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2014年4月 6日 (日)

モリアーティの正体(1)

 モリアーティ教授は実在人物ではなく、ワトソンが創作したのだ――という憶説が一部にあるようだ。ワトソンが本物の「犯罪界のナポレオン」の正体を隠すために「モリアーティ」という名前を使ったというのである。アダム・ワース(一八四四―一九〇二)というアメリカ生まれの「ヴィクトリア朝最大の犯罪者」が実際に「犯罪界のナポレオン」の異名を取っていたことは確かである。ワースは、一八七六年にゲインズバラの描いたデヴォンシャー公爵夫人の肖像画を盗んだことで有名である。
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ワースは複雑な組織を作り上げ何層もの仲介者を通じて犯罪を行ったので、警察に捕まった実行犯は本当の元締めのことは少しも知らなかった――というと、モリアーティの方法とそっくりに思える。しかし、ワースはモリアーティではない。またモリアーティのモデルは、ジェイムズ・タウンゼント・セイウォード(一七九九―?)でもなかった。セイウォードは弁護士で「ジム・ザ・ペンマン」として知られた偽造犯である。彼は一八五〇年代に共犯を使ってロンドンの銀行から何度も偽造小切手で現金を引き出し、一八五七年にオーストラリア流刑になった。モリアーティは架空の人物ではなく、ワトソンが別の人物の正体を隠すために用いた仮名でもない。モリアーティは明らかに実在人物であり、一八八〇年代を通じてホームズの最大の敵であった。
 ワトソンは、ホームズ自身の言葉を引用している。

「モリアーティは生まれもよく立派な教育を受け、そのうえ驚くべき数学の才能に恵まれていた。二十一歳のとき二項定理に関する論文を書き、これはヨーロッパ中で評判になった。このおかげでさる地方大学に数学教授の職を得て、どこから見ても前途は洋々だった。ところが、この男には悪魔的な遺伝があったのだ。犯罪者の血が流れていて、これは並外れた頭脳によって矯正されるどころか逆に強化され、きわめて危険なものになった。大学町に彼をめぐる黒い噂が広がり、とうとう辞任を余儀なくされて、ロンドンに出て来て陸軍士官学校受験予備校の教師になった」(モリアーティはarmy coachになった。これを「軍人の家庭教師」などと訳すのは誤訳である。このことは平凡社新書『シャーロック・ホームズの愉しみ方』に書いたが、この本は当ブログの内容の書籍化である。アーミーコーチが「陸士受験予備校の教師」であることを世界ではじめて書いたのは私である。2006年4月http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/1_cc65.html

