2008年7月21日 (月)

トスカ枢機卿補遺(1)

 この1895年は忘れがたい年であった。この年、実に奇怪で突飛な事件が続発して、ホームズは多忙を極めた。まず、あのトスカ枢機卿の急死をめぐる有名な捜査にホームズが取り組んだのは、ほかならぬローマ法王が名指しで所望されたからである。
        
 ワトソンは1904年ストランド・マガジンに載せた『ブラック・ピーター』でこう書いた。まぼろしの作品とされていた『トスカ枢機卿の死』は、その後原稿の断片がS・C・ロバーツによって発見された。翻訳あり。ここです。

 しかしトスカ枢機卿という名前はどうかな。本名を書けないのは分かる。でも、もうちょっと何とかならなかったの?
 ワトソンはイタリア語を知らないわけではない。1891年4月25日(土)の朝には、客車の中でよぼよぼのイタリア人の神父(牧師ではない!)を相手に片言とはいえイタリア語をしゃべっているのだ。

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『ブラック・ピーター』を書いたときには、1900年初演の『トスカ』のことは知っていたはずだ。仮名も「スカルピア枢機卿」とでもした方が(つまりソプラノではなくバリトンですね)リアリティがあったはずだ。しかしワトソンは分かっていてとぼけているらしい。

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 なにしろ、枢機卿といえば当時は全世界で70人しかいなかった(現在は百人以上いて、日本人も一人いる)。法王の選挙権・被選挙権を有するのが枢機卿である。

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 法王が逝去すると、新しい法王を選ぶために枢機卿が集まる。無記名投票による互選で新法王を決める。何度も投票を繰り返すうちに精霊の働きで自ずと最適の人が選ばれる。しかし決まるまではずいぶんと時間がかかり、この法王選出集会はなかなか大変で、実に根比べである。だからこの集会をコンクラーベといいます。
 毎回の投票時の投票用紙を焼却して、新法王が決まらなければ黒い煙を、決まれば白い煙を出す。

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 しかし、そもそも「法王」というのが間違いなんだそうです。「教皇」が正しいのだという。(続く)

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2008年7月18日 (金)

シャーロック・ホームズの栄光

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 アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)名義で刊行されたシャーロック・ホームズ(1854-?)の冒険譚は、長短あわせて60編が残っています。
 これらをまとめてthe Canon正典といいます。大部分は医学博士ジョン・H・ワトソン(1852-?)が書いたものです。
 私はこの正典の研究をぼちぼち進めています。いくつか新発見をし、重大な誤訳を正したと自負しております。

 まず藤原編集室の「書斎の死体」というサイトにエッセイと翻訳4編を載せてもらっています。

(1) T・S・エリオットのホームズ論
(2) S・C・ロバーツ『トスカ枢機卿の死
(3) ロナルド・ノックス『シャーロック・ホームズ文献の研究
(4) S・C・ロバーツ『ワトソン年代学の問題

 このブログでは、カテゴリの「シャーロック・ホームズ」をご覧下さい。
 主なものは次の通り。

翻訳
・ドロシー・セイヤーズ「ドクター・ワトソンのクリスチャンネーム
・エドマンド・ウィルソン「ホームズさん、巨大な犬の足跡だったのです
英国紳士録におけるシャーロック・ホームズ
・マーシャル・マクルーハン「シャーロック・ホームズ対官僚
・ケネス・レックロス「奇妙な時代
・S・C・ロバーツ「シャーロック・ホームズ小伝」1-5
・S・C・ロバーツ「シャーロック・ホームズの性格」1-5
・グレアム・グリーン『コナン・ドイル伝の書評

エッセイ
明智小五郎からシャーロック・ホームズへ
柔道か柔術か1-23 (もう少し続く)
牧師か神父か 1-4
赤毛のでぶ 1-2
・モリアーティ元教授の職業 1-5
凶器としての火掻き棒
棍棒かステッキか1-8
火掻き棒補説 1-2
ホームズの木刀術 1-11
バートン=ライトのステッキ術
手に手をとって1-2
アルペンスキーの元祖コナン・ドイル
ホームズとワトソンの拳銃1-5(まだ続く)
コナン・ドイル卿? 1-9
高名な?依頼人1-5
シャーロック・ホームズと「あの女」1-8
奈良の正倉院1-8

これから書く予定
翻訳
・S・C・ロバーツ『メガテリウム・クラブの盗難』――失われた冒険
・レックス・スタウト他『シャーロック・ホームズを語る――ラジオ座談会』
・ドロシー・セイヤーズ『ドクター・ワトソンの結婚』
・ドロシー・セイヤーズ『アリストレテスの探偵小説論』
・ウィリアム・ジレット『シャーロック・ホームズの苦境』(一幕劇)

エッセイ
・ホームズの頭蓋骨
・プロの美人たち
・コントラルト?
・刺青論
・ホルダーネス公爵と蜂須賀侯爵
・ホームズとボクシング

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2008年7月16日 (水)

コナン・ドイル卿?(9)

「今年はシャーロック・ホームズの生誕百周年」どんよりしたある秋の朝、ミセス・ブラッドリーが言った。「この記念すべき年にふさわしいお祝いをうっかりしそびれてしまったとしても、心配はご無用。ブーン・チャントリー卿からわたしたちに、シャーロック・ホームズの夕食会への招待状が届いたわ。夕食会は十一月二十五日、彼のお屋敷で開催される予定よ」
(『ワトスンの選択』p.1の書き出し)

「ブーン・チャントリー卿」が怪しい。2頁を見ると今度は「ブーン卿」と書いてある。Sir Boone Chantreyでしょうね。
 今年の5月に出た本だけれど、延原氏や大久保氏の時代から進歩していないのは困る。こういう翻訳はまだ多い。

 柳広司氏の『吾輩はシャーロック・ホームズである』は大傑作です。表紙はホームズみたいだけれど、背が低いのが変だ。六フィートには見えない。実は……
 この作品の唯一の瑕瑾は「コナン・ドイル卿」と書いてあることです。そのほかは脱帽するほかないできばえだ。

 ホームズなら延原謙訳という定評があったのだけれど、さすがに耐用期限が来たのか。
『フランシス・カーファックス姫の失踪』も何とかならんかね。
 Lady Frances Carfaxは伯爵令嬢である。偉いのだけれど「姫」は困る。
 日暮雅通氏の訳

「レディ・フランシスは、亡くなったラフトン伯爵の直系の一族のなかでまだ生きているただひとりの子孫だ。きみも覚えているかもしれないが、一族の財産を継いだのは男のほうの家系だった。彼女に残されたのは限られた財産しかなかったが、そのなかに銀と珍しいカットのダイヤモンドを施した古いスペインの装身具があった。レディ・フランシスはそれがたいそうお気に入りなんだ――気に入りすぎて、銀行に預けておこうともせず、肌身離さず持ち歩いている。……」

 しかし、このあとの一文がデタラメです。

「レディ・フランシスというのははかなげな風情の美しい人で、まだ中年というには若いくらいの年齢だというのに、不思議なめぐりあわせというのか、つい二十年前にはたいそうな取り巻きだった人たちからすっかり見捨てられてしまった」

A rather pathetic figure, the Lady Frances, a beautiful woman, still in fresh middle age, and yet, by a strange chance, the last derelict of what only twenty years ago was a goodly fleet.

