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2012年8月25日 (土)

個人的に取らないでくれ

 村上春樹の小説では、主人公が「個人的に取らないでくれ」と言うことがある。
 英訳者が「春樹、こんな日本語はないよ」と言うそうだ。
 英訳すればDon't take it personal.である。と言うより、この英語を直訳したのが「個人的に取らないでくれ」である。
 インターネット上では、個人的に取らないでくれの英訳がDon't take it personally.であると書いてあるサイトが多いが、間違いである。personallyという副詞ではなく、personalという形容詞でなければならない。
 You take it personal.という英語を考えてみる。これはSVOCの文型である。OとCの間にネクサスの関係が成り立つ。すなわちIt is personal.が裏にあるのだ。 
 
 
  私はシャーロック・ホームズの翻訳について、
・牧師と神父を混同するようでは駄目だ。
・プロフェッショナル・ビューティは「商売女」ではない。
・アーミーコーチは「軍人の家庭教師」などではない。
・I am satisfied that the time has come when no good purpose is served by its supression.の訳として、「満足に思う」とか「うれしく思う」などという日本語が出てくるのはとんでもない誤訳だ。

 などを指摘してきた。このような誤訳指摘について、私は「個人的に取らないでくれ」と言いたい。
 N氏やH氏やF氏がどうこうと言いたいのではない。それに比べて私はエライだろうと威張りたいのではない。正典を正しく読むというのは、personalなことではなくて、impersonalな問題なのだ。
 シャーロック・ホームズは何と言っているか?

"No, it is not selfishness or conceit," said he, answering, as was his wont, my thoughts rather than my words. "If I claim full justice for my art, it is because it is an impersonal thing -- a thing beyond myself. Crime is common. Logic is rare. Therefore it is upon the logic rather than upon the crime that you should dwell. You have degraded what should have been a course of lectures into a series of tales."

 ワトソンがホームズのegotismを感じたのが顔に出たのに対して、ホームズは自分の推理というartはimpersonal thingであると答えているのだ。大切なのはlogicであり、シャーロック・ホームズがエライとか、レストレイドたちが駄目だとか、「誰がどうだ」という問題ではないというのだ。

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2012年8月24日 (金)

チャーチルのフランス語

"Si vous m'obstaclerrez, je vous liquiderai."チャーチルがカサブランカでドゴールと会談したとき、彼はこう言って大統領を驚かせた。(英訳すると"If you obstruct me, I will liquidate you.")

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2012年8月19日 (日)

ジンゴイズム

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哀号

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2012年8月18日 (土)

英国人女性柔道家と八田一朗

 1935年に外人女性としてはじめて柔道の黒帯を得たサラ・メイヤー女史が八田一朗氏のことを回想している。http://judoinfo.com/mayer.htm
 メイヤー女史は小泉軍治が1918年に創立したロンドン武道会で柔道を習い、1930年代の日本で修業した。1935年には京都武徳会で初段を得た。彼女は同年中に八田一朗を伴って帰国し(八田を小泉や谷幸雄に紹介し)再び武道会で修業してから自分の道場を設立した。

 メイヤー女史が小泉軍治に宛てた手紙。

1934年9月12日、東京
小泉さん。
 お手紙でお灸(moxsa treatment)がそちらで好評だということを知り、喜んでいます。私が帰国する頃には小泉さんは大金持ちになってロールスロイスを乗り回しているでしょうね。
 八田一朗さんが東京駅に出迎えてくれました。私は7月末にこちらに来て二週間ほど滞在するつもりでした。彼は私にホテルに泊まらないで彼のうちに泊まれと言ってくれました。私が神戸へ戻るときは、向こうで借りている家を処分して八田さんのお父さん宅に滞在すればよいというのです。それで私は一種の養子みたいにしてもらって、好きなだけ八田家に泊まればよいということになりました。Mayer3

