2014年10月18日 (土)

英会話不要論

   
 日本人は英語は読めても話せない。それは日本の英語教育に問題があるのではないか――長年指摘されてきたこの問題を解決すべく、文部科学省は2011年以降、小学校5年から英語を必須科目とし、さらに20年までに、小学校3年から英語教育を導入する方針を打ち出した。そんな風潮に対し、英語教育の第一人者が本書で、「英語が話せなくて何が悪い」と異議を唱える。
「帰国子女は英語がペラペラでうらやましいか?」「小学校で英語を教えるとどうなるか」「『読み書きはできるけど話せない聞けない』は本当か?」「センター試験にリスニングが導入された成果は?」などをテーマに、日本人が長く馴染んできた文法・読解中心の英語教育が、いかに外国語の習得に効果的であったかを具体的に指摘していく。(アマゾンの内容紹介)
 文科省の新方針は、日本をフィリピンのような国にしようというフリーメーソン(イルミナティ?)の陰謀だ。
 現行の指導要領でも、中学校では主語、動詞、冠詞などの術語も使えないのだ。文法読解中心の英語教育はすでに崩壊している。読めても話せないのではなく、読めないのだ。幸い、話す必要はない。
 僕が独裁者だったら、英語教育はラテン語式にやらせる。「女王は少女にバラを与える」⇔The queen gives the girl a rose.(Regina puellae rosam dat.) 

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2014年10月 5日 (日)

征韓論?



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2014年9月15日 (月)

作家

(Twitter)
小谷野敦 @tonton1965
 私はむしろ、沢木とか佐藤優とかが「作家」と名のるのに違和感がある。「ノンフィクション作家」や「評論家」だろう。
 
  なるほど、小谷野敦氏や村上春樹氏なら「作家」と名乗る資格があるだろう。
 私は「作家」という肩書をつけられたことがある。Y市のタウン誌から「エッセイ」を頼まれ、『シャーロック・ホームズの愉しみ方』の宣伝と自慢話を書いた。掲載誌を送ってきたのを見ると、作家と書いてあった。サッカーなら好きだけれど。
 
  地元に縁があって東京で「活躍」している者に書かせたようだ。掲載順を見ると、宇宙開発事業団の幹部が一番偉く、私がその次で、作家だから漫画家の某氏より偉いらしい。
「作家」と言えばやはり小説家で、自称するには芥川賞の候補になるくらいじゃなくてはだめだ。(受賞しなくてもよい。村上氏も小谷野氏も貰い損ねている。)
 他人様が肩書をつけてくれる場合は「翻訳家」が多いようだ。しかし自称する資格はない。生計が成り立たないのだもの。訳書を出したときは、本業(実務「翻訳業」)がおろそかになり収入が大幅に減って困った。
 
 やはり鴻巣友季子氏くらい売れなくてはだめだろう。しかし鴻巣さんも『全身翻訳家』は少々図々しいね。まあ、美人だからいいか。
 
 村上春樹氏は、銀行で「職業は文筆業」と言ったら、「分筆業」と書かれたそうだ。
 
 
 

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2014年4月30日 (水)

有職読みなど

(有職読み)
 歌人の藤原定家は、「さだいえ」が本来の名だが、一般に「ていか」と読まれる。このように、人の名を音読みすることを、「有職読み」と言う、とウィキペディアに書いてあり、だがそんな言葉は辞書にはないぞ、というので数年前に議論になったことがある。角田文衛の『日本の女性名』などには、「有職読み」という言葉は出てくるのだが、角田は元来日本史学者ではなく、考古学者である。辞書に載っているのは、「故実読み」で、丞相を「しょうじょう」と読むような、故実にのっとった特殊な読み方のことを言うので、人名音読みのことではない。
(P.146)

これは知らなかった。僕は「しょくし内親王」「吉本りゅうめい」「小谷野とん」のように有名な人名を音読みするが「有職読み」だと思っていた。村上龍などは、はじめから音読みだ。春樹は音読みでは様にならない。
(川端)康成を「こうせい」と読む人もいるのは、鴎外、漱石などの「号」の影響だろう。

 敦(とん)の『猫を償うに猫をもってせよ』には、内田ジュ、中島ギドーなどという音読みカタカナ書きが出てくる。これは悪者だという印だろう。ヨコタ村上孝之という人は、頭にカタカナがついているのだから超弩級の悪者だろう、と思ってたら、本名なのだそうだ。「ヨコタ+村上」で作った複姓だという。外国にはフィッシャー・ディースカウ(バリトン歌手)のように複姓は多いが、日本では珍しい。

