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2013年10月27日 (日)

下訳について(3)

 書籍の翻訳では下訳はふつうに行われているらしい。
 ウィキペディアで見ると中村能三が大久保康雄の下訳をしていたと書いてある。中村能三なら、大久保康雄よりはるかに腕が上ではないか。

 ハヤカワのシャーロック・ホームズを見る限り、大久保康雄氏(または彼の当時の下訳者)の訳はナマクラである。
 中村能三氏は、新潮文庫のサキ短篇集を読んでから英語のサキ短篇全集を読んだから、すごい訳者だということが分かる。岩波文庫の『サキ傑作集』と比べると、将棋で言えば大駒一枚上の腕である。プロとアマの違いがある。

 編集者の立場で考えれば、大久保康雄氏のような翻訳者に頼むのが安心である。締切までに一定水準の翻訳が必ず出来てくる。
 編集者として一番怖いのは、誤訳ではなく「予定した翻訳が期限までにできない」ことらしい。だから、「アインシュタインの機械翻訳」のような事件が起きる。 ;
 中村能三氏のような超絶技巧の翻訳は必要がない。大久保康雄氏(または彼の下訳者)ならば、一定水準の翻訳ができてそれでオーケーなのだ。誤訳を指摘したりするのは、マニアだけである。マニアだって、シャーロック・ホームズでなければ、わざわざ原文と照合したりはしない。

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2013年10月25日 (金)

下訳について(2)

書籍の翻訳では事情が違うこともあるようだ。

モンローの伝記下訳五萬円(丸谷才一)

 丸谷才一が下訳したものなら、もっと有名な(?)名目上の訳者はそのまま出版社に渡して、「五萬円」を除く印税をすべて自分のものにできる。
しかし、モンローが死んだのが1962年で、伝記はそれ以降に出たのだから、丸谷才一自身が下訳をやったはずはない――小谷野敦氏の考察を借りた。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20121013

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2013年10月24日 (木)

下訳について(1)

 野崎歓氏の『赤と黒』の誤訳はあまりにひどい。東大仏文科教授が自分で訳してあんな初歩的な間違いをするはずがない。下訳を使ってチェックしなかったのだろう――という推測は多い。たとえば「赤と黒 誤訳の真相」http://www.englishselftaught.com/akatokuro.htm
 下訳を使ったかどうか?
 私は下訳はやったことがない。「上訳」ならば一度やって閉口した。翻訳会社から、「この翻訳に朱を入れて下さい」とプリントアウトしたものを渡された。これは随分時間がかかったのに報酬は少なかった。間違いだらけで、自分で一から訳し直した方が速かったはずだ。
 以後は下訳に手を入れるという仕事はお断りという方針にした。ほかの翻訳者が下手な訳を出してクライアントの企業や官庁から突き返されると、私が訳し直す。翻訳会社にしてみれば翻訳料の二重払いで大損である。初めの翻訳者には以後注文が行かなくなるのだと思う。私自身の翻訳が突き返されないようにするには、仕事を選ぶ必要がある。先日も機械工学の論文の翻訳を「私には無理です」と断った。
 ふつうに考えれば拙い下訳に手を入れて上手な翻訳にするなんて、手間ばかりかかって難しいと思う。初めから上手な翻訳者が一人で訳した方がずっといいはずだ。書籍の翻訳では事情が違うのだろうか?

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2013年10月22日 (火)

些末な誤訳論争

ウィキペディアの記事を借りる。

立命館大学文学部教授の下川茂は、野崎の訳したスタンダールの『赤と黒』(光文社文庫、2007年)に対し、誤訳が多すぎるとの批判を行っている。下川は「前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚られる駄本」としたうえで「仏文学関係の出版物でこれほど誤訳の多い翻訳を見たことがない」と指摘し「まるで誤訳博覧会」と主張している。2008年3月付の第3刷で同書は19ヶ所を訂正したが、下川は「2月末に野崎には誤訳個所のリストの一部が伝わっている。今回の訂正はそこで指摘された箇所だけを訂正したものと思われる」と批判したうえで、誤訳の例を列挙し「誤訳は数百箇所に上る」と指摘している。下川は、いったん絶版として改訳するよう要請する書簡を野崎宛てに送付した。
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 しかし、光文社文芸編集部の編集長駒井稔氏は「読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与する気はまったくありません」と反論している。
(駒井氏の写真などは読売ADリポート[オッホ]より。http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200811/11toku2.php
このサイトでは駒井氏は賞賛されています。)
 