 昨夜、一朗さんと私は有名な三船さんと食事をしました。講道館では三船さんに一度稽古を付けてもらい、よく見学しました。三船さんは飛び抜けた人です。弱々しく繊細に見える小柄なお爺さんです。稽古を付けてもらったとき、三船さんは上機嫌で、私はゴムボールみたいに部屋中投げ飛ばされました。投げ返してやろうとするとひらりひらりと体をかわされてしまうのです。(メイヤー女史は三船十段があちこちの道場に教えに行くのを追いかけて稽古を付けてもらったが、講道館では「女子部の道場へ行きなさい」と言われるので、あまり好まなかったという。女子部は「女学校みたい」でよくなかったそうだ。山本という高段者に稽古を付けてもらったときは、「柔道をするとき、私は自分を女だと思っておりません」と言ったら、90キロの体重で遠慮なくのしかかられて弱ったという。)

  東西でお互いに学び合ったわけで、柳澤氏の労作の裏話です。メイヤー女史が早稲田レスリング部の練習を見学する話も面白い。英語は易しいはずなので、是非お読み下さい。http://judoinfo.com/mayer.htm
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  歴史的記録を残す・尊重するという態度は、メイヤー女史にも、柳澤氏にももちろん那嵯涼介氏にもある。那嵯氏の取材対象となった人たちはビル・ロビンソンのような大物・傑物でも歴史に関心がないらしい。前にも書いたことだが、大先輩で「スネークピット」の創立者の正確な記録を残しておくのが英国人の義務のはずだが。僕は「スネークピットのサブミッションは柔術から取り入れたのだろう」と書いた。僕は取材していないので、これは推測に過ぎない。直接取材できる人は、これを否定できるなら否定してみて下さい。
 僕は神秘的秘教的な柔術の話なんぞは書いていない。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとはフリースタイルの古い言い方だ」というような命題を書き付けているだけだ。これに対しては「間違いだ」「その通りだ」のいずれかで答えられるはずだ。これ位のことがワカランなんて、プロレファンの頭はどうなっておるのか? 諸君の脳みそは豆腐か?

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2012年8月16日 (木)

イエズス会の教育

 イエズス会は現在の日本では上智大学を経営している修道会として知られている。
 むかし、鎌倉の栄光学園高校の出身者から聞いた話。
 イエズス会は、日本の指導層をカトリックにすべきだと考えて上智大学を作ったが、日本では東大を始めとする帝国大学出身者の方が出世しやすいと分かって、栄光学園のような進学校を作ったのだという。

 英国の場合は、カトリックの学校教育は禁止されていたので、スペイン領オランダに英国人カトリックの子弟の学校が作られ、ようやく1794年になってイングランドにストーニーハースト校を作ることができた。
 ドイル家は英国ではマイノリティーのカトリックだったから、長男のアーサーをストーニーハーストに入れるのは当然のことだった。
 イエズス会の教育は独特のものだった。

 無味乾燥な知識の獲得には無味乾燥な食品の摂取が役立つと考えられたのか、イエズス会の提供する食事もひどかった。朝食はパンとミルクのお湯割りだった。昼飯には肉が出たが金曜日は魚で、週に二度プディングが付いた。お茶の時間にはパン一切れに「ビール」と称するものが出たが似ているのは外見だけだった。夕食にはまた薄めたミルク、パン、バターだったが、これに加えてどういうわけかジャガイモがむやみにたくさん出ることが多かった。イエズス会士どもはこのような食事が共同寝室における風紀紊乱を招くと思ったのか、夜間は必ず修道士が一人見回るのだった。生徒同士で放っておかれることは決してなく、スポーツでも散歩でも会話でも必ず修道士が割り込んできた。(第1章より)

「スポーツでも散歩でも会話でも必ず修道士が割り込んできた」ので、ほかのパブリックスクールのような悪習は防がれていた。普通の学校ではオスカー・ワイルドのような趣味の人物が出る恐れがあった。
 厳しい体罰もあった。
 
