« 2014年1月 | トップページ | 2014年4月 »

2014年3月31日 (月)

評伝か伝記か 再論(1)

「評伝か伝記か」については、『コナン・ドイル』の訳者あとがきで由良君美氏を引いて次のように書いた。  

 本書はアーサー・コナン・ドイルの伝記であって、「評伝」ではない。単に伝記と言えば済むところを日本では「評伝」という言葉を使う場合が多いのを私は不思議に思ってきた。「評伝」については、由良君美氏が「以前から気になっていた」と書いている。
  
 以前から気になっていたことだが、わが国には評伝というジャンルがあって、これが独自の人気を博している。「人物評伝などという言い方は特に好まれる。ところで「評伝」に相当する外国語は何かと考えると、ハタと当惑する。日本における「評伝」という語の成立を調べてみたら、さぞ面白かろう。資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする「伝記」の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での「評伝」というジャンルはない。「伝記」の事実尊重主義と「批評」の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が「評伝」。二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。優れた見識を持つ筆者の手になる「評伝」は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物になる。個性による個性の照明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。  
 こういう秀れたものの場合は良い。しかし本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、「評伝」というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。  
 わが国で本格的ノンフィクション文学が発達せず、辞典類の記述も評伝的恣意に甘く流れがちなのも、このことと関係があるだろう。 (由良君美『みみずく偏書記』二一五頁、二一六頁)  

 ここまではよろしい。その後に勇み足をしている。

 評伝に相当する外国語は何か? 和英辞典で引いてみよう。たとえば研究社大和英辞典にはcritical biographyと書いてある。しかし、こんな英語はない。これはあくまでも「辞書の説明用の英語」である。実際に英文を書くときに日本語の評伝のつもりでcritical biographyという言葉を使っては、意味が通じない。事実に基づく「伝」と好悪を含む「評」が峻別されないというのは、英語の読者にはとうてい理解できないはずだ。

「こんな英語はない」というのが間違い。これは「ありますよ」と指摘してくれた人がいる。調べてみると確かにある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年4月 »