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2014年4月 2日 (水)

評伝か伝記か 再論(2)

ポーの伝記にクリティカル・バイオグラフィーという副題が付いているのは、史料批判をしっかりとやりましたということだろう。アマゾンの内容紹介

Renowned as the creator of the detective story and a master of horror, the author of "The Red Mask of Death," "The Black Cat," and "The Murders of the Rue Morgue," Edgar Allan Poe seems to have derived his success from suffering and to have suffered from his success. "The Raven" and "The Tell-Tale Heart" have been read as signs of his personal obsessions, and "The Fall of the House of Usher" and "The Descent into the Maelstrom" as symptoms of his own mental collapse. Biographers have seldom resisted the opportunities to confuse the pathologies in the stories with the events in Poe's life. Against this tide of fancy, guesses, and amateur psychologizing, Arthur Hobson Quinn's biography devotes itself meticulously to facts. Based on exhaustive research in the Poe family archive, Quinn extracts the life from the legend, and describes how they both were distorted by prior biographies.

 クリティカル・バイオグラフィーを日本語に訳せば「評伝」になるかも知れない。ところが「評伝」を英語に訳してもクリティカル・バイオグラフィーにはならない。
 日本語の評伝は、由良先生によれば、「何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方」である。筆者の好悪をコッソリではなく、堂々と織り込んだものも評伝である。小谷野敦『川端康成伝』も評伝の傑作である。

 序文に「第一に、川端は私のもっとも好きな作家であった」とある。ところが、小谷野氏が

 大学院時代に好きだった女性は、谷崎について論文を書いていたが、川端はどうですか、と訊くと「異常」とひとこと言ったのである。

 このことを恩師に訴えると「キミ、女の人に言われたくらいでねえ」と言われたが、「女の人にそう言わせるものが、川端の中にあるんじゃないかと思うんです」と小谷野氏は言った。
 600頁以上の本文を読んで行くと、確かにだいぶ異常なところがある。
 都知事選で秦野(やっぱり警察官)をむやみに熱心に応援したのは変だった。
 あるいは、吉永小百合に「あなたは精神の貴族です」という手紙を書いたのだそうだ。吉永小百合はさぞ気味が悪かっただろう。

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2014年3月31日 (月)

評伝か伝記か 再論(1)

「評伝か伝記か」については、『コナン・ドイル』の訳者あとがきで由良君美氏を引いて次のように書いた。  

 本書はアーサー・コナン・ドイルの伝記であって、「評伝」ではない。単に伝記と言えば済むところを日本では「評伝」という言葉を使う場合が多いのを私は不思議に思ってきた。「評伝」については、由良君美氏が「以前から気になっていた」と書いている。
  
 以前から気になっていたことだが、わが国には評伝というジャンルがあって、これが独自の人気を博している。「人物評伝などという言い方は特に好まれる。ところで「評伝」に相当する外国語は何かと考えると、ハタと当惑する。日本における「評伝」という語の成立を調べてみたら、さぞ面白かろう。資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする「伝記」の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での「評伝」というジャンルはない。「伝記」の事実尊重主義と「批評」の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が「評伝」。二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。優れた見識を持つ筆者の手になる「評伝」は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物になる。個性による個性の照明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。  
 こういう秀れたものの場合は良い。しかし本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、「評伝」というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。  
 わが国で本格的ノンフィクション文学が発達せず、辞典類の記述も評伝的恣意に甘く流れがちなのも、このことと関係があるだろう。 (由良君美『みみずく偏書記』二一五頁、二一六頁)  

 ここまではよろしい。その後に勇み足をしている。

 評伝に相当する外国語は何か? 和英辞典で引いてみよう。たとえば研究社大和英辞典にはcritical biographyと書いてある。しかし、こんな英語はない。これはあくまでも「辞書の説明用の英語」である。実際に英文を書くときに日本語の評伝のつもりでcritical biographyという言葉を使っては、意味が通じない。事実に基づく「伝」と好悪を含む「評」が峻別されないというのは、英語の読者にはとうてい理解できないはずだ。

「こんな英語はない」というのが間違い。これは「ありますよ」と指摘してくれた人がいる。調べてみると確かにある。

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2013年9月20日 (金)

頭の禿げた六十男

 私は赤面した。頭の禿げた六十男が赤面するものか? いや、実際にした。髪がふさふさで染みだらけの五十男が赤面するのと同じだ。ただ、それよりまれなことは確かで、この赤面男は、人生が赤面の長い連続だった遠い昔まで転げ落ちていった。(p.93)

