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2014年4月30日 (水)

有職読みなど

(有職読み)
 歌人の藤原定家は、「さだいえ」が本来の名だが、一般に「ていか」と読まれる。このように、人の名を音読みすることを、「有職読み」と言う、とウィキペディアに書いてあり、だがそんな言葉は辞書にはないぞ、というので数年前に議論になったことがある。角田文衛の『日本の女性名』などには、「有職読み」という言葉は出てくるのだが、角田は元来日本史学者ではなく、考古学者である。辞書に載っているのは、「故実読み」で、丞相を「しょうじょう」と読むような、故実にのっとった特殊な読み方のことを言うので、人名音読みのことではない。
(P.146)

これは知らなかった。僕は「しょくし内親王」「吉本りゅうめい」「小谷野とん」のように有名な人名を音読みするが「有職読み」だと思っていた。村上龍などは、はじめから音読みだ。春樹は音読みでは様にならない。
(川端)康成を「こうせい」と読む人もいるのは、鴎外、漱石などの「号」の影響だろう。

 敦(とん)の『猫を償うに猫をもってせよ』には、内田ジュ、中島ギドーなどという音読みカタカナ書きが出てくる。これは悪者だという印だろう。ヨコタ村上孝之という人は、頭にカタカナがついているのだから超弩級の悪者だろう、と思ってたら、本名なのだそうだ。「ヨコタ+村上」で作った複姓だという。外国にはフィッシャー・ディースカウ(バリトン歌手)のように複姓は多いが、日本では珍しい。

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2014年4月 9日 (水)

諸兄邦香ではありません

 私は『シャーロック・ホームズの愉しみ方』という本を書いているので、一部では『シャーロック・ホームズ大人の楽しみ方』の著者、諸兄邦香氏と混同されているようだ。私は諸兄邦香ではありません。私は「大人の愉しみ方」はしない。

 諸兄氏は、国際語学社のサイトによれば

1963年、東京に生まれる。東京大学法学部卒。本名は田中立恒(たなか りつこう)。証券会社に勤務した後に、著述・翻訳業。辞典や学習教材の執筆を手がける。これまで執筆したシャーロック・ホームズ関連書に、「シャーロック・ホームズ大人の楽しみ方」(2006年、アーク出版)、同オーディオブック版(パンローリング、2009年)、「シャーロック・ホームズからの言葉」(研究社、2010年)がある。

 という人物である。私は筆名を使ったことはなく、本名は田中立恒ではない。諸兄邦香氏と私は別人である。よろしく。

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ワトソン、ドイルに会う

 実在のシャーロック・ホームズの生活が、殺人事件、スパイ事件、スキャンダルに彩られて充実して行くにつれて、これと併行して「活字のホームズ」の生活が始まろうとしていた。ワトソンが後になって潤色しているのでないとすれば、最初の事件の間にもう新しい友人の活躍を記録しておこうと思いついたらしい。この記録を後にワトソンは『緋色の研究』という題で刊行することになる。

「すばらしい!」と私は叫んだ。「君の功績は当然社会が認めるべきだ。ぜひこの事件の記録を公表したまえ。君にその気がなければ、僕が代わりにやろう」
「好きなようにしたまえ、ドクター」と彼は答えた。

 ローリストン・ガーデンの怪事件については、ドレッバーとスタンガソンの死の謎をホームズが解明したすぐ後にワトソンは記録を書き上げた。しかし、どうやって活字にすればいいかは分からなかったので、原稿はベイカー街の部屋の引出に仕舞い込んであった。やがて、ワトソンは出版の機会を与えてくれる男と会うことになる。

