2009年12月 7日 (月)

樹木崇拝の起源(2)

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 日本では現在も樹木は生命力の象徴として尊ばれ崇拝されている。
 しかし、キリスト教は、クリスマス・ツリーを許容するくらいを限度として、樹木崇拝を異教として退けている。
 たとえば、ドイツにキリスト教を伝えた聖ボニファティウス(672頃-754)は樹木崇拝に反対したことで知られている。

 ボニファティウスは672年ごろ、ウェセックス王国(現在のイングランド)に生まれた。本名はウィンフリードといった。ウィンフリードは719年に教皇グレゴリウス2世からボニファティウス(善行をなす者)の名を与えられ、フランク王国での布教にあたった。以下ウィキペディアを引用する。

 723年、ボニファティウスはガイスマー村(Geismar、現ヘッセン州北部のフリッツラー)にあったトールへ捧げられた聖なるオークを切り倒した。この際、預言者エリヤを念頭におき、もしこの木が「聖なる」ものであるならば自らに雷を落とせとトールに呼びかけたという。ボニファティウスの同時代人で、その最初の伝記記者となった聖ウィリボールドによれば、ボニファティウスがオークの古木を切り始めると、まるで奇跡のように突然大風が起こり、オークをなぎ倒したという。トールの雷がボニファティウスに落ちなかったのを見て、人々はキリスト教へと改宗した。ボニファティウスはこの地にこの木から礼拝堂を建て、現在ではここにフリッツラー司教座聖堂が建つ。

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 ボニファティウスはオークの大木を切り倒して見せて、異教の神トールがキリスト教の前には無力であることを示したのである。キリスト教はもともと砂漠の宗教であるから、木を切って自然破壊をすることなど平気だったのだろう。
 トール(Thor)は北欧神話の雷神で、英語読みではソアである。正典に『ソア橋 The Problem of Thor Bridge』がある。

『樹木崇拝の起源』は、これより前の時代を扱ったものであるから、よほどの珍本だろう。老人は後でワトソンの診察室を訪ねてきたが、ほかにBritish Birds, Catullus, The Holy Warなどという稀覯本を持っていて、売りつけようとしたのだった。ところが……

 ここまで書いて念のためにグーグルで検索してみたら、国立国会図書館の雑誌記事索引が見つかった。面白そうですね。real titleというのは、「樹木崇拝の起源」とは真っ赤な偽り、実は別のタイトルだったという話かな? どんな物凄い本だったのか?http://opac.ndl.go.jp/articleid/9743966/jpn

記事情報 雑誌記事索引(1/1件目)

論題   「樹木崇拝の起源」--老人の所持していた書物は何か?
他言語論題   The real title of the book which the elderly man had
著者   吉岡 正和(ヨシオカ マサカズ)
     
請求記号   Z71-B435
雑誌名   ホームズの世界
  The world of Holmes
出版者・編者   日本シャーロック・ホームズ・クラブ / 日本シャーロック・ホームズ・クラブ 編
巻号・年月日   (通号 31) [2008]
ページ   61~68
     
本文の言語コード   jpn: 日本語
記事登録ID   9743966
雑誌記事ID   747572300

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2009年12月 5日 (土)

樹木崇拝の起源(1)

 1894年(明治27年)3月30日の夜、伯爵令息ロナルド・アデアがきわめて異常かつ不可解な状況で殺害された事件は、ロンドン中の関心をかきたて上流社会を震撼せしめた。
 それから数日後の夕方、往診を終えたジョン・H・ワトソンは、「この事件はさっぱり分からん。ホームズが生きていたらなあ」などと考えながら、パークレインのアデア家を見物に行った。
 家の前は野次馬でごった返していた。彼らは背の高い男(私服刑事らしい)が事件についてトンデモ説を述べ立てるのに聞き入っている。ワトソンはうんざりして踵を返そうとしたが、後ろに立っていた老人にぶつかって彼の抱えている本を落としてしまった。

