シャーロック・ホームズ

2015年4月12日 (日)

アーミーコーチ再々論

『シャーロック・ホームズの愉しみ方』を読んだ人から手紙をもらった。まだ売れているのはうれしいが手紙を読んでみると、とんでもない誤解があるようだ。
 この本で、私はシャーロック・ホームズの宿敵、モリアーティ元教授の職業「アーミーコーチ」が「軍人の家庭教師」などではなく、「陸軍士官学校受験予備校の教師」であることを明らかにした。
 ところが、私が受け取った手紙には、陸士受験予備校の教師という訳語は、笹野史隆氏の『コナン・ドイル小説全集』(120部限定、私家版)に収める『最後の事件』の翻訳にすでに使われているぞ、お前は笹野訳をこっそり読んでいながら知らん振りをして自分が正しい訳語を発見したようなことを書いているではないかーーーとあった。
『シャーロック・ホームズの愉しみ方』は2011年9月に刊行された。その時点で笹野史隆氏のホームズ訳はすでに出版されていたようだ。
 しかし、「陸士受験予備校の教師」説を世界で初めて唱えたのは、私である。他人の訳語を盗用などはしない。
『シャーロック・ホームズの愉しみ方』は、書き下しではない。この「翻訳blog」に連載していたものをまとめたのである。
 モリアーティ教授が予備校教師だったことは、2006年4月に私が「モリアーティ元教授の職業(1)-(5)」という題で本ブログに書いたのが正真正銘、世界初である。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/1_cc65.html
 私は、そのうちにシャーロック・ホームズ正典の訳を出したいと思っている。その際は、笹野氏の翻訳を入手して参考にさせていただくつもりだ。笹野訳に正しい訳語があれば、無断で自分の翻訳に使うだろう。これは倫理的に何ら問題がないことである。翻訳というものは、後で訳したほうが前の訳を参考にできるから必ずよくなるはずだ。I田D作先生曰く「翻訳はだんだんよくなる法華の太鼓でなければなりません」。『シャーロック・ホームズの愉しみ方』では、「現在入手できる翻訳では一番古い延原訳が最も優れている」と書いた。笹野氏以外の「新訳」の訳者は怠けていたのである。
 翻訳そのものではなく「翻訳論」で、すでに出ている翻訳を読んでいながら知らん振りをすれば、盗作である。私に手紙をくれた読者が早とちりしたのも無理はないか。
 しかし、繰り返すが、アーミーコーチが「陸軍士官学校受験予備校の教師」であることは、私が世界で初めて明らかにしたのである。

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2014年10月19日 (日)

あの女の夫(2)

darkが分からなかったのは仕方がない。辞書にちゃんと書いてない。

2.b 〈人・皮膚・目・毛髪など〉色の黒い, 黒褐色の (cf. brunet, blond, fair1 5).・a dark complexion 浅黒い顔色.・dark hair 黒髪.・a dark man (白人について)髪が黒(褐)色で, しばしば肌が浅黒い人.【日英比較】 肌の色を指す場合, 英語では, dark と black は区別する.

 大英和も、肌色と目と髪の毛を込みにしている。髪の毛が黒褐色ならば、しばしば肌が浅黒いとは言えるかもしれないが。
 むかし、DTHというのがよく分からなかった。ハリウッドで男優がスターになれる条件として,DTH(Dark, Tall and Handsome)ということが言われたというのだが。背が高くハンサムは分かるとしても、浅黒いというのはどういうことか? 有色人種のほうがよいというのか?
 これはアメリカ人に尋ねてみた。
 もちろん女は金髪がよろしいですよ。(僕はロシアン・パブには行ったことがない。)
 
 しかし、『風とともに去りぬ』のレット・バトラーが金髪では困るでしょう。やはり、クラーク・ゲーブルのような黒褐色の髪の毛でなくてはヒーローになる資格がない。
(近頃では、ハンサムで背の高い黒人のことをDTHと言うこともあるようです。)
 
そう言えば、007でも、ボンドは黒っぽい髪(のかつら?)で、金髪男は悪者だった。

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2014年10月17日 (金)

シャーロック・ホームズの気晴らし

 

 まず『シャーロック・ホームズの気晴らし』という題がすばらしい。フランス語ではLes Passe-temps de Sherlock Holmesである。passeーtempsは英語ならpastimesである。

