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2011年12月29日 (木)

コントラルト(1)

「どれ、見せたまえ。――フム、1858年米国ニュージャージーの生まれ、コントラルト歌手、スカラ座出演、フム! ワルシャワ帝室オペラのプリマドンナ……歌劇壇引退……ホウ、目下ロンドン在住か、なるほどね! そうしますと陛下、この若い人物と煩わしい関係をお持ちになりまして、問題をおこしそうな手紙をお与えになりましたので、それをいまはとりもどしたいとお望みなのでございますな?」
(延原謙訳による)

 しかし、コントラルトがプリマドンナになるだろうか? 
 コントラルトがオペラの「主役」になることはある。しかし女で主役でもプリマドンナとは限らない。

Profile_nathalie  

  現代の有名なコントラルト、ナタリー・シュトゥッツマンは、リートを歌うことが多いようだ。シューベルトの『冬の旅』のCDがある。これはもちろん男の歌である。第一曲「おやすみGute Nacht」の第一節は

 よそ者としてやって来て
 またよそ者として去って行く
 五月は僕を暖かくもてなし
 数多の花束を贈ってくれた
 あの娘は愛を語り(Das Mädchen sprach von Liebe,)
 母親は結婚のことまで口にした(die Mutter gar von Eh')
 だが今やこの世界は暗澹とし
 道は雪に覆われている
(http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/S/Schubert/S1763.htm より)

 動画ではシューベルトの『白鳥の歌』から「セレナーデ」を歌っているところが見れる。これも男の歌である。
 http://www.youtube.com/watch?v=jCxdoFQlhqg
 
 この人がオペラで主役を張るのはたとえばヘンデルの『ジューリオ・チェザーレ(ジュリアス・シーザー)』のタイトルロールである。
 しかし、言うまでもなくシーザーは男であるから、この場合にシュトゥッツマンはプリマドンナではない。
 これは元来は「プリモカストラート」の役なのである。ヘンデルのジュリアス・シーザーは1724年初演であった。このころのオペラはカストラートが主役のものが多かった。
 フランス革命後は「やはりちょん切ってしまうのはまずい」ということでヘンデルなどのオペラは上演の機会が減った。カストラートがいない場合、ジュリアス・シーザー役は1オクターブ下げてバリトンに歌わせる手もあるが、どうも味が変わってしまう。シュトゥッツマンのように低音に迫力のある男性的なコントラルトがタイトルロールを歌うのが一番よいらしい。
 19世紀末でも事情は同じであった。しかし「あの女」アイリーン・アドラーは、ワルシャワ帝室オペラのプリマドンナだった。やはり女の役をやったはずだ。コントラルトでもシュトゥッツマンなどとは少し違う声だったのだ。 

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2011年12月28日 (水)

Der junge Hitler

  彼も人の子だった。

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 リンツのレアルシューレ。最後列右端がアドルフ・ヒトラー。後ろから2番目の列、右から3番目がルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン。写真は1901年に撮られたらしい。ヒトラー(1889―1945)とヴィトゲンシュタイン(1889―1951)は同年生まれ。学年は哲学者が2学年上だった。

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 ヒトラー伍長

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2011年12月25日 (日)

パジェット、ドイルを描く

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Portrait of Sidney Paget and Arthur Conan Doyle by Phil Cornell for Goode Press(2006) ウィキメディア・コモンズより。

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2011年12月23日 (金)

椿姫とは違います(4)

 共産主義者の婦人共有制とやらに対する我がブルジョア諸君の道学者めいた驚きほど笑うべきものはない。婦人の共有は、共産主義者が実施するまでもない。それはこれまでほとんど常に実在していたのだ。
 我がブルジョア諸君は、公娼については言わずもがな、プロレタリアの妻や娘が自分らの自由になるだけでは飽き足らず、自分らの妻を互いに誘惑し合うことに、無常の楽しみを見出してきたのだ。 
 ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。だから彼らが共産主義者を非難できたとしても、それはたかだか「共産主義者は偽善に覆われていた婦人の共有の代わりに公明正大な婦人の共有を企んでいる」と言える程度である。

 ブルジョアに限らず上流の結婚は「実際には妻の共有」である場合があった。結婚前は必ず処女でなければならなかった。しかし結婚後は……
 ウィンストン・チャーチルのお母さんの場合。

(1880年、チャーチル8歳のときに、ウィンストンの父母である)ランドルフ(・チャーチル)夫妻がロンドンに帰ってからも、夫と連れ立たないジェニー夫人の姿が社交の場に目立つようになった。皇太子エドワードもその相手の一人であったが、何かにつかれたように毎日夜社交に熱中する彼女の姿を見て、家族や友人たちはその著しい変化に気づくようになった。ジェニーは生涯に数多くの男性を遍歴したといわれ、なかには皇太子エドワードのほかに、オーストリアのロンドン駐在外交官キンスキー伯爵、セルビア国王ミラン一世も含まれていた。
(関p.59)

