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2014年4月 9日 (水)

ワトソン、ドイルに会う

 実在のシャーロック・ホームズの生活が、殺人事件、スパイ事件、スキャンダルに彩られて充実して行くにつれて、これと併行して「活字のホームズ」の生活が始まろうとしていた。ワトソンが後になって潤色しているのでないとすれば、最初の事件の間にもう新しい友人の活躍を記録しておこうと思いついたらしい。この記録を後にワトソンは『緋色の研究』という題で刊行することになる。

「すばらしい!」と私は叫んだ。「君の功績は当然社会が認めるべきだ。ぜひこの事件の記録を公表したまえ。君にその気がなければ、僕が代わりにやろう」
「好きなようにしたまえ、ドクター」と彼は答えた。

 ローリストン・ガーデンの怪事件については、ドレッバーとスタンガソンの死の謎をホームズが解明したすぐ後にワトソンは記録を書き上げた。しかし、どうやって活字にすればいいかは分からなかったので、原稿はベイカー街の部屋の引出に仕舞い込んであった。やがて、ワトソンは出版の機会を与えてくれる男と会うことになる。

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   一八八五年十一月にロンドン市庁舎で開かれた医師会の晩餐会にワトソンが行ってみる気になったのは直前になってからであったが、これが後に大きな意義を有することになる。ワトソンの隣に坐った医師はポーツマスの近くのサウスシーにある自宅からロンドンまで出て来ていた。この若いスコットランド人の医師の名前は、アーサー・コナン・ドイルであった。コナン・ドイルは、一八五九年五月二十二日にエディンバラで生まれたが、画家とイラストレーターを輩出した家系の出だった。彼の伯父はパンチ誌の表紙とイラストを描き、祖父は政治漫画家だった。カトリックだったので、ドイルはイエズス会のストーニーハースト校で教育を受けてから、自宅に戻ってエディンバラ大学医学部に学んだ。ドイルの少年時代には、父親のチャールズ・アルタモント・ドイルのアルコール中毒が暗い影を落としていた。公務員の職を失ってから、ドイル父は精神病院に入院しているか、自宅の最上階に引き籠もって何年も過ごした。家族は彼を持て余していた。エディンバラ大学を卒業してから、ドイルはリバプールとアフリカ大陸西海岸を往復する貨客船の船医をしばらく務めたが、大学の同窓生ジョージ・ターナヴィン・バッドの申し出を受け入れて、プリマスで医院を共同経営することにした。これは悲惨な結果に終わった。バッドはペテン師で、独自の奇妙な治療法を売り物にしていた。それだけでなく、バッドは他人の金を自分の金みたいに平気で使い込んだ。ドイルがバッドの手中から逃れてサウスシーに自分の医院を開業することができたのは幸運だった。
 ワトソンとドイルは、初めて会った時から共有するものが多いことに気がついた。ワトソンの先祖にスコットランド人がいること、二人ともサウスシーに関わりがあることが、会話のきっかけになったに違いない。初めて会った時に話題に上ったとは思えないが、ワトソンとドイルは暗い秘密を共有していた。二人とも、家族にアルコール中毒者がいることに悩んでいた。酒がワトソンの兄を滅ぼしていた。『四人の署名』でホームズが述べた言葉は、自分の推理力をひけらかしただけだったが、ヘンリー・ワトソンの失敗に終わった短い人生を正確に要約している。「彼はだらしない人だった。ひどくだらしがなくてずぼらだった。前途有望だったのに、何度もチャンスを逃して、しばらく貧乏するかと思うと時には金回りがよくもなったが、結局は酒びたりになって死んだ」。ドイルの父親も芸術の才能をアルコールの海に溺れさせて、何年も精神病院や療養所で暮らし、一八九三年に死んだ。
