2009年12月14日 (月)

身長について(4)

 福沢諭吉について調べてみると、意外なことがずいぶん多い。びつくりする。
 たとへば彼の身長は一七三センチ、体重は六七・五キロ。当時の日本人の体格から見ると、大男である。(丸谷才一)

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 確かに大きいですね。右側の学生は150センチあるかないかというくらいだろう。
 福沢諭吉は1834年に生まれている。学生は明治になってからの生まれだろう。これで当時としては小人(こびと)というほどでもなかったらしい。

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2009年12月11日 (金)

身長について(3)

 夏目漱石は身長158cm、森鴎外は161cm。これは私がこのブログに書いている。白状すると、どこかで(インターネットではなく活字で)読んだうろ覚えを確かめずに書いたのです。
 伊藤整の『日本文壇史』に作家の身長が一々書いてあるという。興味がある人は確かめて下さい。

 三島由紀夫の身長は163cm。これは死体検案書の引用をインターネット上で確かに見た覚えがある。Hugo Strikes Back! という素晴らしいサイトがあって、ここからリンクを辿って行き着いた。ところがHugoさんのサイトが消え、検案書も消えている。三島由紀夫 死体検案書 で検索すると、私の「至近距離で見た有名人(1)三島由紀夫」
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/1__ce51.html
がトップに来る。
 三島由紀夫の身長は、死体検案書では163cm、河出書房編集者によれば162cm、丸谷才一氏の印象では161cm。
 私の印象ではもっと低かった。173cmの私が1メートルの距離から見て「自分より二回りばかり小さい」という感じ。160cm未満だろうと思った。想像より小さいのでびっくりして実際より低く見積もったのだろう。
 1970年に45歳で163cmならば別に小男ではない。みんなが「三島さんは小さかった」と言うのは、「大作家」にしては、ということでしょう。

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2009年12月10日 (木)

身長について(2)

 西郷隆盛の五尺九寸も二十九貫も目分量に決まっている。

「西郷どんは大きいなあ。六尺あるだろうか?」
「うーむ、六尺はなかろう。九寸かな」
「それくらいだろう」

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 という具合に、崇拝者たちがご本人のいないところでうわさしたのだ。体重も同じでしょう。西郷さんが身長を測ったり体重計に乗ったりはしないと思う。
 グーグルの検索窓に入力すると
 
5尺 9寸 = 1.78787879 メートル
29貫 = 108.75 キログラム

 と出る。だからといって、西郷隆盛が178.8cm、108.75kgはいけません。
 そもそもむかしの人は身長体重をそんなに正確に知る必要はなかったはずだ。四捨五入して「五尺の体」というくらいだ。体重も1貫=3.75kgという大まかな単位を用いた。
 我々は自分の身長をセンチ単位で把握している。これは中学や高校を卒業するまで毎年1度は身体検査があるからだ。
 明治維新後かなり早い時点で、徴兵を視野に入れて学校での身体検査が始まったのだろう。兵士としては身長五尺(151.5cm)は欲しい。明治十三年式村田銃は全長130cm、銃剣をつけると170cm以上になったから、あまり小さい兵隊では困る。しかし徴兵検査をしてみると五尺に足りない男がかなりいたらしい。日露戦争では、徴兵基準を5尺から150cmに引き下げたくらいだ。(日露戦争の主力装備の三十年式歩兵銃は村田銃より短く軽かった。この銃を改良したのが大東亜戦争まで使われた三八銃だ。)

 相撲取は身長体重を正確に計った。栃若時代まで五尺何寸何分、二十何貫という表示だった。これを換算すると若乃花は179cm、栃錦は177cmという具合になる。センチ未満はもちろん四捨五入。

 西郷隆盛については

丈が高くて百八十センチくらゐはあつたといふ。

 といふ具合に書くべきでせう。

 谷幸雄について、英語の資料に「体重は9ストーン」と書いてあったので、これを柔道か柔術か(13)では、57.15kgと換算してしまった。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/13_5b63.html
 これはよろしくない。辞書によれば「体重のときは1ストーンは通例14ポンド(6.35kg)」だ。日本の貫以上に大まかな単位を用いるのは、だいたいどれくらいかが分かればよろしい、ということでしょう。
 ウィキペディアの「谷幸雄」の項目を書いた人が「身長160cm未満、体重は60kg未満」としたのは賢明だ。

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2009年12月 9日 (水)

身長について(1)

