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2012年9月23日 (日)

評伝にあらず(2)

伝記か評伝か
 本書はアーサー・コナン・ドイルの伝記であって、「評伝」ではない。単に伝記と言えば済むところを日本では「評伝」という言葉を使う場合が多いのを私は不思議に思ってきた。「評伝」については、由良君美氏が「以前から気になっていた」と書いている。

 以前から気になっていたことだが、わが国には評伝というジャンルがあって、これが独自の人気を博している。「人物評伝」などという言い方は特に好まれる。ところで「評伝」に相当する外国語は何かと考えると、ハタと当惑する。日本における「評伝」という語の成立を調べてみたら、さぞ面白かろう。資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする「伝記」の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での「評伝」というジャンルはない。「伝記」の事実尊重主義と「批評」の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が「評伝」。二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。優れた見識を持つ筆者の手になる「評伝」は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物になる。個性による個性の照明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。
 こういう秀れたものの場合は良い。しかし本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、「評伝」というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。 
  わが国で本格的ノンフィクション文学が発達せず、辞典類の記述も評伝的恣意に甘く流れがちなのも、このことと関係があるだろう。
(由良君美『みみずく偏書記』215,216頁)

 由良君美氏は1990年に亡くなったが、2007年になって自身が「評伝」に書かれた。四方田犬彦『先生とわたし』という本が出たのである。映画評論家の四方田犬彦氏は東大駒場で由良君美氏の弟子だったが、由良先生がのちにアル中で酒乱になって四方田氏を殴ったという話であるらしい。四方田氏としては「筆者の好悪を織り込んだ評伝」を書くほかはなかったのだろう。
 このように普通の伝記とは少し違うものには、たとえば「評伝」のような別の言葉を宛てておかなくては仕方がないだろう。普通に「伝記」と呼べばよいものをわざわざ「評伝」と呼ぶのが不思議なのである。たとえば岩波書店から出ている「ペンギン評伝双書」がある。「伝記」の分野はまことにイギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しく、ペーパーバックで有名なペンギンからPenguin Livesというシリーズが出ている。この翻訳が岩波の『ペンギン評伝双書』である。この双書には、ナポレオンや毛沢東からジョージ・ブッシュ(父)に至る政治家やダンテやプルーストのような文学者の伝記が揃っている。伝記の対象には仏陀も含まれている。イエス・キリストの伝記はない(仏陀と違って三位一体だから「人」ではないらしい)が、モルモン教の教祖で『緋色の研究』にも登場するジョゼフ・スミスの伝記はある。最近の人物ではマーロン・ブランドやエルヴィス・プレスリーの伝記もある。Livesは「伝記」と訳すべきはずであるが、岩波の翻訳版ではどういうわけか「評伝」である。

 評伝に相当する外国語は何か? 和英辞典で引いてみよう。たとえば研究社和英大辞典にはcritical biographyと書いてある。しかし、こんな英語はない。これはあくまでも「辞書の説明用の英語」である。実際に英文を書くときに日本語の評伝のつもりでcritical biographyという言葉を使っては、意味が通じない。事実に基づく「伝」と好悪を含む「評」が峻別されないというのは、英語の読者にはとうてい理解できないはずだ。

「人物評伝」という言い方が特に好まれるというのもその通りである。ケインズの『人物評伝』(岩波現代叢書1959)は有名である。原題はEssays in Biographyである。この本でケインズが取り上げた人物はアルフレッド・マーシャルを初めとする先輩経済学者のほかに、ニュートンとアインシュタインの二人の科学者、ロイド・ジョージ、クレマンソー、アーサー・バルフォア、ウィンストン・チャーチルなどの政治家も含まれている。ケインズはヴェルサイユ講和会議に英国代表団の一員として出席したから、たとえば間近で見た恐るべき交渉者クレマンソーのスケッチを書き残しておく義務があると思ったようだ。ケンブリッジのトリニティ・カレッジにはニュートンが住んでいた部屋がそのまま残っていて彼の原稿が長持に詰まっている。ケインズはこれをすべて読んだらしい。ケインズは
「ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたシュメール人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的及び知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった」
と書いている。ニュートンの残した原稿のうち、物理学や数学の研究はごく一部である。ニュートンはキリスト教を深く研究して三位一体説を否定するに至り(すなわちキリストに神性はないとする異端のアリウス派の立場になり)、錬金術にも真剣に取り組んでいた。しかしケインズは伝記を書くつもりはなかった。ニュートンの生い立ちからリンゴが落ちるところまでをケインズが書く必要はない。ケインズは、自分の書いたものは伝記ではないというつもりでエッセイと呼んだのだろう。適当な日本語がない場合に評伝という言葉を宛てておくのはやむを得ないかも知れない。しかし、由良氏の言うように事実の追求と批評は区別しなければならない。
(訳者解説より)