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   一八八五年十一月にロンドン市庁舎で開かれた医師会の晩餐会にワトソンが行ってみる気になったのは直前になってからであったが、これが後に大きな意義を有することになる。ワトソンの隣に坐った医師はポーツマスの近くのサウスシーにある自宅からロンドンまで出て来ていた。この若いスコットランド人の医師の名前は、アーサー・コナン・ドイルであった。コナン・ドイルは、一八五九年五月二十二日にエディンバラで生まれたが、画家とイラストレーターを輩出した家系の出だった。彼の伯父はパンチ誌の表紙とイラストを描き、祖父は政治漫画家だった。カトリックだったので、ドイルはイエズス会のストーニーハースト校で教育を受けてから、自宅に戻ってエディンバラ大学医学部に学んだ。ドイルの少年時代には、父親のチャールズ・アルタモント・ドイルのアルコール中毒が暗い影を落としていた。公務員の職を失ってから、ドイル父は精神病院に入院しているか、自宅の最上階に引き籠もって何年も過ごした。家族は彼を持て余していた。エディンバラ大学を卒業してから、ドイルはリバプールとアフリカ大陸西海岸を往復する貨客船の船医をしばらく務めたが、大学の同窓生ジョージ・ターナヴィン・バッドの申し出を受け入れて、プリマスで医院を共同経営することにした。これは悲惨な結果に終わった。バッドはペテン師で、独自の奇妙な治療法を売り物にしていた。それだけでなく、バッドは他人の金を自分の金みたいに平気で使い込んだ。ドイルがバッドの手中から逃れてサウスシーに自分の医院を開業することができたのは幸運だった。
 ワトソンとドイルは、初めて会った時から共有するものが多いことに気がついた。ワトソンの先祖にスコットランド人がいること、二人ともサウスシーに関わりがあることが、会話のきっかけになったに違いない。初めて会った時に話題に上ったとは思えないが、ワトソンとドイルは暗い秘密を共有していた。二人とも、家族にアルコール中毒者がいることに悩んでいた。酒がワトソンの兄を滅ぼしていた。『四人の署名』でホームズが述べた言葉は、自分の推理力をひけらかしただけだったが、ヘンリー・ワトソンの失敗に終わった短い人生を正確に要約している。「彼はだらしない人だった。ひどくだらしがなくてずぼらだった。前途有望だったのに、何度もチャンスを逃して、しばらく貧乏するかと思うと時には金回りがよくもなったが、結局は酒びたりになって死んだ」。ドイルの父親も芸術の才能をアルコールの海に溺れさせて、何年も精神病院や療養所で暮らし、一八九三年に死んだ。
 ワトソンがベイカー街で共同生活をしている並外れた男のことをその晩のいつ話したかは分からないが、ドイルはすぐに夢中になって聞いたに違いない。開業医として地歩を固めようとしていただけでなく、ドイルは文学にも野心があった。処女作『ササッサ渓谷の謎』は彼がまだ学生のうちにエディンバラのチェインバーズ・ジャーナル誌に載った。ドイルはありとあらゆる雑誌に小説を書いて、医業の乏しい収入を補おうとしていた。ワトソンと会ったころには、ドイルの最大の文学的成功は『J・ハバック・ジェファーソンの証言』という小説だった。これは一八八三年にコーンヒル・マガジンに匿名で載った。他の小説はほとんど注目されなかったが、この作品だけは論争の的になった。これは、今や伝説になっているメアリー・セレスト号の乗員消失事件に基づいていた。一八七二年にこの船を発見した英国の役人が、小説を実録だと思い込んだらしく大憤慨している。この話は「始めから仕舞いまででっち上げ」であって、その及ぼす害は計り知れないと彼は書いている。この反応は、ドイルの想像力がいかにすごかったかを証明するものであり、『J・ハバック・ジェファーソンの証言』に注目を集めた。このような経験があったので、ドイルはフィクションの味付けができる実話を求めていた。
 ワトソンの不思議な友人の話を聞いて、ドイルはこれは行けると思ったに違いない。ワトソンと初めて会ってから数週間後、ドイルは彼から聞いた話を自分が書いてみようと思ったようだ。ドイルの筆跡のノートが残っていて、探偵にはシェリングフォード・ホームズ、ワトソンにはオズモンド・サッカーという仮名がつけられている。
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  しかし、二人がもう一度食事を共にしたとき、ワトソンは自分の書いた原稿を見せた。ドイルはこれを読んで感心したので、自分で書くのは止めにしてワトソンの著作権代理人になることにした。ドイルはホームズの話を自分が書くのを止めるのを残念だとは思わなかったようだ。ドイルは常に自分の本領は歴史小説にあると信じていたので、終生誇りに思っていたのは、ホームズやワトソンとの関わりではなく、『白衣の騎士団』や『マイカ・クラーク』のような小説だった。彼は「『白衣の騎士団』にはホームズ百篇分の値打ちがある」と書いている。一九二三年になってもアメリカの雑誌に「もし私がホームズなどに関わらなければ、私の高級な仕事の価値が覆い隠されることはなく、私の文学的地位はもっと確固としたものになっていただろう」と書いている。しかし、一八八〇年代には、ホームズが将来は大変な名声を博するなどということはまだ分からなかった。後になって何を言おうが、ドイルはワトソンの著作権代理人の仕事を喜んで引き受けたのである。
 現代の読者は、ワトソンの原稿にドイルが出版社を見つけるのに苦労したと知れば驚くだろう。この作品の可能性を見抜ける出版社がなかったとはどういうことだろう。しかし『緋色の研究』(二人は相談してこの題名をつけることにした)は、一八八六年夏に数社に送られたが、出版してもよいという会社はなかった。アロースミス社という出版社が七月に原稿を返送してきた。ドイルはもちろん他の会社にも原稿を送ったが同じような結果だった。ワトソンは、このころはまだ友人の宣伝をしてやらねばとは思っていなかったし、ホームズ自身もやめておけと言っていたから、小説のことは諦めようと言った。しかし、ドイルは粘った。やがて一八八六年十月になって、ウォード・ロック社から手紙が来た。「拝啓。貴殿の小説を読ませていただき、気に入りました。残念ながら今年は出版できかねます。現在市場には安っぽい小説が溢れているからであります。しかし、来年までお待ちいただければ、二十五ポンドにて著作権買取の条件で出版させていただきたく存じます」これは、ワトソンが期待していた大称賛からは程遠かった。金額も二人を興奮させるものではなかった。しかしドイルは依頼人を説得して、ワード・ロック社の条件を受け入れさせた。
『緋色の研究』は一八八七年十一月に『ビートンズ・クリスマス年鑑』に一挙掲載された。これはワード・ロック社の雑誌だったが、数十年前にサミュエル・オーチャード・ビートンが創刊したものだった。彼は『家政学』の著者で料理研究家として有名だったミセズ・ビートンの夫だった。(『シャーロック・ホームズ伝』第5章より)