……たとへば西郷隆盛の身長は一七八・八センチで、体重は一〇八・七五キロであつた。これは先々代若乃花の身長と体重にほぼ近い。このことは前にも書いた(『青い雨傘』所収)。
 夏目漱石の身長・体重はわかりませんね。森鴎外も不明。
 三島由紀夫は、これは体重はわからないが、身長ならわかる。
 自称によれば一六五センチですが、実は一六二センチであつたといふ藤田三男さんの証言があります。藤田さんは河出書房の元編集者。でも、わたしがどこかの劇場ですれ違つたときの印象で言へば、一六一センチくらゐだつたなあ。あれぢや権力意志が高まつて、自衛隊に突入したくなるよ。(『人形のBWH』p.197)

 丸谷才一の最新エッセイ集におさめる「ロンメル戦記」の一節。「砂漠の狐」と呼ばれたドイツのエルヴィン・ロンメル将軍(1891-1944)の戦記のことだけれど、わずか数行の間にも西郷隆盛から三島由紀夫まで話があちこちに飛ぶのが丸谷流だ。
 西郷隆盛の身長体重については、たしかに『青い雨傘』に書いてあった。

 史料によれば、西郷隆盛は、身長五尺九寸、体重二十九貫ですね。これを換算して、現代の力士と比較してみます。……

(換算すると、五尺九寸=178.8cm、二十九貫=108.75kgになるらしい。先々代若乃花が179cm、105kgであった。)

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……つまりおほよそのところ、若乃花(先々代)すなはち前双子山親方くらゐだつたと思へばいいわけです。おや、小兵ぢやないか、などと言ふなかれ。幕末から維新にかけての日本人は今よりもずつと丈が低かつたから、当時としては西郷はものすごい巨漢だつたでせう。威風あたりを払ふものがあつたに相違ない。

 しかし、西郷隆盛が178.8cm、108.75kgというのはどんなものでしょう? 丸谷才一とも思えない。上手の手から水が漏れたか? 
 西郷隆盛が身長と体重の測定を受けたか? 相撲取や学生じゃないんだから、そんなことはしない。
「西郷さん、あんたの身長と体重はどれくらいかな?」
なんて、失礼なことは勝海舟だって聞けなかったでしょう。

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2009年12月 1日 (火)

日本人か西洋人か

 余談だが、かれが日露戦争後、ロシアのコサック騎兵の大集団をやぶったことで世界の兵学界の研究対象になり、多くの外国武官が日本に見学にやってきた。その武官のなかには、
「日本の騎兵がコサックをやぶれるはずがない。おそらく西洋人の顧問がいるのだろう」
 そううたがう者があり、彼らが千葉の陸軍騎兵学校にゆくと、果たしてそれを見た。そこにいた秋山好古である。好古の顔をみて
「やはり、西洋人がいた」
と、かれらはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかったという。

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 秋山好古の若いころの写真。確かに日本人には見えない。
 日本人なのに西洋人のように見える顔はあるものだ。たとえば

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2009年11月26日 (木)

ヴィトゲンシュタイン対ヒトラー

 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889年4月26日-1951年4月29日)とアドルフ・ヒトラー(1889年4月20日-1945年4月30日)は、リンツの同じレアルシューレ(実科学校)に通っていた。
 
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 写真は1903年か1904年に撮ったものだという。二人の誕生日は6日しか違わなかったが、後年の哲学者が後年の独裁者の二級上だった。ヒトラーは1904年に退学を勧告されてシュタイアーのレアルシューレに移り、1905年にこの学校も退学になった。
 写真はKimbery Cornish, The Jew of Linz, 1998の表紙として初めて発表された――という情報は、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』より。

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2009年11月17日 (火)