お仕置きの道具は(ドイルは当然よく覚えていた)「厚い靴の底くらいの大きさで形も同じゴム板であった。これで力一杯叩かれると手のひらが腫れ上がり変色した。高学年の生徒には左右それぞれ九発ずつが最小限だったと言えば、いかに苛酷だったかが分かるだろう。処罰が終っても部屋から出るドアの把手が回せなかった。寒い日に左右九発ずつを喰らうのは人間の我慢の限界だった」。

 日本の学校で体罰というと、「先生が厳しくする→生徒が反抗する→先生が腹を立てて暴力を振るう」というのが普通である。体罰が出るようでは教育の失敗であると見なされる。
 英国の学校では、「こういう場合には体罰」という方針を予め決めておいてmethodicalに叩くのである。頭や顔や背中を叩いては怪我をさせる恐れがあるから、お尻を叩くらしいということは知っていた。
 しかし、掌を叩くというやり方があったか。お尻叩きでは性的な意味を帯びることがあるからだろう。何でも予め考えておくというのは賢明ではあるが、陰険じゃないか。と感じるのは日本人だけではないらしい。
 英和辞典でJesuitを引くと

 Jes・u・it (1)【カトリッック]イエズス会の信徒[会員].
      (2)〈又は j-;非難して〉策略家, 詭弁家;偽善家.

 スタンダールの『赤と黒』ではイエズス会が悪役である。
 岩波文庫の訳文ではイエズス会とせずにフランス語読みで「エスイタ」としてある。

 イエズス会の教育は中年になってからドイルにたたっている。1900年にドイルはエディンバラから自由統一党候補として下院議員選挙に立候補したが、「ドイルは、イエズス会の教育を受けた。一度イエズス会ならずっとイエズス会だ」とネガティブキャンペーンを張られて落選した。

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2012年8月15日 (水)

オレンジ計画(敗戦記念日に)

オレンジ計画(ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%A8%88%E7%94%BB

オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、War Plan Orange)は戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国日本)との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。カラーコード戦争計画のひとつであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別視していたわけではない。しかしながら、最終的には原爆投下の原動力となった側面は見逃すことは出来ない。計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用されている[1]。そして無辜の市民を殺傷したのである。
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2012年8月14日 (火)

天才と凡人のあわい

世界一の名探偵の生みの親はいかなる人物だったのか
天才と凡人のあわいを見事に描き出し、
数多くのドイル伝のネタ元となったまぼろしの傑作

 帯を書いてくれたのは編集部のHさんだ。
 世界一の名探偵を生み出した頭脳には、「ワトソン的側面」もあった。

アーサー・ルーズは、私(ヘスキス・ピアソン)宛の手紙でこう書いている。「私はふつうのカラーとネクタイの代わりに黒いアスコットタイを付けていたことがあります。ドイルはある日私を見て『君にはどこか不気味なところがあるね』と言った。私の首のあたりが黒いからそういう印象を受けたことにシャーロック・ホームズの著者が気がつかないなんて、とびっくりした覚えがあります。私のタイの布地が山東絹だったときはそんな印象は受けなかったようです」このようなワトソン的側面はヒュー・キングズミルとの対話ではいっそう明かである。
「アーノルド・ランはサー・ヘンリー・ランの息子だってね」とドイルは尋ねた。
「そうだ」
「そして君はアーノルド・ランの弟だってね」
「そうだ」
(しばらく考え込んでから)「それじゃ、君もサー・ヘンリー・ランの息子なんだね」
「そうだ」
(第11章より)

 しかし、ドイル=ワトソンと言い切れるかというと……
 グレアム・グリーンの書評の一部。

コナン・ドイルはワトソンと比べられることがあまりにも多かったが、この伝記ではピアソン氏がワトソン役を務めて、イエズス会の教育が作った奇妙な謎の人物、シャーロック・ホームズの心を持ったドイルを語るのである。
(附録「ポーカーフェイス」より)

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2012年8月10日 (金)

シャーロック・ホームズの代理人?

