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2015年6月14日 (日)

コナン・ドイル自伝について

 オスカー・ワイルドとコナン・ドイルがはじめて会ったときの話は、以前にこのブログで書いたことがある。拙訳『コナン・ドイル』(平凡社)にも載っている。
 最後の望みをかけてドイルは『マイカ・クラーク』の原稿をロングマン社に送ってみた。 幸運にもアンドルー・ラングがこの原稿を読んで、出版すべきだと言ってくれた。1889年2月にこの本が刊行される直前に、ドイルはこう書いている。「この10年、懸命に書き続けてきたが、ペンで稼いだのは平均すると1年に50ポンドにもならない」しかし成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット社のために『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。(『コナン・ドイル』より)
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 英文学史上まことに奇妙な組み合わせを記録しているのは、コナン・ドイルである。当時、彼は流行らない医者であり、ほとんど無名の作家であった。ドイルは、アメリカの出版社リッピンコット社の編集者と晩餐をともにするためにサウスシーからロンドンに出て来た。相客はギルという名前のアイルランド人の下院議員とオスカー・ワイルドであった。ワイルドはまず『マイカ・クラーク』を絶賛してドイルを寛がせた。ワイルドの会話はドイルに忘れがたい印象を与えた。「彼は我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた。まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本当の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった」。彼は身振りは少なく言葉は簡潔だったが、活き活きと面白い話をすることができた。未来の戦争はどうなるかという話になると、彼は「敵味方それぞれ一人ずつ化学者がつく。この化学者が瓶を一つ持って前線に出てくるのです」と言った。これを真面目くさった顔で言うので、三人の聞き手は噴き出してしまった。ドイルはワイルドが即興でこしらえた短い話を披露している。「友の幸運は我が不愉快である」という人口に膾炙した言葉が話題になると、ワイルドはたとえ話をしてみせた。あるとき、悪魔の手下どもが聖人を怒らせようとした。しかしいくら頑張っても聖人は泰然自若としている。通りかかった悪魔は手下の失敗を見て、ひとつ教訓を与えようとした。「どうも未熟だなあ。わしがちょっと手本を見せてやる」悪魔はこの隠者に近づくとささやいた。「お兄さんがアレクサンドリアの司教になりましたよ」たちまち賢者の顔は嫉妬と怒りでゆがんだ。「こういうふうにやるんだよ」と悪魔は手下どもに教えたというのである。この晩の出会いの結果、ドイルは『四人の署名』を書き、ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』を書いた。(ヘスキス・ピアソン『オスカー・ワイルド伝』より。この訳文は『コナン・ドイル』の訳者あとがきに収める)>
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 この後を『コナン・ドイル自伝』ではどう書いているか?
 
 その晩の結果は、ワイルドも私も「リッピンコット」誌に小説を書く約束のできたことだった。それで書いたのがワイルドの「ドリアン・グレーの肖像」で、これは高い倫理的水準にあるものだった。わたしの書いたのはホームズの第二作「緋色の研究」だった。
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 延原謙ともあろうものが、こういう間違いをするのか。『緋色の研究』は言うまでもなくホームズの第一作である。このとき書いた第二作は『四つの署名』(延原謙訳による。私は『四人の署名』の方がよいと思う)である。
 翻訳には(あるいは文章を書くことには)、間違いが付き物だ。Even Homer nods.延原さんだってウッカリする。こういうところは、校閲がしっかり見なくちゃ。「新潮社の校閲はすごい」と書いている人が多いが、そうかなあ? 拙訳で
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 まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本当の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった」。
 の部分が、延原謙訳では
 感じかたや如才なさにこまやかさはあったが、一人芝居の男は心から紳士ではありえない。
 となっていて、これが誤訳だということはだいぶ前に書いた。「ショルトーの正体」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/2-a547.html これは校閲では分からないだろう。英語の読み方の間違い。荻原さんは、「ワイルドは変態」という先入観にとらわれて間違ったのだ。変態だったのは確かだが、紳士だったのだ。ドイルは「刑務所に入れなくてもいいだろう」と思っていた。
 新潮文庫の『コナン・ドイル自伝』も,そろそろ改訳してもいいのでは?

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コメント

こんにちは。『ドイル自伝』前半部の数章は、最近、笹野史隆訳『コナン・ドイル小説全集』の中で新たに訳されました。第8章は第35巻『ホームズ外典・下(2)』(2014.6発行)で訳出。首都圏の方々なら国会図書館で閲覧できます。

投稿: 熊谷 彰 | 2015年6月16日 (火) 12時27分

笹野さんはやっぱりすごいですね。県立図書館で探して読んでみます。

投稿: 三十郎 | 2015年6月17日 (水) 15時28分

「古典の訳は定期的に出た方がよい」と東大文学部長の熊野先生も東京新聞のインタビューで仰っていました。

投稿: ころんぽ | 2015年6月20日 (土) 18時33分

初めまして、かねてより、文芸翻訳について関心があり、その勉強の一環として、このブログを楽しく読ませて頂いております。しかし、反面読んでいて合点のいかない点がいくつかあるので、質問させて頂けますでしょうか。

まず、植村様は、「He towered above us all, and yet had the art of seeming to be interested in all that we could say. He had the delicacy and feeling and tact, for the monologue man, however clever, can never be a gentleman at heart. He took as well as gave, but what he gave was unique.」について、延原訳が「まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本当の紳士とは言えない」というポイントが反映できていないとおっしゃっていますよね。

しかし、私が読む限りでは、延原訳でも貴方が指摘されているポイントがきちんとそれなりに反映されているように感じられたのですが、どうしてそれが間違いとなるのでしょうか。そもそも、延原における「一人芝居の男」という表現は「一人でしゃべる男」の比喩表現に過ぎないという点からすれば、必ずしも誤訳と断定できない部分もあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

投稿: 星野聖夜 | 2015年9月 1日 (火) 07時08分

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