坂の上の雲から黄禍論へ

 我が國の發展が世界に及ぼした影響の尤も顯著なるものの一つは、アジア人の覺醒を促したことである。一體この三百餘年間は、白人種の得意跋扈時代であつた。彼等は到る處に占領地を作り、殖民地を建て、全世界を擧げて彼等の勢力の下に置き、白人種にあらざれば、殆ど人間にあらずといふ有樣を呈した。アジアの如きも、印度・ビルマは英國に、シベリア・中央アジアは露國に、後印度の大部は佛國の手に落ち、餘す所の支那やペルシアやシャム等も、白人種の壓迫に苦しんで居る。唯一の例外たる我が日本と雖ども、全くはその壓迫から離脱し得なかつたのである。
 アジア人も白人の壓迫に對して、萬斛の不平を抱いて居るが、然し彼等は到底白人には抵抗不可能と信じて、その自然の運命に服從いたし、白人は又劣等と信ぜるアジアの黄人種を支配するのは、その當然の權利の如く心得て居つた。かかる事情の下に、僅少なる白人が、多數の黄人を容易に統治して行くことが出來たのである。所が日露戰爭は從來のレコードを破つた。日露兩國は種々なる點に於て、奇妙なる對照を有して居る。從つてその戰役の結果は、種々なる方面に影響を及ぼして居るが、中に就いて、アジアの一小國が、その幾十倍もある白人の大強國――數ある白人の強國の中でも尤も跋扈を極めた大強國――と戰ひ、見事之を打ち破つて、兜を脱がしめたといふ事實は、全アジア人に餘程深刻なる印象を與へた。黄人も努力如何によつては、隨分白人の壓迫を脱することが出來る。否更に一歩を進め、白人に對して痛快なる復讐をも成し遂げ得らるるといふ、實例を目前に示されたのである。
 日露戰役の數年前から、活動寫眞が次第に世間に持て囃されて來た。日露戰役はこの活動寫眞にとつて、好箇の映寫物となつた。日露戰役の當時から、爾後三四年間は、この戰役の活動寫眞が、アジア大陸到る處で空前の歡迎を受けた。印度人・ビルマ人・シャム人・安南人・支那人・南洋人等は、何れもこの活動寫眞――實際以上に露軍敗亡の有樣を映寫してある――を見物して、數十百年來の溜飮を下げた。活動寫眞によつて、不樣な露軍の敗走を見ると、自然彼等の腦裡に、白人の威光が薄らいで行く。白人も不可敵でないと知ると、之に對する反抗心が頭を擡げて來る。かくて汎アジア主義が、次第に東洋の天地に彌蔓して來た。
 英人の管下にある印度人の獨立思想も、この時から一層熱列を加へ、英人も之を抑壓するに頗る困難を感じた。そこで日英同盟によつて、日本の勃興を助けた英國の政策は、果して英人の利益であつたであらうかと、同盟の價値に就いて疑惑を挾む者も出來た程である。佛領後印度にも、同樣不安の状態が起つた。フランスがこの地方を占領して以來、日露戰役直後ほど、安南人の人氣の荒立つたことはないと傳へられて居る。
 このアジア人のアジアといふ思想の勃興には、アジアに領土を持つて居る白人一同に閉口した。彼等は日本人がやがて黄人種の先達となり、黄人種の大同團結を作つて、白人驅逐を試みるであらう。多數の黄人に少數の白人では、その結果恐るべきものがある。過去に於て白人が黄人に壓迫征服された場合が多い。かかる時代が或は再出するかも知れぬとて、今迄見縊り過ぎた反動で、實際以上に黄人に對して警戒を加へることとなつた。
 アジア人の中でも、支那人が一番覺醒して來たかの如く思はれた。日清戰役後支那人の間に、變法自強といふ新機運が開けて、事毎に日本を模範とすることとなつたといふ條、彼等は未だ十分に日本の實力を理會せなんだ。日本は東洋でこそ強國であるが、世界の舞臺に出ては、とても歐米列強と肩を並べられぬもの、まして露國に對しては、足許へも寄られぬものと信じて居つた。所が日露戰役で、日本が彼等支那人の間に、世界第一の強國と確信されて居つた露國を打ち倒したのであるから、彼等は今更ながら、日本の國力の強大なるに驚嘆し、愈變法自強の急務なることを自覺した。日露戰役後に於ける支那の革新は、隨分目覺しいものであつた。日本は立憲國で勝ち、露國は專制國で負けた。中國も日本の如く立憲制を採らねばならぬとて、やがて立憲の準備にかかる。日本は國民一致して勝ち、露國は國民雜多にして一致を缺きし故敗れた。中國も滿・漢の區別を撤廢せなければならぬとて、やがて均平滿漢の上諭――滿漢の區別を撤廢せんとする試は、日露戰役前から幾分行はれて居つたが――が發布された。其他學校教育の普及とか、新式陸軍の増加とか、すべて此等の革新的計畫は頗る大袈裟で、然も直間接に多く日本人の補助を受けたのであるから、尠からず歐米人の耳目を聳かさせた。彼等はアジア人の覺醒を重大視する餘り、盛に黄禍論を唱へ出した。

 
 