「些末な誤訳論争」だって。驚いた。誤訳があっても「読みやすく瑞々し」ければ構わない?
 赤と黒は、できれば原文で読みたい。しかし、原文で読むためには、1ヶ月くらいかけてフランス語を復習しなければならない。そんな暇はないから、翻訳で読むのである。私は昔読んだ岩波文庫の桑原武夫訳をもう一度読む。あるいは英訳で読むという手もある。

「野崎歓と光文社の駒井はひどい奴だ」という反応はもちろん多いが、意外なことに、誤訳指摘をした下川氏をたしなめる声もある。
「しかし一方、下川さんの異議申し立てのやり方にも、ちょっと穏当でないものを感じます。怒り心頭に発したのかもしれませんが、今回の手法はいきなり大上段から相手の脳天を斬りつけるみたいで、もう少しやりようがあったのでは、という気はする。」(ミステリー作家戸松淳矩 あさっての日記)

 しかし、「レナール氏のいびき」とすべきところを「レナール夫人の寝息」としているのだ。ムッシューとマダムを混同しているのだ。スタンダールの偽物を作ったのだ。大上段から脳天を切りつけられて唐竹割にされても仕方がないじゃないか? あるいは有名な内田ジュ先生は

「あなたは間違っている」というときには、どうやったら「はい、そうですね。直しておきます」という即答が得られるか、その効率についての配慮もまた必要だろうと私は思う。
「誤訳を認めることで失われるもの」の値を吊り上げるのは、その意味では効率的ではない。
野崎歓さんは「翻訳なんて」顧みられない場所で黙々とフランス現代文学の翻訳という報われることの少ない仕事をしてきた人である。(内田樹の研究室)

 そんな業界内部の話をされても困る。「野崎歓さんがどういう人か」なんて私の知ったことか。こちらはフランス文学やフランス現代思想の研究者ではなくて、赤と黒を読みたいけれど、やむを得ず翻訳で読むのである。

 しかし、誤訳指摘というのは反感を買うらしい。どうやら読者は誤訳を指摘されている側に感情移入してしまうらしい。
 拙著『シャーロック・ホームズの愉しみ方」のアマゾン読者レビュー

本書はそうしたシャーロキアンの世界に浸るのには、もってこいの良書です。
この点までは☆五つ。
ただし。
「この訳文は誤訳である!」と拳を振り上げるのは余分。
架空の世界のどっぷりと浸っているところを、現実の刃物で切り裂かれるというか興ざめなところがあります。
これで☆マイナス二つ。

 理解しがたい。君は正典ではなくまがい物を読んで「架空の世界にどっぷり浸る」ことができるのかね? 「この訳文は誤訳であると拳を振り上げる」のは、私の態度がよくない? 態度の問題ではないのだ。正しいか間違っているかが問題なのだ。シャーロック・ホームズのいわゆるimpersonalな問題なのだ。誰がどうだという問題ではない。Personally個人的には,I am satisfied that---を「満足している」「うれしく思う」などと訳する人は豆腐の角に頭をぶつけて死んでいただきたいと思うが(本にはそんな穏やかでないことは書けないので書かなかった)。
 モリアーティ教授が「軍人の家庭教師」をしている英国は、シャーロック・ホームズの英国ではなくて偽物の英国なのですよ。
 ふたたびウィキペディア
そのほか北海道大学の佐藤美希は、野崎の単純なミスによる誤訳を認めつつ、論争の背景には「新訳ブーム」における新しい翻訳観と、下川の持つ規範的な翻訳観との対立があると論じている。

 そんな高級な話ではない。新しい翻訳観は結構だけれど、間違う、よろしくない。

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