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「これは失礼いたしました」と拾って返した本の中に『樹木崇拝の起源The Origin of Tree Worship』という題名の一冊があったのが妙に印象に残った。
 それからどうなったかは、ワトソン自身が『空き家の冒険』という題で記録している。

 樹木崇拝は、日本では特別珍しいことではないので、特にその起源を主題とした本などないだろう。

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 国立国会図書館目録http://opac.ndl.go.jp/Processで、タイトル欄に樹木崇拝と入力してみると

 和図書 1-1(1件) 
   1.  フランス小説に描かれた花と樹木 / 加来一丸. -- 大学生協京都事業連合ブックプリントセンター, 2000.4 

 と出る。クリックすると書誌情報が出る。

 請求記号     KR84-H23 
タイトル     フランス小説に描かれた花と樹木 
タイトルよみ     フランス ショウセツ ニ エガカレタ ハナ ト ジュモク 
責任表示     加来一丸著 
出版地     京都 
出版者     大学生協京都事業連合ブックプリントセンター∥ダイガク セイキョウ キョウト ジギョウ レンゴウ ブック プリント センター 
出版年     2000.4 
形態     183p ; 21cm 
注記     表紙の出版者:花空書房 
内容細目     スタンダールの樹木崇拝 
内容細目     幻視者バルザックの花束・風景 
内容細目     ジョルジュ・サンドの《田園小説》を読む 
内容細目     回想の詩人ウジェーヌ・フロマンタンの風景画 
内容細目     プルーストの花と樹木 
(以下省略)

「スタンダールの樹木崇拝」とは何だろうか。面白そうだ。しかし西洋で樹木崇拝の起源といえば、もっと古い話になるはずだ。

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2009年11月25日 (水)

ショルトーの正体(5)

 コナン・ドイルは、オスカー・ワイルドだけでなく、ワイルドの敵のクイーンズベリー侯爵とも因縁があった。二人ともボクシングの熱心なパトロンだった。当時の上中流階級では少数派だったから、知り合いだった。
 ドイルは自身ボクシングをたしなみ、前に「シャーロック・ホームズの階級」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1-6a46.htmlで紹介した『クロックスリーの王者』(コナン・ドイル傑作選Iに収録)やベアナックル・ボクシングを扱った『ロドニー・ストーン』をはじめ多くのボクシング小説を書いている。

 クイーンズベリー侯爵は1867年に定められたクイーンズベリー・ルールで有名だ。このルールによって、グローブ着用、3分1ラウンド制、10秒のダウンでノックアウト、レスリング行為(クリンチからの攻撃)の全面的禁止など、現代ボクシングの基礎が作られた。
 第9代クイーンズベリー侯爵(1844-1900)はスコットランドの貴族だった。

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 彼はボクシングのほかに乗馬や狐狩りにも熱心で競走馬も何頭か所有していた。彼は1872年に上院議員に選ばれたが、1880年になって英国君主へのキリスト教方式による忠誠の誓いを拒否して大問題を起こした。彼は熱心に無神論をとなえた上に、ボクシングなどという下品なスポーツに肩入れしたので貴族の間では評判が悪かった。

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 アルフレッド・ダグラスはこの侯爵の三男だった。息子のアルフレッド・ダグラスと父親の侯爵ジョン・ショルトー・ダグラスは性格も見た目もずいぶん違った。
『四人の署名』に出てくるショルトーは、サディアスよりもその父親が問題なのではないだろうか。ジョン・ショルトー少佐は、ワトソンの妻メアリーの父親モースタン大尉の死に関わりがあった。メアリーはジョン・ショルトーの名を思い出したくないので、夫をジョンと呼ばなかったくらいだ。
 メアリーはJohn H. Watsonのスコットランド風のミドルネームHamishをわざわざイングランド風に直して「ジェームズ」と呼んでいた。
 この点については、ドロシー・セイヤーズ女史の『ドクター・ワトソンのクリスチャン・ネーム』を私が訳しているので、ご覧ください。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_b26f.html

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2009年11月24日 (火)