「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」では、さる既婚の貴婦人の手紙が元で起きた大変な事件をホームズとワトソンが目撃することになった。上流の結婚は必ず「実際には妻の共有」だったとは限らない。しかし「ある一定の条件」が整えば、当人同士と周りの了解の下に「妻の共有」が実現する場合があった。この一定の条件が何であるかは、まだ研究していない。「跡継ぎの長男を産んでいること」が必要条件だったのではないかと思う。チャーチル家の場合は、長男ウィンストンが生まれていた。弟は夫ランドルフではない、誰か別の人の子だったらしい。しかし、これも「場合によっては」という留保を付けなければならないか。要するによく分からない。

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 リリー・ラントレーの場合は、1880年に皇太子と別れてから生活のために女優になったのは、ある程度「身を落とした」と言えなくもない。しかし腐っても鯛である。元皇太子の愛人であり「有夫の貴婦人」である。オーストリアの太公ルイ・バッテンベルグやアメリカの百万長者の愛人になった。夫は1897年になってようやくリリーと離婚して間もなく亡くなったが、本人は1898年、46歳のときに自分よりはるかに若い男爵と結婚し、モナコで1929年に亡くなるまで豊かに暮らした。
 椿姫とは違う。ヴィオレッタはドゥミ・モンデーヌでありクルティザンであった。恋人のアルフレードとの結婚はかなわず、結核で死ぬのである。いくら「高級」でも娼婦は娼婦である。妻の共有とは違う。
 日本の芸者の場合はどうか。お蔦も主税と添い遂げられずに死んでしまうのだった。しかし芸者が政府高官の妻になることもあったので、西洋とはだいぶ違う。
cf. 『湯島の白梅』http://www.youtube.com/watch?v=Ewf1brZMShY

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2011年12月21日 (水)

アーミーコーチ補足

 アーミーコーチにはもう決着がついたと思っていたが、平山歯科医院日記を見たらまだ何か書いてあるので補足。私は「チャーチルは士官学校入学とともに数学とは縁が切れた」と書いた。チャーチルの『わが半生』に書いてあるというのに、信用しない。以下に引用する。

 チャーチル『わが半生』角川文庫版p.37
その後この輩(数学を指す――引用者)とは会わない。最後の三度目の試験合格とともに、彼らは悪夢の幻影の中へみな消え去った。

 同上p.p.54-5
サンドハーストでは新規まき直しであった。前のようにラテン語やフランス語あるいは数学ができなくて、ハンディキャップをつけられることがなかった。みんながいっせいに新規なことをならうので一列平等に出発した。過程は戦術、築城、地形学(地図作成)および軍法、軍政だった。このほかに教練、体操、乗馬があって、競技は好きなものだけがやればよかった。規律は厳格で、勉強、練兵の時間が長かった。一日が終わると全く疲れた。私は勉強がおもしろく、とくに戦術と築城に興味をもった。

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2011年12月19日 (月)

椿姫とは違います(3)

  名流婦人がプロフェッショナル・ビューティだったのだ。米国大富豪の娘で公爵家に嫁いだチャーチルのお母さんなどは典型的。上に挙げた本はまだ見ていないが、「レディ・ランドルフ・チャーチルはプロフェッショナル・ビューティだった」という意味の記述があるはずだ。
 王妃をプロフェッショナル・ビューティと呼んだ例が少なくとも一つある。

54

PROFESSIONAL BEAUTIES OF THE PASTという絵。
この絵はThe Victorian Web http://www.victorianweb.org/art/illustration/dumaurier/54.html
から借りた。George P. Landow氏がこの絵(キャプション付き)をスキャンした。
 画題の下に書いてあるのは 

Housekeeper(showing visitors over historic mansion).――”This is the Portrait of Queen Catherine of Medici―sister to the Venus of that name…”

女管理人(見物人に史跡の旧邸を案内して)――「これがカトリーヌ・ド・メディシス王妃の肖像です。メディチのヴィーナスの妹に当たるわけですね。」

150pxvenus_medici_pushkin

「プロフェッショナル・ビューティ」という言葉ができたのはもちろん19世紀後半の英国においてであった。しかし、これをカトリーヌ・ド・メディシス(1519―89)に適用してもおかしくないという感覚はあったのだ。 

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2011年12月18日 (日)

プライオリティについて

『シャーロック・ホームズの愉しみ方』を読んだ読者から、「お前はこことここが誤訳で正しい訳はこうだと言うが、その正しい訳が書いてある本が先に出ているぞ」という手紙をもらったことがある。まるで「お前がこっそりその本を見て書いたのだろう」と言わぬばかりだった。
 その本というのは2009年に笹野史隆氏が刊行された「コナン・ドイル小説全集第23巻、24巻」のことであるらしい。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~emilon/whtats-new.html
 笹野氏の本は120部限定出版。全巻予約読者にのみ頒布という形であるから、私は見ていない。

 困るのは、笹野氏の用いた訳語が私の本に出て来る訳語と一致するからといって「植村が真似をした」というような仄めかしをするやつがいることだ。モリアーティ元教授が「陸軍士官学校受験予備校」の教師であった――というが、笹野氏の真似だろう、と仄めかすのだ。