 ワトソンの英語を仏訳したルネ・レウヴァン氏も偉い。訳文は正確なだけではなく、原英文にはなかったであろうフランス風味と文学風味も加わっている。
『煙草王ハーデンの脅迫事件』は、「有名な煙草王、ジョン・ヴィンセント・ハーデンが奇妙な脅迫を受けていたことに関する難事件」として、Solitary Cyclistで言及されている。
 事件が始まる前、221Bの部屋でホームズが取り組んでいるのは、ジェラール・ド・ネルヴァルの縊死事件(1855年1月26日)の謎である。自殺か他殺か? テオフィール・ゴーティエやアレクサンドル・デュマはどういう反応を示したか。
 脅迫事件の犯人はすぐに突き止められたが、この犯人によるさらに恐ろしい犯罪を防ぐためにホームズは何をしたか?
 ホームズは、まず『若きウェルテルの悩み』を精読する。これで、犯人の手口が分かるのである。ウェルテルがちょっと旅行に出るから貸してくれと言ってアルベルトから借りた拳銃は前装式単発であったから、二丁で一組だったはずだ。

 しかし、ホームズは「文学の知識ゼロ」だったはずだ。「カーライル? それは何をした人?」と聞いたのじゃなかったか?
 大丈夫。終幕では
「君はカーライルを知らないと言ったじゃないか」
「あの言葉を信じたのかい?」
 というやりとりがある。やはり猫をかぶっていたのだ。ホームズはカーライルを読んでドイツ文学の研究に向かったのだろう。ウェルテルは原文で読んだのかもしれない。英訳はすでに出ていたが。

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2014年10月16日 (木)

あの女の夫(1)


「コンサートに出演するときを除けば、めったに外出しないが、ひとりだけ、ちょくちょく尋ねて来る男客がいる。色が浅黒く、颯爽とした感じの二枚目で、これが日に一度は必ず顔を見せるし、ときには二度あらわれることもある。名はゴドフリー・ノートン、法曹学院イナー・テンプル所属の弁護士。」(深町真理子訳)

 ゴドフリー・ノートン氏は「色が浅黒い」? オバマさんのような顔の色だろうか? そう言えば大統領は元弁護士だったが。
 原文を見てみよう。

Seldom goes out at other times, except when she sings. Has only one male visitor, but a good deal of him. He is dark, handsome, and dashing, never calls less than once a day, and often twice. He is a Mr. Godfrey Norton, of the Inner Temple.

  深町さんはdarkという英語が分かっていないのだ。困るなあ。こういうときはドイツ語かフランス語の訳を見てみるのがひとつの手だ。独仏語なら、たいてい直訳だから。
She hat nur einen maennrichen Vesucher, den allerdings oft. Er ist dunkelhaarig, stattlich und elegant; Er kommt nie seltener als eimal pro Tag, oft sogar zweimal.(ウムラウト→ae)
 
 ドイツ語ではdunkelhaarigとなっている。再英訳すればdark-hairedだ。
 延原謙氏はどう訳しているか。
「出演のときは別だが、これ以外の時間に出かけることは、ほとんどない。訪ねてくる者としては、男客が一人あるだけ。それもかなりしげしげやってくる。髪も目も黒っぽい、おしゃれな美男子で,日に一度来ない日はないが、どうかすると二度来ることも珍しくない。名前はゴドフリー・ノートンといって、イナー・テンプルにいる男だ。」

 darkは「黒い」よりも「黒っぽい」の方がよろしいだろう。日本人から見れば茶髪でもdarkというのだ。「目も」はどんなものだろう。西洋人には髪は黒っぽくて碧眼の人もいるのじゃなかろうか。
 それにしても「新訳」とは何だ。延原さんがせっかく正しく訳しているのを、直して間違っては困るよ。(「法曹学院イナー・テンプル所属の弁護士」と分かりよく書いたのは偉いけれど。)

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2014年10月12日 (日)

シャーロック・ホームズ 七つの挑戦(2)

(七つの挑戦のうちの一篇『チェス・プレイヤーの謎』の事件では、スコットランドヤードのグレッグソン警部が221Bにやってきて
「サー・マサイアス・グルーヴィが殺害されたのだ」と言う。ホームズは例によってワトソンに自家製索引を取らせて見る。)