  ちくま文庫の高山宏訳

「本当にかわいそうな人でね、このレディ・フランセスは。美人で、まだ中年の入口という年なのに、奇怪な運命にもてあそばれて、つい二十年前の溌剌たる姿の残骸という有様なのだ」

 正解です。「超人高山宏」なのだそうで、こんなところを間違えるはずがない。
 
 
  日暮訳にかえると――いやあ、翻訳って本当に怖ろしいですね。
 原文は動詞がない破格の形です。
 しかしthe Lady Francesが主語です。be動詞の省略と考えればよい。isをどこに補うのかと問われると困るけれど。ほかの要素はすべてこの主語に対する補語なのだ。
 the Lady Frances=the last derelict of what only twenty years ago was a goodly fleet
  が読めないで勝手訳をこしらえてはイケナイ。fleetが集合名詞だからといって「取り巻きだった人たちがどうこう」などは駄目。「現在のレディ・フランシスは20年前に立派な艦隊であったものの残骸である」という比喩です。

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2008年7月15日 (火)

コナン・ドイル卿? (8)

 The Honourable Ronald Adairの殺人事件が大いに波紋を呼んだという話から始まるのは『空き家の冒険』でした。
 
 ロナルド・アデヤ卿が不可解きわまる状況のもとに殺害されて、ロンドン中の興味をわきたたせ、上流社会を震えあがらせたのは、1894年の春のことだった。
(延原謙訳)

 貴族の子息であるロナルド・アデア卿が異常かつ不可解きわまりない殺され方をして、ロンドンじゅうの興味をかきたて社交界を震撼させたのは、1894年の春のことだった。
(日暮雅通訳)

 Honourableを両氏とも「卿」と訳している。これでよろしいか?
 HonourableはLordとどう違うか?
 ジーニアス大英和辞典
3[限定][H~;通例 the ~] 閣下《◆((英))では伯爵の次男以下の男子, 子爵・男爵のすべての子, ((米))では議員などに対する敬称;【略】 Hon, Hon.》∥the H~ Mr. Justice Smith スミス判事閣下《◆通例姓名を伴うが, 姓だけの時は Mr., Dr. をつける》

 とりあえず米国のことは除外して考える。
 Lordは侯爵から男爵までの爵位を有する人と公爵・侯爵の息子に対する敬称である。Honourableは爵位を有する人には使わない。伯爵の次男以下の男子と子爵・男爵のすべての子に対する敬称である。
 正典にはthe Honourable Miss Milesという名前が出てきた。子爵か男爵の娘もHonourableをつけて呼ぶのですね。
 この女性はどこに出たのでしょうか? 
 チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンが
「……the Honourable Miss Milesとドーキング大佐の婚約が突然破談になったのは覚えておられるでしょうな。式の二日前になって、モーニングポスト紙に取り止めという記事が出ましたな。なぜか? 実に信じられんことですが、わずか1200ポンドというアホみたいな金があれば、万事解決していたはずなんですよ。……」
 と言って、ホームズとワトソンを憤激させたのだった。

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 いずれにせよ、LordとHonourableではかなり差がある。前者の方がずっと偉いのだ。それにHonourableは女性にも使うのだから「卿」という訳語はやはり不適当でしょう。
 どう訳するか? カタカナのまま「オナラブル」としても読者には分からない。LordやSirほど頻出はしないのだから、ケースバイケースで処理するのがよいと思う。ミルヴァートンの台詞を、日暮雅通氏は
「ミス・マイルズとドーキング大佐のご婚約が……」と訳している。Honourableは無視してしまったのだ。賛成ですね。
 ジョン・ル・カレにThe Honourable Schoolboyという小説がある。訳題は『スクールボーイ閣下』である。こういう綽名で呼ばれる人物がいて云々という話で、それが題名になっているのだから無視するわけには行かない。閣下と訳するのがベストでしょう。

『空き家の冒険』にかえって、日暮氏が「貴族の子息であるロナルド・アデア卿が…」と原文にない語句を補ったのは、何とか元の英語の意味を伝えたかったのでしょう。しかし「卿」はよろしくない。
 私ならば、「伯爵令息ロナルド・アデア氏」とする。ロナルド・アデアがメイヌース伯爵の次男であることが少し先に出てくる。これを一部先取りするのですね。

 何でもかでも「卿」で済ませてしまうのはいけません。
 グーグルに「チャーチル卿」と入力してみると3万1900件もある。英語では
 Sir Winston Churchillか、単にSir Winstonかである。
 Lord Churchillではないし、Sir Churchillとは言わない。
 歴史上の人物なのだから、日本語では呼び捨てでチャーチルと言えばよいのだ。
  ドイル卿、コナン・ドイル卿、アーサー・コナン・ドイル卿もやめましょう。翻訳では「サー・アーサー・コナン・ドイル」か「サー・アーサー」とする。はじめから日本語ならば単にコナン・ドイルなどとして敬称は省くのがよろしい。

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2008年7月14日 (月)

コナン・ドイル卿? (7)

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『バスカヴィル家の犬』で巨大な魔犬に襲われて(?)死んだのは、Sir Charles Baskervilleであった。この人が死ぬと、モーティマー医師が音頭をとって跡継ぎを探した。故人の甥に当たるHenry Baskervilleという男がアメリカにいることが分かった。この男は物語に登場したはじめからSir Henryと呼ばれる。
 バスカヴィル家は準男爵(baronet)の位を世襲している。原則として長男が位を継ぎ、Hugoという名前であれば、Sir Hugo BaskervilleまたはSir Hugoと呼ばれる。*Sir Baskervilleという呼び方はしない。準男爵は男爵の下、ナイトの上の位であるが、貴族ではない。
 延原謙氏の翻訳では「チャールズ卿」「ヘンリー卿」と書いている。これはよろしくない。
 最新の日暮雅通氏の訳ではさすがに「サー・チャールズ」「サー・ヘンリー」となっている。
 むかしは翻訳にカタカナ書きの英語を使うことをいやがって、無理にでも訳す傾向があったようだ。しかしパンツを猿股はよろしいが、ブラジャーを「乳押さえ」はちょっと困りますね。
 Lordを「卿」と訳するとすればSirには別の訳語を宛てるべきで、訳語がなければカタカナのままにしておくのが妥当でしょう。

 もう一つ、訳がむつかしい敬称にHonourableがある。
 
  It was in the spring of the year 1894 that all London was interested, and the fashionable world dismayed, by the murder of the Honourable Ronald Adair under most unusual and inexplicable circumstances.
 
 何という冒険の書き出しでしょうか?

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2008年7月13日 (日)

コナン・ドイル卿? (6)

 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝によると、1902年8月にドイルがナイトの位をもらうとすぐ、出入りの洗濯屋が「サー・シャーロック・ホームズ」宛ての請求書を持ってきた。ドイルはかんかんに怒って「お前、ふざけた真似をするなよ」と怒鳴りつけた。
 ところが洗濯屋は別にふざけたのではなかった。担がれただけだった。ナイトの位を授けられると名前が変わる、好きな名を選ぶことができて、ドイルは名探偵の名を選んで「サー・シャーロック・ホームズ」になった――と友達から聞かされて信じ込んでしまったのだった。
 英国人でもナイトのことはよく知らないのだ。日本人が知らなくても仕方がないか。
 そもそもknightとは何か? リーダーズプラス英和辞典
knight
1 《中世の》騎士; 《貴婦人に付き添う》武士.
・the Knight of the Rueful Countenance 憂い顔の騎士《Don Quixote のこと》.
★封建時代に, 名門の子弟が page から squire に昇進し武功を立てて knight となった. ナイトに就任する儀式を accolade といい土地と黄金の拍車 (spurs) を下賜された.

