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2011年11月30日 (水)

骨相学で伴侶を選ぶ

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O・S・ファウラー『結婚、または生涯の好伴侶選びへの骨相学と生理学の応用』
1880年ごろ、マンチェスターのジョン・ヘイウッド社刊
  結婚相手を選ぶときは、慎重に頭の形を見極めることが肝要だ。できれば触ってみて突起の具合を調べるとよい。スイカを買うときだって叩いてみるじゃないか。
 骨相を考えないで結婚してしまった人はどうすればよいか? ちゃんと書いてある。表紙の英語は

MATRIMONY;
 or,
PHRENOLOGY AND PHYSYIOLOGY
APPLIED TO THE SELECTIOS OF
CONGENIAL COMPANIONS
FOR LIFE
INCLUDING
DIRECTIONS TO THE MARRIED
FOR LIVING AFFECTIONATELY AND HAPPILY

 離婚せよと言うことではないらしい。骨相学上は相性が悪くても努力すれば幸せに暮らせますよ。

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2011年11月29日 (火)

バートランド・ラッセルと予備校

[バートランド・ラッセル(1872―1970)は18歳まで家庭で教育された。ドイツ人やフランス人の家庭教師がいた。兄のフランクに数学を習ったが、ラテン語やギリシャ語はやらなかった。ラッセルは1890年10月に18歳でケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学した。]
 かれが大学以前の教育を完了するには、ひとつだけ必要なことが残されていた。ケンブリッジへ入学するためには、バートランドはラテン語とギリシャ語を要求された水準まで仕上げなければならなかったのである。また[ケンブリッジでの]奨学金を志望することになった――これは金がなかったからではなく、他の少年たちとの競争でどこまで行けるかということを試すためだった。このために、バートランドはいわゆる「速成塾(クラマー)」にやられた。クラマーというのは、サンドハーストの士官学校を受験しようとする少年たちのために、学習指導をすることを主な目的とする学校であるが、レイディ・ジョンは、察するに、パブリック・スクールに反感をもっていたのでクラマーをえらんだのであろう。(p.p.31-2)

 バートランド・ラッセルは、ウィンストン・チャーチル(1874―1965)と同時代人である。少し年上のシャーロック・ホームズ(1854―)などもそうだったが、パブリック・スクールへ行かず家庭で教育を受けて大学へ進むという道があったことが分かる。
 大学に入るには「ラテン語とギリシャ語を要求された水準まで仕上げなければならなかった」というのは、入試があったのか? あったとしても競争試験ではなく資格試験だったようだ。

 ラッセルより2歳年下のチャーチルは、もし士官学校ではなくて大学へ行くのだったらジェイムズ大尉の主宰するクラマーへなど行かず、ハロウ校に残っていただろう。
 ラッセルはクラマーに18ヶ月通い、「普通の生徒が6年以上かかって覚える古典の知識をわがものにし、ケンブリッジ入学者のための奨学金を獲得した」という。この奨学生試験の答案は、後にラッセルと共著でプリンキピア・マテマティカを書いたアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861―1947)が採点者として見てひどく感心したという。ホワイドヘッドは学生たちに「ラッセルという新入生に注目せよ」と言ったので、色々な学生が会いに来て、ラッセルは「The Apostles使徒会」という秘密結社の一員となった。
 ところが、この奨学生試験というのが具体的にどういうものだったか、科目は何で、どういう問題だったか、はアラン・ウッドの伝記には書いてない。ラッセルの自伝にも書いてない。

 1895年にセントルーク・カレッジで行われたフォーテスキュー奨学金試験には、ギリシャ語が科目として含まれていた。担当のヒルトン・ソームズ氏が出した問題はツキュディデスのある章の半分の英訳であった(「三人の学生」)。
 こういうふうに試験の内容を詳しく書いたものが残っているのは、シャーロック・ホームズが捜査に関わったからである。
 ラッセルの受けた奨学金試験の内容など記録しておく値打ちはないと考えられたのだろう。奨学金試験を受けたのなら入学試験は免除されたのだろうか? 入試はどういうものだったのか? 普通にパブリック・スクールを卒業した者も受験する必要があったのか? こういう疑問に答えられるようなものは読んだことがない。
 予備校と言えば、モリアーティ教授なども先生だった陸軍士官学校受験用の学校が主流だったことは確からしい。ラッセルが18ヶ月通った学校もそうだった。そういう学校で他の試験を受ける者も引き受けたのだろう。
 ハロルド・スタックハーストがやっているザ・ゲイブルズというcoaching establishmentもそういう学校だったのではないか? ホームズは
The Gables,quite a large place, which contains some score of young fellows preparing for various professions, with a staff of several masters.
と書いていて、文字通りに読むと士官学校受験生などはいないようであるが、それでは経営が成り立たないだろう。professionsの中でも弁護士などは試験がごく簡単だった。マハトマ・ガンジーは1891年にバリスター(法廷弁護士)の資格を取ったが、ほとんど勉強はしなかったようだ。crammer(受験予備校)とむきつけに書くのは気の毒だと考えてホームズが筆を控えたのではないだろうか。→「イギリスの予備校」
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/1-09c7.html

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2011年11月24日 (木)

アーミーコーチ、フランス語版

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Dark rumours gathered round him in the university town, and eventually he was compelled to resign his chair and to come down to London, where he set up as an army coach.