「どれどれ、サー・マサイアス・ジョン・チャールズ・ロブソン、グルーヴィ公、ロチェスター伯……」

 殺された人物はグルーヴィ公爵(Duke of Groovy)である。「グルーヴィ公、ロチェスター伯」というのは、公爵が伯爵の位も持っているということである。普通は、公爵を名乗り、伯爵の位は息子に名乗らせたりする。United KingdomのKing(Queen)が、一格下のPrince of Walesの位も同時に持っていて、皇太子(王太子)がPrince of Walesと名乗るのと同じである。ここまではよろしいが、
 
 「サー・マサイアス……」というのが変だ。原文の英語はどうなっているのか。イタリア語からの重訳では困る、ワトソンの書いた英語から直接訳してもらいたいなどと無理なことを言ったのは、このためである。「イタリア屈指のシャーロキアン」であるはずのエンリコ・ソリト氏は、英国の貴族制度のことをまったく知らない。
 
 貴族(公候伯子男の爵位を有する人物)を「サー」と呼ぶことはあり得ない。サーの称号は、シャーロック・ホームズやアーサー・コナン・ドイルのような平民が功績を挙げてナイトの位を与えられたときに名乗るのである。(サー・シャーロック、サー・アーサーと言い、サー・ホームズ、サー・ドイルとは言わない。ドイル卿などとするのは間違い――これについては前に「コナン・ドイル卿?」という記事を書いた。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/1_11f8.html
 ウィンストン・チャーチルは、公爵家の出身であるから一応は貴族であった。しかし、ウィンストンの父ランドルフは三男だったから、爵位はない。したがってウィンストンも厳密に言えば平民である。だからナイトの位をもらって、サー・ウィンストン・チャーチルになったのである。功績から言えば公爵か候爵をもらってもおかしくないのだが、爵位を持つと下院(平民院)の議員にとどまれない(上院に入れられてしまう)から断ったのだろう。
 天野泰明氏の訳者あとがきには
 
ホームズ研究でいういわゆる”整合性”をめぐる問題があると思われた箇所についても、専門家による今後の考究にゆだねるべきであると判断して訳者のいたずらな恣意を加えず、あえてイタリア語版本文のままに訳出したことをご諒解願いたい。

 とある。天野氏の間違いではなく、イタリア語版を作ったソリト氏が悪いのである。

 シャーロック・ホームズ研究の「専門家」としていさかか考究を試みたのが本稿である。

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2014年10月10日 (金)

シャーロック・ホームズ 七つの挑戦

未発表のワトソン博士の手記がイタリアで発見された?!
謎のメッセージを残して殺された男と、消えた少年たちをめぐる「十三番目の扉の冒険」、フィレンツェを舞台に「あの」大作家が巻き込まれた「予定されていた犠牲者の事件」ほか全七篇。
イタリア屈指のシャーロキアンが送る新しいシャーロック・ホームズ譚。待望の初翻訳!(アマゾンの内容紹介)
 
 未公刊のまま眠っていたワトソン博士の手記が、かのイタリアにおいて、しかもどうやら少なからぬ量で発見されたことは、じつに驚くべき、そして喜ぶべき事件なのではないだろうか。しかも、発見者がイタリアにおけるホームズ研究を代表する一人、エンリコ・ソリト(Enrico Solite)氏だったことは、手記の運命にとって、そしてホームズとワトソンの世界を愛するすべての人々にとって、何という幸運だったことだろう。(訳者あとがきより)
 
 天野泰明氏の翻訳により、これらの手記を日本語で読めるのはありがたい。天野氏と国書刊行会のご努力を多としたい。
 ただ、発見されたワトソン博士の手記の原文(もちろん英語)はunavailableであるらしい。国書刊行会版はイタリアで公刊されたイタリア語版の邦訳である。天野氏の邦訳は見事なものであるが、英文をイタリア語に訳したソリト氏の英語力にはいささか疑問がある。
 無い物ねだりをすれば、天野氏と国書刊行会は重訳ではなく、ワトソン博士の書いたオリジナルの英語からの翻訳を出して欲しかった。

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2014年9月14日 (日)

チャーチルのお母さん

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 プロフェッショナル・ビューティーズの一人、エドワード7世の愛人の一人だった。

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2014年9月 1日 (月)