 ワトソンがベイカー街で共同生活をしている並外れた男のことをその晩のいつ話したかは分からないが、ドイルはすぐに夢中になって聞いたに違いない。開業医として地歩を固めようとしていただけでなく、ドイルは文学にも野心があった。処女作『ササッサ渓谷の謎』は彼がまだ学生のうちにエディンバラのチェインバーズ・ジャーナル誌に載った。ドイルはありとあらゆる雑誌に小説を書いて、医業の乏しい収入を補おうとしていた。ワトソンと会ったころには、ドイルの最大の文学的成功は『J・ハバック・ジェファーソンの証言』という小説だった。これは一八八三年にコーンヒル・マガジンに匿名で載った。他の小説はほとんど注目されなかったが、この作品だけは論争の的になった。これは、今や伝説になっているメアリー・セレスト号の乗員消失事件に基づいていた。一八七二年にこの船を発見した英国の役人が、小説を実録だと思い込んだらしく大憤慨している。この話は「始めから仕舞いまででっち上げ」であって、その及ぼす害は計り知れないと彼は書いている。この反応は、ドイルの想像力がいかにすごかったかを証明するものであり、『J・ハバック・ジェファーソンの証言』に注目を集めた。このような経験があったので、ドイルはフィクションの味付けができる実話を求めていた。
 ワトソンの不思議な友人の話を聞いて、ドイルはこれは行けると思ったに違いない。ワトソンと初めて会ってから数週間後、ドイルは彼から聞いた話を自分が書いてみようと思ったようだ。ドイルの筆跡のノートが残っていて、探偵にはシェリングフォード・ホームズ、ワトソンにはオズモンド・サッカーという仮名がつけられている。
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  しかし、二人がもう一度食事を共にしたとき、ワトソンは自分の書いた原稿を見せた。ドイルはこれを読んで感心したので、自分で書くのは止めにしてワトソンの著作権代理人になることにした。ドイルはホームズの話を自分が書くのを止めるのを残念だとは思わなかったようだ。ドイルは常に自分の本領は歴史小説にあると信じていたので、終生誇りに思っていたのは、ホームズやワトソンとの関わりではなく、『白衣の騎士団』や『マイカ・クラーク』のような小説だった。彼は「『白衣の騎士団』にはホームズ百篇分の値打ちがある」と書いている。一九二三年になってもアメリカの雑誌に「もし私がホームズなどに関わらなければ、私の高級な仕事の価値が覆い隠されることはなく、私の文学的地位はもっと確固としたものになっていただろう」と書いている。しかし、一八八〇年代には、ホームズが将来は大変な名声を博するなどということはまだ分からなかった。後になって何を言おうが、ドイルはワトソンの著作権代理人の仕事を喜んで引き受けたのである。
 現代の読者は、ワトソンの原稿にドイルが出版社を見つけるのに苦労したと知れば驚くだろう。この作品の可能性を見抜ける出版社がなかったとはどういうことだろう。しかし『緋色の研究』(二人は相談してこの題名をつけることにした)は、一八八六年夏に数社に送られたが、出版してもよいという会社はなかった。アロースミス社という出版社が七月に原稿を返送してきた。ドイルはもちろん他の会社にも原稿を送ったが同じような結果だった。ワトソンは、このころはまだ友人の宣伝をしてやらねばとは思っていなかったし、ホームズ自身もやめておけと言っていたから、小説のことは諦めようと言った。しかし、ドイルは粘った。やがて一八八六年十月になって、ウォード・ロック社から手紙が来た。「拝啓。貴殿の小説を読ませていただき、気に入りました。残念ながら今年は出版できかねます。現在市場には安っぽい小説が溢れているからであります。しかし、来年までお待ちいただければ、二十五ポンドにて著作権買取の条件で出版させていただきたく存じます」これは、ワトソンが期待していた大称賛からは程遠かった。金額も二人を興奮させるものではなかった。しかしドイルは依頼人を説得して、ワード・ロック社の条件を受け入れさせた。
『緋色の研究』は一八八七年十一月に『ビートンズ・クリスマス年鑑』に一挙掲載された。これはワード・ロック社の雑誌だったが、数十年前にサミュエル・オーチャード・ビートンが創刊したものだった。彼は『家政学』の著者で料理研究家として有名だったミセズ・ビートンの夫だった。(『シャーロック・ホームズ伝』第5章より)

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