ショルトーの正体(4)

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 オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿と親密になったのは1891年だった。同じ年、ドイルは「ストランド・マガジン」の7月号から12月号に『ボヘミアの醜聞』から始まる6編を載せて一躍有名になった。
 1895年、ワイルドはアルフレッド・ダグラス卿の父親、クイーンズベリー侯爵に侮辱されたので彼を名誉毀損で刑事告訴した。ところが裁判では名誉毀損は成立しなかった。かえってワイルドの方が男色禁止法 Buggery Act (1533年制定、当初は死刑が罰だった。1885年修正)違反に問われ、有罪となり投獄された。この事件の顛末はオスカー・ワイルド 最初の現代人
 http://www.geocities.jp/oscar_wilde_fansite/biography.htm
に詳しい。
 この年、ドイルは『勇将ジェラール』を書いていた(ホームズは2年前にライヘンバッハの滝で殺してしまった)が、ワイルドの事件について
「そら見たことか! ざまあ見ろ」
とは言わなかった。(ワイルドは演劇で大成功して妬まれていたから、こういう反応が多かった。)
 ドイルはむしろワイルドに同情的だったようだ。ワイルドの事件には
「どうも困った騒ぎだ。ああいう趣味は自分には分からないけれども、一種の病気だから、非難しても仕方がない」
という態度だったようだ。
 これはドイルに限らず良識ある人に共通した態度だった(ただし1967年まで同性愛は刑法上の犯罪だった)。

 1943年に初の本格的なコナン・ドイル伝を書いたヘスキス・ピアソンは、1946年に『オスカー・ワイルド伝』を書いた。この時にはまだジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)が存命だったので、ピアソンはショーに相談した。
「ショーさん、僕はオスカー・ワイルドの伝記を書こうと思うのですが、どんなものでしょうか?」
「まあ、やめておいた方がいいと思うよ。何しろ、例の件があるからねえ。わしが死んで、それから君も死んで……ところでピアソン君は何年生まれ? そうか、わしより30年も若いねえ。君も死んでから何年も経てば、あれも大したことじゃない、犯罪ではない、ということになっておるだろう。伝記を書くなら、それからじゃよ」
 しかし、ピアソンはワイルド伝を書いた。何しろ伝記を書くのが仕事で、ショーの伝記も1951年に書いているのだ。
 ピアソンは何よりも才人としてのオスカー・ワイルドを尊敬していたので、そこに焦点を当てて書いた。男色はあったかもしれないが、大した問題ではない。ピアソンの考えを大幅に「意訳」すると
「織田信長は森蘭丸をかわいがったけれど、信長は別に変態ではない。オスカー・ワイルドだって同じことです」

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2009年11月23日 (月)

ショルトーの正体(3)

 オスカー・ワイルドとコナン・ドイルが1889年に出会ったとき、ワイルドは35歳、ドイルは30歳だった。ドイルはこの年の2月に歴史小説『マイカ・クラーク』を出していた。
 ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』によると

 成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット誌に『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。

 1889年のドイルには、成功は「すぐそこまで来ていた」が「まだ」だった。一方、ワイルドはすでに名士だった。『ドリアン・グレイの肖像』はまだ書いてないし劇場での大成功は1892年からだったが、作品より先に本人が有名になっていたのだ。
 ワイルドは、1878年にオックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業して翌年ロンドンに出てくると、奇抜な服装と才知でたちまち評判になった。あちこちのパーティにひっぱっりだこで、パーティではワイルドがどういう気の利いたこと言うか、みんなが耳をすませていた。風刺雑誌『パンチ』にオスカー・ワイルドのカリカチュアが載った。

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 1881年には、ギルバートとサリバンがオスカー・ワイルドがモデルの喜歌劇Patienceをヒットさせた。これはニューヨークでも上演されたので、プロモーションのためにワイルドをアメリカに呼ぼうということになった。1881年末に渡米したワイルドは1882年1年間かけて全米70箇所で講演して回った。
「植民地へ講演に行って稼ぐ」というのは、大先輩の作家チャールズ・ディケンズもやったことだ。しかしディケンズの場合は、功成り名遂げてから自作を朗読して回ったのだ。ワイルドはまだ28歳で詩集を2冊出しただけだった。しかし彼の講演はアメリカの聴衆に受けて大成功だった。

