed for the painting while living in London with her son. Several unverifiable stories surround the making of the painting itself; one is that Anna Whistler acted as a replacement for another model who couldn't make the appointment. Another is that Whistler originally envisioned painting the model standing up, but that his mother was too uncomfortable to pose standing for an extended period.
The work was shown at the 104th Exhibition of the Royal Academy of Art in London (1872), but first came within a hair's breadth of rejection by the Academy. This episode worsened the rift between Whistler and the British art world; Arrangement would be the last painting he would submit for the Academy's approval.
The sensibilities of a Victorian era viewing audience would not accept what was apparently a portrait being exhibited as a mere "arrangement"; thus the explanatory title "Portrait of the Artist's Mother" was appended. It was from this that the work acquired its popular name. After Thomas Carlyle viewed the painting, he agreed to sit for a similar composition, this one being titled Arrangement in Grey and Black, No. 2. Thus the previous painting became Arrangement in Grey and Black, No. 1 more or less by default.

 カーライルの侠気が分かるエピソードですね。ホイッスラーの評判が悪いので助っ人を買って出たのだ。

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2011年10月19日 (水)

イギリスの予備校(4)

 しかし、どういう訳語がよいかは別の問題だ。

Half a mile off, however, is Harold Stackhurst's well-known coaching establishment, The Gables,quite a large place, which contains some score of young fellows preparing for various professions, with a staff of several masters.

 コーチング・エスタブリッシュメントは確かに「予備校」だろうが、そう訳するのがよいかどうか? 予備校と書いてあれば、読者は代々木ゼミナールなどを思い浮かべてしまう。
 先生と生徒が一緒に寝泊まりして勉強する学校を何と呼ぶか? 「塾」である。福沢諭吉(1835―1901)は、安政二年(1855年)大坂で緒方洪庵の「適塾」の塾生となった。塾生は一つの家に寝泊まりして勉強した。江戸時代には蘭学塾でも漢学塾でも「何十人かの青年が一緒に寝起きしている」のが普通だった。(松下政経塾も寄宿制だ。松下村塾は通学制だったらしい。伊藤博文は早稲田政経卒ではない。)
 ステイプルトンの学校も漱石の下宿先の元学校もハロルド・スタックハーストの「ザ・ゲイブルズ」も寄宿制だった。ヴァイオレット・ハンター嬢が校長になった学校も多分そうだ。イートンやハロウのような大規模なものから下宿屋に転業するような小規模なものまで、私塾が英国では学校の主流だった。その中にはザ・ゲイブルズのように試験の準備に特化した予備校もあった。
 訳語は、「ハロルド・スタックハーストの有名な塾、ザ・ゲイブルズ」とするか? やはり「学校」の方がよいだろうか? 慶応出身者が「塾」と言えば慶応義塾大学のことだそうだけれど……

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2011年10月18日 (火)

一人のムッソリーニも

   支那
 蛍の幼虫は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してしまはぬ。いつも新しい肉を食ふために蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。

   又
 今日の支那の最大の悲劇は無数の国家的浪漫主義者即ち「若き支那」の為に鉄の如き訓練を与へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

(侏儒の言葉は大正十二年(1923年)から昭和元年(1926年)に文藝春秋に連載された。)

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2011年10月17日 (月)

イギリスの予備校(3)

 ザ・ゲイブルズは、ハロルド・スタックハーストが経営者兼校長を務める小規模の私立学校である。このような学校は19世紀末にはかなりあったらしい。『バスカヴィル家の犬』で、ステイプルトンはどう言っているか?

