翻訳

2013年11月25日 (月)

下訳について(8)

 村上春樹は吉行淳之介と同様に下訳を活用する資格があるはずだ。レイモンド・カーヴァーよりはるかに有名なのだから。

 ところが、「一番面白いところを他人に取られてたまるか」というので下訳などは使わないのだという。代わりに語学的な間違いがないか訳稿を他人にチェックしてもらうらしい。
 柴田元幸によると、「以前は肝臓と腎臓を必ず取り違えておられました」というのだ。しかし、柴田「村上さんと一緒に仕事をして勉強になりました」。翻訳が単に語学の問題ではないことは言うまでもない。

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2013年11月24日 (日)

下訳について(7)

 下訳を使ったことがはっきり分かっている本がある。たとえば、キングズレー・エイミスの『酒について』。

 これは丸谷才一が原書を見つけて講談社に「これは面白いよ。ただし僕は翻訳しないからね」と推薦したらしい。
 普通の読者はキングズレー・エイミスなんて知らないから、吉行淳之介の名前で売ろうとしたらしい。共訳という形になっているのは、下訳者がある程度地位のある人(どこかの大学の英文学教授)で無視できなかったからだろう。吉行淳之介はたぶん日本語だけ読んで少し手を入れたのだろう。良心的な方である。

 翻訳に限らず、実際の執筆者と著作権表示者が異なる「代作」の例は多い。ウィキペディアの「ゴーストライター」によると
 松本伊代のエッセイや池田大作の『人間革命』は代作だそうだ。伊代ちゃんや池田先生が自分で本を書くとは誰も思わないから、こういうのは罪が軽い。
 
 ひどいのは川端康成である。

 文章読本(伊藤整による代作)
 東京の人(梶山孝之による代作)
 乙女の港、花日記(中里恒子による代作)
  眠れる美女(三島由紀夫による代作?)

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2013年11月16日 (土)

下訳について(6)

 下訳者になりかけたことがある。
 ずっと昔、かなり有名な翻訳家のT氏がお茶の水で「翻訳夏期口座」というようなものを開いたのに、出席した。T氏はもう亡くなられたが、『戦後翻訳風雲録』にも登場している。
 T氏は私の父親に近い年齢だったが、半ズボンにTシャツという恰好だった。「いいなあ」と思った。
 1950年代のアメリカの短篇小説が教材で、受講者がそれぞれ訳文を提出した。私の訳文は正確だったから気に入られたようだ。あのとき「先生、弟子にして下さい」と言えばよかったのだ。下訳をやらせてもらって、そのうちに自分の名前で訳書が出せただろう。
 私は今世紀になってから訳書を出したが、今さら下訳もできないので、面白そうな本を見つけて一部訳したものを出版社に持ち込んだ。ホームズ(翻訳は一部で「著書」である)とドイルはまずまずだが、ガンディーは売れ残って迷惑を掛けた(面白いはずなのに。アマゾンではまだ入手可能です)。

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2013年11月10日 (日)

下訳について(5)

 下訳の成功例。開高健のエッセイで読んだ覚えがある。My Secret Lifeを全訳して出版社に持ち込んだ人がいた。読んでみるともちろん面白い。ぜひ出したいが、翻訳は正確ではあるようだがどうも日本語が固くてよくない。田村隆一氏に日本語だけ見て直してもらったのが、いま河出文庫などから出ている『わが秘密の生涯』なのだそうだ。

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2013年11月 6日 (水)

下訳について(4)