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 ドイルと初めて会った1889年には、ワイルドは『婦人世界』誌の編集長で、前年に『幸福な王子』を出版していた。
 翌1890年に唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』を発表した。1892年に『ウィンダミア卿夫人の扇』が初演され、ワイルドの劇作家としての大成功が始まった。彼がクイーンズベリー侯爵との裁判事件で没落するのは1895年である。

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2009年11月21日 (土)

ショルトーの正体(2)

 小林・東山両氏の本、「ドイルはワイルドからあまり良い印象を受けなかったらしく、……」の前の段落に、こう書いてある。

 ドイルは自伝で、オスカー・ワイルドに初めて会った時のことを書いている。1889年のできごとであった。「ワイルドは唯美主義のチャンピオンとしてすでに名をなしていた。彼は私たちよりも群を抜いているだけだったが、それでもこっちのいうことには面白がってみせる術を心得ていた。感じかたや如才なさにこまやかさがあったが、一人芝居の男は心から紳士ではあり得ない。この晩の結果はワイルドも私も『リピンコット』の誌に小説を書く約束ができたことだった。それで書いたの場、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』と私の『四つの署名』とであった。(延原謙訳『わが思い出と冒険』新潮文庫、97ページ)

 延原謙訳が誤訳だから、「あまり良い印象を受けなかったらしく」という誤解が生じたのです。原書(Memoirs and Adventuresという題ではないので気がつかないが下の本)を見てみよう。

He towered above us all, and yet had the art of seeming to be interested in all that we could say. He had the delicacy and feeling and tact, for the monologue man, however clever, can never be a gentleman at heart. He took as well as gave, but what he gave was unique.

 下線部を、延原謙氏は

彼は与えもした代わりに、与えるものは独特であった。

 と訳している。意味不明である。だから、小林・東山氏は引用から省いている。しかし引用部分だって「彼は私たちよりも群を抜いているだけだった」を始め、ナンセンスだ。
 正しい訳は

  彼は我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた。まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本物の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった。

 これで意味が通るはずです。
 延原謙訳では、ワイルドが「一人芝居の男」だったことになる。とんでもない間違いだ。
 コナン・ドイル(1859-1930)は1889年にオスカー・ワイルド(1854-1900)と初めて会った。そして「あのワイルドさんが僕の小説をほめてくれた!」と感激したのだ。まだ専業作家ではなかったドイルに対して、ワイルドはすでに名士だった。ところがワイルドは本物の紳士で、少しも偉そうにしない。ドイルの小説をあらかじめ読んできてくれた上に、ドイルの言うことを面白そうに聞いてくれた。さすがに有名になる人は違う、とドイルは感心したのだ。

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2009年11月20日 (金)

ショルトーの正体(1)

 ドイルはワイルドからあまり良い印象を受けなかったらしい、オスカー・ワイルドを戯画化して《四つのサイン》にでてくるサディアス・ショルトーを描いた。ショルトーは「南ロンドンという荒涼たる砂漠のなかの芸術のオアシスです」と話し始めるが、これはワイルドが1882年にアメリカ旅行をした時に「アメリカ女性? 彼女は常識という人を当惑させる砂漠の中の魅力的なオアシスですよ」と話した警句のパロディである。
(小林司・東山あかねp.155)

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 サディアス・ショルトーのモデルがオスカー・ワイルド? ワイルドはもっと偉かったと思いますよ。彼は少なくとも禿頭ではなかった。しかし、小林司・東山あかね両氏だけではなく、ほかの人たちもだいたい同じ意見のようだ。
  