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2014年4月 8日 (火)

モリアーティの正体(3)

 一八八七年中葉には、レセップス事件での奮闘も終わっていた。ホームズは世界を揺るがしかねないさらに大きな犯罪に取り組むことになる。ウォルター・バジョットによれば、英国人は「社会の演劇化を好む。荘厳な儀式、偉人や美人の行列、富と歓楽の奇観が誇示され、英国人はこれに引きつけられる。……劇のクライマックスは女王である」。ヴィクトリア女王の即位五十年祭は、まさにこの言葉が当てはまる行事だった。しかし、ホームズがいなかったとすれば、五十年祭は混乱と悲劇に終わっていただろう。モリアーティ一味がこの日に恐ろしいテロを企んでいたことは明らかだ。女王の命を狙う企ては、これまでにも何度かあった。ヴィクトリア女王の治世には数々の暗殺未遂事件があった。犯人のほとんどは大逆罪には問われず、精神病院に監禁されることになった。一八七二年には英国のアイルランド支配への抗議を動機とした未遂事件があった。チャーティスト運動の指導者ファーガス・オコーナーの親戚で十七歳の男が、バッキンガム宮殿の前で馬車から降りた女王にピストルを向けた。しかし、このピストルには弾が込められていなかった。オコーナー青年は直ちに取り押さえられた。裁判では、犯人は自分の動機はフィニアン団の囚人の窮状に注目を促すことにあったと述べた。それなりに筋の通った動機であったが、犯人は精神異常であるとされた。
 一八八二年にはウィンザー駅での事件があった。ロデリック・マクリーンという青年が馬車に乗っている女王をピストルで撃った。弾は当たらなかった。女王は後になるまで気がつかなかった。銃声を機関車の音だと思っていたという。マクリーンはすでに精神病院に入院歴があり、レディングで行われた裁判では直ちに別の病院への入院の措置が取られた。しかし五十年祭の暗殺計画は、これまでの狂気の若者による未遂事件とは比べものにならなかった。
 一八八七年七月二十一日の行進は、バッキンガム宮殿を出てウェストミンスター大聖堂までロンドンを横断し帰って来ることになっていた。当日、ロンドンは快晴で、青空に太陽が輝いていた。街路の光景はこれまでに誰も見たことがないものだった。ある観察者は「テムズ川が正午の強い日を受けて絶えずきらめきながらロンドンを貫いて流れる」さまを書き留めている。インド陸軍護衛兵のサーベルと勲章、馬飾りと武具が輝いた。