 これが本来の意味である。元々は中世の騎士であって、日本で言えば侍のうち上級の者、「上士」「馬乗りの身分」くらいに当たりますか。ナイトに就任する儀式accoladeではdubbingということをする。ダビングというとテープに録音することしか思い浮かばないけれど

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 エリザベス女王も、同じようにショーン・コネリーの肩を剣で叩いた。両肩を叩いてから
 Rise, Sir Thomas.
と言ったはずである。Thomas Sean Conneryが彼の本名である。「サー・トマス」または「サー・トマス・ショーン・コネリー」が正式の呼び方である。
 サーと呼ばれる身分にはもうひとつ準男爵がある。ナイトは一代限りだが、準男爵の位は世襲である。

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2008年7月12日 (土)

コナン・ドイル卿? (5)

 正典にはLordと呼ばれる人がほかにも何人も出てくる。『独身貴族』では、Lord Backwaterバックウォーター卿という人がいて、これはセント・サイモン卿の友人で「ホームズ氏の判断力と分別は絶対に信頼できる」と言って探偵を推薦したらしい。バックウォーター卿は、侯爵、伯爵、子爵、男爵のいずれかの爵位を持っているか、それとも公爵か侯爵の次男以下である。
 ハノーヴァー・スクエアの聖ジョージ教会で行われた結婚式はごく内輪のもので、花嫁側は父親のアロイシウス・ドラン氏だけだった。花婿側は、バルモラル公爵夫人(花婿の母)、バックウォーター卿、ユースタス卿とレディ・クレア・セント・サイモン(花婿の弟と妹)、それにレディ・アリシア・ウィッティントンだった。
 結婚式はちょっとした妨害があったけれども無事済んだのだが、

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その後で大騒動が起きて、ホームズが乗り出すことになったのだった。
 それはそれとして、レディというのが出てきた。花婿の妹はLady Clea St. Simonだった。リーダーズプラス英和辞典でLadyを引いてみると
Lady
英国では次の場合 女性に対する敬称:
(1) 女性の侯・伯・子・男爵
(2) Lord (侯・伯・子・男爵) と Sir (baronet または knight) の夫人
(3) 公・侯・伯爵の令嬢. 令嬢の場合は first name につける.
 
 花婿の妹は上の(3)に当たる。レディ・アリシア・ウィッティントンは(2)か(3)だろう。(1)ではないと思う。女性が自分で爵位を持っていて「女侯爵」や「女伯爵」などになる場合はまれのはずだ。
 ともかく、Lordは貴族、日本で言えば大名クラスに対する尊称であって、「卿」と訳すことになっている。
 ただし、貴族の中でも一番上の公爵Dukeはまた別格である。
 ホルダーネス公爵Duke of Holdernessが出てきたのは、何という冒険だったか?
『プライアリー・スクール』でした。校長のハクスタブル博士が大騒ぎしてベーカー街でひっくり返ったのは、ホルダーネス公爵がものすごく偉かったからだ。

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 公爵に対してはLord Holdernessという呼び方をしてはならない。Lordは侯爵以下に使うのである。Duke of Holdernessと呼ぶか、His (Your) Grace(閣下)と呼ばねばならない。
 この公爵には一人息子がいるのだが、この子がまだ10歳の子供なのにLord Saltireソルタイア卿と呼ばれている。この「一粒種にしてお世継ぎ」がいなくなったというので大騒ぎになったのだった。
 この事件は1901年(明治34年)のことらしい。イギリスには明治維新がなかった。廃藩置県も版籍奉還もなく、徐々に改革を進めて封建制から近代国家に移行してきたので、封建遺制の残存がある。封建諸侯が元の偉さを多分に残している。さすがのホームズも相手が公爵となると特別扱いしたのだった。

 公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵が貴族で、貴族のうち侯爵以下に対してLordという尊称をつける。このLordは「卿」と訳することになっている。
 ナイトの位knighthoodは貴族よりは下である。Sirという称号を「卿」と訳しては紛れが生じてしまう。

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2008年7月 8日 (火)

コナン・ドイル卿? (4)

「ずっとのちに彼は『三人のガリデブ氏』を書いて、この物語のなかで上記の日にシャーロック・ホームズにナイトの爵位を辞退させているのであるが…」(『コナン・ドイル』大久保康雄訳 p.304)

 そうでした。シャーロック・ホームズはコナン・ドイルと同じ日にナイトの位をもらうはずだった。しかし、ホームズは意固地だから辞退し、ドイルも辞退したかったけれど、母親に説得されて受けたのだ。
 大久保康雄氏は「ナイトの爵位」と書いていますね。これはよろしくない。間違い。
 爵位というのは、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵のいずれかの位のことだ。

公爵 duke (prince)
侯爵 marquess (marquis)
伯爵 earl (count)
子爵 viscount
男爵 baron

  括弧の中は英国から見て外国の爵位。たとえばバートランド・ラッセルは兄の死後に伯爵の位を継いでEarl Russellになった。フランスのモンテ・クリスト伯爵はThe Count of Monte Cristo。

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 日本では1869年に華族制度を設け、1884年の華族令で、公、侯、伯、子、男の5段階の爵位を定めた。これが1947年まで続いた。鹿鳴館と違って、この華族は西洋の貴族の猿真似ではない。
 華族になったのは、公家、大名家、維新の功臣の家であった。公家と功臣はともかく、大名家は西洋の封建諸侯(feudal lords)にほぼ対応するものだった。
 旧将軍家、島津家、毛利家が公爵、大大名(加賀前田家など)が侯爵、中規模の大名が伯爵、5万石未満の小大名が子爵、1万石以上だが分家で大名の格がない家が男爵になった。
 私の小学校の同級生のT君は旧伯爵家の御曹司だった。ドジな子だったので先生によく怒られていた。先生は「こりゃ、T、立っておれ」などと叱りつけておいて「昔だったらお手討ちになるところだな、ハハハ」と笑うのだった。学校から道路一本隔てたところにお城があって、お城の中のものすごく広い家に一度遊びに行ったことがある。昔は三十二万石の城主だったのだ。
 こういう日本の「殿様」を英語に訳するとlordでしょう。日本と西洋の封建制はよく似ていた。封建制があったのは日本と西洋だけだ。マルクスは資本論(第1巻は1867年刊行)で「封建制が現在も残存しているのは日本だけであるから、封建制の研究には日本を研究すればよろしい」という意味のことを書いている。
 lordを辞書で引いてみると、「卿」という訳語が出る。「殿様」を訳語にしてもよいと思うけれど。

 ジーニアス大英和辞典 lord
3. a…卿(きよう)《◆(1)侯[伯, 子]爵の略式の称号;呼びかけも可. (2)男爵の普通の称号;洗礼名を付けない. (3)公[侯]爵の(長子を除く)子息の儀礼的称号;姓を省いてよい》(【略】L., Ld.)∥L~ Cardigan カーディガン卿(=the Earl of Cardigan)/L~ Morrison モリソン卿(=Baron Morrison of Lambeth).