「学校をやっておりましてね」とステイプルトンが語り出した。「北の方におったのです。私の気質ですから、ああいう仕事は単調で退屈でしたが、若い人たちと生活をともにし、精神の形成を助けたり、自分の性格や理想をきざみつけたりするのは、とてもやり甲斐のあることでした。でも、運がなかったんですね。学校がひどい流行病にやられて、三人も犠牲者を出しました。その打撃からたち直れなくて、資産もあらかた消えてしまいました。もっとも生徒たちに接する機会がなくなったことを別にすれば、不運もまたよしと言いたいところですが」(富山太佳夫訳)

 夏目漱石がロンドンで下宿した家も元は私立学校だった。
 
 かかるありさまでこの薄暗い汚苦しい有名なカンバーウェルと云う貧乏町の隣町に昨年の末から今日までおったのである。おったのみならずこの先も留学期限のきれるまではここにおったかも知れぬのである。しかるにここに或る出来事が起っていくらおりたくっても退去せねばならぬ事となった、というと何か小説的だが、その訳を聞くとすこぶる平凡さ。世の中の出来事の大半は皆平凡な物だから仕方がない。この家はもとからの下宿ではない。去年までは女学校であったので、ここの神さんと妹が経験もなく財産もなく将来の目的もしかと立たないのに自営の道を講ずるためにこの上品のような下等のような妙な商買を始めたのである。彼らは固より不正な人間ではない。正道を踏んで働けるだけ働いたのだ。しかし耶蘇教の神様も存外半間なもので、こういう時にちょっと人を助けてやる事を知らない。そこでもって家賃が滞る――倫敦の家賃は高い――借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、しまいに閉校する。……運命が逆まに回転するとこう行くものだ。可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー不憫なる――憫然なる彼らはあくまでも困難と奮戦しようという決心でついに下宿を開業した。その開業したての煙の出ているところへ我輩は飛び込んだのである。(夏目漱石『倫敦消息』)

 漱石が「昨年の末」と言うのは1900年の年末であった。1900年の10月にロンドンに着いて以来三軒目の下宿である。倫敦漱石記念館のサイトによればhttp://soseki.intlcafe.info/lodgings/lodging-3.html

 漱石が移ってきたこの下宿の家族構成は、主人のブレット夫妻、ブレット夫人の妹ケイト・スパロー、下女、女学生、使用人、そして日本人下宿人数名であった。ブレット夫人と妹のケイトは下宿屋を始める以前、小さな私立女学校を経営していたが、伝染病が発生して閉鎖、以後下宿屋に変わった。
 下宿の主人は日本人好きでよく日本人を下宿させており、漱石が移ってきた当時、田中孝太郎、渡辺和太郎など5名の日本人がいた。

 むかしの英国では私立学校は割合に簡単に作ることができ、簡単に潰れる場合もあったらしい。ハロウやイートンのような伝統があって財政的基盤がしっかりしている学校ばかりではなかった。「ぶな屋敷」の事件の依頼人だったヴァイオレット・ハンター嬢は、後にウォールソールの私立学校の校長になったというが、どのような学校だったのだろうか?
 英国の学校は私立学校の方が歴史が古くて主流だった。シャーロック・ホームズが「まさに灯台だよ。未来を照らす灯だ」と誉め称えた公立小学校board-schoolsは、1870年になってようやくできたものだ。

「イギリスの予備校」という題で書き始めたが、結局coaching establishmentと呼ばれているからには予備校であろう、ということしか分からなかった。むかしの英国の教育制度は複雑だったのだ。

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2011年10月15日 (土)

イギリスの予備校(2)

「モリアーティ元教授の職業」ではarmy coachという英語の用法を検討して、これが「軍人の家庭教師」などではなくて、「陸軍士官学校受験予備校の教師」の意味であることを明らかにした。これは2006年4月に私が本ブログで初めて書いた(ウィキペディアの記述が修正されたのはこれより後です)。
 coaching establishmentはどういう意味か?
 coachingをOEDで引いてみよう。

  1番目は「coachと呼ばれる馬車で旅行すること」という意味である。2番目の意味として

University colloq., etc. Special tuition for an examination, or training for an athletic contest ; special instruction.