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  しかし、この華々しい行列を狙っている者がいた。モリアーティの雇った暗殺者たちである。ホームズの警告を受けて、当局は前月にタイムズ紙の記事の形で、暗殺計画は察知しているという暗号通信を送っていた。モリアーティに対して見抜いているぞという警告を与えようとしたのだ。しかし倨傲なモリアーティには何の効果もなかった。彼は暗殺計画を予定通り進めた。
 計画は大胆なほど単純なものだった。国家元首が厳重に警備されている現代では、十九世紀には王侯がいかに危険にさらされていたかは理解しがたいだろう。ヴィクトリア女王がウェストミンスター大聖堂の前で馬車から降りるとき、数分間は群衆に全身を晒すことになった。モリアーティは、暗殺には爆弾が使われると警察当局が信じることに賭けていた。一八八〇年代を通じてロンドンではフィニアン団による爆弾事件が多発したから、こう信じるのは自然であった。当局が大聖堂とその周辺を綿密に捜査するのは、モリアーティとしては平気だった。彼は爆弾を使うつもりはなかった。最新型のレベル銃(無煙火薬を使う世界初の小銃)を持った狙撃手を二人配置しておくのが彼の計画だった。狙撃手の一人は、言うまでもなくセバスチャン・モラン大佐であった。
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  モランは、この伝記ではもっと後にも出てくるが、ペルシャ派遣英国公使だったサー・オーガスタス・モランの息子として一八四〇年に生まれ、イートンとオックスフォードで教育された。彼は数年前にインド陸軍を退役してロンドンに戻ってきたときにモリアーティの一味に加えられた。モラン家はアイルランド系であったが、彼の動機は金だけだった。一八八七年七月の五十年祭の日には、モランと共犯一名がレベル銃で武装してウェストミンスター大聖堂の向かいにある王立水族館の二階に潜んだ。王立水族館は単なる水族館ではなかった。一八七六年に建てられたこの施設には魚の水槽だけではなく、スケートリンク、図書室、劇場、美術室などもあった。モリアーティの目的には好都合なことに、正面の二階の窓から女王の馬車が見通せた。
 五十年祭の日が明けたとき、女王暗殺の企てに爆弾が使われるとは信じていない者はホームズだけだった。モリアーティと手下の間の暗号通信は傍受されていたが、解読されないものも残っていた。そのうち一通には、謎の単語が四度現れたが、ホームズも解読できなかった。七月二十一日の朝になって、ホームズはようやく意味が分かった。謎の単語は「水族館」であった。ホームズはすぐにモリアーティの計画を見破ったので、ワトソンとともにレストレイドが急いで集めた巡査を連れて、王立水族館を急襲した。女王の馬車はもう出発していた。暗殺者は不意を突かれた。モランは水族館の入り組んだ廊下や部屋を伝って警察の手を逃れたが、共犯は逮捕された。当局はモリアーティの組織について貴重な情報をこの男から得ることを期待したが、そうはならなかった。彼はペントヴィル監獄に留置されたが、独房で喉を切り裂かれているのが発見された。この男の正体は未だに分からない。
(『シャーロック・ホームズ伝』第5章より)

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2014年4月 7日 (月)

モリアーティの正体(2)

