« ヴィクトリア朝の英語(2) | トップページ | ヴィクトリア朝の英語(4) »

2011年11月 2日 (水)

ヴィクトリア朝の英語(3)

インド人を英語で教育して英国化しようというマコーリーの狙いは成功した。インドの独立を担ったのは「インド国民会議派」であったが、

 一八八五年の設立以来、国民会議派で活動してきたのは上層中層のインド人だった。彼らは英国人経営の学校や大学で教育され英国化された弁護士であり、西洋式の服を着て互いに英語で話し、英国支配を転覆するよりも英国人のパートナーになろうとしていた。会議派の集会は真剣な討論ではなく雄弁大会だった。(p.139)

1920年にガンジーの「non-cooperation非協力」が綱領として採択され、ガンジーの指導下にインドの自治を目指す本格的な政党になったのである。(綱領に採択されたのは「非暴力non-violence」ではなくて「非協力non-cooperation」である。)
 そのガンジーも1888年に19歳で英国に留学したときは、インドの独立などは夢想だにしなかった。ルイス・フィッシャーのガンジー伝によれば「初めのうち、ガンジーは自分が英国人になれると思っていた」。だから

 社交ダンスを習うことにして、週二回ダンス教室に通い始めた。しかし音楽に合わせてステップを踏むのは難しかった。まず西洋音楽を知らねばと思ったので、社交ダンスは三週間であきらめて、ヴァイオリンを買い込み、個人教授を受けることにした。しかしヴァイオリンならインドにいても習えるはずだった。何より音楽がまるで分からなかったので、これもすぐあきらめてヴァイオリンは売り払った。彼は英国流に新聞を読むことを覚え、デイリー・ニューズ、デイリー・テレグラフ、ペルメル・ガゼットの三紙を毎日読み始めた。英語の上達のために雄弁術のレッスンを受け始めた。アレクサンダー・メルヴィル・ベルの『標準雄弁術』に取り組み、まずフランス革命時の英国の首相ウィリアム・ピットの演説を研究したが、まもなくこれも止めてしまった。(p.125)

 ガンジーは1893年に南アフリカに渡り、露骨な人種差別に衝撃を受けるまではノンポリであった。1915年にインドに帰国し、1921年ごろから「マハトマ」と呼ばれるようになった。
 ガンジーはヒンディー語をインドの国語にしようとしたが失敗した。高等教育は今でも英語で行われている。

|

« ヴィクトリア朝の英語(2) | トップページ | ヴィクトリア朝の英語(4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/42813047

この記事へのトラックバック一覧です: ヴィクトリア朝の英語(3):

« ヴィクトリア朝の英語(2) | トップページ | ヴィクトリア朝の英語(4) »