 もちろん、アーサー・コナン・ドイルは、医学博士ジョン・H・ワトソンのliterary agentであった、というのが正確な言い方です。ワトソン博士の書いた原稿をドイルが自分名義でストランド・マガジンに載せたのだから。
 しかし、シャーロック・ホームズの代理人という言い方もあながち間違いではない(編集者がタイトルを付けるときにちょっと奇を衒ったのですが)。
 コナン・ドイルのもとには、ホームズ宛、ワトソン宛、ドイル宛の手紙が来て、中にはむつかしい問題の解決を依頼してくるものもあった。ドイルが問題に取り組んでみる気になることもあった。そういうとき、ドイルは一室に閉じこもって「自分がシャーロック・ホームズだったらどうするか」と考えてみるのだった。ドイルはホームズになりきることができて、たいていの問題は見事に解決した。ジョージ・エダルジ事件やオスカー・スレイター事件は、ホームズに劣らない推理力がドイルにあったことを示している。

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2012年8月 8日 (水)

校閲について

 最近の『コナン・ドイル』を含めて本を三冊出した。校閲にはずいぶんお世話になった。
 まず、差別語の問題がある。
 座頭市に対して「どめくら!」と言うのはいけないこと(言う前にすぱっと斬ってしまうのだ)は知っていたが、「文盲」も使えないとは驚いた。「字が読めない」と説明的に書いておいたが。
「目が不自由な」というのはほかに言いようもないので仕方がないが、ちょっと違うと思う。僕は泳ぐときや喧嘩のときは眼鏡を外さなくてはならないので、本当に自分は目が不自由だなあと感じる。見えない人は不自由どころではないだろう。
 校閲の担当者は一定の方針があってこれを機械的に適用することが多いようだ。
 看護婦→看護師と直してあるから、「ここはかくかくしかじかの理由で看護婦でなくてはなりません」と言うと、編集者は分かってくれる。高島俊男先生や小谷野敦氏を怒らせたのは、よほどバカな編集者だ。
 しかし、著者/訳者というのは間違うものだから、校閲係が事実を調べてくれると助かる。
 今回も

ロシア皇帝が呼びかけて一八九九年に第一回ハーグ万国平和会議が開かれ、ヨーロッパの各地でニコライ二世の呼びかけに応えて軍備制限と国際司法裁判所の設立を進めようという集会が開かれた。ドイルはこの平和会議の趣旨に賛同し、一九九九年一月末にはヒンドヘッドで集会を主催しロシア皇帝の提案を熱心に支持した。

 という一節には、「ハーグ万国平和会議の開催は1899年5月ですが、大丈夫ですか?」と書き込んであった。大丈夫、原著者も訳者も間違っていない。会議は5月に開かれたのだが、提案は前年1898年中に行われていた。(万国平和会議では、ダムダム弾禁止などが決まった。)
「三ヶ月」を、僕は昔からこう書いてきたが、「三カ月」に直してあったのには驚いた。しかし、こういうところで異を立てても仕方がない。「サンケゲツ」と読む人がいるだろうというのは老婆心だと思うが。
 高島先生によれば、「三箇月」の「箇」の竹冠の右が「三ヶ月」の小さいケなのだという。なるほど「符号」なのですね。
 
 