 そういうやつが一人現れて、平山氏の平山歯科医院日記のコメント欄に書き込んでいた。運よく気がついたから、「陸軍士官学校受験予備校の教師」を世界で初めてとなえたのは私で、それは2006年4月19日(から4月27日まで)である旨を書いておいた。
 ところがこれが日本語読解力の全くないやつで(上から目線で見下しているのだよ、君が低いのだから)、私の書いたことの意味が分からんらしい。続けて、拙著のエリオット論(これは平山氏には全く無関係)にケチをつけ出した。
 平山さんもご迷惑なことです。こういう馬鹿は相手にしないことにしましょう。
 
 私はプライオリティには気を遣っている。
 たとえば、シャーロック・ホームズの本邦初訳は1891年(明治24年)で、雑誌『日本人』に載った「乞食道楽」が「唇のねじれた男」の翻訳であった――こう書くのは簡単であるから、黙ってそういうふうに書いている本がある。これはいけないことだ。私は、(ちくま文庫版シャーロック・ホームズ全集第十巻所収、新井清司「日本におけるコナン・ドイル、シャーロック・ホームズ書誌」)とちゃんと出典を明記している(p.30)。これを調べるのに新井氏がどれだけの労力を使われたか。
 一方、一々断れない、断らなくてよい場合もある。たとえば、「社交界の花形→社交界の花形美女」となったのは熊谷氏のおかげ、ジャック・トレーシーの『シャーロック・ホームズ事典』の記述を教えていただいたのは土屋氏であるが、ブログに書くのとは違って書籍の本文中ではそういうことは書けない。あとがきでお名前を挙げるにとどめた。
 翻訳の場合も同様である。仮に私が「ボヘミアの醜聞」を翻訳するとすれば、延原謙氏の訳語をたくさん借用する。ホームズのLet me see.という単純な台詞でも「どれ、見せたまえ」という日本語は自力では思いつかないのだもの。「ここは延原訳による」なんて注はもちろん付けない。
 笹野史隆氏が訳文でarmy coachを「陸軍士官学校受験予備校の教師」とされたらしいことは、翻訳者として当然そうあるべき態度である。調べられる限り調べて最善と思える訳語を選ぶ。もちろん出典など記す必要は毛頭ない。ほかの翻訳者は怠慢なのだ。(念のために、私は笹野氏が私のブログを見て訳語を決めたのだとは言っていない。仮にそうだとしても断る必要は少しもないと言うだけだ。独自に発見されたのかも知れない。笹野氏の刊本の方が私のブログより早い場合もあるのだから。たとえば「投書について6」のコメント欄http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/6-3c93.html
 笹野史隆氏のプロジェクトはコナン・ドイルの小説全部(シャーロック・ホームズだけではない)を一人で全訳しようという壮挙である。私は笹野氏の訳業は『白衣の騎士団』しか見ていないが、立派な見事な翻訳である。シャーロック・ホームズの訳も優れたものに違いない。

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2011年12月17日 (土)

椿姫とは違います(2)

 ニューヨークタイムズ1879年7月14日号の「プロフェッショナル・ビューティ」の一部を225頁に引用した。全文を以下に示す。
http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20B10F6355B137B93C6A8178CD85F4D8784F9&scp=1&sq=professional%20beauty&st=cse