De sombres rumeurs commencèrent a circuler dans la ville universitaire, et ill dut finalement démissioner de sa chaire pour s’installer à Londres, ou il s’établit comme tuteur dans l’armée.(第2巻、p.269
http://www.amazon.com/aventures-Sherlock-Holmes-Coffret-volumes/dp/0320078744/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1321878750&sr=8-7

tuteur dans l’armée  「陸軍の中のtuteur」は意味不明。クラウン仏和辞典では

tuteur(trice)
〈名〉  《法律》 後見人; 保護者, 後援者.―~ lêgal 法定後見人(父母, 直系尊族).  testamentaire 遺言後見人.  Subrogê (家族会議で選ばれた)後見監督人.

 たぶん「英語ではcoachtutorだ。これをフランス語にすればtutortuteurだ」と考えたのだろう。英語の独訳、仏訳は機械的にできることが多いが、ときどき落とし穴がある。army coachとは何か? 下の本参照。

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2011年11月23日 (水)

額の発達、フランス語版

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'You have less frontal development than I should have expected,' said he at last. 'It is a dangerous habit to finger loaded firearms in the pocket of one's dressing-gown.'

Vous avez le front moins développé qu je ne l'aurai cru, dit-il enfin. C'est une habitude dangereuse que de manipuler des armes à feu dans la poche de sa robe de chambre.

(2巻、p.273)

http://www.amazon.com/aventures-Sherlock-Holmes-Coffret-volumes/dp/0320078744/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1321878750&sr=8-7


「あなたは思いがけず少なく発達した額(front)を持っている」と彼がとうとう言った。「火器を部屋着のポケットの中で操作するのは危険な習慣だ」

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2011年11月22日 (火)

モリアーティ元教授の職業、ドイツ語版


Dark rumours gathered round him in the university town, and eventually he was compelled to resign his chair and to come down to London, where he set up as an army coach.

Dunkle Gerüchte ballten sich um ihn in der Universitätsstadt, und schließlich war er gezwungen, von seiner Lehrstuhl zurückzutreten und nach London zu kommen, wo er sich als miltärischer Ausbilder niederließ. (p.276)

army coachmiltärischer Ausbilder

miltärischmilitary

Ausbilder
男〉 s/  (〈女〉 Ausbilderin) 養成(訓練); 軍事教官. (クラウン独和辞典)

 独訳のmiltärischer Ausbilderは、やはり変だろう。ドイツ語だけ読めば、モリアーティが鉄砲の撃ち方でも教えたみたいだ。

  モリアーティ元教授の職業「アーミーコーチ」については、下の本を参照。

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2011年11月21日 (月)

ホームズの額の部分


'You have less frontal development than I should have expected,' said he at last. 'It is a dangerous habit to finger loaded firearms in the pocket of one's dressing-gown.'

>Ihre Stirnpartie is weniger entwickelt, als ich erwartet hätten,< sagte er endlich.>Es ist eine gefährliche Angewohnhiet, in der Tasche des Morgenmantels an geladenen Feurerwaffen rumzuspielen.<
(p.279)

「あなたの額の部分(Stirnpartie)は、私が期待した(はず)よりも少なく発達している」と彼はついに言った。「ガウンのポケットの中で装填した火器を弄ぶのは危険な習慣だ」

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2011年11月19日 (土)

ブータン仏教から見た日本仏教

 回忌法要があるのは、日本だけである。それは、仏教の輪廻思想からすれば、当然である。つまり、一般の場合、死後最長49日間で次の生まれかわりが決まるわけで、その間にできるだけ追善行為をすれば、故人によりよい生まれかわりが期待できる。しかし、すでに生まれかわった人(もっとも、人として生まれかわっているかどうかはわからない。ひょっとしたら、犬か猫かもわからない)に、数年後に改めて追加の追善法要を営む根拠はない。(p.91)

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2011年11月18日 (金)

Frontal development追補

 Frontal developmentは「前頭葉の発達」ではないことはよろしいですか。frontal developmentとfrontal lobe developmentは違うので、後者が「前頭葉の発達」である。

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 前頭葉がどうこうと言うのは「頭蓋骨の形」の問題ではなくて、中の脳みその話だ。ワトソンやコナン・ドイルなら、学生時代に解剖の授業で頭蓋骨から脳みそを取り出して観察したことがあるはずで、前頭葉frontal lobeという言葉も知っていただろう。
 モリアーティ教授は数学が専門なので二項定理などは詳しかったが、前頭葉のことまでは知らなかっただろう。frontal developmentという珍しい英語を使って、「頭蓋骨の前の方の隆起」のことを言ったのだ。
 たとえば
 What Is Involved in Frontal Lobe Development? というサイト
 http://www.wisegeek.com/what-is-involved-in-frontal-lobe-development.htm