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2012年8月 7日 (火)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの憶説(本場版)

 catch-as-catch-canはfreestyleの古い言い方に過ぎないのですが、英米人でも分からない人が多いらしい。だから、「アメリカの那嵯涼介」みたいな人が上のような本を書いている。前にも書いたが、日本人だって、「活動写真=映画」はまだ分かるだろうが、「省線=国電」となると知らない人が多いだろう。同じように英米人も古い英語を知らないというだけのことだ。この本のカスタマー・レビューは英語で書いてあって、英米でもプロレスファンなどという人種は余り上等でないことがよく分かる。
 "Say uncle."というのはuncleが「参った」の意味になるので、これは英和辞典にも出ている。しかし、プロの試合の「タップ」ではなくて、子供の喧嘩でしょう。私も小学生のとき、隣の家の同じ年の子供と取っ組み合いの喧嘩をしたけれども、関節技や絞め技をかけるなどという恐ろしいことは考えたことがなかった。
 1908年のロンドン五輪では、バンタム級(54kg以下)からヘビー級(73kg以上)まで5階級にわたって、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、すなわちフリースタイルのアマチュア・レスリングが行われた。
 この試合の様子は、当時の新聞雑誌に載っているはずだ。調べてご覧なさい。勝負はフォールで決まったので、アームロックで一本なんて試合はなかったことが分かるはずだ。
 同じ1908年にプロのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン世界選手権が行われ、前田光世が出場したことも前に書いた。前田も柔道の技は封印して純レスリングで戦い、タイムズ紙上で絶賛されたのだ。

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  左上のカラー写真はグレコローマンかも知れない。いずれにせよ、アマチュア・レスリングは百年前から現在と同じスタイルで行われていたのだ。昔はプロレスとアマレスが同じスタイルだったことは前に述べた。
  私は「反証を挙げてみろ」と言っているのだ。「何年何月にどこで誰対誰のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合があってアームロックで一本が決まった」というような記録が残っていれば出してみてください。谷幸雄も前田光世も柔道技を封印してキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合に出て賞賛されている。そんな記録はないだろう、と私は見当をつけているのですが。「ないことを証明する」のは不可能だということは分かりますね。だから「反証を挙げよ」というのだ。
  谷幸雄が柔術の技を使ってキャッチ・レスラーに楽勝した試合の記録は私がこのブログで和訳している。谷がキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合に出て、柔術技を使わずに(すなわち、ほぼ現在のフリースタイルレスリングと同じレスリングをして)全英ライト級チャンピオンに勝った試合の記録も和訳した。グレート・ガマ対スタニスラフ・ズビスコの試合(1910年9月10日)もキャッチ・アズ・キャッチ・キャンであったが、サブミッションなし、勝負はピンフォールのみで決まるというルールで、大凡戦(引き分け)になって非難されたのだった。
 私は「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」と銘打った試合でフォールではなくサブミッションで勝負がついたものはなかったはずだ――と予想している。あったというなら一試合だけでもいいから、何年何月何日どこで行われた誰対誰の試合でどういう技で決着がついた、という記録を発掘してみなさい。

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2012年8月 6日 (月)

五輪にあわせた必読書「日本レスリングの物語」(柳澤健)

 標題の記事があるのは、見えない道場本舗。力作です。八田一朗が偉かったのだけれど、それだけの話ではない。http://d.hatena.ne.jp/gryphon/
 以下、まるごと引用させてもらう。

レスリング、その世界的起源は。中央アジアレスリングとは
  ここはプロレス寄りというか、プロレスファンのほうが詳しかったり、逆にあやしげな伝説を信じたりするのでおさらい。

  柳澤氏はレスリングを「騎馬遊牧民の、重い家畜を自在に動かす、生き物をコントロールスする技術」「中央アジアの騎士の技術」が根底にあるとしている。

  ゆえに「西のボスポラス海峡から東のインダス河流域まで」実は無数の最強レスラーが近代以前にひしめいていて・・・これがその後のトルコ刈りに通じたり(後述)

  しかしレスリングがギリシャ・ローマに起源を持つようなイメージがあるのはなぜか、というと・・・これも「植民地主義批判のあまり非科学的議論が多い」とも批判される「黒いアテネ」問題がある。。つまり・・・端的にこの本から引用していうと

  永い間、ペルシャやモンゴルやアラビアやトルコから抑圧を受け続けたヨーロッパ人は、世界中の植民地化を図ると共に、メソポタミアではなくギリシャを文明の起源とする”世界史”を捏造した。――ここまで読んでも分からないだろう。あとは直接「見えない道場」を見てください。