 英国では最近数年の間に、美貌で人目を引く一部女性が「プロフェッショナル・ビューティ」と呼ばれるようになっている。この女性たちはレディたる社会的地位を有しており、かつ全く私的な生活を送っていると推定されるので、かかる称号は不適切ではないかとも思われるのであるが、一方、この推定は乱暴である。ある限定された意味においては、彼女たちは全くパブリックなのである。ありとあらゆる服装とポーズの写真がショーウィンドーなどに飾られているのだから。加えて常に話題の的であり記事に書かれている。人に知られている点ではロンドン市長公邸やネルソン記念柱にも劣らない。だから「プロフェッショナル」という形容詞は、彼女たちの「美しさ」について言う限り全く適切なのであって、「失礼に当たる」恐れはなく遠慮なく使ってよろしいのである。彼女たちは、厳密かつ絶対的にプロフェッショナル・ビューティなのであって、それ以上でも以下でもない。その仕事は、最初から最後まで、常に、顔と姿を最大限に有利なように「見せる」ことであって、引き立って効果がいや増すためには労を惜しまず何でもするのだ。これが唯一の独占的な使命である。そのほかには何の目的も考えも望みもないかのごとくである。美しくあること、賞賛を得ることがその存在意義である。
 これは特に高尚な大志ではなかろう。私的な生活をしているレディにとって如何なものか? しかし彼女たちは大いに楽しんでいる。およそ目が見える者見たがる者に自分を見せびらかしても、それで節操に欠ける、品位がなくなるなんてことは思いもしない。常時パレード中であり展示中である。見つめられて「あの人が…」と言われるに違いない場所へ出かけるのが大好きなのだ。アングロサクソンの女性が普通は「失礼だわ」と感じるような目に遭うのを嫌がるどころか、みなの目が自分に注がれていないと不安なのだ。目、髪、肌色、物腰、動き、ドレス、たたずまい、スタイルなど自分というものの隅々について、たくさんの人が何かを言う、その言葉が聞こえてこないと困るのだ。このように何でもかでもさらけ出してしまっても、その顔(かんばせ)の美は持ちこたえるだろう。しかし性根の方は? だめに決まっている。
 我々のような単純な共和主義者には、海彼の従姉妹たちが絶えず自らの肉体美を見せびらかして平気である、それどころか喜んでいるのはどうしてか、分かりかねるのだ。英国の親戚からは、アメちゃんは慎みというものがない、洗練されていない、野良住まいだ、遠慮を知らぬ、家庭の神聖が分かっておらんなどと言われる。しかし我が国の女性は私生活では、美人度はどうでも、それを可能な限りの方法で広告する、商売にする、大評判という高利を取って貸し出す、「慎み」よりも肉体的魅力を取り沙汰される方がよろしくて、大変な利得だと考える――なんてことは決して肯んじない。英国の友人たちと比べて我々ははるかに遅れているので、特にこの「私生活のプロ化」という点ではそうだ。何しろ我々はデモクラシーの国で趣味も幼稚だから、そんなのは不愉快であり未発達の感受性にショックを与えるものだ。我々がびっくりするのは、英国の美人たちが「成り上がり」や「出しゃばり」かというと全然そんなことはなくて、ロンドン中の賞賛の的であり、どこでも引っ張りだこだということだ。レディと呼ばれるのは礼儀上だけではなくてそれだけの身分があるからで、王室とも交わる女性たちであり、ファッションをリードし社交界を形成し、居てくれると格が上がる人たちなのだ。
 こちらでは、姿勢をきめて衣装を取っ替え引き替え写真のポーズを取る、顔写真、上半身像、全身像など色々と撮ってもらうというのは、お客さんの前に出てお金をいただく女優の仕事だ。あるいはバーレスクに出演するブロンド、オペレッタの歌手、演芸場の女座長などショービジネスの女一般であって、決して客間の花形や貴顕の奥様ではない。我々にも「プロ化」はあるかも知れぬが、決して私生活を侵さない。我々も美と洗練をたたえることでは大西洋の向うの親戚に劣りはしないだろう。しかし妻や妹が美人だからといって見せびらかして誉めてくれと言うなんて冒涜じゃないか。英国で肉体美にこれほど夢中になるのを見ていると古代ギリシャ人を思い出さざるを得ない。ラーイスやフリューネなど美脚のヘタイラたちがアテネ人をどれほど魅了したかは読んで知っている。フリューネはアレオパゴスの議場に集まった老人たちの前で大いに気取って脱いでみせたそうだ。しかし、彼女らは名誉ある信頼された女性、アッティカの家庭の守護者ではなかった。英国のプロフェッショナル・ビューティは、かなり鍛えられてはいるだろうが、こういう女どもと比べられ同一視されたくはないはずだ。
 ロンドンにおけるプロの美人たちについては、その精神の魅力、品格、婦徳などの評判は聞いたことがない。口の端に上り賞賛されるのは肉体だけだ。頭がよいか、性格はどうか、情愛があるか――そんなことはどうでもよろしい。我々平民の共和主義者としては、そんなにいつでも肉体美ばかり強調してその他の美を締め出していては飽きが来ないか、反動があるだろうと思う。しかし、そういう微妙な点は我々に判定出来ないことは明らかなのだ。こちらは新世界だけれども旧式なのだ。肉体以外のものをたっとび、女は「美だけ」より「美なき淑徳」の方が上だと思っているのだから。(引用終り)

 どこをどう押したらcourtisanが出て来るかね、アセルニー・ジョーンズ君(or whoever)。
 平山氏はウィキペディア英語版にリリー・ラントレーのことをcourtisanと書いてあるという。それはウィキペディアが間違っているだけです。私は、ウィキペディアを見たと書いた。ウィキペディアに依拠したとは言っていない。自分を基準に人を判断してはいけませんよ。

「いくら資料を見ても、見る目が節穴ではだめだ。脳みそが豆腐ではだめなのだ、ワトソン君」
「アナクロニズムはいけないよ、ホームズ君。トーフなんて言葉はまだ英語のボキャブラリーに入っていないよ」
「参った。これは一本取られたねえ。You are developing a certain unexpected vein of pawky humour, Watson, against which I must learn to guard myself. 」
「ぼくは記録を書こうと思う。The Adventure of the Ignorant Dentistという題はどうだろう? 」
「わはは。気が早いね。まだまだ続きがあるのだから待ちなさい」

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2011年12月16日 (金)

椿姫とは違います(1)

 この本では『緋色の研究』の初めの方のシャーロック・ホームズの台詞

They are as jealous as a pair of professional beauties.