 上記サイトでは"frontal development"が一度だけ出てくるが、明らかに「前頭部の発達」であって、「前頭葉の発達frontal lobe development」とは区別されている。前頭葉の発達には「ミエリン化による前頭の細胞間の効率的結合」が関連するのだそうで、単なる頭の大きさの問題ではない。

 そのほかに、frontal developmentは
「(寒冷・温暖)前線の発達」「(前部の発達→)大きなおっぱい」
などの意味になることがある。

ウィキペディア「前頭葉」から。

「前頭葉の障害は様々な現象を引き起こす。精神的柔軟性や自発性の低下。しかし、IQ の低下は起きない。」

ウィキペディア「前頭前皮質」から

「前頭前皮質の機能に関する影響力の大きい臨床例としてフィネアス・ゲージのものがある。彼の人格は1848年の事故により、片側、もしくは両側の前頭葉が破壊されたことによって一変してしまった。ゲージは正常な記憶、言語、運動能力を保っているが、彼の人格は大きく変化してしまったと一般的に報告されている。彼は以前には見られなかったような怒りっぽく、気分屋で、短気な性格になり、彼の友人はすっかり変わってしまった彼を"もはやゲージではない。"と述べた。彼は以前には優秀な労働者であったが、事故の後には始めた複数の作業を遂行することが不可能になってしまった。」

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 19世紀後半には、前頭葉などを含めた脳の研究がある程度進んでいた。上の写真のフィネアス・ゲージは、1848年に炭鉱の事故で左手に持っている鉄の棒が頭に突き刺さって前頭葉が破壊された。知能は変わらなかったが、人格が劣化した。
 しかし、まだ「骨相学」も残っていた。
 前頭葉については今でもまだ分からないことがあるくらいだ。百年以上前ならば、脳病院の医者が患者に話すのでなければ「君の前頭葉はかくかくしかじかで」なんてことは言わなかったはずだ。

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2011年11月17日 (木)

シャーロック・ホームズのfrontal development(5)

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 モリアーティは1891年4月24日金曜日までホームズの顔を間近で見たことはなかった。しかし、1月4日以来、ホームズに迫害されていたから、「あいつはどんな顔をしているか? 頭の形はどうだろうか?」ということは、常に考えていたに違いない。
 あれだけの鋭い推理力を有する男だ、「Causality因果関係」や「Comparison比較」などの能力に対応する前頭の部分はよほど隆起しているだろう。
 ところが実際に顔を合わせてみると、おでこの盛り上がりはそれほどでもなかった。(モリアーティ自身は、はげ上がった額が丸く高く盛り上がっているのである。)

 You have less frontal development than I should have expected. おや、前頭部の隆起は思ったほどじゃなかったな。

「ガウンのポケットの中でピストルの引き金に指をかけているのは危ない」という次の台詞は、もう別の話題なのだ。
 シャーロック・ホームズの「前頭葉が発達していない(→頭が悪い)」なんてことを、モリアーティ教授が言うと君は思っているのかね、ワトソン君。唯一の敵の頭が悪いのだったら、犯罪界のナポレオンは枕を高くして眠れるだろう。抱き合い心中("locked in each other's arms")などする必要がない。

  これは私の独自の説ではない。英語では同じ趣旨を書いた文献がかなりある。たとえばThe History of Phrenology on the Webでは、骨相学全般について詳しく書いてある。骨相学では前頭葉などは問題にしないことも分かるはずだ。
http://www.historyofphrenology.org.uk/ 
 特にPhrenology in Literatureでは、19世紀の文学作品に対する骨相学の影響が論じられている。
http://www.historyofphrenology.org.uk/literature.html
 コナン・ドイルでは『バスカヴィル家の犬』と『最後の事件』に骨相学が現れるとちゃんと書いてある。(しかし、『ジェイン・エア』や『ボヴァリー夫人』にまで骨相学の話が出て来たのか。)

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2011年11月16日 (水)

シャーロック・ホームズのfrontal development(4)

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 創始者ガルは1828年に亡くなったが、その後も骨相学は「その通俗的おもしろさから一般人の間に人気を博した。」(世界大百科事典)
 ガルのOrganologieは英国に輸入されてPhrenologyと呼ばれるようになり、ガルの協力者だったシュプルツハイム(1776―1832)もこの用語を用いるようになった。英国人ではジョージ・コーム(1788―1858)などが骨相学の通俗化と普及に努めた。アメリカ人のロレンゾ・ファウラー(1811―1896)とオルソン・ファウラー(1809―1887)の兄弟は1860年代から英米で講演をしたり骨相学模型を販売したりしてさらに骨相学を広めた。
 19世紀末には、たとえば「好色」「子煩悩」「愛郷心」「破壊性」「良心」などの精神的特性が頭蓋骨の特定の部分の隆起に現れているはずだ、という説が一般に信じられるようになった。