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『コナン・ドイル』8月10日発売です

 ジェントルマンは前宣伝をしないものだとコナン・ドイルは言うが、僕はジェントルマンではないので。
 内容もよろしいけれど、装丁が素晴らしい。手に取ってみたくなります。
  公式には8日が配本日です。アマゾンが「予約」ではなくなるはず。

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2012年8月 5日 (日)

コナン・ドイルとロンドン五輪(1908)

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マラソンは、国王の住むウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の約40kmで行われた。この際、時の王妃アレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために42.195kmという半端な数字になったとする逸話がある。ちなみに、この大会で最初に競技場に到達したイタリアの選手ドランド・ピエトリはゴール直前で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となった(ドランドの悲劇)。この「ドランドの悲劇」で、彼に手を貸した役員の中にかの有名なコナン・ドイルがいたという説がある。
(とウィキペディアには書いてあるが、これは間違いで、ドイルは英国オリンピック委員として役員席に坐っていた。「ドランドが可哀想じゃないか」というのでドイルが音頭をとって300ポンドのカンパを集めた。)

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2012年8月 4日 (土)

ロンドン五輪(1908年)のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン

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 1908年ロンドン五輪が開催された。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは大成功で、5カ国のレスラーがメダルを獲得した。グレコローマンでメダルを得たのは7カ国のレスラーだった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリースタイル)のバンタム級で銅メダルを得たカナダのオーベール・コテ選手はカナダ初のメダリストであった。彼は自分の農場を抵当に入れてロンドンまでの旅費を捻出していた。
 大英帝国のアレクサンドラ王妃がホワイトシティ・スタジアムで優勝者にトロフィーを授けたとき、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは遂に国際的なアマチュアスポーツとして認められたのである。
1908年ロンドン五輪では、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイル・レスリングは次の階級で行われた。

バンタム級 (54kgs)
フェザー級 (60.30kgs)
ライト級 (66.6kgs)
ミドル級(73kgs)
ヘビー級 (73+kgs)

オリンピックでの認知

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがイングランドでアマチュアスポーツとして公式に認められたのは1888年にアマチュア体育協会によりオリンピック用のスポーツとして受け入れられて以来である。これは英国オリンピック協会のS・ド・カーシー・ラファンの努力による。彼は1914年のパリの会議でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをオリンピック種目に含めるべく論陣を張った。しかしその数日後に第一次大戦が勃発したのだった。
 英国は1908年ロンドン五輪の成功を以後繰り返すことはできなかった。外国では政治的イデオロギー的理由でアマチュアスポーツの支援を強化し、アマチュアリズムを逸脱するに至っているが、英国の政治家はオリンピックの理想を信じてか超然たる態度を取ってきた。近年ようやく変化に兆しが見えてきたが、もう英国のレスリングは手遅れだろう。レスリングの競技人口は激減し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングのスポーツとしての存続は誕生の地で脅かされている。

 以上は以前に紹介した「フリースタイルレスリングの歴史」(英連邦アマチュアレスリング協会)の和訳です。キャッチのアマチュア試合があったのですよ。関節技や絞め技で勝負が決まったかどうか、記録を調べてごらん。「アームロックで一本勝ち」なんて新聞記事があるだろうか? 