ドイツ人の砂糖王など

≪三破風観≫事件の冒頭は、巨漢の黒人男性がベイカー街221Bの居間に殴り込みをかけるシーンで始まりますが、冒頭でのいささか黒人蔑視とも言えるホームズの発言に眉をひそめる読者もいるようです。
 この派手な登場シーンと派手な服装でホームズとワトソンを驚かせた黒人男性のスティーブ・ディキシーは英国生まれかもしれませんが、先祖たちはどこから来たのでしょう。英国の奴隷はアフリカから新大陸に連れて行かれ、農園などで働かされているので、本土では目にすることはあまりありません。
 16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人によって1000万人以上のアフリカ黒人が奴隷として新大陸に連れて行かれとされます。なかでも英国による「三角貿易」の犠牲者が多いようです。

 連れて行かれたアフリカ人は主に英国系の砂糖の大農場で働かされたのですが、川北稔著『砂糖の世界史』によれば「砂糖商人の多くは、イギリスに住み着いて、イギリスの上流階級、いわゆるジェントルマン階級の人間として、暮らすようにさえなりました。産業革命がまずイギリスに起こったのも、奴隷や砂糖の商人の富の力によるのだ、と主張する意見もあるくらいです」とあります。このような非人道的な行為がなぜ問題にならなかったのかが不思議ですが、英国に住み着いた砂糖商人たちはジョージ3世(在位1760年-1820年)が驚くような贅沢な生活をしていたと言うだけでなく、一時期は自分たちの仲間の国会議員を40人以上も抱え、政治の世界で大きな発言力を持っていたので、「奴隷交易」が問題にされなかったようです。( pp.107,108 )

(ドイツは寒冷地作物である砂糖だいこん(甜菜)を使った砂糖生産を始め)、1860年代には砂糖の輸入国から輸出国に転換したのです。砂糖の大増産時代に事業を行い巨万の富を得たのが「つれない美女」のイザドラ・クラインの亡き夫、「ドイツ人の砂糖王」と言われた老クラインです。
 三破風館事件は人気のない作品ですが、「世界商品」として世界を変えた「砂糖」から見ると、砂糖きびから砂糖を作らされたアフリカ系黒人奴隷の末裔と、甜菜糖によって巨万の富を得たドイツ男性の未亡人が、世界で砂糖の消費が一番である英国のメイドを仲介人として結びついた事件なのがとても興味深いです。(p.p 108, 109 )

 どうも、すごいですね。シャーロキアンとしてうらやましい。世界商品としての砂糖か。これは自分が書くべきだったと思った。
 ところが、ずっと見てゆくと、158ページに白いウェディングドレスを着た関矢悦子さんの著者近影が出ている。これはとうてい真似できない。白いウェディングドレスは1840年2月10日にヴィクトリア女王がアルバート公との結婚式にはじめて着たのを下々が真似して広まったのだそうだ。

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 初めから読み直してみると、特に「ヴィクトリア朝英国の食卓」についての記述は微に入り細をうがち研究が行き届いて脱帽するしかない出来栄えである。
  敢えて望蜀の感を言えば、正典の引用に日暮雅通訳を使っておられることである。延原謙以来の翻訳には誤訳が多々残っているのは私が指摘してきたことである。『バスカヴィル家の犬』の登場人物をチャールズ卿、ヘンリー卿とするのは間違いで、サー・チャールズ、サー・ヘンリーでなければならない。
 関矢さんは『サミュエル・ピープスの日記』という珍しい文献を誤訳をただしつつ引用しておれるのに。肝心の正典はご自分で翻訳されるべきであった。日暮訳では、「日暮れてまさに道遠し」である。

 日本では、公家は「定家卿」「俊成卿」などという。武家は「信長公」「頼朝公」「清正公」である。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレー』にはヘンリー卿が出てくるが、原文がLord Henryである。ファーストネームにLordをつけて呼ぶこともあるらしい。バックウォーター卿やソルタイヤ卿は、ファーストネームではあるまい。Lordをつけて呼ぶための名前である。「定家卿」や「頼朝公」は歴史的人物を論じるための言い方である。「頼朝公十三歳のみぎりのしゃれこうべ」など、江戸時代にできたのではあるまいか。家来が「信長公」と呼びかけたりしてはお手討ちになる。「信長公記(しんちょうこうき)」は史書である。細川護煕氏の祖先は「清正公(せいしょうこう)様」の位牌を先頭に立てて熊本にお国入りし、人心収攬をはかったという。
 
 

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2014年4月 9日 (水)

諸兄邦香ではありません

 私は『シャーロック・ホームズの愉しみ方』という本を書いているので、一部では『シャーロック・ホームズ大人の楽しみ方』の著者、諸兄邦香氏と混同されているようだ。私は諸兄邦香ではありません。私は「大人の愉しみ方」はしない。