 以下、空想です。
 私が、大久保康雄氏のような有名な翻訳者であるとする。楽をして稼ぐには、やはり下訳を使うに限るだろう。
 優秀な下訳者を見つければよい。
 私と同じくらいか私より上の語学力がある若い人を見つける。
 語学力? 英検などは信用しない。1級といっても白帯じゃないか。黒帯でなくてはだめだ。
 トーフルだかトーイックだかは一度受けさせられたことがあるが、あれも駄目だ。あんなもので何点なんてアホらしい。
 元専門家として言えば、やはり受験英語に限る。
 京大の入試問題を実際の入試と同じ条件で解かせてみる。東大の問題は駄目だ。出題形式を工夫しすぎている。
 京大の問題は、英文和訳(下線部訳ではなく全文訳)2題と和文英訳1題だったと思う(採点はさぞ大変だろうと思うが)。最近は出題形式を変えているだろうか? それなら古い問題を使う。
 答案を見れば「使えるか、使えないか」の判定はつくはずだ。
 しっかりした語学力のある人に下訳をワードファイルで出させて、ワトスン→ワトソンのように自分の好みで少し直すけれど、ほとんどそのまま出版社に渡す。
 これなら随分楽だ。しかし、いつまでも搾取を続けることは徳義上許されないから、2年くらい経ったら、出版社に「この人は腕が確かです」と紹介してあげて、別の下訳者を見つける。
――というようなことができればいいのだけれど。
 いや、私にできないだけで、こういうシステムは未だ健在であるらしい。

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2013年10月27日 (日)

下訳について(3)

 書籍の翻訳では下訳はふつうに行われているらしい。
 ウィキペディアで見ると中村能三が大久保康雄の下訳をしていたと書いてある。中村能三なら、大久保康雄よりはるかに腕が上ではないか。

 ハヤカワのシャーロック・ホームズを見る限り、大久保康雄氏(または彼の当時の下訳者)の訳はナマクラである。
 中村能三氏は、新潮文庫のサキ短篇集を読んでから英語のサキ短篇全集を読んだから、すごい訳者だということが分かる。岩波文庫の『サキ傑作集』と比べると、将棋で言えば大駒一枚上の腕である。プロとアマの違いがある。

 編集者の立場で考えれば、大久保康雄氏のような翻訳者に頼むのが安心である。締切までに一定水準の翻訳が必ず出来てくる。
 編集者として一番怖いのは、誤訳ではなく「予定した翻訳が期限までにできない」ことらしい。だから、「アインシュタインの機械翻訳」のような事件が起きる。 ;
 中村能三氏のような超絶技巧の翻訳は必要がない。大久保康雄氏(または彼の下訳者)ならば、一定水準の翻訳ができてそれでオーケーなのだ。誤訳を指摘したりするのは、マニアだけである。マニアだって、シャーロック・ホームズでなければ、わざわざ原文と照合したりはしない。

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2013年10月25日 (金)

下訳について(2)

書籍の翻訳では事情が違うこともあるようだ。

モンローの伝記下訳五萬円(丸谷才一)

 丸谷才一が下訳したものなら、もっと有名な(?)名目上の訳者はそのまま出版社に渡して、「五萬円」を除く印税をすべて自分のものにできる。
しかし、モンローが死んだのが1962年で、伝記はそれ以降に出たのだから、丸谷才一自身が下訳をやったはずはない――小谷野敦氏の考察を借りた。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20121013

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2013年10月24日 (木)

下訳について(1)

 野崎歓氏の『赤と黒』の誤訳はあまりにひどい。東大仏文科教授が自分で訳してあんな初歩的な間違いをするはずがない。下訳を使ってチェックしなかったのだろう――という推測は多い。たとえば「赤と黒 誤訳の真相」http://www.englishselftaught.com/akatokuro.htm
 下訳を使ったかどうか?
 私は下訳はやったことがない。「上訳」ならば一度やって閉口した。翻訳会社から、「この翻訳に朱を入れて下さい」とプリントアウトしたものを渡された。これは随分時間がかかったのに報酬は少なかった。間違いだらけで、自分で一から訳し直した方が速かったはずだ。
 以後は下訳に手を入れるという仕事はお断りという方針にした。ほかの翻訳者が下手な訳を出してクライアントの企業や官庁から突き返されると、私が訳し直す。翻訳会社にしてみれば翻訳料の二重払いで大損である。初めの翻訳者には以後注文が行かなくなるのだと思う。私自身の翻訳が突き返されないようにするには、仕事を選ぶ必要がある。先日も機械工学の論文の翻訳を「私には無理です」と断った。
 ふつうに考えれば拙い下訳に手を入れて上手な翻訳にするなんて、手間ばかりかかって難しいと思う。初めから上手な翻訳者が一人で訳した方がずっといいはずだ。書籍の翻訳では事情が違うのだろうか?