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2012年8月 3日 (金)

ジョゼフ・ベル博士

「あんたは陸軍にいましたな?」
「そうであります」
「除隊したのは最近でしょう?」
「そうであります」
「高地の連隊だな?」
「そうであります」
「下士官であった?」
「そうであります」
「駐屯地はバルバドス?」
「そうであります」
「分かるかね、諸君」とベルは学生たちに説明する。「この人は礼儀正しいのに、帽子を脱がない。陸軍では脱がないからね。除隊したのが昔なら民間の作法を覚えているはずだ。一種の権威がある様子で、明らかにスコットランド人だ。バルバドスというのは、病気が象皮病で、これは西インド諸島のもので英国固有のものではないからだ」
 ベル自身が自分の方法をホームズのように説明している。「細かい違いを正確に識別し理解することが診察術の本質だ。よく見える目とよく聞こえる耳、一度見聞きしたものを忘れないでいつでも取り出せる記憶力、バラバラの鎖をつなぎ合わせもつれた糸を解きほぐして組み立てる想像力、これが優秀な医者の条件だ」
(第6章「シャーロック・ホームズ」より)
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2012年8月 2日 (木)

コナン・ドイルの伝記

 名探偵シャーロック・ホームズを創造した作家、アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)の伝記は、英語ではすでに二十数冊が刊行されている。ドイルが一九三〇年に七十一歳で亡くなると、翌年にジョン・ラモンドという人がシャーロック・ホームズ全集を出しているマレー社から『アーサー・コナン・ドイル覚書』という伝記を刊行した。ラモンド氏はドイルが晩年に凝っていたスピリチュアリズムの仲間で、この伝記はホームズよりも「スピリチュアリストとしてのコナン・ドイル」に焦点を置いたものらしい。これでは困る。コナン・ドイルのような一流の人物には文学的価値の高い本格的な伝記を書いておくべきだというのが、英国では常識である。
 幸い、伝記作家として有名なヘスキス・ピアソン(1887-1964)がコナン・ドイル伝を書きたいという意向だったので、妻のジーン、次男のデニス、三男のエイドリアンなどの遺族はピアソンに全面的に協力することにして、未刊の原稿や書簡などの資料を自由に使わせた。ピアソンは生前のドイルを知っていたし、バーナード・ショー(1856―1950)をはじめ存命の同時代人にもインタビューした。1943年に本書が刊行されると、グレアム・グリーンが「ヘスキス・ピアソン氏にはジョンソン博士に通じる特質がある」と最大級の賛辞を呈した(附録の「ポーカーフェイス」は本書の初版が出たときにグリーンが書いた書評である)。オブザーバー紙では「この秀逸な伝記に新たなものを付け加えない限り、もはやコナン・ドイルについて本を書く余地はない」と書かれるなど、評判は上々であった。
 ヘスキス・ピアソンの本書がコナン・ドイル伝の「決定版」と見なされたということである。英国では、偉人や有名人については何冊か伝記が出て、そのうちの一冊が「決定版」になる。場合によっては決定版が出た後で、「新たなもの」を付け加えた伝記が出て、偉人のイメージがひっくり返ることもある。ピアソンと同時代人だったリットン・ストレーチー(1880―1932)の『ヴィクトリア朝偉人伝』(みすず書房2008)は、「決定版をひっくり返す伝記」であった。

 ストレーチーの「偉人」の中で我々も知っているのはフロレンス・ナイチンゲールである。ナイチンゲールについては、すでに「決定版」の伝記が出ていて、日本でも看護学校の卒業式に「ナイチンゲール誓詞」を朗読するのは、このような伝記の内容が知られているからだろう。ストレーチーによれば、ナイチンゲールは実に手強い女で、コナン・ドイルも手こずった陸軍省を相手にまわして一歩も引かなかった。宮本百合子は、ストレーチー版を読んだ後で、こう書いている。「慈悲の女神、天使として、フロレンス・ナイチンゲールは生きているうちから、なかば伝説につつまれた存在であった。後代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の呻吟のなかへあまくだった姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの永い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか」(「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」新日本出版社版全集第十四巻)