 すなわち、coachingという語は、大学などで使われる言葉で、「試験のための特別指導」「運動競技のトレーニング」「特別教育」というような意味である。

 coaching establishmentというのは「予備校」であろう。
「モリアーティ元教授の職業」では、予備校を英語ではふつう「クラマー」と言うことを明らかにしてから、「ほかの試験のための予備校も少しはあったが、クラマーと言えばまず陸士か海兵の予備校で、たくさんあった」(p.251)と書いた。
 ザ・ゲイブルズは、「いろいろな知的職業(professions)をめざして勉強」する学校だから、「ほかの試験のための予備校」だろう。軍人はふつうprofessionsには含めないはずだ。リーダーズ英和辞典には、professionの語義として

1a 《頭脳を用いる》専門的職業, 知的職業, 《一般に》職業《もとは神学・法学・医学の 3 職業を the (learned) ~s といった》

 ホームズがvarious professionsと書いているのは具体的にどのような職業か?(あるいは軍人も含まれていたのか?)
 それぞれの職業にはどのような試験に合格することが求められたのか? 
 ザ・ゲイブルズではそれぞれの試験に備えてどのような教育をしていたか?

 というようなことが分かるとよいのだが、現在の私にはそこまで調べる手掛かりがない。英語の各種注釈を見ても具体的に書いてあるものはない。
 しかし、ザ・ゲイブルズでは、イアン・マードックという教師が「朝食前に代数学の講義をすると言ってきかなかった」というのだ。普通の学校ではなかったことは確かだ。オックスフォードかケンブリッジでボートの大学代表選手だったスタックハーストという男が主宰する小規模の私立学校であって、数学を含む各科のcoachingを行う予備校だったのだろう(駿台や代々木ゼミナールのような大規模の予備校はもちろんなかった)。

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2011年10月14日 (金)

イギリスの予備校(1)

 予備校の話は、「モリアーティ元教授の職業」(『シャーロック・ホームズの愉しみ方』に収録)で読んだ? まだ付け足しがあるのです。

  My house is lonely. I, my old housekeeper, and my bees have the estate all to ourselves. Half a mile off, however, is Harold Stackhurst's well-known coaching establishment, The Gables,quite a large place, which contains some score of young fellows preparing for various professions, with a staff of several masters. Stackhurst himself was a well-known rowing Blue in his day,and an excellent all-round scholar.

 我が家はぽつんと一軒家である。私、年とった家政婦、それに私の蜜蜂どもがこの地所を占領している。もっとも半マイルほど向こうにはハロルド・スタックハーストがやっている有名な学校「ザ・ゲイブルズ」がある。かなり大きい施設で、いろいろな知的職業をめざして勉強している何十人かの青年が、数人の教師と一緒に寝起きしている。スタックハースト自身も若い頃は大学代表(ブルー)にまでなった有名なボート選手で、学業も何でもござれの優等生だった人であった。
(ライオンのたてがみ、高山宏訳)

 coaching establishmentを高山氏は「学校」と訳しておられる。これは別に間違いではない。しかし原文にはschoolと書いてあるのではないから、特殊な学校なのである。
 普通の学校で青年が教師と一緒に寝起きしているのならばパブリックスクールである。

イングランドおよびウェールズのパブリックスクールは、イギリスのジェントルマン階層の子弟を養成するものとして、深くイギリスの社会の中に浸透している。大部分は寄宿制であり、一流大学進学を前提とする裕福な階層の子ども達が、厳格な規律の下に集団生活を送っている。自由と規律、公正なスポーツマンシップと互いの尊重など、イギリスの教養ある人士の基本となるものを身に着ける為の学校であるとされる。(ウィキペディア)

 有名なパブリックスクールとしては、ハロウ校、イートン校、ラグビー校などがある。ウィンストン・チャーチルの学んだハロウ校は

ハロウ校(Harrow School)は英国の伝統的な全寮制パブリックスクール(男子校)。ロンドン中心から北北西のハロウ・オン・ザ・ヒルという緩やかな丘の上に位置する。1572年エリザベス1世の勅命を受け、農業で財をなしたジョン・ライオンが地元の男子の教育のために同校を創立した。卒業生はオックスフォード大学、ケンブリッジ大学などに進学する。現在13歳から18歳まで、日本の中学・高校にあたる5学年800名ほどの生徒が11の寄宿舎で暮らしており、年間の授業料は£23,625。
緑溢れた広大な敷地内には、校舎や学寮(ボーディングハウス)以外に、農場、湖、さらにスポーツの盛んな同校らしく、ラグビー、サッカー、クリケット、テニスなどの競技場、9ホールのゴルフコースがある。カリキュラムには軍事訓練もあり。(ウィキペディア)

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 ハロルド・スタックハーストがやっている有名な学校「ザ・ゲイブルズ」は、パブリックスクールとどう違うか?