 モリアーティが加わるまでフィニアン団が使っていた暗号は、ごく単純なもので解読は容易だった。通信文中の一文字を別の文字に置き換えるというだけのごく単純なものだった。たとえば、AはBで置き換え、Bの代わりにC、Cの代わりにDという具合である。これでは党員間の「秘密」通信が平凡な警察官にも読み取れたとしても不思議ではない。モリアーティの指導の下に、彼の天才的な数学能力を活かして、暗号はきわめて複雑なものに作り替えられた。
 ホームズは暗号の専門家であった。『踊る人形』で彼はワトソンにこう言っている。「僕はあらゆる形式の暗号に精通していて、この主題については自分でもささやかな論文を書いた。その中で僕は百六十種類の暗号を分析しているのだ」。彼の知識は理論的かつ実践的だった。「世の中には新聞の三行広告のように簡単に解読できる暗号が多いのだ」とホームズはワトソンに豪語したこともある。「その種の幼稚な暗号なら、疲れないで頭の体操になる」。フェニックス公園の殺人事件の後数ヶ月間、ホームズは警察が傍受したアイルランド独立党の暗号通信を解読していたが、新しい暗号は以前とは比べものにならない頭脳を有する人物が作ったらしいことに気がついた。
 フェニックス公園の殺人事件の後、外務省に届く陰謀と暗殺の噂は急増した。それらはマイクロフトのデスクに回されて来た。ルイーズ王女がカナダを訪問する予定だったが、アイルランド独立党員がニューヨークから来て彼女を誘拐するという噂があった。暗殺のプロのシチリア人が二人、富裕なアイルランド人に雇われてロンドンに来て皇太子を暗殺するという話もあった。大部分は荒唐無稽な話だったので、マイクロフトは笑うしかなかったが、直ちに行動を取れという圧力を受けたことも確かである。もちろん行動は彼の得手ではなく、弟の出番であった。シャーロックがダブリンで目に見える成果を上げていないのを苦々しく思ってはいたが、マイクロフトはためらわず弟に再び依頼した。ホームズは暗号解読とともに体を動かす捜査にも取り組むことになった。
 愛国心と愛国心がぶつかり合い、二重スパイと秘密結社がはびこる地雷原にホームズは踏み込むことになった。アイルランド独立運動自体が分裂をきわめていた。議会を通じて平和的に独立を求める派と、英国の支配を覆すためには実力行使を辞せない者との間に分裂があっただけではない。暴力的な過激派自体が一八六〇年代の悲惨な状況の後で多数のセクトに分裂して、各分派は自分たちだけが独立運動の正当な指導者たり得ると主張していた。クランナゲルは一八六七年に創立されたが、ジェレミア・オドンネル・ロッサ(フィニアン団員として逮捕され一八七一年にアメリカに追放されていた)の一派と対立していた。ダブリンやコークのアイルランド人は、米国に移民した同胞が金にあかせた活動で干渉してくるのを嫌った。そういうアメリカ人の一人にミレン将軍がいた。これはティローン生まれの冒険家でメキシコでベニト・フアレスの革命軍に加わって戦い、一八六〇年代、七〇年代にアイルランド内外で大英帝国転覆の陰謀に関わった人物である。彼のような人間は裏切りも平気で、打倒しようとしてきた政府のスパイになることさえあった。
 アイルランド人のテロリズムから大英帝国を守る責務を負う側も、同じように分裂していた。内務省の官僚は閣僚と対立していた。閣僚は警察と意見が合わなかった。警察は政治家や諜報部員の介入に不平を言った。こういう状況でホームズ兄弟は自分たちの秘密情報網を作り上げた。一八八三年三月にロンドン警視庁に「アイルランド局」ができ、有名なアドルファス・ウィリアムソン警視が局長に任命されて一件落着となるはずだったが、反対に事態は紛糾した。大混乱の中心になったのは、ホームズ兄弟をモリアーティとほとんど同じくらい悩ませることになる人物であった。
 エドワード・ジェンキンソンはハロー校出身でマイクロフトより十年ほど先輩だった。フェニックス公園殺人事件の後、彼は文官として勤務していたインドから帰国してアイルランド局長に任命されるとすぐに、自分のスパイと二重スパイのネットワークを作り上げた。彼の工作員たちは、政府や警察ではなくジェンキンソン個人に忠誠を誓っていた。やがてジェンキンソンは、ホームズが一八八一年から八二年にかけて果たしていたのと同じ役割を果たすようになった。彼はフリーランスのエージェントで、その権力はホワイトホールの高官筋から与えられていたが、高官の側はいつでも都合のよいときに彼を見捨てることができた。ホームズ兄弟はジェンキンソンの侵入を疎ましく思ったが、どうしようもなかった。ジェンキンソンは政府首脳の支持を受けていた。
 英国政府は手を尽くし、ジェンキンソンやマイクロフト・ホームズのような立場の人間がありとあらゆる策を弄したが、過激派に対してはほとんど効果がなかった。一八八〇年代にはフィニアン団の活動が年ごとに激しくなって行った。一八八三年の春には、ホワイトホールの中心で爆弾が爆発した。負傷者はいなかったが、この爆弾は、過激派が英国政界の奥の院に浸透する力があることを見せつけた。秋には、地下鉄で爆弾事件が二件あった。一発はメトロポリタン線のパディントン駅で、もう一発はディストリクト線のウェストミンスター駅で爆発した。負傷者は数十人におよび、一部は重傷であった。ホームズ兄弟はジェンキンソンと暗闘を繰り広げていたには違いないが、ジェンキンソンがこう書いているのには同意しただろう。「私は春のうちに内務省に対して次は地下鉄だと警告を発していたのだ」。マイクロフトとシャーロックは、モリアーティ一味がうごめいている徴候をしばらく前から明らかに感じ取っていたのだが、官僚どもは動かなかった。
 モリアーティ元教授を訴追できる証拠はなかった。状況証拠さえほとんどなかった。悪い噂が立って辞任したことは確かだが、それでもモリアーティはボロを出してはいなかった。ホームズがワトソンに言ったように「モリアーティを犯罪者呼ばわりすれば、法律的には名誉毀損になるのだ。あいつには嫌疑などなく、表向きは非の打ち所がない。実に巧妙に立ち回っても行動の痕跡を消しているから、犯罪などという言葉を口にすれば法廷に引き出されることになる。誹謗だというので、君の年金を一年分、損害賠償に取られるのが落ちだよ」
 一八八四年五月三十日に、警察にとっては実に不名誉な爆弾事件が起こった。テロリストは文字通り警察の裏庭を襲った。夜九時を少し過ぎたころ、クラーク巡査は、スコットランドヤードの裏の便所の警備というぞっとしない仕事をしていたが、仕掛けてあった爆弾の大爆発で三十フィート飛ばされた。道路一つ隔てたパブ「ライジングサン」では、非番の警官たちがビールを飲んでいたが、爆風でガラスと木材が割れて飛んだ。負傷者は多かった。ホームズはフィニアン団員の暗号(モリアーティの数学的天才の産物だった)の解読に掛かり切りになっていたが、陰謀の解明に完全に成功したわけではなかった。ライジングサンの爆破は予想できなかったが、ネルソン記念柱の根本に仕掛けられた爆弾は、ホームズのおかげで爆発前に発見された。
 しかし戦いはこれで終わりではなかった。翌一八八五年には、ロンドン塔、ロンドンブリッジ、国会議事堂で爆弾が爆発した。議事堂に仕掛けられた爆弾は十一月二十四日に発見された。見物に来ていた観光客のグリーン夫妻と妻の妹が黒い鞄を見つけて勤務中のコール巡査に報告したのである。巡査が駆けつけたときにはもう導火線に火がついていたが、コールは警官に要求される以上の勇気を示し、鞄を拾い上げウェストミンスターホールに通じる階段を駆け上った。グリーン氏が「ダイナマイトだ」と叫びながら巡査の前を走った。もう一人のコックス巡査も駆けつけて、二人でどうすればよいかと言いあっているうちに、コール巡査も爆弾を持ちきれなくなった。爆弾は彼が床に投げ出すと同時に爆発して、巡査二人を吹き飛ばし、グリーン氏の連れの女二人は「上着を吹き飛ばされた」。他の者たちが現場に駆けつけたとき、今度は下院の議場に仕掛けてあったもう一つの爆弾が爆発した。下院は休会中で負傷者はいなかったが、テロリストはまたしても英国政治の中心に入り込んでみせた。議事堂のような主要施設には警備を強化すべしと警告していたホームズは激怒した。彼が爆弾犯とシンパの間の暗号通信を解読して引き出した結論も、お役所仕事の網に絡まって無視されたのだ。
 このころになると、マイクロフトとシャーロックはモリアーティ教授にとりつかれていた。教授がフェニックス公園の殺人事件にも一八八〇年代中葉の爆弾事件にも関与していたことは疑問の余地がなかったが、彼がホームズ兄弟の信じていたような首謀者だったかとなると疑わしい。アイルランド独立運動過激派は分裂をきわめていて、一人の黒幕が裏で操っているはずはなかった。兄弟は論理的すぎたのかも知れない。無秩序の裏にパターンを読み取ろうとしていたのかも知れない。ホームズはホプキンズ警部に、自分は「簡単な説明があるのに複雑な説明を求める傾向がある」と言ったことがある(「アベイ農園」)。実際にその通りだった。ワトソンも『四人の署名』で「ホームズの論理は精巧すぎるので」、彼は単純でありふれた説明があるのに複雑で奇妙な説明の方を選ぶ傾向があると言っている。同じことが当てはまったのだ。各セクトが分裂しているように見えたのは、その底にはさらに深い分裂があったからであるが、マイクロフトとシャーロックは、この単純な事実を受け入れることができなかった。モリアーティに対する証拠を集めて彼を一大首謀者に祭り上げてしまったのだ。『恐怖の谷』でマクドナルド警部が「我々CIDでは、この教授についてホームズさんは少し思い込みが過ぎるのではないかと思っているのですが」と言ったのは、正しかったのかも知れない。(『シャーロック・ホームズ伝』第4章より)