 を取り上げて、「professional beautiesは商売女にあらず。社交界の花形美女なり」と書いた。(はじめ私は「社交界の花形」と書いていた。「美女」を付け加えた方がよろしいと提案して下さったのは熊谷彰氏であった。ありがとうございます)
 ドーダ!(©東海林さだお&鹿島茂)
 ようやく一つ反論らしきものが出た。
 平山歯科医院日記http://blog.livedoor.jp/sherlockology/というサイト

「しかし、http://edwardianpromenade.com/women/the-professional-beauty/というサイトで、ほぼ同じ内容の主張を発見しました。チャーチル首相の母親も「professional beauty」であるという主張も同一です。これをもとにして肉付けしたものとおもわれます。他ではこういった主張は発見出来ませんでした。」

だって。(下線は引用者)
 失礼な。「他ではこういった主張は発見出来」なかったのは調べ方が悪いからです。
 これは私の「主張」にあらず。ほかにいくらでも書いている人がいて、私は一々典拠を挙げている。他人様のものをこっそり盗用するなんてことはしない。
 本日は野暮用あり。とりあえずここまで。

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2011年12月15日 (木)

ストランド・マガジン

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 それからこんどはシャーロック・ホームズの時代になってきますが、この赤いのが「ストランド・マガジン」と申しまして、これは赤になっておりますが、じつはこれは色々な色を使った表紙で、絵柄はいつも同じでした。
 ぼく(植草甚一)が中学時代に、先輩たちがよくこの雑誌を読んでいたわけです。ちょいとしたインテリが、丸善あたりに来たのを買っていたんですが、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズの短篇をこの雑誌に書いて、この雑誌そのものが非常に有名になったわけです。「新青年」をはじめてやったのが森下雨村で、江戸川乱歩の先生になってくるわけですが、あとで水谷準が編集長になった。その頃の「新青年」の読み切り探偵小説はだいたいにおいてこの雑誌がネタになっていて、あとで色々作家が出てきますが、そう言った作家がこの雑誌に出ていたのを、「新青年」の人たちが翻訳した。もちろん他にもいくつかありますが、「新青年」の一番大事なネタになったのが、このストランド・マガジン」でした。
 幻灯機が熱くなってきたので、電気を消しましょう。
(双葉文庫版p.p.303-4)

 植草さんは幻灯機を使って講演していたのだ。いつごろのことだろう? 
 植草甚一(1908―1979)が『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』を早川書房から出したのは1978年である。
 植草氏の中学時代というと1921年から1926年(大正10年から大正15年=昭和元年)である。

 中西裕氏によると、新青年の大正十年十月号に延原謙の訳した「死の濃霧」(原作は「ブルースパー・パティントン」)が掲載された。ただし訳者名は記されなかった。

(編集長の)森下雨村は謙の翻訳の腕を初めから大いに買ったらしく、続けて訳すように依頼したという。『新青年』の翌年の夏期特別増刊号にはアーサー・モリスンの『緑のダイア』が『十一の瓶』のタイトルで、初めて延原謙訳と明記して掲載された。
(中西p.84)

『新青年』は『ストランド・マガジン』をネタにしていたというが、このころの翻訳は原作者に断らず勝手に訳していたようだ。

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2011年12月12日 (月)

英語力より日本語力?

 翻訳に必要なのは英語力より日本語力であると言う人がいるが、本当だろうか? 
 もちろん、ウソだ。
「英語力より日本語力」というのは、英語ができない翻訳家がよく言い訳に使う。たとえば

「翻訳者は日本語で勝負すべし」、「英語力より日本語力を」
プロの映像翻訳者を目指す方が必ず耳にする言葉です。そして壁にぶつかった時には(今の自分にこそふさわしい言葉だ)と心に響く言葉でもあります。http://www.jvtacademy.com/news/?id=255
(プロの映像翻訳者として有名な人に戸田奈津子氏がいる。)

 英語から日本語への翻訳なら英語力が大事に決まっている。原文の意味がちゃんと分かれば、ふつうの日本人なら日本語で表せるはずだ。『即興詩人』のような雅文体で翻訳するならまた話は別だが。
 英米人が日本語を英語に訳する場合を考えてみればよろしい。この場合は日本語力が大切なので、日本語がよく分かることがよい翻訳の必要条件であり、ほぼ十分条件だ。
 私は実際にアメリカ人が日本語を英語に訳したものをやり直させられたことがある。
 某社が不祥事を起こして謝罪文を発表することになった。その英訳を頼まれた翻訳会社が「日本語できます」という触れ込みのアメリカ人にやらせた。ところができあがった英訳が劣悪なのでお客さんが翻訳会社に突き返してきた。実務翻訳では、誤訳悪訳に対して厳しい。
 私にお鉢が回ってきた。そのアメリカ人の書いた英文を見てデタラメなのにびっくりした。「全社一丸となって信頼回復に努めて参る所存でございます」の訳にone ballという英語が出てきたのだもの。
 このアメリカ人に英語力が足らなかったとは思えない。「全社一丸」が分からなくて苦し紛れにone ballなんてシュールレアリスティックな英語を書いてしまったのだ。
 英文の日本語訳だって同じことだ。
 ドクター・ワトソンが「そしていまや、真実を秘匿していてもなんの益もない、という時が到来した。それを私は満足に思う」などと書くか? デタラメに決まっている。英語が分からないからこういう文章を書くのだ。米川正夫氏はロシア語力が足りず、榊原晃三氏は英語力が足りなかった。諸氏も英語力が……