(1)規模が違う(小規模のパブリックスクールもあるかも知れぬが)。
(2)勉強の目的が違う。(ザ・ゲイブルズでは「いろいろな知的職業をめざして勉強」するが、パブリックスクールは違う。)
(3)コーチング・エスタブリッシュメントという呼び方が違う。
(続く)

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2011年10月12日 (水)

インド財閥のすべて

 アマゾンでは、「革命人士」というペンネームの人が次のようなカスタマーレビューを寄せている。この人はすでに560件のレビューを書いている精力的な本読みである。

(星三つ) タタだけじゃない、インドの財閥経済, 2011/10/9

 タタ財閥しか知らなかったが、血縁が重んじられるインドでは財閥が幅を聞かせていて、インドの株式指数に入っている企業の7割が財閥系という。本書では、19世紀中盤からの財閥史のほか、頂点に君臨するタタ、多数の企業群を整理統合して再生するビルラ、急成長の後、兄弟で分裂したリライアンスというインドを代表する3大財閥にそれぞれ1章を割き解説しているほか、中規模財閥群についても簡潔に紹介されている。
 19世紀の英国支配で、東インド会社と取引していたインドの商人グループが財閥化した。機を見るに敏な商人財閥は、その後の民族主義運動、独立後の護送船団経済と特定の産業振興策と、時流にその都度うまく乗り、生き残ってきた。ムンバイの拝火教徒だったタタ財閥の勃興にはアヘンの清国輸出も大きな支えになったし、ビルラ財閥の当主はガンディーの最側近の一人で、ガンディー暗殺はビルラ家の門前だったという。
 タタ財閥は創立時の日本郵船と共闘して、世界の海運を独占していたイギリスのP&Oと戦ったいう話を読み、その歴史の古さを知った。新興国として急成長するインド経済に大きな関心が集まっているが、インドの近代経済システムの基盤が昨日今日できたものではない、香港や日本と同時期であるというのに驚いた。同時に「これだけ商売上手が多いのに、なぜ近年まで経済が低迷していたのか」という疑問もわいたが。

 星三つは点が辛いと思うが、なかなか筆力がありよく内容を伝えている。ただ下線部はちょっと読み違えだ。ガンディーの暗殺について本書では

 一九四八年一月三〇日午後五時七分、ガンディーが、ヒンドゥー教右派の青年ゴードセイによって銃弾を浴び暗殺された。
 デリーの官庁街に面したビルラ邸。その正門から向かって右端にあった離れをガンディーは定宿としていたが、ここで事件は発生した。ガンディーは最後まで印パ分離独立に反対し続け、独立後も宗教暴動を沈静化するための融和メッセージを発信していたが、ヒンドゥー教右派からは疎ましく思われていたのである。(p.138)

 インドについては私も部分的な知識がある。巨象を知るには群盲が知識を持ち寄ればよい。ガンディーの暗殺については

 一九四八年一月三十日であった。場所はニューデリーのガンシャン・ダス・ビルラの邸宅の一室であった。時は午後四時三十分であった。ガンディーは床に坐っていつもの通り夕食を食べながら、ネルーとの対立を調停しようとパテルと話していた。アバー・ガンディーが入ってきて、ガンディーのドーティーにピンで留めた大きな時計を指さした。ガンディーは立ち上がり、バスルームに行ってから、アバーともうひとりの若い女性、マヌ・ガンディーの肩に手を置いて外に出た。三人は庭の芝生の方へ足早に歩いた。そこにはすでにガンディーの夕べの祈りに参列する会衆が五百人ほど集まっていた。人々は彼のダルシャンを受け足に触ろうと殺到した。ガンディーは娘たちの肩から手を放し、合掌して挨拶した。彼がいつも坐る木の壇から数ヤードまで来たとき、髪を短く刈り瞼の厚い屈強な男が会衆をかき分けて彼の前に進んだ。額ずくように見えたが、そうではなかった。男は小さなピストルを三発撃った。ガンディーは地面に崩れ落ち、こときれた。衝撃と混乱の中で、弟子たちは遺体をビルラ邸に運び入れた。遺体は、彼が最後の日々を過ごした部屋に安置された。 (p.p.227―228)