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2014年4月 6日 (日)

モリアーティの正体(1)

 モリアーティ教授は実在人物ではなく、ワトソンが創作したのだ――という憶説が一部にあるようだ。ワトソンが本物の「犯罪界のナポレオン」の正体を隠すために「モリアーティ」という名前を使ったというのである。アダム・ワース(一八四四―一九〇二)というアメリカ生まれの「ヴィクトリア朝最大の犯罪者」が実際に「犯罪界のナポレオン」の異名を取っていたことは確かである。ワースは、一八七六年にゲインズバラの描いたデヴォンシャー公爵夫人の肖像画を盗んだことで有名である。
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ワースは複雑な組織を作り上げ何層もの仲介者を通じて犯罪を行ったので、警察に捕まった実行犯は本当の元締めのことは少しも知らなかった――というと、モリアーティの方法とそっくりに思える。しかし、ワースはモリアーティではない。またモリアーティのモデルは、ジェイムズ・タウンゼント・セイウォード(一七九九―?)でもなかった。セイウォードは弁護士で「ジム・ザ・ペンマン」として知られた偽造犯である。彼は一八五〇年代に共犯を使ってロンドンの銀行から何度も偽造小切手で現金を引き出し、一八五七年にオーストラリア流刑になった。モリアーティは架空の人物ではなく、ワトソンが別の人物の正体を隠すために用いた仮名でもない。モリアーティは明らかに実在人物であり、一八八〇年代を通じてホームズの最大の敵であった。
 ワトソンは、ホームズ自身の言葉を引用している。