つまり、卿はLordの訳語として使われているのだから、Sirも卿と訳しては困るだろう、と言いたいのです。
 正典では、たとえばLord St. Simonセント・サイモン卿という『独身貴族』の結婚問題に絡んだ騒ぎがありましたね。
 このセント・サイモン卿という人は
「ロバート・ウォルシンガム・ドゥ・ヴィア・セント・サイモン。バルモラル公爵家次男。ふむ。紋章は、地は紺、黒い中帯の上方に三個の鉄菱をあしらう。生年は1846年。四十六歳。結婚に若すぎるとは言えないな。前内閣の植民省次官。父公爵は元外務大臣。プランタジネット王家の直系で、母方はチューダー王家の血を引く。……」

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2008年7月 6日 (日)

コナン・ドイル卿? (3)

 ドイルの功績に対してナイトの位が授けられることになった。

1899年10月   ボーア戦争勃発。ドイル志願。
1900年4月   野戦病院監督として南アフリカに赴く。
1901年1月   ヴィクトリア女王崩御。エドワード7世即位。
1901年8月   『バスカヴィル家の犬』連載を始める。
1902年1月   『南アフリカの戦争――その原因と経過』出版
      5月    ボーア戦争終結
      8月    エドワード7世戴冠式

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 コナン・ドイルは、1902年8月の戴冠式の機会にナイトの位を授けられることになった。

「8月9日、戴冠式の当日を告げる鐘の音がひびきわたったとき、コナン・ドイルは、同時にナイトに叙せられるオリヴァ・ロッジ教授とともに、バッキンガム宮殿の檻のなかへつれこまれた。絹衣装の盛装をこらして美々しく飾りたてた人びとのまんなかで、この二人は心霊学の問題の討議に熱中し、そこへ出かけてきた目的すら忘れてしまうありさまだった。そして、ほどなく彼は日光のなかへ、まだいくらか反抗的な気分で、アーサー・コナン・ドイル卿となって出現したのであった。」
(ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』大久保康雄訳 早川書房版p.304)

 ようやく本題です。
 彼はSir Arthur Conan Doyleとなった。これを大久保康雄氏は「アーサー・コナン・ドイル卿」と書いているが、これでよろしいのか?

 よろしくない。ナイトの位をもらったドイルのことを、「アーサー・コナン・ドイル卿」「コナン・ドイル卿」「ドイル卿」「アーサー卿」と呼ぶのは、いずれも不適切である。
 間違いだ――とまでは言い切れないのがむつかしいところだ。
 Sirの称号は、「日本にないもの」だからだ。

「日本にないもの」とは何か?
 英語の初歩の授業では、先生がたとえばbookと発音の模範を示し、生徒がその後について一斉にbookととなえますね。
 明治時代、英語教育が始まったばかりのころは、少々方式が違った。
先生「book 本」 生徒「book  本
 というふうに、先生が単語の発音と意味をとなえ、生徒たちが復唱した。
notebook  帳面」 「notebook  帳面
pencil 鉛筆」 「pencil 鉛筆
knife  包丁」 「knife  包丁
という具合である。発音より意味に重点を置いた。発音は先生も不確かなことが多かった。knifeはクニフェと読んだかも知れない。読み方はどうでもよく、意味の方が大切だったのだ。
 しかし先生にも意味が分からない単語が出てくることがあった。そういうときは
butter  日本にないもの」 
cheese   日本にないもの
 とするしかなかった。バターやチーズがどういうものか、見なくては分からない。
   Cheese and butter are made from milk.
  日本にないもの日本にないものは牛乳から作る。

 Sirはいまだに「日本にないもの」である。baronならば「男爵」でなくてはだめで、「伯爵」とすれば間違いである。
 Sirは「日本にないもの」なのだから、どう訳せば間違いとは言えない。
 しかし、ほかの位や称号との釣り合いを考えると
 Sir Arthur Conan Doyleは
「サー・アーサー・コナン・ドイル」と言うべきだ。
「アーサー・コナン・ドイル卿」はいけない。

 英語では
 Sir Arthur Conan Doyleまたは単にSir Arthurと言うが、
 *Sir Conan Doyle や*Sir Doyleは言わない。
 日本語で「コナン・ドイル卿」「ドイル卿」はいけない。「アーサー卿」もだめ。
 大久保康雄氏が「アーサー・コナン・ドイル卿」と書いているし、延原謙氏は『バスカヴィル家の犬』で「チャールズ卿」「ヘンリー卿」と書いているので、翻訳家の皆さんがいまだに真似をしている。
 しかし、もうやめましょう。「サー・アーサー・コナン・ドイル」「サー・チャールズ」「サー・ヘンリー」の方式に統一することを提案したい。
 もう少し説明が必要かも知れない。

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2008年7月 4日 (金)

コナン・ドイル卿? (2)

 1902年1月9日、ドイルはパンフレットを書き始め、毎日16時間書いて、17日には
The War in South Africa: Its Cause and Conduct
南アフリカの戦争――その原因と経過
 という6万語のパンフレットを仕上げた。
「私の個人的見解はできるだけ表へ出さず、目撃者の言を、農家の炎上とか暴行とか集中キャンプとかその他の論争問題について、その多くはボーア人であるが、書き記した。説明はなるだけ簡単に短くしたが、事実の正確さについてはどこまでも一貫し、焼けた農家の実数についてだけは自身がないけれど、といっても重大な質問を受けたことは一度もない。私の記述が充実しており効果的であるのを重いながらペンをおいたときは、うれしくてたまらなかった」(『わが思い出と冒険』p.231)

ドイルはこのパンフレットの刊行のために寄付を募った。パンフレットを書き終えるころには1000ポンドほどが集まった。
「多くはあまり余裕もない中から無理をして送ってよこした少額の金であった。中でもきわだった特徴は、毎日のように目の前で行われる中傷に答えることができないのでみじめにされている外国在住の女教師(家庭教師)からの寄付の多いことだった。」(p.232)
  2ヶ月ほどで英語版は30万部ほどを売り上げた。フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ハンガリー語、ロシア語など20カ国語の訳本が出版された。これによって
「大陸の諸新聞の論調に急速な著しい変化が現れた。」(p.238)
 少なくとも「英軍の残虐行為」という悪評はドイルの努力によって払拭された。
「ここまできて私の胸底に深く印象の残っていることは、政府が自分のことなのに十分の説明と防衛策に出なかったことである。一個人が三千ポンドを費やして、一ヶ月という短い期間に世界中の世論に著しい感銘を与え得たのだから、真に資力も知能もある組織ならば、どんなことができるであろう?」(p.240)

Boers

 ボーア人の部隊。
 ボーア人はゲリラ戦を挑んだ。英軍は苦戦を強いられ、ゲリラへの補給を絶つために女子供を含む12万人をconcentration camp強制収容所に収容し、農地や農場を焼き払った。収容所では2万人が死亡した。
 しかし、大陸の新聞で伝えられたような「残虐行為」は、白人であるボーア人に対しては行われなかった。

 1906年、南アフリカは英国領となっていたが、ズールー族の酋長が徴税官を投槍で殺し、これをきっかけにズールー族の反乱がはじまった。
 当時南アフリカにいた37歳のガンジーは、大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、在住インド人による篤志救急隊を組織した
 ガンジーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンジーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。
(『ガンディーと使徒たち』より)

 この残虐行為はさすがに悪評を呼んだ。しかし、今回は英国の国際的な評価が問題になるような事態にはならなかった。相手は黒人なのだもの。

 ともかく、1902年のドイルは「南アフリカ大虐殺」の冤罪を独力で晴らしたのである。ナイトの位はこの功績に対して与えられた。
 しかし、まだ本題に入っていない。

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2008年7月 3日 (木)

コナン・ドイル卿? (1)

 1902年、アーサー・コナン・ドイルはナイトの位(knighthood)を授けられ、Sir Arthur (Conan Doyle)と呼ばれるようになった。
 シャーロック・ホームズ譚を書いて大衆を楽しませた功績によるのではない。ポール・マッカートニーは1998年に、ショーン・コネリーは1999年にナイトの位をもらっているが、芸能活動のおかげでナイトに叙せられる人が出てきたのはごく最近である。

「ショーン・コネリーはナイトに叙せられた」
Sean Connery was created a knight.