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2011年10月11日 (火)

葬式仏教の誕生

 日本には約七万六〇〇〇もの寺院がある。その数はコンビニより多い。コンビニが人々の大きな需要を満たしているように、寺院や僧侶にも大きな役割があるはずである。(p.11)

  コンビニより多いとは知らなかった。これから読むところだけれど、さすが平凡社新書だ。ためになる。
 葬式仏教で構わないのだけれど、私の不満は、たとえば墓参りに行って午後五時になると自動鐘撞機が作動してゴーン、ゴーンと鐘が鳴り始めることだ。仏教にコンピュータを導入しては困るよ。その辺のことは書いてあるだろうか。

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2011年10月 9日 (日)

シャーロック・ホームズと100人の賢者(3)

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「で、ドアにこの紙(「赤毛連盟は解散した。1890年10月9日」)の出ているのを見てから、あなたはどうされました?」
「腰を抜かしました。どうしていいか、分かりません。で、とりあえず同じ建物の中にあるほかの事務所を尋ね回りましたが、どこへ行っても何も知っている者はいない。最後に、一階で会計士をしている家主のところへ行って、赤毛連盟はどうなったのかと尋ねましたところ、そんな連盟なんぞ聞いたこともないという返事です。ではダンカン・ロスはと聞きますと、そんな人の名もいま聞くのが初めてだと言います。
『ほら、あの四号室の紳士ですよ』と重ねて申しますと、
『四号室の? ではあの赤毛の人ですね?』
『それです』
『あの人ならウィリアム・モリスというのですよ。あの人は事務弁護士で、新しい事務所が出来上がるまで、一時の間に合わせに私のところを使っていたのです。今日そっちへ引っ越して行きました」

 ところがその「新しい事務所」がキングエドワード街17番地にあると聞いてジェイビズ・ウィルソンさんが行ってみると、そこはaritificial knee capsの製造所であった。「人工膝キャップ」とは何だ? しかし、ウィリアム・モリスもダンカン・ロスもそこの人は知らないと言った。

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ウィリアム・モリス(William Morris, 1834年3月24日 - 1896年10月3日)は、19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれる。(ウィキペディア)

「民芸と社会主義だって? しゃらくさい」なんて言葉はthe good old doctorの口からは出なかったはずだ(「しゃらくさい」の英語は?)。しかし彼の趣味とは相容れない。悪者の仮名くらいが相応だ。それはともかく100人目の賢者である。

◇ところで、エリオットとホームズの関係について、『シャーロック・ホームズの愉しみ方』の著者が「自分が初めて指摘した」と主張している――と仄めかしている向きがあるようだ。下司の勘ぐりだ。あるいは「何とか先生が関西支部の会合で発表した方が早い」とか、8月発売の何とかいう本の方が早いなんて言うのもいる。まったく無意味だ。今まで何人の読者がエリオットとホームズを読んできたか? とっくに誰かが指摘しているに決まっているじゃないか。少しは常識で考えてみなさい。諸君の脳みそは豆腐か?
  私がプライオリティを主張できるのは別のことだ。

 

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2011年10月 8日 (土)

シャーロック・ホームズと100人の賢者(2)