 河出書房版ホームズのクリストファー・ローデンによる注釈を水野雅士氏の本から孫引きさせてもらう。

「サディアス・ショルトーの人物描写の中に、疑いようのないオスカー・ワイルド的なものが存在している。ワイルドは大変な、そしてきざな愛煙家であった。サディアス・ショルトーも水ぎせるを愛用している点においては――そうである。…………」…………さらにローデンは、《四つのサイン》でホームズが指摘したサディアス・ショルトーの筆跡に関する「この(縦に)長く書くべき文字の群を見てみたまえ。短い文字の列からほとんど頭が上に出ていない。dはaのようだし、lはeのようだ。しっかりした人物なら、どれほど読みにくい文字を書いたとしても、長い文字を短い文字のようには書かないものだ。彼が書くkは安定性に欠けるし、大文字にはうぬぼれが透けて見える」という特徴は、ワイルドの筆跡と共通する部分があると述べ、そのことから「リピンコッツ」誌のスタッダードが設定した会見で初めてワイルドにあったドイルは、その後おそらくワイルドと手紙のやりとりを始めたのだろう、とローデンは推測している。
(水野雅士pp.277-8)

「大変な、そしてきざな愛煙家」というなら、シャーロック・ホームズも同じではないか。
 ローデン氏の「推測」も、当てにならないと思う。コナン・ドイルとオスカー・ワイルドが文通していたなどと、どうして言えるのだろうか。どちらの伝記にも、文通のことなど書いてはない。

 
 
 どうもみなさん、オスカー・ワイルドを見くびっているのではないか。吉田健一を読んでみて下さい。「英国では、近代はワイルドから始まる。」いや、ワイルドを読めばよいのだ。

 アーサー・コナン・ドイルもジョン・H・ワトソンも正常な男だったから、「例のこと」があったワイルドを嫌っているはずだ、高く評価するはずがない――という先入観があるのでは?
 ドイルはワイルドを尊敬していたし、変態あつかいなどしなかった。したがって(?)、ワトソンも同じだった。

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2009年11月15日 (日)

ウィンドウズ7は?

私はまだ当分XPを使い続けるつもりです。(S.H.)

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2009年11月 9日 (月)

毛むくじゃらのアイヌ人(6)

「頭蓋骨計測値」の話は『バスカヴィル家の犬』にもう一度出てくる。

  "I presume, Doctor, that you could tell the skull of a negro from that of an Esquimau?"
  "Most certainly."
  "But how?"
  "Because that is my special hobby. The differences are obvious. The supra-orbital crest, the facial angle, the maxillary curve, the --"

「黒人の頭蓋骨とエスキモーの頭蓋骨の区別は、先生にはつくでしょう?」
「もちろんです」
「どう区別しますか?」
「私の十八番ですよ。違いは明らかです。眼窩上隆線、顔面角、上顎曲線、それに……」

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顔面角

顎部の突出程度を横顔からみて表した角度。各進化段階にある人類の横顔をみると、顎部が前突している突顎から、口元がほとんど突出していない直顎まで、さまざまなものがある。そこで、18世紀後半にオランダの解剖学者カンペールPieter Camper(1722―89)が、人種の差異を示す標識の一つとして考案した。それは、横顔からみて、眉間から鼻の下で鼻中隔の付け根を結ぶ直線と、同じく鼻中隔の付け根と耳の穴とを結ぶ直線との間の角度である。彼は、世界各地の諸人種が群れ集うオランダのアムステルダム港で、多くの人々についてこの角度を計測し、また、古代の絵画に描かれている人物の横顔についても計測した。その結果、黒人の顔面角は白人のそれより小さく、猿類に似ていると主張した。この観察は一般には理解しやすいため、多くの人種論に引用された。しかし、この考え方は、各人種と各種霊長類を単純に一直線上に並べたにすぎず、その数字の意味するところを考えず、また誇張して人種差別に結び付けるきらいがある。そのため今日の人類学者は、ただ頭骨の形態を記述する項目としてのみ用いる。顔面角を測る方法としては、上述の他に全側面角、鼻側面角、歯槽側面角などが考案されている。
〈香原志勢〉 (C)小学館スーパーニッポニカ百科事典