Knight02

 100年前には文学もナイトの位には何の役にも立たなかった。ドイルより偉い文学者でもナイトにはなっていない。
 ドイルがナイトになったのは、第二次ボーア戦争(1899年10月-1902年5月)と関係がある。1899年10月ボーア戦争が勃発すると、40歳のドイルはミドルセックスの連隊に一兵卒として志願したが、この志願は却下された。そこでドイルは民間の医師で編成した野戦病院の監督として南アフリカに渡り、1900年4月から7月まで傷病兵を看護した。
 1901年終わりから1902年はじめにかけて、ドイルは南アフリカでイギリス軍が残虐行為を働いているという悪評がヨーロッパに広まっていることに気づいた。イギリス兵は
・ダムダム弾を使用し
・銃剣で赤ん坊を突き刺したりし
・ボーア人の女性を強姦し
・ボーア人の子供を飢え死にさせている
などという報道が外国の新聞で盛んに行われた。もちろん、すべてウソであった。 
  たとえばダムダム弾は南アフリカでは使われなかった。普通の軍用銃の弾丸はフルメタルジャケット(full metal jacket)弾で、鉛の弾芯を真鍮で完全に覆ったものである。この弾丸は標的、すなわち人間に当たった場合、貫通する可能性が高く無用の苦痛を与えない。ところが弾頭に十字の切れ込みを入れておくと、命中後四つに分裂して人体に食い込み大きなダメージを与える。しかし、これは1899年のダムダム弾禁止宣言、1907年のハーグ陸戦条約で禁止されている。英国が白人同士の戦いにダムダム弾を用いるはずがない。この弾丸はカルカッタの近くのダムダムという町にある兵器廠で作ったのでダムダム弾というのである。インドの土人に対して使ったものに決まっているではないか。
 ドイルはイギリスを弁護するためにパンフレットを書いた。

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2008年6月 2日 (月)

柔道か柔術か(23)

 日本近代文学の起源に限らず、何でも起源というものは見えにくくなる。
 だからウィキペディアの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」のような空想的記事が大手を振ってまかり通ることになる。
 英語版のウィキペディアもデタラメである。Catch wrestlingという項目があって、日本語版の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」とよく似た内容が書いてある。カール・ゴッチが猪木、藤波、ヒロマツダ、佐山聡、藤原喜明、前田日明などを教えた、なんてことまで書いてあります。いったいに英語版ウィキペディアの格闘技関係はむやみに日本のことに詳しくて、猪木以下のレスラーはそれぞれ独立の項目になっている。
 Catch wrestlingも、まったく空想である。英語版ウィキペディアの編集者はさすがにセンスがあって

This article does not cite any references or sources. (October 2007)

 と注意書きを付している。「空想で記事書く、よくありません。典拠示すよろし」ということです。

 文献の証拠を示さなくてもよいのなら、何でもでっち上げることができる。
 柔道や剣道の韓国起源説などがその最たるものです。
 judoは「ユド」という発音でウリナラのものなんだって。剣道は「コムド」だそうです。悪意で外国人をだまそうというよりは、韓国人自身が本気で信じ込んでいるようだ。
 どうしてそういう妄想におちいるのか? 
 1970年に漢字を全廃したことが大きいと思う。むかしの文献が読めなくなった。古い文献は漢文だから読むにはそれなりにスキルがいるけれども、大韓民国成立後に書かれたものまで全部読めなくなったのだからひどい。
 テコンドーなどは韓国起源をでっち上げて、とうとうオリンピック種目にしてしまった。文献が読めないものだから、こういうことをして恬として恥じないのだ。
 
 話が逸れた。英国のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの場合も同じだ。文献の証拠が大切だと言いたいのです。
 百年前の文献を丁寧に調べれば、分かってくるはずだ。

(1)20世紀はじめには、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルのレスリングがプロレスとして行われていた。
(2)力づくでフォールを狙うレスリングで、なかなか勝負がつかなかった(漱石が見て「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」とあきれた)。
(3)タニ・ユキオをはじめとする柔術家が異種格闘技戦を挑んで、絞め技、関節技でギブアップを狙うという戦い方を始めた。
(4)それまではプロレスにサブミッション・レスリングという考え方がなかった。
(5)プロレスは第一次大戦(1914-19)でいったん廃れたが、戦後復活するときに、対柔術戦からサブミッションを取り入れた。
(6)ビリー・ライリーのスネークピットというジムで、グレコローマン、フリースタイル、柔術の三要素を取り入れたレスリングを教えた――というのはだいたい正しいだろう。
(7)しかし「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」とは、スネークピットのレスリングではなく、フリースタイルのことである。

 以上はあくまで仮説である。しかし前に言ったように、手間さえ厭わなければ検証できるはずだと思う。あるいは反対の証拠が見つかる(反証される)かも知れない。
 私が特に強調したいのは上の(3)(4)あたりである。20世紀初頭の英国のレスラーたちが関節技でギブアップを狙うという戦い方を知っていたのならば、体重が57kgに満たない「ちっぽけなジャップ」が連戦連勝できるはずがないではないか。

Maeda01

 前田日明はカール・ゴッチの関節技がものすごいことを語って、西洋中世の騎士たちが(日本の戦国武者のように)組み討ちをして関節を極める戦いをしたのだろう――という推測をしている。
 プロレスの技術論ならば私などが口を差し挟む余地はない。しかし、この話に関する限り、前田さんの勘違いでしょう。
 西洋中世にも剣術、弓術、槍術、馬術などはあり、文献がいくらでも残っているはずだ。しかし、西洋には柔術に相当するもの、すなわち鎧武者同士の組み討ち術はなかった。だからこそJiujitsuという日本語がそのまま使われたのだ。Jiujitsuと自分の名前を合成してBartitsuなんてのを作る者も出てきた。
 そして、シャーロック・ホームズは日本のバリツのおかげでモリアーティ教授の魔手から逃れたのである。

 サブミッション・レスリングの柔術起源説は、丁寧に調べれば文献で実証できるかも知れない。
 あるいは実証できない(文献がない)かも知れない。
 レスリングには、ボクシングと違って、アーサー・コナン・ドイルやクィンズベリー侯爵のような社会的地位の高い支持者がいなかったことが大きい。(続く)

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2008年5月31日 (土)

柔道か柔術か(22)