 

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2011年12月10日 (土)

誤訳談義(3)

 英語ではもっとひどい誤訳があって、元東京高裁判事の倉田卓次氏が「訳者を告発したくなった」と言う。

告発 
犯人および告訴権者以外の第三者が,捜査機関に犯罪事実を申告し,犯人の処罰を求める意思を表示すること。犯罪があると認めるときは,だれでも告発をすることができる(ただし,故意に偽りの告発をしたときは虚偽告訴罪(刑法172条)ないし虚構犯罪申告罪(軽犯罪法1条16号)に問われることがある)。(世界大百科事典)

 もちろん倉田氏は専門家で「告発」という言葉の使い方はよく知っているのである。犯罪があると認められた翻訳家は榊原晃三氏。講談社刊の『唇からナイフ』を訳した。

 僕はこの本は読んでいない。映画を見て「モニカさんなら、現代の愛の不毛だろうに」と思った覚えがある。倉田氏は「病みつきになって、ここ10年Pan Booksで新しい一冊が出る度に買って読んだ」という。原著は10冊くらい出ているのに、最初に犯罪的翻訳が出たために日本では売れなくなったのだ。

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 誤訳の内容については「すさまじい誤訳」という記事を書いている人がいる。http://dandelion3939.blog38.fc2.com/?mode=m&no=49
 
――力のある人のやっつけ仕事はまだいい。ケアレスミスなら多寡が知れてるから。しかし、この榊原訳みたいな、力のない人の背伸び仕事は、原作者にも読者にも迷惑千万、全く百害あって一利なしだと筆誅しておきたい。
――と気張っても、榊原氏当人が果たしてこれを読んでくれますかな。
――誤訳談義って空しいものだね。

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2011年12月 9日 (金)

誤訳談義(2)

 誤訳談義には英語の誤訳もある。たとえば、「ファンタージの王者卿(ロード)ダンセイニをあげよう」と倉田氏は言う。

――戦前は戯曲だけ紹介され、劇作家として知られていたマイナー・ポエットだが、最近はむしろ幻想文学者として再評価されている。その発掘紹介に全力投球したのが荒俣宏といって、幻想文学研究にかけては日本でも指折りの人だ。『別世界通信』とか『幻想文学作家名鑑』とか、厖大な読書量を背景にした立派な業績があってね、敬服しているんだが、ダンセイニの訳文はいただけない。ぼくは旧制高校時代、Gods of Peganaという名作、天下の奇書だと思うけど、それを本郷の古本屋でみつけて以来のダンセイニ・ファンでね。欽定訳聖書の文体に学んだというこの人の簡潔な文章を愛誦してた。だから、荒俣氏のダンセイニ紹介は大歓迎という気持だったが、『思潮』という雑誌(1971年7月号)に出た訳文でガッカリした。
(倉田p.98)

 どうも恐ろしい読者がいたものだ。荒俣宏といえば博識で有名な人だ。しかし倉田氏は創土社刊『ダンセイニ幻想小説集』から誤訳の例をあげている。たとえば

 They made Remorse with his fur grey like a rainy evening, with many rending claws, and Pain……, and Fear……

 という原文を
「神々ら、遠きもの(リモース)を創りき。小雨そぼ降る秋の宵に似せたる灰色の毛、無残にも肉を引き裂く鈎爪をいくた持てる、遠きもの(リモース)をば。……」

 と訳したのはひどい。これ一つならウッカリということもあるが、「一々あげないけど、そういう(別の例のような)無神経さがこの一篇だけで何十箇所もあった」という。

――remorseは「良心の呵責」ですよね。remoteの名詞とでも勘違いしたんですかね。それにしても、「遠きもの」じゃ、PainやFearと並べておかしいと思わなかったかな。
――こんな訳文で紹介されるダンセイニ卿に同情するし、ファンの一人としては切歯扼腕だよ。
――訳者告発という気になりませんか。
――いや、原作への愛情から誤訳指摘はするが、そこまでは考えない。荒俣氏にしても力が足りないだけで、一応良心的にやっていると思えるのでね。

*「原作への愛情から誤訳指摘はする」のは、拙者も同じでござる。原作はもちろんシャーロック・ホームズ。

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2011年12月 8日 (木)

誤訳談義

――『戦争と平和』を読んでおられるそうですね。
――いやね、北御門二郎という人の新訳が『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』の三部作について出版されているんだ。この間、この人の『トルストイとの有縁』という本を読んでね。昔、旧制高校当時に読んだ岩波文庫本の米川正夫訳、中村白葉訳がいかにひどい誤訳に満ちたものだったかを知らされて、いささかショックだった。それで、北御門新訳本六冊を買ったというわけ。
――前のはそんなにひどいんですか。
――「二十二年の経歴のある将軍」が「二十二歳の将軍」になっているとか、「除隊した兵隊はズボンから仕立てたシャツみたいなもんだ」というわけのわからん文句は、実は「ズボンからはみ出たシャツ」と訳すべきところだとか、思わず吹き出すような誤訳が、それぞれ何十箇所も指摘されてる。俺はこんな訳文で感激して読んでたのか、と慨嘆したくなるよ。
(倉田 p.p.74-5)

