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2011年11月11日 (金)

マコーリーの遺産

(マコーリーは)1834年には自らインドに赴任した。インド刑法典の編纂、および英語教育の普及に関して長大な覚え書きを残した。刑法典は改正されつつ今もマコーリーの編纂した形を残し、一方でシンガポール・ナイジェリアなど他の植民地の刑法典もマコーリーのものが基礎になっている。英語教育では、英語話者をインドに多数輩出してインド人をイギリス人に作り替えようと説いた。英語はのちに、インドの公用語のひとつになっている。(ウィキペディア)

 マコーリーの植民地用刑法典には「ムチ打ち刑」が定められていた。ムチで叩かれるのは、もちろん「現地の土人」である。『ガンディーと使徒たち』から、1906年の南アフリカと1919年のインドを見てみよう。

 1906年初め、ズールー族の酋長がズールーランドに入った徴税官を投槍で殺し、この事件をきっかけに騒乱が起こった。英国は一八八七年にズールーランドをナタールに併合していたが、主として農業で暮らしていた勇猛なズールー族はこれを嫌った。ナタール政府は、いわゆる「ズールーの反乱」を鎮圧するために討伐隊を派遣した。ボーア戦争のときと同じように、ガンディーは大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、再び篤志救急隊を組織した。
 ガンディーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンディーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。

(1919年)四月十三日、約五千人の市民が禁止令を無視して、周囲を建物に囲まれたジャリヤーンワーラー・バーグの公園で集会を開いた。ダイヤー准将は公園の入口を軍隊で封鎖し、発砲を命じた。閉じこめられ武器を持たぬ群衆は恐怖に駆られて逃げまどった。十分のうちに、少なくとも四百人が殺され、千二百人が負傷した。翌日、ダイヤー准将は、英国人女教師が襲われた現場ではインド人は償いとして「四つん這いに這って歩け」という命令を下した。さらに彼は、インド人が英国人に対して十分な敬意を示さないときは(たとえば牛車に乗っておれば直ちに降りて敬礼しなければならない)、公開笞打ち刑に処すと宣告した。しばらくして虐殺とダイヤー准将の暴虐の知らせがようやく届いたとき(ヨーロッパ人や英印混血児に対する暴力は広く取り上げられたが、虐殺のニュースは検閲で抑えられていた)、英国はインドを隷属させておくために手段を選ばないのだ、とガンディーは思った。しかし、そもそもハルタールを呼びかけて暴力の引き金を引いたのは自分ではないか。彼は自分の過ちの大きさを思い、これを「ヒマラヤ的大失錯」と呼んだ。インド社会の悪の力を過小評価して、準備の整わぬ国民にサティヤーグラハを呼びかけたのが、彼の間違いだった。
 一方、政府は四つん這い命令をすぐに取り消し、著名な法学者ハンター卿を委員長とする調査委員会を組織した。委員会は徹底的かつ公平な報告を出した。しかし、ジャリヤーンワーラー・バーグの虐殺は、インド統治史上例外的な事件ではあったが、英国の暴虐の代名詞となった。

 1919年の事件は「アムリットサルの虐殺」と呼ばれることが多い。
  ムチ打ち刑は本国でも19世紀の初めには行われていた。植民地では独立まで残っていた。たとえばジョージ・オーウェルを見よ。 

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