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 上はW. Mattieu Williams, A Vindication of Phrenology, 1894の図。ホームズが「帰還」した年に出版された本である。この図のように頭蓋骨の盛り上がりで性格などが分かるはずだというのが当時は常識だった。たとえば「好色」と「子煩悩」は、上の図では1. Amativeness  2. Parental Loveである。シャーロック・ホームズはもちろん好色でも子煩悩でもなかったから、その頭蓋骨を触ってみれば後頭部の1,2あたりの隆起は貧弱なものだったはずだ。
 反対に……

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2011年11月15日 (火)

シャーロック・ホームズのfrontal development(3)

骨相学  こっそうがく phrenology

頭蓋の外形をみればその人の性格や精神的特性がわかるという学説で,19世紀前半の欧米で大いに流行した。創始者はドイツで生まれウィーンで開業していた医師 F. J. ガルで,彼はイタリアの解剖学者モルガーニの影響下に,幼児や成人の正常脳,各種の病気の人の脳,天才人の脳,動物の脳などを比較研究し,脳内にさまざまな〈器官〉を発見し,これにもとづいて独特の〈器官学Organologie〉を打ち立てた。この理論の概略は,

(1)脳は精神の器官であり,
(2)精神はそれぞれ独立した機能に分かれ,
(3)これらの機能は脳の皮質に座をもち,
(4)頭蓋骨の形と脳皮質の形との相関はきわめて高く,
(5)したがって,頭蓋骨の輪郭と精神機能の特性との間には密接な対応がある,

の5項目に尽くされる。この学説は,脳の異なる部位が異なる機能を持つことを主張した限りで,19世紀後半の実証的な脳局在論に先駆するものとみなされるが,〈良心〉や〈愛〉や〈精神〉まで頭蓋の凹凸から判断するというガル一流の主張は,キリスト教に反するとして当時のオーストリア政府から禁圧され,このため彼はウィーンを去ってパリに移り,開業と研究を続けた。
 彼の説を修正して欧米に広めたのは弟子シュプルツハイム J. C. Spurzheim(1776‐1832)で,師とともに《神経系一般,とりわけ脳の解剖学と生理学》全4巻(1810‐19)を刊行したが,これを1815年に〈phrenology〉と名づけてイギリスに紹介したのはフォースター T. I. M. Forster で,シュプルツハイムも以後この名称を使ったという。骨相学はその通俗的おもしろさから一般人の間でも人気を博したが,いかがわしい利用法がたたって名誉を失墜し,しだいに忘れられていった。なお〈phrenology〉という語はギリシア語のphren(横隔膜)と logos(学)の合成にもとづく語で,かつて横隔膜に精神が宿ると考えられたところから,〈精神の学〉を意味するが,ガルの学説には日本語の〈骨相学〉のほうがはるかにふさわしい。
                    平凡社世界大百科事典  宮本 忠雄

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 フランツ・ヨーゼフ・ガル(1758―1828)の創始した骨相学は、19世紀末にはかなり普及していた。
 明治33年(1900年)に38歳の軍医森鴎外が「ガルの学説」という論説を書いて紹介している。このころは左遷されて小倉にいたから、暇だったのだろう。鴎外の要約するガルの学説は

「ガルは脳と頭蓋の関係を説けり。謂へらく、別々の心能、脳の一々の回転に局在す。一々の回転は脳の表面の起伏を為し、又頭蓋の脳に接する部の凹凸を為し、又生人頭Xの凹凸を為す。故に生人の頭Xを検するときは、其一々の心能の発展を知る可きならんと」(「頭X」のXは漢字で「こめかみ」と書くときに「顳X」となるXの字。何と読むのか。意味は大体「頭骨」だろう)
 
 頭のどこが出っ張っているか凹んでいるかを見れば、ある人がどういう能力に優れているかが分かるというのだ。モーティマー医師がホームズの頭蓋骨を欲しがったのは、元祖の真似だった。

「ガルは生人の頭骨の石膏型を作ること四百許なりき。其本能の発展較明なるを選みしなり。又生前の心迹著名なる者の頭骨を検し、時としては、彼石膏型の主人公の頭骨をさへ検することを得たりき。又直ちに脳そのものを検して、これを生前の石膏型に比せしことあり。」

 鴎外の「ガルの学説」は全集で15頁にわたるが、「ガルは其頭骨学図を以て完成の者と為さず、後人補修の余地を残せり。」で終わっている。トンデモ説扱いではない。

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2011年11月14日 (月)

シャーロック・ホームズのfrontal development(2)