「モリアーティは生まれもよく立派な教育を受け、そのうえ驚くべき数学の才能に恵まれていた。二十一歳のとき二項定理に関する論文を書き、これはヨーロッパ中で評判になった。このおかげでさる地方大学に数学教授の職を得て、どこから見ても前途は洋々だった。ところが、この男には悪魔的な遺伝があったのだ。犯罪者の血が流れていて、これは並外れた頭脳によって矯正されるどころか逆に強化され、きわめて危険なものになった。大学町に彼をめぐる黒い噂が広がり、とうとう辞任を余儀なくされて、ロンドンに出て来て陸軍士官学校受験予備校の教師になった」(モリアーティはarmy coachになった。これを「軍人の家庭教師」などと訳すのは誤訳である。このことは平凡社新書『シャーロック・ホームズの愉しみ方』に書いたが、この本は当ブログの内容の書籍化である。アーミーコーチが「陸士受験予備校の教師」であることを世界ではじめて書いたのは私である。2006年4月http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/1_cc65.html

 モリアーティの経歴を要領よく要約した言葉である。しかしワトソンは、この悪の巨魁について重要な事実を一つ言い落としている。モリアーティはアイルランド人だったのだ。
 Moriartyという苗字は、ゲール語のO'Muircheataighから派生したものである。モリアーティ家は中世を通じてアイルランド西部で有力な氏族であった。祖先には十二世紀に西マンスターで王位に就いていた人物もいる。十九世紀半ばには、モリアーティ一族の大部分はケリー州の出身であったが、ジェイムズ・ノラン・モリアーティは一八四九年にグレイストーンズ(ダブリンとウィックロウの間の湾岸道路に沿った小さな町)に生まれた。父親は貧しいカトリックの地所差配人で四十代半ば、母親はずっと若かった。(モリアーティに「犯罪者の血が流れている」とホームズが信じたのはなぜかは不明である。ジェイムズ・モリアーティ父は平凡ではあるがまずまともな社会の一員であり、祖先も犯罪に関わった形跡はない。)
 モリアーティの少年時代についてはほとんど知られていない(母親が書いた手紙が二通と、ダブリンの新聞が一八五八年に算数の天才に触れた短い記事が残っているだけである)が、驚くべき数学の才能はすでに子供のころから現れていた。ホームズと同じようにモリアーティも微妙な扱いを要する子供だったので、ほとんど家庭で教育された。彼の数学の才能を見抜いてこれを伸ばしてやったのが誰なのかは分かっていないが、十七歳になるころにはすでに最初の論文を発表していた。大学入学を目指したが、カトリックとして、彼はダブリンのトリニティ・カレッジには入学できなかった。これはプロテスタントの大学だったからだ。ダブリンに新設されたユニバーシティ・カレッジに入るほかに選択肢はなかった。モリアーティは一八六七年に入学した。彼の数学はすでにカレッジの教授などのとうてい及ばない領域に達していたから、在学中、彼はヨーロッパの大学教授たちと文通して過ごした。モリアーティの数学を理解できるのは彼らしかいなかった。
 モリアーティは、一八七一年にユニバーシティ・カレッジを首席で卒業してから、四年間の研究の成果を発表した。『二項定理論』はダブリンの小さな出版社から刊行されたが、直ちにモリアーティに名声をもたらした。すでに文通で知己となっていた欧州大陸の教授たちに献呈本を送ったので(論文自体はライプツィッヒ大学教授カール・ゴットフリート・ノイマンに捧げられていた)、モリアーティの名声は一層高まった。いくつかの大学からぜひ御出いただきたいと懇望を受けた。彼はオックスフォードかケンブリッジに職を求めたかったのだが、またもやカトリックの出自が邪魔をした。ダラム大学は、同じように英国国教会の大学であったが、今や形だけのものとなっていたモリアーティのカトリック「信仰」には目をつぶった。
 一八七二年秋、まだ二十三歳で二項定理論の栄光に浸っていたモリアーティは、初めてアイルランド海を渡りダラム大学に教授として赴任した。後にホームズが描き出したモリアーティの姿は(探偵の偏見が混じっているが)、ダラムの市街で異彩をはなった。「彼は非常に背が高くて痩せている。白い額が丸く張り出し、目は深く落ち窪んでいる。きれいにひげを剃り、青白く苦行者のようだが、どこか教授らしいところが残っている。よほど研究に没頭したと見えて猫背だ。顔を前に突き出し、その顔が蛇のように絶えず左右に揺れている」
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  モリアーティは、このイングランド北部の町に六年間とどまった。この間に数学者としての名声はますます高まったが、「黒い噂」が広まって彼は辞任せざるを得なくなった。この噂が具体的にどういうものだったかは不明である。ダラム大学に保存されている文書からはモリアーティの名前が注意深く消してあるので、きわめて深刻なものだったのだろうと推測するほかはない。おそらく、彼がアイルランド独立運動過激派との関わりを深めているという情報が当局に寄せられたのだろう。ユニバーシティ・カレッジ在学中に、モリアーティはクランナゲルに加わり、イングランドに移住してからもアイルランド内外におけるこの秘密結社のメンバーとの連絡を絶たなかった。
 どのような犯罪があったのかは不明であるが、モリアーティは辞任を余儀なくされ、一八七八年にロンドンに出て来た。彼は二十九歳で数学者として絶頂期にあった。ところが、彼が見つけることができた仕事は陸軍士官学校受験予備校の教師しかなかった。モリアーティの感じた憤懣は想像に難くない。自分はヨーロッパ最高の数学者の一人だ。ゲオルグ・カントールやカール・ノイマンとも対等に文通しているのだ。その自分が、陸軍軍人になりたいという馬鹿どもに代数や幾何の初歩を詰め込む仕事をせねばならないのか(フィールズ賞をもらえそうな数学者が代々木ゼミナールで教えているようなものだ)。