『フロベールの鸚鵡』のジュリアン・バーンズが書いた『終わりの感覚』は、村上春樹の『多﨑つくる』と似ていなくもない。
 どちらも、18歳から19歳ころに起きた事件の謎を解明しようという話である。違いは主人公にある。多﨑つくるは『風の歌を聴け』以来の「僕」と同じである。三人称になっているが、三十代の独身男である。ジュリアン・バーンズの「私」は、「頭の禿げた六十男」で、離婚して一人暮し、孫の写真を持ち歩いている。ときどき離婚した妻と会う。
 バーンズは昔の事件の謎を解こうとする。村上春樹と違ってマジックリアリズムではないから、謎の提示と解決は探偵小説と同じ流儀で律儀に行われる。終盤にはどんでん返しもある。
 土屋政雄氏の翻訳は見事なもの。これなら自分で英語を読むよりよろしい。
 ジュリアン・バーンズ氏は1946年生まれというから60代であるが、頭は禿げていない。

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2013年8月 4日 (日)

遺伝子スイッチオン?

 私の亡父は三十代から禿げていた。子供でも「遺伝」ということは知っていたから、自分も禿げるのだろうと覚悟していた。
 ところが私は三十代なんてとうの昔に過ぎたが、まだ髪の毛はふさふさしている。
 「禿遺伝子のスイッチ」がオンにならなかったのだろう。父に対する「愛」が足らなかったせいか。親不孝だなあ。

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2012年11月16日 (金)

殺しの番号

日下 安倍晋三さんが首相時代、日本もイギリスのMI6のような情報機関をつくろう、という話があった。それを聞いた評論家の佐々淳行さんは質問しました。
「それは人殺しをしますか?」
 その瞬間、シーンとしてしまった。暗殺の引き受けをしない情報機関など、世界ではだれも相手にしません。(p.54)

 なるほど、日本では007は無理だろう。0035(半殺しの番号)がせいぜいだ。

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2012年10月 5日 (金)

上から目線?

「上から目線」という言葉がある。これを言えば相手を批判したことになると思っているやつがいるのは不思議だ。
 たとえば小谷野敦氏とネットイナゴでは、小谷野氏の方がはるかに上にいることは明らかで、小谷野氏側から見れば「上から目線」になるのは当然のことではないか。相撲取りに対して、「お前は体重が130キロあるだろう。デブ」というようなものだ。

 
  小谷野批判をしたければ、「もてないなんてウソをついてはいけない」とか「煙草は有害だから禁止すべきだ」などと言わなければならないはずだ。(もてないというウソはついていないそうだけれど(ご本人によるコメントあり。失礼しました、小谷野さん)、ともかく小谷野氏の属性に対してではなく、論旨にケチをつけなくては駄目だ。「遊女が聖なるものであることを知らないのか」などと言い募る手もある。)

『上から目線の構造』という本が出ているらしい。買うほどの値打ちがあるとは思えないが、アマゾンを見ると、読者レビューが29件もついている。
 そのうちの一つRyuという人の評。

「うちの部長も成長したよね」などの言動に代表されるように自分の立場や実績などを考慮せず自分より一段見下す行動を「上から目線」といいますが、この頃この「上から目線」が非常に増えてきているようです。
 わたしのまわりでも「上から目線」発言が多く、いったいその自信はどこからくるのか?とよく腹を立てています。

「上から目線」という言葉はこう言うふうに使われているのか。知らなかった。「低い者がまるで自分の方が上みたいな発言をする」のが上から目線であったのか。これは単なる勘違い、単なるバカではないか。「上から目線」などという言葉を使うのが間違っているのだ。何が「構造」だ。こんな本を書くやつがいて、熱心に読むやつがいるのが不思議だ。

 私は『シャーロック・ホームズの愉しみ方』をという本を書いたが、誤訳指摘が(本来の意味の)上から目線になるのは当然だ。自分が高校の先生になったつもりで、誤訳家諸氏を高校生くらいの扱いにしているのだ。私は、有象無象はともかく延原謙氏を尊敬している。お手本にしたいと思っている。全般的には延原氏の方が私より明らかに上だ。しかし、英語の読解に関する限り、S台予備校の生徒もしないような間違いをしているのだもの。困ったものだ。
 あるいは、英国陸軍の現役士官がモリアーティ先生に家庭教師になってもらって二項定理などを習っていると思っているなんて、アホか(と上から目線になる)。
 

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