 レスリングは古代ギリシャで行われたスポーツだ。
 ソクラテスもプラトンもアリストテレスもレスラーだった。プラトンはかなり強かったらしい。そもそも彼の名前は「肩幅の広いやつ」という意味のあだ名なんだそうです。
 彼らはどんなレスリングをしたか? グレコローマンスタイルですね。自分の下半身を使ってはならず、相手の下半身を掴んではならない。
 なぜ、そんな不自然なスタイルで戦ったか? 理由は明らかでしょう。

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 この絵では一本背負いをかけている。しかし内股なんかは危険である。フリースタイルにある「股裂き」なんぞは、おぞましい。
 やがて時代も進歩してパンツが発明されたけれども、レスリングは変わらなかった。ヨーロッパ大陸では相変わらずグレコローマンスタイルで戦っていた。
 イギリスでは、どこを掴んでもよろしい(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)というスタイルが発生した。
 このスタイルのレスリングは、あるいは18世紀からあったかも知れない。しかし、蒸気機関が発明された18世紀に「隆盛した」なんてことはあり得ない。19世紀でもまだ駄目でしょう。そんな余裕はなかったはずだ。
 ウィキペディアの記事は空想である。
 エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1844)を読めば分かるはずです。悲惨だったのだ。

 ヴィクトリア朝も末期になると労働者階級にもいくらか余裕ができて、ミュージックホールに行って楽しむなんてことも始まったようだ。20世紀になるとかなり盛んになった。
 そのミュージックホールでやるようなプロのレスリングをもとにしてアマチュアレスリングを作るときに、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」という舌をかみそうな名前の代わりに「フリースタイル」と呼ぶことにしたのだ。
 プロレスリングからアマチュアレスリングを作ったのであって、その逆ではありません。
 アマレスで実績をあげてプロレスに転向するという道筋が現在あるからといって、昔からそうだったとは限らない。アマチュアスポーツというのはごく最近に発見されたものだ。この辺の事情は、柄谷行人『西洋近代スポーツの起源』を読んで下さい。

 一つだけほかのスポーツの例を見ておこう。

Img212019031_3

 1924年のパリ五輪。フランス代表のミドル級選手、シャルル・リグローが片手スナッチで87.5kgを挙げたところ。彼は金メダルを取った。片手スナッチなんて、やってみれば分かるけれど、ずいぶんむつかしい。左右不均衡な筋肉の発達を助長して体によくない。なぜ無理にこういう挙げ方をしたか? 
 重量挙げ競技のルーツは、職業的怪力芸だからだ。ユージン・サンドウ(コナン・ドイルとボディビル参照)のような職業的力持ちが派手でお客に受ける片手技をやったからです。そういうのを見て、素人が自分もやってみようというので、重量挙げ競技が始まった。現在の重量挙げは、両手によるスナッチとクリーンアンドジャークの2種目です。

 レスリングでも同じことだ。初めにプロレスがあった。プロレスに二種類があった。ヨーロッパ大陸はグレコローマンで、英国はキャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルだった。プロレスからアマレスができた。(続く)

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柔道か柔術か(21)

「柔道か柔術か」の最近の記事は、http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm
を参考にして書いています。
 上記のサイトでは100年前の英国の新聞や雑誌を引用している。柔術家やレスラーが書いた本も挙げてある。
 マルクスみたいにブリティッシュミュージアムへ通って文献調べをすれば「柔術とレスリング」について画期的なモノグラフが書けるのだけれど。
 まあそんなことを言っても仕方がないか。
 上のサイトで一番よく引用しているのはThe Sporting Lifeという雑誌である。前に挙げた

パラゴン・バラエティー劇場
マイルエンド街
TO-NITE TO-NITE TO-NITE
アポロ提供、特別出演
日本人レスラー
ユキオ・タニ

 という広告はこのスポーティングライフ誌の1904年12月号に採録されている。

 次の記述もスポーティングライフ誌に基づいている(残念ながら何月号かが書いてない)。

 In 1904 he did beat Jimmy Mellor in a £100 match for the lightweight wrestling championship, catch-as-catch-can style.
 Mellor was Britain's best lightweight, and claimed the world's championship. So this victory was a terrific performance by Tani, as the newspapers of the time recognised. The Sporting Life praised "a thoroughly genuine sporting match," and then going on to say, "The little Jap showed what a wonder he is by beating the Englishman at his own game. Two falls to one was the decision, though the fall given against Tani was questioned by many."

 1904年にタニは、ジミー・メラーを相手に百ポンド懸賞試合をして勝っている。これはライト級レスリング選手権をかけて、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルで試合をしたのだ。
 メラーはライト級では当時英国一のレスラーで、世界チャンピオンを名乗っていた。だからこの勝利はタニには大変な偉業で、当時のマスコミもこれを認めた。スポーティングライフ誌は「まことにスポーツマンらしい試合だった」と賞賛した。続いてこう書いている。「小さなジャップは相手のイギリス人の得意分野に踏み込んで勝って見せた。実に感服の至りだ。タニは2フォール対1フォールで勝ったのだが、タニに対するフォールは成立していないのではないかと言う者が多かった」

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が、フォールで勝負をつける、関節技なしのレスリングで、ほぼフリースタイルと同じだったことがうかがえるはずだ。
 ジョージ・ハッケンシュミットが1902年にヨーロッパ大陸から英国に渡ってきて、グレコローマンからフリースタイルに切り替えた――ということを前に書きました。英語では「フリースタイル」をcatch-as-catch-canと書いてあったのだ。
 本当ならば、この英語の用法を百年前の雑誌を手に取って確かめる必要がある。文献調べをしたいというのは、そのためだ。
 しかし、次のように考えてみることはまずできるだろう。

(1)タニはプロレスラーと戦って連戦連勝した。
(2)プロレスの第一人者、ハッケンシュミットはタニの挑戦を避けた。
(3)ハッケンシュミットを含むプロレスラーのスタイルは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」だった。
(4)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンには関節技などのサブミッションがなかった。

 仮に「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」についてウィキペディアの記述が正しいとすれば、スープレックスなどの投げ技も関節技もできる、カール・ゴッチみたいなレスラーが18世紀ごろからいたことになる。

20070729

 ところが実際はハッケンシュミットでさえタニを恐れたのは、そもそも関節技や絞め技など、サブミッションを知らなかったからだ。
 どうでしょう? 
 (続く)

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2008年5月29日 (木)

柔道か柔術か(20)

 まず簡単なところから。catch-as-catch-canという英語はふつうはどういう意味で使われているのか? 辞書で調べてみよう。
 OEDには載っていない。
 インターネットでThe New Dictionary of Cultural Literacy, Third Edition.  2002.を引いてみる。

 catch-as-catch-can

  A phrase that describes a situation in which people must improvise or do what they can with limited means: “We don’t have enough textbooks for all of the students, so it’ll be catch-as-catch-can.”

限られたもので急場をしのぎやりくりする状況をあらわす言葉。「学生全員に行き渡るだけの教科書がないから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンで行こう」

ランダムハウス英和辞典 catch-as-catch-can

adj.(主に米・カナダ)あらゆる機会をつかんで利用する;思いつきの,出たとこ勝負の,手当たり次第の:a catch-as-catch-can life 行き当たりばったりの生活.