 世界大百科事典の「顔面角」はあまりにも時代後れだ。古い「学説」をまともに相手にしてしまって「人種差別につながる」ことも書いてない。エンカルタには「顔面角」の項目がなく、ブリタニカにもfacial angleの項目がないのは、現代では問題とするに足らないという態度だろう。

 しかし19世紀の終わりから20世紀初めには、猿→類人猿→黒人→黄色人種→白人の順序で顔面角が大になり、これが進化の順序を反映しているという迷信がまだ有力だった。モーティマー医師も、黒人とエスキモーでは後者の方が進んでいて、もちろん白人が一番偉いと思っていただろう。
   イザベラ・バード女史は、これより少し前の1880年に、アイヌ人は「顎が突き出るような傾向は少しもない」と書いていた。黒人や蒙古人と違って顔面角が大きく、白人に近いということだ。
 このころ頭蓋骨計測値がいかに重視されたかは、もう少しあとにコナン・ドイルが書いた小説にも明らかだ。(続く)

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2009年11月 7日 (土)

毛むくじゃらのアイヌ人(5)

 平凡社世界大百科事典のアイヌの起源に言う「頭蓋計測値」というのは、たとえば

"You interest me very much, Mr. Holmes. I had hardly expected so dolichocephalic a skull or such well-marked supra-orbital development. Would you have any objection to my running my finger along your parietal fissure? A cast of your skull, sir, until the original is available, would be an ornament to any anthropological museum. It is not my intention to be fulsome, but I confess that I covet your skull."

「ホームズさん、あなたは非常に興味深い。ここまで長頭とは思わなかった。眼窩上隆起もこれほど顕著だとは。顱頂縫合を触らせていただけますか。あなたの頭蓋骨を石膏型に取れば――現物はまだ入手不可能でしょうから――人類学博物館の呼び物になります。お世辞抜きで、あなたの頭蓋骨はぜひ欲しい」

 ベアリング=グールドの考証によれば、これは1888年(明治21年)9月25日のことだった。もちろん『バスカヴィル家の犬』の事件が始まった日だ。ホームズの頭蓋骨を欲しがったのはジェームズ・モーティマー氏である。医師でアマチュアの人類学者だった。
 ホームズは自分も科学のためなら何でもしたから、喜んで頭を触らせてやったに違いない。ワトソンが省筆して書かなかっただけだ。頭蓋骨の石膏型が「名探偵ホームズ34歳の砌の髑髏」として人類学博物館に展示されたかどうかは分からない。

  シャーロック・ホームズの頭蓋骨は長頭dolichocephalicであった。長頭の反対は短頭brachycephalicである。

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 長頭(上)と短頭(下)の頭蓋骨(生前の現物の写真)

 頭蓋骨の幅を長さで割った数値を「頭長幅示数」といい、この数値が小さいのを長頭、数値が大きいのを短頭という。
 写真上の長頭は後頭部が出っ張っているが、短頭には出っ張りがない。長頭か短頭かは人類学上きわめて重要な指標だった。

 主としてヨーロッパに住むコーカソイド(白色人種)について、世界大百科事典は

北の北方(ノルディック)人種は高身長・明色・長頭の人々で皮膚や虹彩の色はきわめて淡い。アーリヤ人種という誤った名で呼ばれることがある。中央の帯は,東のロシア領の中身長・明色・短頭の東ヨーロッパ人種と,色素の割合に多い短頭の2人種からなる。後者は低身長のアルプス人種と,高身長のディナール人種である。南の帯は高身長・濃色・長頭の地中海人種の大集団によって構成される。………………アイヌも波状毛,多毛などコーカソイド的特徴を示すが,モンゴロイド的な特徴も多く,分類が困難である。 
  
「アイヌ人はヨーロッパ人の従兄弟である」は、この百科事典の記事の時点(事典は1998年版だが、記事執筆はもう少し前か?)ではまだ完全には否定されていなかった。(続く)

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