 6種類の訳の中では延原謙訳が一番古い。その次が大久保康雄訳らしい。これは延原訳のヴァリエーションだ。
 小林・東山訳で「前頭葉」という言葉が出ると、以後の翻訳はこれを踏襲するようになったようだ。これが間違い。
「前頭葉の発達」という日本語を英訳してみよう。development of the frontal lobeになるはずだ。
 いま「前頭葉の発達」についてたとえばスイスからイギリスへ電報を打つ場合は、一語につき2ペンスもかかるから(『レディ・フランセス・カーファックスの失踪』)、単語数を減らす必要がある。
 しかし縮めてもfrontal lobe developmentが限度である。5語から3語に減れば上等だ。
 frontal developmentでは、「前の発達(?)」か「前頭の発達」にしかならない。「前頭葉」を表したければfrontal lobeとちゃんと言わなくてはだめだ。羅 Lobus frontalis   独 Stirnlappen   英 frontal lobe。医学用語はきちんと和訳してある。Lobus=Lappen=lobe=葉がなければ「前頭葉」の意味にはならない。
 だから逆に「前頭葉が発達していない」という和訳は間違いなのだ。
 どう訳するか? 
 You have less frontal developmentは、「前頭部の盛り上がり(発達)が少ない」という意味です。「おでこが余り出っ張っていないな」という訳でも場合によってはよろしい。
 傍証を一つ挙げておく。BBCで放送したシャーロック・ホームズのラジオ・ドラマがある。(Final Problemはたぶん下のCollected MemoirsかFurther Adventuresに収録されているはずだ。私は古いカセットテープ版を持っている。)

 

  ここではモリアーティ教授が

"You have less cranial development than I should have expected."

 と言っている。脚本家がfrontal developmentでは分かりにくいと考えて書き換えたのだ。cranialはもちろんcraniumの形容詞形である。craniumは解剖学用語で頭蓋(とうがい)と訳することになっている。cranial developmentとは、額と頭髪に覆われている部分の発達/盛り上がりということだ。前頭葉にまで話は進まない。
 モリアーティ先生はもっと古い医学「骨相学」の話をしているのだ。

『ホームズおもしろ事典』の目次を見ると「観相学と骨相学」という項目があったので、「これは先を越されたか。早く発表しておくべきだった」と思った。しかし取り寄せて読んでみて拍子抜けした。
 フランツ・ガルのとなえた骨相学phrenologyが流行ったという話は、その通り。モーティマー医師と骨相学もよろしい。
 しかし、You have less frontal development than I should have expected.と骨相学の関係を忘れてはだめだ。
 これくらいのことはごく基本的なので、分かっていると思ったがねえ、ワトソン君。

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2011年11月13日 (日)

シャーロック・ホームズのfrontal development(1)

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1891年4月24日金曜日、シャーロック・ホームズとはじめて相見えたとき、モリアーティ教授は何と言ったか?

「存外知恵のないことをしますな。タマごめしてあるピストルを、ガウンのポケットのなかで弄くるのは、危険な悪習ですよ。」
――新潮文庫、延原謙訳

「きみは思ったより頭の訓練ができていないようだ」ようやく彼は口を開いた。「部屋着のポケットのなかで弾丸をこめたピストルをいじくりまわすなんて物騒な習慣だ」
――早川書房、大久保康雄訳

「あなたは、わたしが想像していたより前頭葉が発達していないな」ようやく彼は言った。「ガウンのポケットの中にある弾の入った武器に指をかけているのは、危険な習慣ですね」
――河出書房、小林・東山訳

『きみは思ったほど前頭葉が発達しておらんようだね』とあいつがようやく口を開いた。『ガウンのポケットの中で、弾丸の入ったピストルをもてあそぶなどは、じつに物騒な習慣だ』
――ちくま文庫、中野康司訳

「ホームズ君、きみは、思ったほど前頭葉が発達していないようだな。ガウンのポケットで弾を込めたピストルをもてあそんだりするのは、じつにぶっそうな習慣じゃないか」
――光文社文庫、日暮雅通訳

そのあげくに『きみは思いのほか前頭葉が発達していないみたいだね』とぬかした。『部屋着のポケットのなかで、装填した銃の引き金に指をかけたままでいるなんて、習慣としても危険きわまりない』
――東京創元社、深町真理子訳

 原文はもちろん

'You have less frontal development than I should have expected,' said he at last. 'It is a dangerous habit to finger loaded firearms in the pocket of one's dressing-gown.'

 翻訳はまだあるが、いくつ見ても同じことだ。
『シャーロック・ホームズの愉しみ方』でも別の例を挙げたように、翻訳者諸氏は、全員同じ一つの間違いか、せいぜい二通りの間違い方をする。不思議だな。
 後半は措く。ピストルを「いじくる」「もてあそぶ」よりは「(引き金に)指をかけている」の方がよいかも知れないが。
 前半の訳が全員間違いです。frontal developmentはそういう意味ですか? 