 私もむかし米川正夫訳『戦争と平和』を感激して読んでいたのでショックだ。ロシア語は読める人が少なかったから、とんでもない誤訳が放置されることもあったかも知れない。しかし英語は……牧師と神父の違いなんて誰でも分かるし、すぐ直せるはずじゃないか。

 ウィキペディアによれば

 北御門 二郎(きたみかど じろう、1913年2月16日 - 2004年7月17日)は翻訳家。レフ・トルストイの平和思想に共鳴し、農業を営みながら彼の作品を翻訳した。良心的兵役拒否をしたことでも知られる。
 熊本県球磨郡湯前町に生まれる。旧制第五高等学校(現・熊本大学)在学中にトルストイの『イワンの馬鹿』を読み絶対非暴力の思想に衝撃を受け、以後トルストイに傾倒。1933年に東京大学文学部英文学科入学。1936年6月、大学での学問に疑問を感じ、大学在籍のまま満州の哈爾濱(ハルビン)に渡り白系ロシア人にロシア語を学ぶ。体調を崩したこともあり、翌1937年5月に帰国。
 1938年、兵役拒否を図り遁走。家族の懇望で同年4月22日徴兵検査を受検するが結果的に兵役免除となる。同年東京大学を中退、熊本に帰り、球磨郡水上村に就農。晴耕雨読の生活を送る。瀧川幸辰・河上肇らと交流があった。地の塩書房刊『ある徴兵拒否者の歩み』(2009年にみすず書房で再刊)と、地元熊本の不知火書房刊『くもの糸 北御門二郎聞き書き』が詳しい。

 

 1958年、同人誌『座標』創刊に参加し、小説「仮初ならば」の一部を発表。完結後に単行本化を目指すが挫折。この頃からトルストイ文学の翻訳を志し、1965年青銅社から『生ける屍』『懺悔』を刊行。1966年から『復活』の翻訳に着手、同年青銅社が倒産後も家業の傍ら翻訳を継続。1973年、本多秋五の尽力で『神の国は汝等の衷にあり』(冬樹社)刊行。1976年、熊本県立宇土高等学校の生徒との共作として『イワンの馬鹿』版画集を共同出版。
 トルストイ三部作翻訳完成の後押しを受け1978年から翌年にかけて『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』(各東海大学出版会、のちに第16回日本翻訳文化賞受賞)。
 護憲論者であり、九州における護憲運動の象徴的人物としてしばしばジャーナリズムに登場した。
 2006年、童話民話集『トルストイの散歩道』全5巻(あすなろ書房)刊行。

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2011年12月 7日 (水)

著作権代理人の肖像画

Portraitofarthurconandoyle

 名探偵を描いた画家がこの肖像画も描いた。少々理想化しているようだ。
 ホームズについて、ドイルは「僕はもっと容貌魁偉な人物を考えていたのだが、パジェット君がああいうふうに描いてしまったからねえ」と言っていたという。

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2011年12月 6日 (火)

ドイルの末の妹の生年月日

1876年月日不明 ブライアン・メアリ・ジュリア・ジョゼフィーン・ドイル誕生
1877年3月2日   ブライアン・メアリ・ジュリア・ジョゼフィーン・ドイル誕生
1878年3月2日   ブライアン・メアリ・ジュリア・ジョゼフィーン・ドイル誕生

 1876年説はKelvin I. Jones著による。1877年説は、Stashower、Lycett、Millerが採っているが、いずれも一次資料ではない。1878年3月2日誕生は、Pugh作成の年譜にDates taken from grave headstone.と注がついている。ただし、同年譜の系図には1877年3月2日誕生、1927年2月8日死亡、Charles Cyril Angellと結婚とある。
  ドイルの末の妹ブライアン・メアリ・ジュリア・ジョゼフィーン(愛称Dodo)は、第9子である。父チャールズ・アルタモント・ドイルは1876年6月にスコットランド工務局を退職し、同年中にアルコール中毒者のための療養施設ブレアーノ・ハウスに入所している。ブライアンが1878年3月2日生まれだったとすれば、父親は…… ラッセル・ミラーの伝記では「ブライアンが生まれたとき、チャールズはどこにいたのか?」と書いてあるが、問題は出生よりも懐胎だ。
  アーサー・コナン・ドイルの生年月日はもちろんはっきり分かっていて、墓石に書いてある通りである。 

Doylegrave

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2011年12月 4日 (日)

theの発音(4)

 1900年から1902年まで留学した漱石がtheの発音を聞き違えるだろうか。そのころロンドンでは、theはゼと発音したのではないだろうか。

 倉田判事は、もう一つ「面白い文献を見付けた」と書いている。南方熊楠全集(平凡社版)5巻550ページに次のような文章がある。

 大正十一年(1922年)七、八月の交、植物採集に日光へ往って湯本の旅館に泊まったとき、隣室に京浜のよほど豪家の子息らしい十七、八の若者が洋人二名と宿りおった。その様子が英語修練のため洋人の費用を出して起居一切英語専用で旅行とみえた。その若者がイロイロ話すをきくと、という冠詞を一々注意してと発音する。二人の洋人もお姫様が屁をすかすごとく徐(しず)かに話し、必ずといわずにといいおった。……

