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2012年11月10日 (土)

和文英訳の憂鬱

 和文英訳では、ずいぶんむつかしいものをやったことがある。たとえば 

 祝詞
……罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根國底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す

 これは英訳してから他宗教に寛容な派(ユニテリアンだったと思う)のアメリカ人牧師さんに見てもらった。「神道の言葉は美しいですね」とおっしゃったから、そう変な英語にはならなかったのだと思う。しかし、肝心の「言霊」は消えてしまった。祝詞は日本語でなければ神々に通じない。コーランがアラビア語でなければならないのと同じだ。
 こういうものは訳しきれないことが分かっているから気が楽だ。もう少し普通のものの方がかえって厄介だ。
 日本の某市がオーストラリアの某市と姉妹都市になって、向うの中学生がホームステイに来た。これを迎える市の教育委員長の挨拶。

 ……日豪友好親善の一層の進展とともにみなさまのご健康を祈念して、私のご挨拶に代えさせていただきます。

 「私のご挨拶に代えさせていただきます」はどうするか? 
 祈念するはprayでよいか?
 「AするとともにBして」というかたちでAとBを並列するのは、何となく重々しく聞こえるからだろう、乱用されている。訳しようがない。
 和文英訳をやるときは「英国人の頭、英国人の頭」と呪文をとなえて、自分が英国人になったつもりで英語を書くことにしている。シャーロック・ホームズ正典をテープで何度も聞いて覚えているから、これを手本にすれば少々込み入ったことでもまず正確に書ける。契約書や法律の英訳はこれでよろしい。英米の契約書や英米法にはない事項や考え方でも、英米人にも分かるように英語でかみ砕いて書いてやればよい。日本語の原文を読んだ場合と英訳文を読んだ場合とで、同じ法的効果が生ずるようにすればよいのだ。
 しかしこの教育委員長の挨拶は、英国人の頭で考えてみると、「訳さない」のが正解のはずだ。我々日本人は子供のときから偉い人が面白くもないことを長々としゃべるのを我慢して聞くようにしつけられている。オーストラリアではそういうことはないだろうから、向うはずいぶんびっくりしただろう。しかし、僕の責任ではないのだ。
 あるいは、某社の社訓。「金銭の赤字を出しても、信用の赤字を出すな」
 これは、別の翻訳者が英訳したものがすでにあった。これを訳し直してくれというのだった。この英訳は
*Even if you go into the red in terms of money, never go into the red in terms of credit.
 だったと思う。
 英米人が見て「これはあまりにひどい」と言ったので改訳しようということになったらしい。
「信用」はもちろん、この場合はcreditではだめだ。reputationくらいか。
 それよりも「……ても」とあるからといって、Even ifで始めようというのが無茶苦茶だ。和英辞典を引けばよいと思っているのか。日本語と英語が一対一で対応していると思っているのか。犬=dogや本=bookなどは、近似的に一対一対応とみなしておかなくては仕方がないだろう。(本当は日本語の犬と英語のdogは一対一対応ではない。しかし、そこまで踏み込んでいると切りがない。能率のために「近似的に」対応するものとみなすのだ。)
 これは「短期的な損得よりも長期的な信用の方がはるかに大事だ」と言いたいのだろうと見当をつけて、素直な英語から「信用の赤字」という原文に相応しい奇を衒ったものまで五種類くらい英語を書いてみせて、「適当なのを選んで下さい」と書いておいた。
 しかし、本当は僕の英語は「英語でコピーライティングができる」ほどの腕前ではないのだ。やれやれ。仕方がない。

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