  モリアーティは知的世界から締め出されて、アイルランド独立のためには合法非合法を問わず手段を選ばない過激派の陰謀の世界にますます深くはまり込んだ。モリアーティの数学的天才が彼らの役に立った。モリアーティはこれまでの暗号を新しく作り替えた(『シャーロック・ホームズ伝』第4章より)

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2014年4月 2日 (水)

評伝か伝記か 再論(2)

ポーの伝記にクリティカル・バイオグラフィーという副題が付いているのは、史料批判をしっかりとやりましたということだろう。アマゾンの内容紹介

Renowned as the creator of the detective story and a master of horror, the author of "The Red Mask of Death," "The Black Cat," and "The Murders of the Rue Morgue," Edgar Allan Poe seems to have derived his success from suffering and to have suffered from his success. "The Raven" and "The Tell-Tale Heart" have been read as signs of his personal obsessions, and "The Fall of the House of Usher" and "The Descent into the Maelstrom" as symptoms of his own mental collapse. Biographers have seldom resisted the opportunities to confuse the pathologies in the stories with the events in Poe's life. Against this tide of fancy, guesses, and amateur psychologizing, Arthur Hobson Quinn's biography devotes itself meticulously to facts. Based on exhaustive research in the Poe family archive, Quinn extracts the life from the legend, and describes how they both were distorted by prior biographies.

 クリティカル・バイオグラフィーを日本語に訳せば「評伝」になるかも知れない。ところが「評伝」を英語に訳してもクリティカル・バイオグラフィーにはならない。
 日本語の評伝は、由良先生によれば、「何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方」である。筆者の好悪をコッソリではなく、堂々と織り込んだものも評伝である。小谷野敦『川端康成伝』も評伝の傑作である。

 序文に「第一に、川端は私のもっとも好きな作家であった」とある。ところが、小谷野氏が

 大学院時代に好きだった女性は、谷崎について論文を書いていたが、川端はどうですか、と訊くと「異常」とひとこと言ったのである。

 このことを恩師に訴えると「キミ、女の人に言われたくらいでねえ」と言われたが、「女の人にそう言わせるものが、川端の中にあるんじゃないかと思うんです」と小谷野氏は言った。
 600頁以上の本文を読んで行くと、確かにだいぶ異常なところがある。
 都知事選で秦野(やっぱり警察官)をむやみに熱心に応援したのは変だった。
 あるいは、吉永小百合に「あなたは精神の貴族です」という手紙を書いたのだそうだ。吉永小百合はさぞ気味が悪かっただろう。

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