 水野氏によると、劇団四季の『キャッツ』の原作であるMacavity: The Mystery Catについては、植田弘隆『シャーロック・ホームズ悠々学々』(透土社)に出ているそうだ。この本のことも知らなかった。
 The Final Problemというサイトhttp://www.kcat.zaq.ne.jp/sno/cue/holmes/03.html
 によると、「EQに長きにわたって連載されていた、シャーロキアーナの集大成的な本です」というのだけれど、知らなかった。古書の「スーパー源氏」http://search.newgenji.co.jp/sgenji/L3/?10167213/ に『シャーロック・ホームズ遊々学々 シャーロキアンの悦楽記』と題名の漢字が間違ったのが出ている。平成13年(2001年)刊だから、水野氏の本より古い。945円で入手できるのだが、そこまで手を伸ばすのは面倒だ。(『ホームズ翻訳への道』の行き届いた注を見ると、谷沢永一のいわゆる「書誌学の才能」という言葉の意味が分かる。)
 エリオットの猫詩集もたしか1970年代末に読んだはずである。『シャーロック・ホームズの愉しみ方』の巻末の参考文献は、中西裕氏の本などとちがっていい加減なものである。友人に原稿を見てもらったら「参考文献をずらりと並べておくとかっこいいぜ」と言うので手元にあるホームズ本を並べたのである。Old Possum's Book of Practical Catsも本当はエリオットの出版社であるFaber社の版で読んだはずだ。ところがその本が見つからなくて面倒だとアマゾンを見て適当に書いておいたのだからひどい。
  あの詩集はたしか
 The naming of cats is a difficult matter.
 で始まるのだった。「なるほど、それで『名前は未だ無い』なのだな」と思って読み進んで行くと、何番目だったかにMacavityという悪い猫の詩が出て来て

Macavity's a ginger cat, he's very tall and thin;
You would know him if you saw him, for his eyes are sunken in.
His brow is deeply lined with thought, his head is highly domed;
His coat is dusty from neglect, his whiskers are uncombed.
He sways his head from side to side, with movements like a snake;
And when you think he's half asleep, he's always wide awake.

 モリアーティ教授を借りていることはすぐに分かった。初めて読んだときには、まだミュージカルの『キャッツ』はなかったはずだ。これも私が気づくくらいだから、ゴマンといるエリオット研究者が論文くらいは書いているはずだ。どなたか書誌学の素養のある人が調べてください。
「シャーロック・ホームズ短篇全集の書評」は、中公版全集にないのだから、if I am not miskaken, 本邦初訳のはずである。
 いや、それより、百人目の賢者を挙げるつもりだった。

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2011年10月 7日 (金)

シャーロック・ホームズと100人の賢者(1)

 水野雅士氏の本の題は『シャーロック・ホームズと99人の賢者』である。
 旧約聖書のヨシュアから不完全性定理のゲーデルまで99人、シャーロック・ホームズに関わりのある賢者を網羅している。日本人も一人いる。聖武天皇である。T・S・エリオットが入っていないはずがあろうか。果たして79番目の賢者が、「20世紀モダニズムの代表的詩人」、トマス・スターンズ・エリオット(1888―1965)である。
 Murder in the Cathedralと「マスグレーヴ家の儀式」の関係について、私が知らなかったことが書いてある。(博捜は得手ではないのです。)
 
 もっとも有名なのは、彼が1935年に発表した『大聖堂の殺人』で、ホームズ物語の《マスグレーヴ家の儀式》を剽窃したのではないかという議論をめぐって「タイムズ文芸付録」の1951年1月19日号、1月26日号、2月23日号の誌上で、それぞれ活発な書状のやりとりが繰り広げられたことである。(水野氏p.297)

 剽窃!? 私はMurder in the Cathedralを初めて読んだときに「あ、ホームズだ」と思った。1970年代に寝ころんで本を読んでいた日本人に分かったくらいなのだから、初演時のイギリスの観客にはもちろんすぐに分かっただろうと思っていた。だから「1935年6月にカンタベリーでこの劇詩が上演されたときには、すでにアーサー・コナン・ドイルは亡くなっていたが、観客はシャーロック・ホームズの引用に気づいたはずだ。」(『シャーロック・ホームズの愉しみ方』p.123)と本には書いたのである。