 黄禍論は勿論日露戰役以前から、已に白人間に唱道されて居つた。黄禍といふ文字も、日清戰役の頃から使用されてをつた。日清戰役の終期、三國干渉の起らんとする前後に、ドイツのカイゼルからロシアのツアールに贈つた一幅の寓意畫――東洋の佛教國の前進を、耶蘇教國が一致して防禦せんとする――の標題が黄禍であつた。この時以來黄禍といふ文字は、盛に使用されることとなつたが、實際の處當時日本は三國干渉の爲に大頓挫を受けて居る。支那は日清戰役の敗亡に續いて、列強から要害の地を租借せられ、或は擧國瓜分の厄に罹らんとする形勢であつた。黄禍といふ文字こそ新聞・雜誌又は書物に疊見すれ、當時眞面目に黄禍の實現を信じた人は、甚だ多くなかつた樣である。黄禍論は畢竟一種の杞憂に過ぎずと見做されて居つた。所が明治三十七八年の日露戰役後から、黄禍論は始めて世界的問題となり、歐米人も眞面目にこの論に耳を傾くることとなつた。
 等しく黄禍論といふ條、或は日本を問題の中心とする者もある。或は支那を黄禍の中心とするものもある。或は經濟の方面より觀察を下すものもある。或は軍事の方面より觀察するものもある。解釋の仕方は一樣ではないが、そは兔に角、アジア人の覺醒と共に、黄禍論の重大視さるるに至つたのは、爭ふ可らざる事實である。而して此等の事實は、東洋史は勿論、世界史の上より觀ても、稀有の大事件といはねばならぬ。
(桑原隲藏『東洋史上より觀たる明治時代の發展』より。初出は1913年(大正2年)8月太陽第19巻第11号)
全文は青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4708_11086.html

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2009年11月13日 (金)

毛むくじゃらのアイヌ人(8)

 ヨーロッパ人はこう考えた。
「我々は(毛むくじゃらのアイヌ人に限らず)ヨーロッパ人の従兄弟がいれば、ぜひとも救援に行かなければならない」
 実際に救援に出動した例が最近にあった。

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 東ティモール民主共和国は、2002年にインドネシアから正式に独立した。
 ティモール島は16世紀にポルトガルが植民地化した。その後1859年に西ティモールがオランダに割譲され、以後ポルトガルは東ティモールのみを領有した。
 1975年に東ティモール民主共和国はポルトガルからの独立を宣言した。翌1976年インドネシアは東ティモールを州として併合した。いわゆる東ティモール紛争で住民が多数殺された。1999年にオーストラリアを中心とする多国籍軍が東ティモールに救援に入った。
 多国籍軍の後ろ盾を得て、2002年5月、シャナナ・グスマンを大統領として正式に東ティモール民主共和国が独立した。 
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 複雑な民族問題があるようだ。しかしアジアで民族問題を抱えていない国は日本などごく少数だけだ。ベトナム、タイ、ビルマ、インドネシア、インド、フィリピン、……どこの国でも内部に民族対立がある。むかしの英国はこれをうまく利用した。インドではヒンズーとムスリムの対立をあおって分割して統治したし、シク教徒を手先に使った。1857-8年のインド大反乱では『四人の署名』に見られるように、シク教徒は東インド会社の側についた。ビルマでも少数民族を利用した。
 しかし今では対立する民族の一方に外国が肩入れするということはまずない。
 オーストラリアが東ティモールに入ったのは例外だ。「ヨーロッパ人の従兄弟を救援に行く」ためだった。グスマン大統領も、1996年にノーベル平和賞を受賞したジョセ・ラモス=ホルタ氏もポルトガル人との混血だ。蘭領インドネシアには混血が少ないが、ポルトガル領の東ティモールではかなり混血の住民がいるのだ。Ramoshorta

 土人と土人が争っているのなら放っておけ。しかし我々白人の従兄弟たちは助けなければならない。白豪主義は捨てたことになっているけれど、これはまた別だ。
 しかし今では東ティモールとオーストラリアの関係は、石油の権利をめぐる争いがあって必ずしも良好ではないのだそうだ。

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2009年11月12日 (木)

関西弁の歎異抄?

