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2011年12月17日 (土)

椿姫とは違います(2)

 ニューヨークタイムズ1879年7月14日号の「プロフェッショナル・ビューティ」の一部を225頁に引用した。全文を以下に示す。
http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20B10F6355B137B93C6A8178CD85F4D8784F9&scp=1&sq=professional%20beauty&st=cse

 英国では最近数年の間に、美貌で人目を引く一部女性が「プロフェッショナル・ビューティ」と呼ばれるようになっている。この女性たちはレディたる社会的地位を有しており、かつ全く私的な生活を送っていると推定されるので、かかる称号は不適切ではないかとも思われるのであるが、一方、この推定は乱暴である。ある限定された意味においては、彼女たちは全くパブリックなのである。ありとあらゆる服装とポーズの写真がショーウィンドーなどに飾られているのだから。加えて常に話題の的であり記事に書かれている。人に知られている点ではロンドン市長公邸やネルソン記念柱にも劣らない。だから「プロフェッショナル」という形容詞は、彼女たちの「美しさ」について言う限り全く適切なのであって、「失礼に当たる」恐れはなく遠慮なく使ってよろしいのである。彼女たちは、厳密かつ絶対的にプロフェッショナル・ビューティなのであって、それ以上でも以下でもない。その仕事は、最初から最後まで、常に、顔と姿を最大限に有利なように「見せる」ことであって、引き立って効果がいや増すためには労を惜しまず何でもするのだ。これが唯一の独占的な使命である。そのほかには何の目的も考えも望みもないかのごとくである。美しくあること、賞賛を得ることがその存在意義である。
 これは特に高尚な大志ではなかろう。私的な生活をしているレディにとって如何なものか? しかし彼女たちは大いに楽しんでいる。およそ目が見える者見たがる者に自分を見せびらかしても、それで節操に欠ける、品位がなくなるなんてことは思いもしない。常時パレード中であり展示中である。見つめられて「あの人が…」と言われるに違いない場所へ出かけるのが大好きなのだ。アングロサクソンの女性が普通は「失礼だわ」と感じるような目に遭うのを嫌がるどころか、みなの目が自分に注がれていないと不安なのだ。目、髪、肌色、物腰、動き、ドレス、たたずまい、スタイルなど自分というものの隅々について、たくさんの人が何かを言う、その言葉が聞こえてこないと困るのだ。このように何でもかでもさらけ出してしまっても、その顔(かんばせ)の美は持ちこたえるだろう。しかし性根の方は? だめに決まっている。
 我々のような単純な共和主義者には、海彼の従姉妹たちが絶えず自らの肉体美を見せびらかして平気である、それどころか喜んでいるのはどうしてか、分かりかねるのだ。英国の親戚からは、アメちゃんは慎みというものがない、洗練されていない、野良住まいだ、遠慮を知らぬ、家庭の神聖が分かっておらんなどと言われる。しかし我が国の女性は私生活では、美人度はどうでも、それを可能な限りの方法で広告する、商売にする、大評判という高利を取って貸し出す、「慎み」よりも肉体的魅力を取り沙汰される方がよろしくて、大変な利得だと考える――なんてことは決して肯んじない。英国の友人たちと比べて我々ははるかに遅れているので、特にこの「私生活のプロ化」という点ではそうだ。何しろ我々はデモクラシーの国で趣味も幼稚だから、そんなのは不愉快であり未発達の感受性にショックを与えるものだ。我々がびっくりするのは、英国の美人たちが「成り上がり」や「出しゃばり」かというと全然そんなことはなくて、ロンドン中の賞賛の的であり、どこでも引っ張りだこだということだ。レディと呼ばれるのは礼儀上だけではなくてそれだけの身分があるからで、王室とも交わる女性たちであり、ファッションをリードし社交界を形成し、居てくれると格が上がる人たちなのだ。
 こちらでは、姿勢をきめて衣装を取っ替え引き替え写真のポーズを取る、顔写真、上半身像、全身像など色々と撮ってもらうというのは、お客さんの前に出てお金をいただく女優の仕事だ。あるいはバーレスクに出演するブロンド、オペレッタの歌手、演芸場の女座長などショービジネスの女一般であって、決して客間の花形や貴顕の奥様ではない。我々にも「プロ化」はあるかも知れぬが、決して私生活を侵さない。我々も美と洗練をたたえることでは大西洋の向うの親戚に劣りはしないだろう。しかし妻や妹が美人だからといって見せびらかして誉めてくれと言うなんて冒涜じゃないか。英国で肉体美にこれほど夢中になるのを見ていると古代ギリシャ人を思い出さざるを得ない。ラーイスやフリューネなど美脚のヘタイラたちがアテネ人をどれほど魅了したかは読んで知っている。フリューネはアレオパゴスの議場に集まった老人たちの前で大いに気取って脱いでみせたそうだ。しかし、彼女らは名誉ある信頼された女性、アッティカの家庭の守護者ではなかった。英国のプロフェッショナル・ビューティは、かなり鍛えられてはいるだろうが、こういう女どもと比べられ同一視されたくはないはずだ。
 ロンドンにおけるプロの美人たちについては、その精神の魅力、品格、婦徳などの評判は聞いたことがない。口の端に上り賞賛されるのは肉体だけだ。頭がよいか、性格はどうか、情愛があるか――そんなことはどうでもよろしい。我々平民の共和主義者としては、そんなにいつでも肉体美ばかり強調してその他の美を締め出していては飽きが来ないか、反動があるだろうと思う。しかし、そういう微妙な点は我々に判定出来ないことは明らかなのだ。こちらは新世界だけれども旧式なのだ。肉体以外のものをたっとび、女は「美だけ」より「美なき淑徳」の方が上だと思っているのだから。(引用終り)

 どこをどう押したらcourtisanが出て来るかね、アセルニー・ジョーンズ君(or whoever)。
 平山氏はウィキペディア英語版にリリー・ラントレーのことをcourtisanと書いてあるという。それはウィキペディアが間違っているだけです。私は、ウィキペディアを見たと書いた。ウィキペディアに依拠したとは言っていない。自分を基準に人を判断してはいけませんよ。

「いくら資料を見ても、見る目が節穴ではだめだ。脳みそが豆腐ではだめなのだ、ワトソン君」
「アナクロニズムはいけないよ、ホームズ君。トーフなんて言葉はまだ英語のボキャブラリーに入っていないよ」
「参った。これは一本取られたねえ。You are developing a certain unexpected vein of pawky humour, Watson, against which I must learn to guard myself. 」
「ぼくは記録を書こうと思う。The Adventure of the Ignorant Dentistという題はどうだろう? 」
「わはは。気が早いね。まだまだ続きがあるのだから待ちなさい」

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