 オブザーバー紙の書評の主意は、ジョン・ラモンドに次ぐ二人目にヘスキス・ピアソンという大物が出てきて「秀逸な伝記」を書いてしまったから、以後ドイルについて書くにはよほど新機軸を出さなければ無意味だ――ということである。
 ところが遺族、特に父親を熱烈に崇拝していたエイドリアンはピアソンの書いた決定版である本書が気に入らなかった。ピアソンがスピリチュアリズムに帰依したドイルを「頭が単純で精神的に未発達な男」として描いたのが許せなかったらしい。エイドリアンは1945年にThe True Conan Doyleというパンフレットを書いて本書に反論した。1950年代になって、BBCがホームズ生誕百年記念プログラムの一部としてヘスキス・ピアソンに講演を依頼すると、「ピアソンに出演させるならば今後ホームズのドラマ化は許さない」と言って妨害した(その後、シャーロック・ホームズはラジオドラマになり、テレビドラマにもなった。ヘスキス・ピアソンはBBCに出演しなかったようだ)。

 遺族は改めてジョン・ディクスン・カーに委嘱し、カーは二年間かかりきりになって1949年にドイル伝を上梓した。これは早川書房版で568頁の大冊である。こちらの方は気に入ったらしく、エイドリアンはカーと共著で1954年に パスティッシュ短篇集The Exploits of Sherlock Holmes (『シャーロック・ホームズの功績』早川書房1956)を出している。
コナン・ドイルの伝記で邦訳があるものは

(1)ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』早川書房一九六二(原著一九四九)
(2)ジュリアン・シモンズ『コナン・ドイル』東京創元社一九八四(原著一九七九)
(3)ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生まれた家』新潮社一九八三(一九七七)
(4)ダニエル・スタシャワー『コナン・ドイル伝』東洋書林二〇一〇(原著一九九九)
   
 自伝と自伝的小説にも翻訳がある。
コナン・ドイル『わが思い出と冒険』新潮文庫一九六五(原著一九二四)
コナン・ドイル『スターク・マンローからの手紙』河出書房二〇〇六(原著一八九五)

 自伝と自伝的小説を英語で読んでみると、ヘスキス・ピアソンがドイルの文章を本書でほとんどそのまま使っていることが分かる(邦訳版と本書を比べると、かなり書き換えているように見えるかも知れない。これは新潮文庫版と河出版の翻訳がよくないのである)。
 従来、日本では、有名な探偵小説作家が書いたというので、ジョン・ディクスン・カーのコナン・ドイル伝がベストであるとされていたようだ。しかし、日本人がよく知らないことがある。
 それは、英国ではヘスキス・ピアソンの書いた本書が高く評価され決定版と見なされていること、カーがコナン・ドイルの伝記を書いたのは、前述のようにドイルの三男エイドリアンとヘスキス・ピアソンが喧嘩したためであることだ。
 カーの『コナン・ドイル』の書き出しは

 一八六九年の夏のある午後、エディンバラ市サイエンス・ヒル・プレース三番地の家で、台所のとなりの荒いみがかれた小さな食堂に、ひとりの中年ちかい紳士が、自分のかいた水彩画に向かって腰をおろしていた。彼は過去二十年の歳月を回想していたのである。
 背が高く、絹のような顎髭がチョッキにまでたれて、濃い髪の毛は額を横切って渦まいていたが、そのような異彩をはなつ容貌の人物にしては、態度が隠棲的で、気弱そうだった。身につけている衣服は、見すぼらしいながらも、妻が精いっぱい努力して、世間へ出ても体面がたもてるだけのものにしていた。ただ、ちらと横目で台所のほうを見やった彼の目には、独自の性格と、はるか戸外を見とおす洞察力とがひらめいていた。(大久保康雄訳)

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「中年ちかい紳士」というのは、コナン・ドイルの父、チャールズ・ドイルのことである。小説仕立てにしてある。ジョン・ディクスン・カーはヘスキス・ピアソンの二番煎じだけは避けなければならなかった。わざと『スターク・マンローからの手紙』や『わが思い出と冒険』を利用せず、書き方を工夫して新味を出そうとした。しかし、どうもこれはグレアム・グリーンのいわゆる「書き手が興奮してしまった」場合のようだ。(訳者解説より)

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