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歎異抄 序
 ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

歎異抄 序
 ひとに聞かせられへんアホなことばかり考えているワテ(唯円)ですけど、昔のことや今のことを思うてみるにつけても、先師・親鸞聖人のいわはった教え(=口伝)が真の信心と異のうてきたのを嘆いとります。後で学んで後に続こうとしなはる人の疑惑があるんやないかと思えてならしまへん。うまいことに縁ある人に教えてもらわな、アンキな易しいやり方(=易行)の仲間に入られへんのやないか。まったく自分の思い込みだけで「ひとまかせ(=他力本願)の宗旨を乱してはあきまへんのや。亡くなりはった親鸞聖人のいわはった御物語のおもむきを、耳の底に残ったままのもんを、ちょっとここに書いてみようと思うとります。ただただ同じ信心を行う人々の、不審な心を晴らすためのもんにほかなりまへん(ということです)。
(川村湊訳p.13)

 川村湊氏は北海道網走番外地の生まれだそうだ。だから、こんなニセ関西弁を使うのだな。はんかくせえ。網走弁で訳してみろ。
 私は関西弁のネイティブスピーカーだけれど、こういう言葉を使う人は知らないよ。「亡くなりはった親鸞聖人のいわはった御物語」とは何だ!
 歎異抄の筆者唯円という人は常陸の国(茨城県)の出身だ。これは立松和平さんあたりに訳してもらうのがいいと思う。

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「僕は他人に聞かせられない馬鹿なことばっかり考えているんだよねー。でも昔のことや、今のことを考えてみるとー、先師親鸞聖人のー、教えがー、ほんとの信心とは全然違って来ちゃってるんだよねー。困るんだよねー」

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2009年11月 9日 (月)

毛むくじゃらのアイヌ人(6)

「頭蓋骨計測値」の話は『バスカヴィル家の犬』にもう一度出てくる。

  "I presume, Doctor, that you could tell the skull of a negro from that of an Esquimau?"
  "Most certainly."
  "But how?"
  "Because that is my special hobby. The differences are obvious. The supra-orbital crest, the facial angle, the maxillary curve, the --"

「黒人の頭蓋骨とエスキモーの頭蓋骨の区別は、先生にはつくでしょう?」
「もちろんです」
「どう区別しますか?」
「私の十八番ですよ。違いは明らかです。眼窩上隆線、顔面角、上顎曲線、それに……」

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顔面角

顎部の突出程度を横顔からみて表した角度。各進化段階にある人類の横顔をみると、顎部が前突している突顎から、口元がほとんど突出していない直顎まで、さまざまなものがある。そこで、18世紀後半にオランダの解剖学者カンペールPieter Camper(1722―89)が、人種の差異を示す標識の一つとして考案した。それは、横顔からみて、眉間から鼻の下で鼻中隔の付け根を結ぶ直線と、同じく鼻中隔の付け根と耳の穴とを結ぶ直線との間の角度である。彼は、世界各地の諸人種が群れ集うオランダのアムステルダム港で、多くの人々についてこの角度を計測し、また、古代の絵画に描かれている人物の横顔についても計測した。その結果、黒人の顔面角は白人のそれより小さく、猿類に似ていると主張した。この観察は一般には理解しやすいため、多くの人種論に引用された。しかし、この考え方は、各人種と各種霊長類を単純に一直線上に並べたにすぎず、その数字の意味するところを考えず、また誇張して人種差別に結び付けるきらいがある。そのため今日の人類学者は、ただ頭骨の形態を記述する項目としてのみ用いる。顔面角を測る方法としては、上述の他に全側面角、鼻側面角、歯槽側面角などが考案されている。
〈香原志勢〉 (C)小学館スーパーニッポニカ百科事典

 世界大百科事典の「顔面角」はあまりにも時代後れだ。古い「学説」をまともに相手にしてしまって「人種差別につながる」ことも書いてない。エンカルタには「顔面角」の項目がなく、ブリタニカにもfacial angleの項目がないのは、現代では問題とするに足らないという態度だろう。

 しかし19世紀の終わりから20世紀初めには、猿→類人猿→黒人→黄色人種→白人の順序で顔面角が大になり、これが進化の順序を反映しているという迷信がまだ有力だった。モーティマー医師も、黒人とエスキモーでは後者の方が進んでいて、もちろん白人が一番偉いと思っていただろう。
   イザベラ・バード女史は、これより少し前の1880年に、アイヌ人は「顎が突き出るような傾向は少しもない」と書いていた。黒人や蒙古人と違って顔面角が大きく、白人に近いということだ。
 このころ頭蓋骨計測値がいかに重視されたかは、もう少しあとにコナン・ドイルが書いた小説にも明らかだ。(続く)

Grades

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