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2011年11月12日 (土)

マコーリーの遺産(2)

 今でもムチ打ち刑が残っている国がある。シンガポールである。ウィキペディア英語版のCaning in Singaporeによると、16歳から50歳の男子で一定の罪を犯した者に対して、籐製のムチで裸の尻を最大24打ちまで叩くのだそうだ。ムチ打ちの執行の前には医師が血圧などを測るから安全であるという。2007年には6404人がムチ打ち刑の宣告を受け、その94%が執行された。
 シンガポールのムチ打ちが西洋で有名になったのは1994年のことである。この年、シンガポールのアメリカンスクールの生徒マイケル・フェイ(18)が道路標識を盗み駐車中の自動車に落書きをしたかどでムチ打ち6回の判決を受けた。
 クリントン大統領はシンガポールに圧力をかけてムチ打ち刑を取り消させようとしたが、シンガポールは言うことを聞かなかった。ただ「特別の慈悲をもってムチ打ち6回を4回に減刑する」と決定した。これはアメリカの負けであった。「土人が白人様をムチで叩くとはけしからん」という本音はさすがに主張できなかったから、「我が国の法律に従って粛々と刑を執行する」と言われると反論できなかった。
 ムチ打ちは、もちろんマレー半島を植民地にした英国が土人用の刑罰として持ち込んだものだ。1957年にマラヤ連邦が独立し、1965年にシンガポールがマレーシアから独立した後も残ったのだ。

 
 
 福沢諭吉(1834―1901)は1862年に文久の遣欧使節に翻訳方として同行した。
 一行は香港、シンガポール、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク(サンクトペテルブルク)、リスボンなどを見物し12月11日帰国した。(ウィキペディア)。
 以下は明治30年(1897年)の時点で維新前後を回想した福翁自伝の一節。アジアで白人が跋扈乱暴して現地人を奴隷にしていたのを見てきたので、こういうことを考えたのだ。

 其時の私の心事は実に淋しい有様で、人に話したことはないが今打明けて懴悔しませう。維新前後無茶苦茶の形勢を見て、迚も此有様では国の独立は六つかしい、他年一日外国人から如何なる侮辱を被るかも知れぬ、在ればとて今日全国中の東西南北何れを見ても共に語る可き人はない、自分一人では勿論何事も出来ず亦その勇気もない、実に情けない事であるが、いよいよ外国人が手を出して跋扈乱暴と云ふときには、自分は何とかして其禍を避けるとするも、行く先きの永い子供は可愛さうだ、 一命に掛けても外国人の奴隷にさしたくない、或は耶蘇宗の坊主にして政事人事の外に独立させては如何、自力自食して他人の厄介にならず、其身は宗教の坊主と云へば自から辱しめを免がるることもあらんかと、自分に宗教の信心はなくして、子を思ふの心より坊主にしようなどと種々無量に考へた事があるが、三十年の今日より回想すれば恍として夢の如し、ただ世運の文明開化をありがたく拝するばかりです。

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2011年11月11日 (金)

マコーリーの遺産

(マコーリーは)1834年には自らインドに赴任した。インド刑法典の編纂、および英語教育の普及に関して長大な覚え書きを残した。刑法典は改正されつつ今もマコーリーの編纂した形を残し、一方でシンガポール・ナイジェリアなど他の植民地の刑法典もマコーリーのものが基礎になっている。英語教育では、英語話者をインドに多数輩出してインド人をイギリス人に作り替えようと説いた。英語はのちに、インドの公用語のひとつになっている。(ウィキペディア)

 マコーリーの植民地用刑法典には「ムチ打ち刑」が定められていた。ムチで叩かれるのは、もちろん「現地の土人」である。『ガンディーと使徒たち』から、1906年の南アフリカと1919年のインドを見てみよう。

 1906年初め、ズールー族の酋長がズールーランドに入った徴税官を投槍で殺し、この事件をきっかけに騒乱が起こった。英国は一八八七年にズールーランドをナタールに併合していたが、主として農業で暮らしていた勇猛なズールー族はこれを嫌った。ナタール政府は、いわゆる「ズールーの反乱」を鎮圧するために討伐隊を派遣した。ボーア戦争のときと同じように、ガンディーは大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、再び篤志救急隊を組織した。
 ガンディーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンディーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。

(1919年)四月十三日、約五千人の市民が禁止令を無視して、周囲を建物に囲まれたジャリヤーンワーラー・バーグの公園で集会を開いた。ダイヤー准将は公園の入口を軍隊で封鎖し、発砲を命じた。閉じこめられ武器を持たぬ群衆は恐怖に駆られて逃げまどった。十分のうちに、少なくとも四百人が殺され、千二百人が負傷した。翌日、ダイヤー准将は、英国人女教師が襲われた現場ではインド人は償いとして「四つん這いに這って歩け」という命令を下した。さらに彼は、インド人が英国人に対して十分な敬意を示さないときは(たとえば牛車に乗っておれば直ちに降りて敬礼しなければならない)、公開笞打ち刑に処すと宣告した。しばらくして虐殺とダイヤー准将の暴虐の知らせがようやく届いたとき(ヨーロッパ人や英印混血児に対する暴力は広く取り上げられたが、虐殺のニュースは検閲で抑えられていた)、英国はインドを隷属させておくために手段を選ばないのだ、とガンディーは思った。しかし、そもそもハルタールを呼びかけて暴力の引き金を引いたのは自分ではないか。彼は自分の過ちの大きさを思い、これを「ヒマラヤ的大失錯」と呼んだ。インド社会の悪の力を過小評価して、準備の整わぬ国民にサティヤーグラハを呼びかけたのが、彼の間違いだった。
 一方、政府は四つん這い命令をすぐに取り消し、著名な法学者ハンター卿を委員長とする調査委員会を組織した。委員会は徹底的かつ公平な報告を出した。しかし、ジャリヤーンワーラー・バーグの虐殺は、インド統治史上例外的な事件ではあったが、英国の暴虐の代名詞となった。