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コメント

Edgar Allan Poe: A Critical Biography、Mingus: A Critical Biography
なんていう本も出ていますから「こんな英語はない」というのは言い過ぎでしょう。
日本では、まずは事実を述べて(伝記)、それについて評価を行う(批評)のが普通ではないでしょうか。
エピソードだけを淡々と並べて、判断は読者に委ねる形式の「伝記」はあまり見かけません。
子供向けの「伝記全集」(昔なら、徳川家康、一休、ナポレオン、ノーベル等のラインナップ)
くらいではありませんか。と言っても、ネガティブなエピソードはあまり書かれていないので、
すでに評価が含まれているとも言えますが。
一般向けの「伝記」は「評伝」と呼ぶのが、読者に対して正直な態度ではないかと思います。

投稿: ころんぽ | 2012年9月23日 (日) 12時23分

なるほど、用例がありましたか。これは困った。
「子供向けの伝記とは違うのだ」と言うつもりで「評伝」をむやみに使いたがるのだ、と由良先生も言いたいのだと思いますが。
ピアソンの場合も「評価」が遺族の気に入らなかったのは確かです。

投稿: 三十郎 | 2012年9月23日 (日) 21時42分

おっと、そう言えば、9/23の東京新聞にドイル伝の書評が載っていましたね。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012092302000178.html

投稿: ころんぽ | 2012年9月23日 (日) 22時35分

ころんぼさん、吉田司氏の書評は中日新聞で見ました。9月5日に載ったのを友人が教えてくれました。ありがとう。シャーロキアン以外の人はずいぶん誉めてくれるみたい。
ーーという英語はないというのは、英語教師によくある間違いです。むかし、同僚でThere is the man.とは英語では絶対言わない、と断定した人がいて、おやおやと思ったものです。気をつけなければ。

投稿: 三十郎 | 2012年9月24日 (月) 09時05分

ころんぼさん、重ねてありがとうございます。東京新聞は長山易生氏でしたね。見ました。長山さんにも評価していただいてありがたい。

投稿: 三十郎 | 2012年9月24日 (月) 11時33分

聞くところでは、9/30の新潟日報新聞の読書欄で権田萬治氏が本書を勧めておられたとか。

投稿: ころんぽ | 2012年10月 5日 (金) 22時57分

小林司・東山あかね両氏の最後の共著が出版されました。
『裏読みシャーロック・ホームズ』(原書房)
この本のあとがき(「最後の挨拶」)の中で、東山あかね氏が興味深いことを
書いておられました。
曰く「ホームズ物語がドイルの心情告白であるという結論は、
1995年の第80回エスペラント世界大会内で小林氏がエスペラント語で講演されている」。
即ち、ドイル母とウオーラーの不倫説はこのとき世界に向けて発信されたのです。
希望者には講演内容をエスペラント語版で配布し、フィンランド語等にも訳されたそうです。
また、英語での講演は、1998年の日本シャーロック・ホームズ・クラブのセミナーで、
海外から著名なシャーロッキアンを招いて行われているそうです。

投稿: ころんぽ | 2012年10月 5日 (金) 23時09分

エスペラント! 早速『裏読み』を入手しなければ。ありがとうございます。
「伝記」は評価を含まないということではなく、伝と評を峻別するのだと思います。リットン・ストレーチーのものなどは日本式に言えば「評伝」になるのか。しかし、ストレーチーがナイチンゲールを「いやな女だ」と思ったとしても、これを「コッソリ織り込む」(由良氏)ことはしなかった。伝記という形式が確立しているから、そういうことはできなかった、のだと思います。
英語で『コナン・ドイルの北極日記』というのが初公開されるそうで、これも読んでみたいと思っています。

投稿: 三十郎 | 2012年10月 6日 (土) 07時35分

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