エンサイクロペディア・ブリタニカ(英語版を翻訳)

Catch-as-catch-can wrestling

立ち技と寝技の両方でほとんどあらゆる技と戦術が許されている基本的なレスリングの様式。ルールが禁じるのは通常相手を負傷させる行為だけである。すなわち、絞めること、蹴ること、眼に指を入れること、拳で叩くことである。競技の目的は相手の両肩を同時にグラウンドにつけることである。従来はイングランドで「ランカシア・スタイル・レスリング」として知られていたが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは英国と米国で一番人気のあるレスリングの形となり、わずかに修正を加えて、オリンピックや国際競技に「フリースタイル・レスリング」として採用された。

 catch-as-catch-canは、ウィキペディアの言うような「ランカシア訛り」(「ランカシア方言」のつもりか?)ではない。ごくふつうの英語である。

 レスリングでは、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル」だと言えることは、ブリタニカで分かるだろう。
 ただ、「拳で叩くこと(hitting with a closed fist)」というところはブリタニカの記述が不正確だ。平手打ち、突っ張り、空手チョップなどはもちろん禁止である。
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは
(1) フォールで勝負をつける。
(2) 関節技はない(「相手を負傷させる行為」として禁止)。
(3) グレコローマンとの違いは、上半身だけではなく「掴めるところをどこでも掴んでよろしい=catch as catch can」

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャッチ・キャン・レスリング」が100年前にどういう意味で使われていたかは、文献を調べればよい。検証あるいは反証である。
 徹底的に調べるには英国へ行かねばならない。私はそこまでできないけれど、調べる手掛かりだけは示しておきたい。(続く)

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2008年5月26日 (月)

柔道か柔術か(19)

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」――ウィキペディアの記述

キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch as catch can)はイギリス・ランカシャー地方発祥のレスリングの一種で、フリースタイルレスリングおよびプロレスのルーツ。18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンのビリー・ライレージムなどで隆盛した。試合形式は通常リングを使用し時間無制限で行われた。勝敗はタップアウトまたはピンフォールで決まった。キャッチ・レスリング、または単にキャッチ、またはランカシャー・レスリングとも呼ばれる。

技術体系
多彩なテイクダウン(タックルと投げ技の総称)、ブレイクダウン(グラウンドでの攻防におけるポジショニング技術)、サブミッション(関節技と絞め技の総称)、ピン(フォール技)の技術体系を持つ。その多くは現代のプロレス、アマチュアレスリング、総合格闘技やグラップリングの技術にも影響を与えている。
テイクダウンには、タックル、スープレックス(後ろ反り投げ)、サルト(捻りを加えた反り投げ)、スロイダー(相手の腕を前から掴んでの投げ)、ラテラル(相手の胴をクラッチしての蹴手繰り)などがある。
サブミッションには、ハーフネルソン、ハーフハッチ、アームロック、ヒールホールド、ヘッドロックなどがある。
ピンには、体固め、エビ固めなどがある。

語源

語源はCatch Anywhere You CanまたはWho Can Catch Canのランカシャー訛りといわれている。

 残念ながら、この記述はほとんど全部間違っていると私は思う。
 少なくとも、ウィキペディアにいわゆる「独自研究」だろう。
 いや、独自に研究するのはまことに結構なのだけれど、研究の結果は検証できなければいけない。
 たとえば
(キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは)18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンのビリー・ライレージムなどで隆盛した。
 という。しかし
・18世紀(千七百何年?)にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが「隆盛した」ことは、どういう文献から分かったのですか? 文献を引用しなくてもよい。他の者が文献で確かめる手掛かりだけは残しておくべきでしょう。

 私は、このウィキペディアの記述に対して、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは
(1)「ランカシア地方発祥」ではない。
(2)フリースタイル・レスリングの「ルーツ」ではない。
(3)18世紀にはまだなかった。
(4)サブミッションはなかった。

 と考えている。以上は消極的な仮説である。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは何かについて、積極的な仮説もいくつかある。
 ただ、私はこれをあくまで仮説として提出するのである。典拠は示さないけれども、それは単にその暇がないからである。
 仮説は、検証(verify)できるか、少なくとも反証(refute)できなければならない。
 手間さえ厭わなければ検証あるいは反証できるかたちで、柔道/柔術とレスリングの関係について、いくつかの仮説を示したい。(続く)

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2008年5月25日 (日)

柔道か柔術か(18)

 タニ・ユキオは第一次大戦が始まったころには、ミュージックホール・レスリングの世界から引退したようだ。大戦の帰趨が定まり始めた1918年には、日本人のコイズミ・グンジが中心になってロンドンに設立したBudokwai(武道会)で柔道/柔術を教えるようになった。
 タニは1880年(明治13年)生まれで、1900年に19歳で渡英した。ミュージックホール・レスリングから引退したあとは、1950年に亡くなるまで英国にとどまってBudowkaiで教え続けた。

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 1920年に嘉納治五郎がロンドンを訪れたときにはタニ・ユキオに講道館二段を与えている。
 Budokwaiは2008年で90周年を迎えた。現在英国で柔道をやっている人たちは、タニ・ユキオの孫弟子くらいに当たるようだ。
http://www.thebudokwai.com/

 これとは別に、1920年代の英国ではランカシアにビリー・ライリーのレスリングジム、いわゆる「蛇の穴」ができた。このジムからはビル・ロビンソンやカール・ゴッチが育ったことで有名である。

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 ただ、いわゆる「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルのレスリングについては少々誤解があるようだ。柔術にも無関係の話ではないので、次はこれを見てみよう。(続く)

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柔道か柔術か(18)

 タニ・ユキオは第一次大戦が始まったころには、ミュージックホール・レスリングの世界から引退したようだ。大戦の帰趨が定まり始めた1918年には、日本人のコイズミ・グンジが中心になってロンドンに設立したBudokwai(武道会)で柔道/柔術を教えるようになった。
 タニは1880年(明治13年)生まれで、1900年に19歳で渡英した。ミュージックホール・レスリングから引退したあとは、1950年に亡くなるまで英国にとどまってBudowkaiで教え続けた。

Tani_sm

 1920年に嘉納治五郎がロンドンを訪れたときにはタニ・ユキオに講道館二段を与えている。
 Budokwaiは2008年で90周年を迎えた。現在英国で柔道をやっている人たちは、タニ・ユキオの孫弟子くらいに当たるようだ。
http://www.thebudokwai.com/

 これとは別に、1920年代の英国ではランカシアにビリー・ライリーのレスリングジム、いわゆる「蛇の穴」ができた。このジムからはビル・ロビンソンやカール・ゴッチが育ったことで有名である。

B7d5541514c562b03f1812e6aabba432

 ただ、いわゆる「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルのレスリングについては少々誤解があるようだ。柔術にも無関係の話ではないので、次はこれを見てみよう。(続く)

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2008年5月22日 (木)

柔道か柔術か(17)

 ジョージ・ハッケンシュミットは1905年にはニューヨークで全米チャンピオンのトム・ジェンキンスを負り、最初の世界ヘビー級チャンピオンと認められた。
 ハッケンシュミットは1908年にシカゴでアメリカ人のフランク・ゴッチ(1878-1917)に負れるまで世界チャンピオンであった。

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 シカゴでのハッケンシュミット対ゴッチ戦では、ゴッチが体にオイルを塗る、目潰し、ひっかき、パンチなど卑怯な手を使ったと言われる。
 1911年にシカゴで行われた再戦では、ハッケンシュミットが一本目を取り、二本目と三本目をゴッチが取るという事前打ち合わせができていたが、ゴッチが約束を破って初めから勝ちに行き、二本を連取した。
 かなり現在の「プロレス」に似てきたわけだ。