 まさか1951年になって剽窃という言葉(英語は?)が出ていたとは。
 しかし、シャーロキアンたちはエリオットが怖かったらしく、直接彼に聞かずに、「ニューヨークのネーサン・ペンギス氏」に頼んでエリオットに尋ねてもらった。「私が『マスグレーヴ家の儀式書』を用いたのは、よく考えてのことであり、十分に意識してのことでした」という御大の回答をネーサン氏を通じてもらって、議論に決着がついたそうである。

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2011年10月 6日 (木)

怪人二十面相

 そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました。
「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな盗賊のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、変装がとびきりじょうずなのです。

 有名な書き出しですね。おわりの方では、

「おお、小林君」
 明智探偵も、思わず少年の名を呼んで、両手をひろげ、かけだしてきた小林君を、その中にだきしめました。美しく、ほこらしい光景でした。この、うらやましいほど親密な先生と弟子とは、力をあわせて、ついに怪盗逮捕の目的をたっしたのです。

 このお話では二十面相は逮捕されたらしい。しかし、その後も名探偵と怪盗のたたかいは続きました。
 たぶん怪人二十面相の事件に関して、明智小五郎がシャーロック・ホームズに出した手紙をブログ筆者は発見しております。

「明智小五郎からシャーロック・ホームズへ」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_2074.html

 これは今度の本には載せられなかった。ホームズは来日したこともあるらしい。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/1-e03c.html

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2011年10月 5日 (水)

プーチン

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2011年10月 4日 (火)

翻訳権について

 1928年(昭和3年)、改造社の世界大衆文学全集第21巻『シャアロック・ホウムズ』が出た。全618頁。「深紅の絲」「四つの署名」「赤髪聯盟」「口の曲がった男」「まだらの紐」「白銀号事件」「マスグレーヴ家の儀式」「金縁の鼻眼鏡」「六つのナポレオン」が延原謙訳で収録された(新井清司氏の書誌による)。
 コナン・ドイル(1959―1930)はまだ健在であった。1927年に『シャーロック・ホームズの事件簿』を出した。1928年には『シャーロック・ホームズ短篇全集』を出した。この年にロナルド・ノックスの1911年の講演『シャーロック・ホームズ文献の研究』がノックス著Essays in Satireという本の一部として刊行され大反響を呼んだ。翌1929年には、T・S・エリオットが『シャーロック・ホームズ短篇全集の書評』を書いた。いずれも『シャーロック・ホームズの愉しみ方』に収録されているので、読んでみて下さい。(「愉しみ方」は「あくびの仕方」みたいで変だという意見もある。)

 しかし、戦前は外国人作家の著作権は無視されたらしい。著作権保護のベルヌ条約に日本も1899年(明治32年)に加盟したが、実際には、原著者の承諾を得ずに、著作権料も払わないで、勝手に訳し放題だった。二葉亭四迷のツルゲーネフ『あひびき』などの翻訳は1896年(明治29年)であるからかろうじてセーフであるが、森鴎外の『諸国物語』となると1915年(大正4年)刊で同時代作家の作品をかなり収録している。たとえばリルケ(1875―1926)などは鴎外(1862―1922)より年下である。仮にベルヌ条約が厳格に適用されていたら、外国文学の翻訳はほとんどできず、近代日本文学の様相が変わっていただろう。たとえば、ヴァレリー(1871―1945)は同時代人だったし、ボードレール(1821―1867)だって本来なら翻訳には遺族の許諾が必要だったはずだ。

 

  ところが戦後になると、延原謙は昭和25年にこう書いている。

……それにしても残念なのはシャーロック・ホームズ全集の翻訳が許可されないことである。理由はドイルの嗣子デニス氏の承諾が得られないことだが、これは戦争と関係があるやうに思はれ、痛嘆してゐる。シャーロック・ホームズ全集だけは原稿をのこしてこの世にお別れしたいのが私の念願である。
(延原謙「藝人の弁」の一部、中西裕『ホームズ翻訳への道』p.239より)