 諸兄氏は、国際語学社のサイトによれば

1963年、東京に生まれる。東京大学法学部卒。本名は田中立恒(たなか りつこう)。証券会社に勤務した後に、著述・翻訳業。辞典や学習教材の執筆を手がける。これまで執筆したシャーロック・ホームズ関連書に、「シャーロック・ホームズ大人の楽しみ方」(2006年、アーク出版)、同オーディオブック版(パンローリング、2009年)、「シャーロック・ホームズからの言葉」(研究社、2010年)がある。

 という人物である。私は筆名を使ったことはなく、本名は田中立恒ではない。諸兄邦香氏と私は別人である。よろしく。

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ワトソン、ドイルに会う

 実在のシャーロック・ホームズの生活が、殺人事件、スパイ事件、スキャンダルに彩られて充実して行くにつれて、これと併行して「活字のホームズ」の生活が始まろうとしていた。ワトソンが後になって潤色しているのでないとすれば、最初の事件の間にもう新しい友人の活躍を記録しておこうと思いついたらしい。この記録を後にワトソンは『緋色の研究』という題で刊行することになる。

「すばらしい!」と私は叫んだ。「君の功績は当然社会が認めるべきだ。ぜひこの事件の記録を公表したまえ。君にその気がなければ、僕が代わりにやろう」
「好きなようにしたまえ、ドクター」と彼は答えた。

 ローリストン・ガーデンの怪事件については、ドレッバーとスタンガソンの死の謎をホームズが解明したすぐ後にワトソンは記録を書き上げた。しかし、どうやって活字にすればいいかは分からなかったので、原稿はベイカー街の部屋の引出に仕舞い込んであった。やがて、ワトソンは出版の機会を与えてくれる男と会うことになる。