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 しかし、ハッケンシュミットもヨーロッパ大陸では、前述のように真面目なグレコローマンスタイルでプロレスリングをしていたのだ。英国に来てからはフリースタイルで戦うようになった。
このフリースタイル・レスリングが20世紀初めの英国では「プロレス」だったのだ。1901年(明治34年)12月18日に夏目漱石がロンドンでプロレスを見た話は前に書きました。漱石曰く「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも、一、二と行事が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大に埒のあかない訳さ。」(柔道か柔術か(5))

 第一次大戦前のイギリスでは、だいたいこういう「真面目なプロレス」が行われていたらしい。これに対してタニ・ユキオをはじめとする日本人の柔術家たちが絞め技や関節技の威力で対抗していた。タニのほかによくレスラーと戦ったのはミヤケ・タロウという柔術家であった。
 体重210ポンド(95kg)のレスラー、アレック・マンローがタニと15分以上戦って賞金を得たのは1909年のはじめのことであった。この試合はスコットランドのグラスゴーで行われた。マンローは同じ日のうちに、キルマーノックという町(やはりスコットランド)でミヤケとも戦い、やはり15分以上戦って賞金を得た。
 ここで注目すべきは、タニにしてもミヤケにしても、負けることなど考えもしなかったし、実際負けなかったことだ。
(1)お互いに柔道着を着る
(2)フォールではなくギブアップで勝負をつける
という二つのルールがある限り、ずっと体が大きいプロレスラー相手でも自信があったのだ。だからこそ、タニは世界チャンピオンのハッケンシュミットに挑戦したのだ。1910年にはタニはインド人レスラーのグレート・ガマにも挑戦している。

Gama1916

 英国のレスリング事情はだいたいこんなもので、日本人柔術家は、プロレスラーに対抗して優位を保っていた。
 こういう状況をめちゃめちゃにしたのが第一次世界大戦の勃発である。1914年8月4日に英国がドイツに対して宣戦布告すると、レスリングや柔術どころではなくなってしまった。
 60歳のシャーロック・ホームズも『最後の挨拶』をしたのだった。(続く)

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2008年5月21日 (水)

柔道か柔術か(16)

 タニ・ユキオは、もちろんプロレスラーとも戦った。プロレスラーの中には15分戦って賞金を獲得した者もごくまれにいたようだ。
 ランカシャーのライト級レスラー、ボビー・ビッケルや、スコットランドのヘビー級のアレック・マンローなどが15分以上戦った(しかし勝てなかった)という記録が残っている。このマンローは体重が210ポンド(95kg)あって、当時としては非常に大型のプロレスラーだった。
 プロレスラー相手の戦いは、相手も「こんなチビの外人に負けてたまるか」というつもりでかかってくるので、ラフな試合になることもあった。マンチェスターでトム・コナーズという男と戦ったときがそうだった。
 コナーズは、試合の初めに恒例によって握手をすると、そのまま握った手を引っ張ってタニを捕まえ、ボディスラムで叩きつけようとした。タニは空中で身を翻して逃れたが、二人はもつれ合ってオーケストラピットに転落した(ミュージックホールの舞台で試合をしたのだ)。
 上がってくると、コナーズが反則のパンチを出した。観客が盛んにブーイングする。タニは相手の襟を掴んで倒し、マウンティングポジションから締めにかかった。コナーズはまたもや下からパンチを出したが、タニは構わず締めて、1分55秒、ギブアップを奪った。
 タニは当時のプロレスのチャンピオンだったジョージ・ハッケンシュミット(1878-1968)にも挑戦した。

Hackenshmidt1903

 エストニア出身で「ロシアのライオン」の異名を取ったハッケンシュミットは、身長175cm、体重99kgの大男だった。彼はロシアでレスリングと重量挙げを覚え、プロレスラーとしてヨーロッパ大陸で連戦連勝した。当時大陸のプロレスはグレコローマン・スタイルであった。ルールは現在のアマレスのグレコローマンとほぼ同じである。下半身を使ってはならず、相手の下半身を掴んではならない。投げ技はプロレスでいう「バックドロップ」や「スープレックス」のような反り投げが中心である。投げて寝技に持ち込んでフォール勝ちを狙う。いわゆるサブミッション(関節技などで参ったと言わせること)はなかった。
 ハッケンシュミットは1902年に英国に渡り、ここでもたちまち第一人者になった。彼はグレコローマンから英国で主流のフリースタイルに徐々に切り替えて行った。
 1903年11月、ハッケンシュミットがアントニオ・ピエリというレスラーと戦ったときに、タニはマネージャーのアポロと一緒にリングに上がり、3000人の観衆の前で挑戦状を渡した。
 ハッケンシュミットは「グレコローマン・レスリングのルールならば戦ってもよろしい」と答えた。タニの体重は9ストーン(57kg)足らずなのだから、これでは話にならない。タニの要求は、もちろん柔術ルールによる異種格闘技戦であった。
 ハッケンシュミットほどの体力があっても、未知の柔術技は怖ろしかったものと見える。この少し前には、フランスの有名なグレコローマン・レスラーで小型ハッケンシュミットと言われたモーリス・デリアスがタニに挑戦して敗れている。デリアスは体重が190ポンド(86kg)ある超一流のレスラーだったが、「ちっぽけなジャップは彼を簡単に打ちのめした」という。(続く)

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2008年5月20日 (火)

柔道か柔術か(15)

(承前--「格闘技」参照)タニ・ユキオは遅くとも1904年(明治37年)ごろにはミュージックホール・レスラーとして大活躍していた。
 バーナード・ショーの『バーバラ少佐』(1905年初演)に登場する乱暴者は、「日本人レスラーと17分4秒も戦った男がいる」と聞いて怯えるのだった。「日本人レスラーに勝った」のではない。そんな強い者がいるはずがない。17分以上もギブアップしなかったのがすごいというのだ。
 タニ・ユキオは英国全土を巡業して懸賞試合を行った。「タニに勝てば100ポンド、勝たなくても15分ギブアップしなければ20ポンド進呈」という懸賞だったが、賞金を獲得する者はほとんどいなかった。
 タニは小柄だったから(身長は5フィートではなくもう少し高かったという説もあるが、小さかったことは確か)、組み易しと見て挑戦する力自慢は多かった。しかし全く勝負にならなかった。
 タニがどういうふうに戦ったか、いちいち調べてはいないので想像で書くのですが、相手が素人の場合は数秒で勝負がついたと思いますね。柔術は関節技や絞め技が決め手であるが、そういうのを出すまでもなく、投げ技で決まったと思う。
 最近の格闘技ファンは「投げ技偏重の柔道はたいしたことがない。寝技中心のブラジリアン柔術の方が強い」と思っているようだけれども、それは誤解である。
 これは、オリンピックなどの世界大会がよくないのだ。柔道を知り尽くした者同士が国の威信をかけて慎重な戦いをする。だから微妙な勝負になって、組み手争いが続いたり、腕を突っ張り腰を引いて逃げに回ったりする。そうすると審判が両手を胸の前でグルグルグルと回して選手を指さし「指導!」と言う。あれがまことに滑稽で、柔道弱い説の元になっていると思いますね。
 柔道/柔術は元来ああいうものではない。武道/武術であるから、非対称的な戦いのためのものだ。
 どういうことかというと、相手がこちらの技を知らないこと