 中西裕氏は同じ頁に、「問題が解決して、翌々年(昭和27年)には全集が完成できた」と書いている。月曜書房版全集である。
 戦後は占領軍がベルヌ条約の厳格な適用を迫ったらしい。それに加えてドイルの次男デニスが当初は「ジャップなんぞには父の作品を翻訳させない」とがんばったようだ。
 現在は、もちろん外国人の著作にも死後50年までの著作権が適用されている。
 それなら、T・S・エリオット(1888―1965)の作品などはどうか? 『T・S・エリオットのシャーロック・ホームズ論』は著作権継承者の許諾を得ずに勝手に訳した。これには「十年留保」という規定があるのです。著作権の問題はなかなかむつかしい。下の写真などはいわゆるfair useにあたるのかどうか? 

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2011年10月 3日 (月)

ホームズ翻訳への道

 延原謙が改造社版『世界大衆文学全集』でシャーロック・ホームズを訳したのが昭和三年(1928年)である(新井清司氏作成の書誌による)。(『シャーロック・ホームズの愉しみ方』p.30)

 私は上のように書いたので、「これより古い延原訳ホームズはありません」ということではない。そこまでは知らない、これだけ書けば十分だろうと思ったのである。
 延原謙訳のシャーロック・ホームズが初めて出たのは『ホームズ翻訳への道』によれば大正十年(1921年)のことである。博文館の雑誌『新青年』の大正十年十月号にコナン・ドイル作『死の濃霧』が載った。これは『ブルースパーティントン設計図』(ストランド・マガジン1908年12月号)の翻訳であった。このときは訳者名は雑誌に載らなかった。
 延原謙は明治25年(1892年)生まれ、1915年(大正四年)に早稲田大学理工学部を卒業した。専攻は電気工学であった。卒業後は大阪市電鉄部→日立製作所→東京電気会社と勤務先を替え、大正十年(1921年)に逓信省電気試験所の職員となった。大正十二年(1923年)の関東大震災は逓信省職員として経験したらしい。
 延原謙の翻訳は新青年編集長の森下雨村に高く評価されたらしく、以後『新青年』にホームズ物をはじめ探偵小説の翻訳を載せるようになる。延原がいつ翻訳家専業になったかは明かでないが、昭和二年にはまだ逓信省に勤務していたらしい。
 新井清司氏の書誌によれば、昭和六年(1931年)から八年(1933年)にかけて改造社から『コナン・ドイル全集』が出ている。これは全8巻で文字通りの全集ではないはずだ。シャーロック・ホームズは全部含まれていたようだが、訳者は延原謙一人ではない。横溝正史や木村毅なども翻訳を分担している。
 延原謙一人で正典全部の個人訳を成し遂げたのは戦後のことである。昭和26、27年に月曜書房から全十三巻の『シャーロック・ホームズ全集』が刊行された。第十三巻にアーサー・ウィテカー作のThe Man Who Was Wantedが「求むる男」という題で収録されている。正典の61篇目という扱いだったらしい。この月曜書房版が現在の新潮文庫版の元であるらしい。

 以上は、ブログ筆者が中西裕『ホームズ翻訳への道――延原謙評伝』を読み、ちくま文庫版シャーロック・ホームズ全集第十巻附録の新井清司氏による書誌も見てまとめたものだ。中西裕氏の書いたものは、私に言わせればもっとごちゃごちゃしている。延原謙が使ったらしい筆名の考証などもある。第一章は延原謙の父馬場種太郎の話である。本人が生まれる前から始めなくてもいいじゃないか。もう少し簡潔にまとめたらいいだろう――と思うのは、私が「書誌学」や「考証」というものを知らないからであるらしい。38頁にわたる巻末附録「延原謙著作目録稿」のような資料を作るには、こういう文章を面白がって書き読むことができる必要があるようだ。
 新井清司氏や中西裕氏の仕事は貴重だ。喜んで利用させてもらうけれども、自分で似たような作業をやるのは御免だ。
 

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2011年10月 1日 (土)

レイチェルじゃないよ

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 ドイツ語で「復讐」という意味なのだ(『緋色の研究』)。

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