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2013年10月22日 (火)

些末な誤訳論争

ウィキペディアの記事を借りる。

立命館大学文学部教授の下川茂は、野崎の訳したスタンダールの『赤と黒』(光文社文庫、2007年)に対し、誤訳が多すぎるとの批判を行っている。下川は「前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚られる駄本」としたうえで「仏文学関係の出版物でこれほど誤訳の多い翻訳を見たことがない」と指摘し「まるで誤訳博覧会」と主張している。2008年3月付の第3刷で同書は19ヶ所を訂正したが、下川は「2月末に野崎には誤訳個所のリストの一部が伝わっている。今回の訂正はそこで指摘された箇所だけを訂正したものと思われる」と批判したうえで、誤訳の例を列挙し「誤訳は数百箇所に上る」と指摘している。下川は、いったん絶版として改訳するよう要請する書簡を野崎宛てに送付した。
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 しかし、光文社文芸編集部の編集長駒井稔氏は「読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与する気はまったくありません」と反論している。
(駒井氏の写真などは読売ADリポート[オッホ]より。http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200811/11toku2.php
このサイトでは駒井氏は賞賛されています。)
 
「些末な誤訳論争」だって。驚いた。誤訳があっても「読みやすく瑞々し」ければ構わない?
 赤と黒は、できれば原文で読みたい。しかし、原文で読むためには、1ヶ月くらいかけてフランス語を復習しなければならない。そんな暇はないから、翻訳で読むのである。私は昔読んだ岩波文庫の桑原武夫訳をもう一度読む。あるいは英訳で読むという手もある。

「野崎歓と光文社の駒井はひどい奴だ」という反応はもちろん多いが、意外なことに、誤訳指摘をした下川氏をたしなめる声もある。
「しかし一方、下川さんの異議申し立てのやり方にも、ちょっと穏当でないものを感じます。怒り心頭に発したのかもしれませんが、今回の手法はいきなり大上段から相手の脳天を斬りつけるみたいで、もう少しやりようがあったのでは、という気はする。」(ミステリー作家戸松淳矩 あさっての日記)

 しかし、「レナール氏のいびき」とすべきところを「レナール夫人の寝息」としているのだ。ムッシューとマダムを混同しているのだ。スタンダールの偽物を作ったのだ。大上段から脳天を切りつけられて唐竹割にされても仕方がないじゃないか? あるいは有名な内田ジュ先生は

「あなたは間違っている」というときには、どうやったら「はい、そうですね。直しておきます」という即答が得られるか、その効率についての配慮もまた必要だろうと私は思う。
「誤訳を認めることで失われるもの」の値を吊り上げるのは、その意味では効率的ではない。
野崎歓さんは「翻訳なんて」顧みられない場所で黙々とフランス現代文学の翻訳という報われることの少ない仕事をしてきた人である。(内田樹の研究室)

 そんな業界内部の話をされても困る。「野崎歓さんがどういう人か」なんて私の知ったことか。こちらはフランス文学やフランス現代思想の研究者ではなくて、赤と黒を読みたいけれど、やむを得ず翻訳で読むのである。

 しかし、誤訳指摘というのは反感を買うらしい。どうやら読者は誤訳を指摘されている側に感情移入してしまうらしい。
 拙著『シャーロック・ホームズの愉しみ方」のアマゾン読者レビュー

本書はそうしたシャーロキアンの世界に浸るのには、もってこいの良書です。
この点までは☆五つ。
ただし。
「この訳文は誤訳である!」と拳を振り上げるのは余分。
架空の世界のどっぷりと浸っているところを、現実の刃物で切り裂かれるというか興ざめなところがあります。
これで☆マイナス二つ。