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   一八八五年十一月にロンドン市庁舎で開かれた医師会の晩餐会にワトソンが行ってみる気になったのは直前になってからであったが、これが後に大きな意義を有することになる。ワトソンの隣に坐った医師はポーツマスの近くのサウスシーにある自宅からロンドンまで出て来ていた。この若いスコットランド人の医師の名前は、アーサー・コナン・ドイルであった。コナン・ドイルは、一八五九年五月二十二日にエディンバラで生まれたが、画家とイラストレーターを輩出した家系の出だった。彼の伯父はパンチ誌の表紙とイラストを描き、祖父は政治漫画家だった。カトリックだったので、ドイルはイエズス会のストーニーハースト校で教育を受けてから、自宅に戻ってエディンバラ大学医学部に学んだ。ドイルの少年時代には、父親のチャールズ・アルタモント・ドイルのアルコール中毒が暗い影を落としていた。公務員の職を失ってから、ドイル父は精神病院に入院しているか、自宅の最上階に引き籠もって何年も過ごした。家族は彼を持て余していた。エディンバラ大学を卒業してから、ドイルはリバプールとアフリカ大陸西海岸を往復する貨客船の船医をしばらく務めたが、大学の同窓生ジョージ・ターナヴィン・バッドの申し出を受け入れて、プリマスで医院を共同経営することにした。これは悲惨な結果に終わった。バッドはペテン師で、独自の奇妙な治療法を売り物にしていた。それだけでなく、バッドは他人の金を自分の金みたいに平気で使い込んだ。ドイルがバッドの手中から逃れてサウスシーに自分の医院を開業することができたのは幸運だった。
 ワトソンとドイルは、初めて会った時から共有するものが多いことに気がついた。ワトソンの先祖にスコットランド人がいること、二人ともサウスシーに関わりがあることが、会話のきっかけになったに違いない。初めて会った時に話題に上ったとは思えないが、ワトソンとドイルは暗い秘密を共有していた。二人とも、家族にアルコール中毒者がいることに悩んでいた。酒がワトソンの兄を滅ぼしていた。『四人の署名』でホームズが述べた言葉は、自分の推理力をひけらかしただけだったが、ヘンリー・ワトソンの失敗に終わった短い人生を正確に要約している。「彼はだらしない人だった。ひどくだらしがなくてずぼらだった。前途有望だったのに、何度もチャンスを逃して、しばらく貧乏するかと思うと時には金回りがよくもなったが、結局は酒びたりになって死んだ」。ドイルの父親も芸術の才能をアルコールの海に溺れさせて、何年も精神病院や療養所で暮らし、一八九三年に死んだ。
 ワトソンがベイカー街で共同生活をしている並外れた男のことをその晩のいつ話したかは分からないが、ドイルはすぐに夢中になって聞いたに違いない。開業医として地歩を固めようとしていただけでなく、ドイルは文学にも野心があった。処女作『ササッサ渓谷の謎』は彼がまだ学生のうちにエディンバラのチェインバーズ・ジャーナル誌に載った。ドイルはありとあらゆる雑誌に小説を書いて、医業の乏しい収入を補おうとしていた。ワトソンと会ったころには、ドイルの最大の文学的成功は『J・ハバック・ジェファーソンの証言』という小説だった。これは一八八三年にコーンヒル・マガジンに匿名で載った。他の小説はほとんど注目されなかったが、この作品だけは論争の的になった。これは、今や伝説になっているメアリー・セレスト号の乗員消失事件に基づいていた。一八七二年にこの船を発見した英国の役人が、小説を実録だと思い込んだらしく大憤慨している。この話は「始めから仕舞いまででっち上げ」であって、その及ぼす害は計り知れないと彼は書いている。この反応は、ドイルの想像力がいかにすごかったかを証明するものであり、『J・ハバック・ジェファーソンの証言』に注目を集めた。このような経験があったので、ドイルはフィクションの味付けができる実話を求めていた。
 ワトソンの不思議な友人の話を聞いて、ドイルはこれは行けると思ったに違いない。ワトソンと初めて会ってから数週間後、ドイルは彼から聞いた話を自分が書いてみようと思ったようだ。ドイルの筆跡のノートが残っていて、探偵にはシェリングフォード・ホームズ、ワトソンにはオズモンド・サッカーという仮名がつけられている。
Doylesnotes
  しかし、二人がもう一度食事を共にしたとき、ワトソンは自分の書いた原稿を見せた。ドイルはこれを読んで感心したので、自分で書くのは止めにしてワトソンの著作権代理人になることにした。ドイルはホームズの話を自分が書くのを止めるのを残念だとは思わなかったようだ。ドイルは常に自分の本領は歴史小説にあると信じていたので、終生誇りに思っていたのは、ホームズやワトソンとの関わりではなく、『白衣の騎士団』や『マイカ・クラーク』のような小説だった。彼は「『白衣の騎士団』にはホームズ百篇分の値打ちがある」と書いている。一九二三年になってもアメリカの雑誌に「もし私がホームズなどに関わらなければ、私の高級な仕事の価値が覆い隠されることはなく、私の文学的地位はもっと確固としたものになっていただろう」と書いている。しかし、一八八〇年代には、ホームズが将来は大変な名声を博するなどということはまだ分からなかった。後になって何を言おうが、ドイルはワトソンの著作権代理人の仕事を喜んで引き受けたのである。
 現代の読者は、ワトソンの原稿にドイルが出版社を見つけるのに苦労したと知れば驚くだろう。この作品の可能性を見抜ける出版社がなかったとはどういうことだろう。しかし『緋色の研究』(二人は相談してこの題名をつけることにした)は、一八八六年夏に数社に送られたが、出版してもよいという会社はなかった。アロースミス社という出版社が七月に原稿を返送してきた。ドイルはもちろん他の会社にも原稿を送ったが同じような結果だった。ワトソンは、このころはまだ友人の宣伝をしてやらねばとは思っていなかったし、ホームズ自身もやめておけと言っていたから、小説のことは諦めようと言った。しかし、ドイルは粘った。やがて一八八六年十月になって、ウォード・ロック社から手紙が来た。「拝啓。貴殿の小説を読ませていただき、気に入りました。残念ながら今年は出版できかねます。現在市場には安っぽい小説が溢れているからであります。しかし、来年までお待ちいただければ、二十五ポンドにて著作権買取の条件で出版させていただきたく存じます」これは、ワトソンが期待していた大称賛からは程遠かった。金額も二人を興奮させるものではなかった。しかしドイルは依頼人を説得して、ワード・ロック社の条件を受け入れさせた。
『緋色の研究』は一八八七年十一月に『ビートンズ・クリスマス年鑑』に一挙掲載された。これはワード・ロック社の雑誌だったが、数十年前にサミュエル・オーチャード・ビートンが創刊したものだった。彼は『家政学』の著者で料理研究家として有名だったミセズ・ビートンの夫だった。(『シャーロック・ホームズ伝』第5章より)

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