 モリアーティの経歴を要領よく要約した言葉である。しかしワトソンは、この悪の巨魁について重要な事実を一つ言い落としている。モリアーティはアイルランド人だったのだ。
 Moriartyという苗字は、ゲール語のO'Muircheataighから派生したものである。モリアーティ家は中世を通じてアイルランド西部で有力な氏族であった。祖先には十二世紀に西マンスターで王位に就いていた人物もいる。十九世紀半ばには、モリアーティ一族の大部分はケリー州の出身であったが、ジェイムズ・ノラン・モリアーティは一八四九年にグレイストーンズ(ダブリンとウィックロウの間の湾岸道路に沿った小さな町)に生まれた。父親は貧しいカトリックの地所差配人で四十代半ば、母親はずっと若かった。(モリアーティに「犯罪者の血が流れている」とホームズが信じたのはなぜかは不明である。ジェイムズ・モリアーティ父は平凡ではあるがまずまともな社会の一員であり、祖先も犯罪に関わった形跡はない。)
 モリアーティの少年時代についてはほとんど知られていない(母親が書いた手紙が二通と、ダブリンの新聞が一八五八年に算数の天才に触れた短い記事が残っているだけである)が、驚くべき数学の才能はすでに子供のころから現れていた。ホームズと同じようにモリアーティも微妙な扱いを要する子供だったので、ほとんど家庭で教育された。彼の数学の才能を見抜いてこれを伸ばしてやったのが誰なのかは分かっていないが、十七歳になるころにはすでに最初の論文を発表していた。大学入学を目指したが、カトリックとして、彼はダブリンのトリニティ・カレッジには入学できなかった。これはプロテスタントの大学だったからだ。ダブリンに新設されたユニバーシティ・カレッジに入るほかに選択肢はなかった。モリアーティは一八六七年に入学した。彼の数学はすでにカレッジの教授などのとうてい及ばない領域に達していたから、在学中、彼はヨーロッパの大学教授たちと文通して過ごした。モリアーティの数学を理解できるのは彼らしかいなかった。
 モリアーティは、一八七一年にユニバーシティ・カレッジを首席で卒業してから、四年間の研究の成果を発表した。『二項定理論』はダブリンの小さな出版社から刊行されたが、直ちにモリアーティに名声をもたらした。すでに文通で知己となっていた欧州大陸の教授たちに献呈本を送ったので(論文自体はライプツィッヒ大学教授カール・ゴットフリート・ノイマンに捧げられていた)、モリアーティの名声は一層高まった。いくつかの大学からぜひ御出いただきたいと懇望を受けた。彼はオックスフォードかケンブリッジに職を求めたかったのだが、またもやカトリックの出自が邪魔をした。ダラム大学は、同じように英国国教会の大学であったが、今や形だけのものとなっていたモリアーティのカトリック「信仰」には目をつぶった。
 一八七二年秋、まだ二十三歳で二項定理論の栄光に浸っていたモリアーティは、初めてアイルランド海を渡りダラム大学に教授として赴任した。後にホームズが描き出したモリアーティの姿は(探偵の偏見が混じっているが)、ダラムの市街で異彩をはなった。「彼は非常に背が高くて痩せている。白い額が丸く張り出し、目は深く落ち窪んでいる。きれいにひげを剃り、青白く苦行者のようだが、どこか教授らしいところが残っている。よほど研究に没頭したと見えて猫背だ。顔を前に突き出し、その顔が蛇のように絶えず左右に揺れている」
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  モリアーティは、このイングランド北部の町に六年間とどまった。この間に数学者としての名声はますます高まったが、「黒い噂」が広まって彼は辞任せざるを得なくなった。この噂が具体的にどういうものだったかは不明である。ダラム大学に保存されている文書からはモリアーティの名前が注意深く消してあるので、きわめて深刻なものだったのだろうと推測するほかはない。おそらく、彼がアイルランド独立運動過激派との関わりを深めているという情報が当局に寄せられたのだろう。ユニバーシティ・カレッジ在学中に、モリアーティはクランナゲルに加わり、イングランドに移住してからもアイルランド内外におけるこの秘密結社のメンバーとの連絡を絶たなかった。
 どのような犯罪があったのかは不明であるが、モリアーティは辞任を余儀なくされ、一八七八年にロンドンに出て来た。彼は二十九歳で数学者として絶頂期にあった。ところが、彼が見つけることができた仕事は陸軍士官学校受験予備校の教師しかなかった。モリアーティの感じた憤懣は想像に難くない。自分はヨーロッパ最高の数学者の一人だ。ゲオルグ・カントールやカール・ノイマンとも対等に文通しているのだ。その自分が、陸軍軍人になりたいという馬鹿どもに代数や幾何の初歩を詰め込む仕事をせねばならないのか(フィールズ賞をもらえそうな数学者が代々木ゼミナールで教えているようなものだ)。


  モリアーティは知的世界から締め出されて、アイルランド独立のためには合法非合法を問わず手段を選ばない過激派の陰謀の世界にますます深くはまり込んだ。モリアーティの数学的天才が彼らの役に立った。モリアーティはこれまでの暗号を新しく作り替えた(『シャーロック・ホームズ伝』第4章より)

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