 1919年の事件は「アムリットサルの虐殺」と呼ばれることが多い。
  ムチ打ち刑は本国でも19世紀の初めには行われていた。植民地では独立まで残っていた。たとえばジョージ・オーウェルを見よ。 

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2011年11月 8日 (火)

畳の埃

「誤訳は畳の埃と同じだ。叩けばいくらでも出る」――中野好夫

 あの中野好夫の言葉だ。しかし、「畳の埃」と言っても何のことか分からないだろうな。      
 僕もかすかな記憶があるだけだ。下の写真のような光景。

Tatami_asahi

 1956年4月15日、東京都大田区での光景だそうです。詳しくは『炭八ニュース』というサイト。 
http://www.sumi8-yokohama.jp/sumihachi/sumi_kiji.html

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2011年11月 7日 (月)

これでもか!

Chas05

Take that, you hound-and that!-and that!-and that!-and that!

犬め! これでもか! これでもか! これでもか! これでもか! (延原謙訳)  

なるほど、「そしてあれ!」という訳ではだめだろうな。5発も撃ったのか。しかし、koredemokaという5音節では、一発と次の一発の間隔が長くなってしまう。むつかしいものだ。
 僕なら「どや! どや! どや! どや!」と言うけれど、貴婦人だからな。

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2011年11月 4日 (金)

ヴィクトリア朝の英語(4)

 マコーリーが教え込もうとしたヴィクトリア朝の英語は現代のインドにまだ残っている。たとえば、ヴェド・メータは『ガンディーと使徒たち』で、ガンジーの秘書だったピアレラールが書いたガンジー伝の序文を取り上げて次のように書いている。(p.69)

 ピアレラールはガンディー列聖の伝統に忠実であり、装飾的で冗長な化石化したヴィクトリア朝インド式の英語で、仰々しくあくまでも恭しく語る。彼は自著の目的をこう語る。

「本書は多くの重要な人物や事件を取り扱っているが、それらに対する著者の意見を述べたものではない。重要な事件とその主役であった人々の行動を、「愛の法則」を発見してこれを現代の問題に適用せんとしたガンディージーの偉大な実験との関わりにおいて、理解し説明せんとする試みである。」(これは訳文で原文は下の通り)

"This book is not a verdict on men and events―though men and events are discussed in it―but only an attempt to understand and explain certain events and actions of the men who made those events and in the process were themselves made by those events, in the context of Gandhiji's great experiment to discover the Law of Love and how it could be applied to solve the problems that face the present-day world."

ヴィクトリア朝インド式の英語である。センテンスがむやみに長く構文がむやみに複雑である(訳文は訳しきれないので簡略化した)。同じ趣旨をもっと簡潔明晰に書けるはずである。
  ガンジーの秘書は英国支配下で英語教育に過剰適応してしまった。オリエンタリズムの権化であったマコーリーの文体で独立の父の伝記を書くとは!
 ガンジー自身の英語は、さすがにもっと透明でニュートラルである。まず内容がすらりと頭に入るように心がけていたようだ。しかし、ガンジーは英語で書くのが一番楽だったらしく、インド人がそんなことではだめだと「ヒンディー語国語化運動」をはじめたのだ。

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2011年11月 2日 (水)

ヴィクトリア朝の英語(3)

インド人を英語で教育して英国化しようというマコーリーの狙いは成功した。インドの独立を担ったのは「インド国民会議派」であったが、

 一八八五年の設立以来、国民会議派で活動してきたのは上層中層のインド人だった。彼らは英国人経営の学校や大学で教育され英国化された弁護士であり、西洋式の服を着て互いに英語で話し、英国支配を転覆するよりも英国人のパートナーになろうとしていた。会議派の集会は真剣な討論ではなく雄弁大会だった。(p.139)

1920年にガンジーの「non-cooperation非協力」が綱領として採択され、ガンジーの指導下にインドの自治を目指す本格的な政党になったのである。(綱領に採択されたのは「非暴力non-violence」ではなくて「非協力non-cooperation」である。)
 そのガンジーも1888年に19歳で英国に留学したときは、インドの独立などは夢想だにしなかった。ルイス・フィッシャーのガンジー伝によれば「初めのうち、ガンジーは自分が英国人になれると思っていた」。だから