 倉田氏はもう少し長く引用している。南方熊楠は1867年生まれで漱石と同年である。1884年大学予備門に入って漱石や子規と同級生になった。1886年予備門を中退して渡米した。1892年イギリスに渡り1900年に日本に帰国した。漱石とは入れ違いである。南方熊楠は21歳から34歳まで

 主として英語圏に滞在し、そのうち九年間は大英博物館で十数カ国語の本を読んでいたという語学の天才である。百篇に上る英文論考を発表しているし、サーカス一座に同行中、踊り子宛の付け文の返事を代筆したという逸話に示される俗語会話の練達ぶりや中国語の四声を論じた文章からも、この人の英語発音を聴く耳の確かさは信用していいだろう。それがこのようにはっきりザではなくゼであると言うのは、彼が生活していた十九世紀末のロンドンの巷の発音は、ゼつまり[ðe]に近い発音だったことを推測させる。(倉田pp.54-5)

  倉田氏は(注)として、大野晋『日本語について』を引用して、時間の経過によって英語でも日本語でも発音は変わるものだと言う。今の学生の発音はwが消えて、例えば「河合さん」をkaaisan「買わない」をkaanaiと発音する傾向があるという。英語のtheの発音にもそういう変化があったのではないか――というのである。
 私(ブログ筆者)は、むかしは柔術を「充実」、武術を「ブジツ」と発音したことを書いた。『シャーロック・ホームズの愉しみ方』p.157とp.192。
 
 

   theの発音の変化について、倉田氏は「英語学者の専門的意見を叩いてみたい」と書いている。この本が出たのが1985年である。その後『英語青年』か何かでこの問題が論じられたことがあるだろうか?
 シャーロック・ホームズにとって、アイリーン・アドラーは常に「ゼ・ウーマン」であった。
(話は違うけれども、ブリティッシュ・ミュージアムのリーディングルームでホームズと南方が出会って意気投合し……というのはありですね。The Adventure of the Wild Folklorist ホームズもカルデア語の語根の研究などをしているのだから。)

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2011年12月 3日 (土)

theの発音(3)

[迷亭と独仙が碁を打つシーン]

「そうおいでになったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは這入れるものじゃないんだ」
「這入って失敬仕り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道から馳け出してくるところだよ」

 このDo you see the boyは何だ? 
「ドゥー・ユー・シー・ザ・ボーイ」ではない。それでは意味不明だ。
 漱石は「ドゥー・ユー・シー・ゼ・ボイ」と読んだのだ。「ずうずうしいぜ、おい」と比べよ。
 残念ながらこれは私が発見したのではない。

 ときどき、「これは自分が書いたことにしたい」と思う文章がある。元東京高裁判事倉田卓次氏の『裁判官の書斎』に収める「漱石の『猫』の中の一行について」はその一つだ。最新版の漱石全集では、この箇所に倉田判事の発見を取り入れた注がついているはずだ。この本は今ならアマゾンで1390円で買える。絶対にお得な買い物だ。

 boyを漱石は「ボイ」と書いている。辞書の発音記号には長音符がないのでこの方が「正しい」はずだ。ほかには内田百閒が真似をして必ず「ボイ」と書いている。
 theは「ゼ」と書いた。プッシング、ツー、ゼ、フロントがそうであるし、『猫』にも「七代目樽金」が出て来た。

「何んでも昔し羅馬に樽金とか云う王様があって……」「樽金? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬の七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」

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2011年12月 2日 (金)

theの発音(2)

 一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。云うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。

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2011年12月 1日 (木)

theの発音(1)

「ミストル長谷川、王様は崩御された(ゼキングイズデッド)」余が朝の食卓に著こうとした瞬間、向うに坐った同宿の西班牙人フーコーという少年が突然こう叫んだ。
「ゼ、キング、イズ、デッド」
と覚えず鸚鵡返しに叫んで余はどかりと椅子に尻餅を突いた。 
 千九百十年五月七日の朝である。……
(p.338)

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 長谷川如是閑は大阪朝日新聞社の特派員として明治43年(1910年)ロンドンに派遣されてまもなく、エドワード7世崩御を知った。如是閑は日本の新聞記者の代表として国葬に参列した。

 それはともかく、the Kingを「ゼ・キング」と書いている。実際に如是閑はこう発音したらしい。
 むかしはイギリス人もtheは「ゼ」と発音したのではないだろうか。ひょっとすると1910年になると「ザ」に変わりかけていたかも知れない。しかし、1900年代はじめまでは、ネイティブの正しい発音も「ゼ」だったのではないだろうか。 
 シャーロック・ホームズだって、ボヘミア王のことを「ゼ・キング」と呼んだ、アイリーン・アドラーはホームズにとって「ゼ・ウーマン」であった、はずだ。

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