 理解しがたい。君は正典ではなくまがい物を読んで「架空の世界にどっぷり浸る」ことができるのかね? 「この訳文は誤訳であると拳を振り上げる」のは、私の態度がよくない? 態度の問題ではないのだ。正しいか間違っているかが問題なのだ。シャーロック・ホームズのいわゆるimpersonalな問題なのだ。誰がどうだという問題ではない。Personally個人的には,I am satisfied that---を「満足している」「うれしく思う」などと訳する人は豆腐の角に頭をぶつけて死んでいただきたいと思うが(本にはそんな穏やかでないことは書けないので書かなかった)。
 モリアーティ教授が「軍人の家庭教師」をしている英国は、シャーロック・ホームズの英国ではなくて偽物の英国なのですよ。
 ふたたびウィキペディア
そのほか北海道大学の佐藤美希は、野崎の単純なミスによる誤訳を認めつつ、論争の背景には「新訳ブーム」における新しい翻訳観と、下川の持つ規範的な翻訳観との対立があると論じている。

 そんな高級な話ではない。新しい翻訳観は結構だけれど、間違う、よろしくない。

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2013年6月 6日 (木)

同業者にあらず

 拙著『シャーロック・ホームズの愉しみ方』はありがたいことに好評のようである。あちこちで褒めていただいた。
 例外は一つ、ヒマラヤ敗者日記という悪質なブログがあった。拙著の「ここが間違っている」という批判をしていただければ訂正する。「面白くない」という批判ならば甘んじて受ける。ところがこのブログでは私のプロの美人=社交界の花形美女説を英語のサイトのパクリであると誹謗している。本来なら名誉毀損の訴訟をしてもいいのだが、面倒だから悪い敗者ヒマラヤ某を糾弾するにとどめる。くたばれ!
 褒めてくれた人でも「誤訳へのツッコミはもう少し控えめでも良いんじゃ?と思うけど」などという留保をつけていることが多いようだ。
 あるサイトでは、過分のおほめの言葉をいただいたが、

御自身も翻訳者でいらっしゃるので、翻訳の誤訳にはやたらと手厳しい。
辞書ぐらい調べろよ、という感じでした。
そこまで言わなくても、と思ってしまった。同業者なんだし。

 そうかなあ? 「そこまで言わなくても」かなあ? 誤訳は重大な問題だと思うけれど。だいたい僕は誤訳家諸氏と同業者じゃないのだ。
 本業はいわゆる実務翻訳で、契約書や法律などの和文英訳が多い。誤訳をすると、クライアントの会社に莫大な金銭的損失をかける。だから細心の注意を払って訳する。それでもウッカリ間違いがあれば翻訳会社でチェックしてくれる。
 ブンガクの場合は実務とは違う? 細かい字義よりも読みやすい日本語が大切だ?
 これには賛成できない。
 仮に我々が日本語ができなくて、漱石を英訳で読まなければならないとしたら、どうだろう? 坊っちゃんや赤シャツの人物像は正しく訳してくれなくては困るだろう。モリアーティ教授が「軍人の家庭教師」などというのは、正典を日本語で読む読者を惑わすとんでもない大誤訳ではないか。
 この間、村上春樹『アフターダーク』のドイツ語訳をのぞいてみた。よくできた翻訳であるが、つまらないところで間違っている。主人公の女の子が「黒縁の眼鏡」をかけているのだが、「縁」という字を読み違えたらしく、「黒緑の眼鏡」と訳してしまっている。真夜中のファミレスでダークグリーンのサングラスをかけている女の子?
 実務でも文学でも、翻訳者は読者に対して重大な責任を負っているのだ。

★コメント欄に「通りすがり」という匿名で卑怯なコメントを書いたやつがいる。削除した。
私は自分が誤訳をする可能性があることはよく知っている。弘法も筆の誤りだからね。どこがどう間違っているという具体的な指摘をしてくれれば歓迎する。この通りすがりなる人物は具体的な例を挙げずに翻訳ソフトがどうこうなどと卑劣な仄めかしをしたから削除した。 
 

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