 社交ダンスを習うことにして、週二回ダンス教室に通い始めた。しかし音楽に合わせてステップを踏むのは難しかった。まず西洋音楽を知らねばと思ったので、社交ダンスは三週間であきらめて、ヴァイオリンを買い込み、個人教授を受けることにした。しかしヴァイオリンならインドにいても習えるはずだった。何より音楽がまるで分からなかったので、これもすぐあきらめてヴァイオリンは売り払った。彼は英国流に新聞を読むことを覚え、デイリー・ニューズ、デイリー・テレグラフ、ペルメル・ガゼットの三紙を毎日読み始めた。英語の上達のために雄弁術のレッスンを受け始めた。アレクサンダー・メルヴィル・ベルの『標準雄弁術』に取り組み、まずフランス革命時の英国の首相ウィリアム・ピットの演説を研究したが、まもなくこれも止めてしまった。(p.125)

 ガンジーは1893年に南アフリカに渡り、露骨な人種差別に衝撃を受けるまではノンポリであった。1915年にインドに帰国し、1921年ごろから「マハトマ」と呼ばれるようになった。
 ガンジーはヒンディー語をインドの国語にしようとしたが失敗した。高等教育は今でも英語で行われている。

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ヴィクトリア朝の英語(2)

All those arts which are the natural defence of the weak are more familiar to this subtle race than to the Ionian of the time of Juvenal, or to the Jew of the dark ages. What the horns are to the buffalo, what the paw is to the tiger, what the sting is to the bee, what beauty, according to the old Greek song, is to woman, deceit is to the Bengalee. Large promises, smooth excuses, elaborate tissues of circumstantial falsehood, chicanery, perjury, forgery, are the weapons, offensive and defensive, of the people of the Lower Ganges. All those millions do not furnish one sepoy to the armies of the Company.
 
  マコーリーのエッセイ「ウォーレン・ヘイスティングス」(1841年)から。ヘイスティングスは1774年から1785年まで初代インド総督をつとめた人物。この一節の主意は、ベンガル人は身体的にも精神的にも弱者で弱者の武器「欺瞞」を事としている(だから強者である英国人が支配してやるべきだ)ということである。Companyはもちろん東インド会社である。インド人のなかでもシク教徒などは強者であって『四人の署名』に見られるように英国側についた。

Macaulay

 トーマス・マコーリー(Thomas Babington [or Babbington] Macaulay, 1st Baron Macaulay、1800年10月25日 - 1859年12月28日)はイギリスの歴史家、詩人ならびに政治家。エディンバラ選出のホイッグ党下院議員だった。ホイッグ史観(現在の視点から過去を判断する態度)を代表する人物であり、マコーリー著『イングランド史』は、今でもイギリスで最も有名な歴史書のひとつである。(……)
 1834年には自らインドに赴任した。インド刑法典の編纂、および英語教育の普及に関して長大な覚え書きを残した。刑法典は改正されつつ今もマコーリーの編纂した形を残し、一方でシンガポール・ナイジェリアなど他の植民地の刑法典もマコーリーのものが基礎になっている。英語教育では、英語話者をインドに多数輩出してインド人をイギリス人に作り替えようと説いた。英語はのちに、インドの公用語のひとつになっている。(ウィキペディア)

「あそこに並んでいる本のうちから私が最大の喜びと最大の利益を得た一冊を選ぶとすれば、あの染みの付いたマコーリーの『史論集』ということになるだろう。振り返ってみれば、あの本は私の全生涯と結びついているのだ。学生時代には常に伴侶であったし、酷暑の黄金海岸でも手元にあった。北極洋に捕鯨に出かけたときも忘れずに持って行った。スコットランド人の銛打ち連中にも読ませたものだ。あの油の染みは、二等機関士が『フリードリヒ大王伝』に取り組んでいたときに付けたものだ」(コナン・ドイル)

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2011年11月 1日 (火)

ヴィクトリア朝の英語

306. What the horns are to the buffalo, what the paw is to the tiger, what the sting is to the bee, what beauty, according  to the old Greek song, is to the woman, deceit is to the Bengalee. (Macaulay)

 新々英文解釈研究の全1031題のうちで第306題は、歴史家トマス・バービントン・マコーリー(1800―59)の文である。
 全112課のうち第35課でこの形の文の読解法が解説され、306を含めて6題の課題が挙げられている。
 まず第35課の例文

Leaves are to the plant, what lungs are to the animal.
(訳) 葉の植物に対する関係は、肺の動物に対する関係と同じことだ。

 とその解説を読めば、上記306は訳せるはずだ。
 山崎貞氏が与えている訳は

306. 角の水牛に対する、足の虎に対する、針の蜂に対する、ギリシャの古歌にいう美の女性に対する、この関係が欺瞞のベンゴール人に対する関係で、それは天性の利器である。
 (注)天性の利器という語は原文にないが前後の関係から見て補ったのである。

 今の受験生にはとうてい使いこなせる本ではない。その意味では伊藤和夫氏の批判は分からなくはない。
 しかし、伊藤氏の「方法」やさらに下って薬袋氏あたりを有り難がる風潮も変なものだ。しかし予備校教師の話ではなかった。ヴィクトリア朝の英語の話であった。 

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