2008年6月20日 (金)

水着について(3)

 ヴィクトリア朝的お上品ぶりで日本を見るとどう見えたか。

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 ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズは、1854(安政5)年下田での見聞をもとに次のように断定を下した。「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。」
――平凡社『逝きし世の面影』p.296

 それから約半世紀後の明治38年ごろになると、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の通っている銭湯は混浴ではなくなっているようだ。
 しかし、女の裸は別に珍しいものではなかった。
 水島寒月君の提案する「俳劇」の趣向

「まず道具立てから話すが、これも極く簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が独り言のように心配した。「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。でその下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです。」…………「ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ」
http://neko.koyama.mond.jp/?eid=293820 より。この「挿絵でつづる漱石の猫」は傑作です。 

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2008年2月27日 (水)

昔の英国の入学試験(2)

 コナン・ドイルは1875年、ガンジーの15年前に大学入学資格試験に合格している。
 ヘスキス・ピアソンのドイル伝では

 In his last year he edited the College magazine, and at the end of his time amazed everyone by taking honours in the London Matriculation.

  ストーニーハースト校の最終学年に彼は校内誌を編集し、最後にthe London Matriculationで優等の成績を取ってみんなを驚かせた。

 このthe London Matriculationは、ガンジーの伝記に出てきたa London University matriculationと同じものだろう。

  ジョン・ディクスン・カーのコナン・ドイル伝

……彼は、けんめいに身を震わせながら、他の十三人の少年といっしょに、ロンドン大学の試験を受けた。その結果をつつみこんだ小包郵便が、ものすごく暑い七月の一日、ロンドンから到着して、校長室へ運びこまれた。
……受験した十四人のうち十三人がパスし、ストーニーハーストはじまって以来の好成績だった……
……アーサーは、単にパスしたばかりでなく、実に優秀な成績でパスしたのである。

 大久保康雄氏は「ロンドン大学の試験」と訳している。
 しかし、ロンドン大学の入学試験ではない。ドイルは合格してエディンバラ大学に入学したのだから。

 ガンジーの場合も、合格はしたけれども大学に入学はしなかった。英語の力をつけるために、力試しに受けただけである。ガンジーはインナー・テンプル法曹学院に入学した。こちらは無試験である。法律の授業はなかった。学生の義務は授業料を払うことのほかに、1年に24回、学院の食堂で夕食を取ることだけだった。入学してから3年後に弁護士資格試験があったが、これはごく簡単なもので、よほどの馬鹿でなければ合格した。
 だから、ガンジーは暇を持て余していた。社交ダンスやバイオリンを習ったり、菜食主義を広める運動をしたり、英国人女性に誘惑されかかったりして、3年を過ごした。彼はヒンズー教の聖典、バガヴァット・ギーターを初めて(英訳で)読んだ。ガンジーが「マハトマ」への道を歩み始めるのは、南アフリカに渡ってからである。このころは、まだボンヤリした青年である。
 
  ガンジーが1890年に合格したときは、ラテン語、フランス語、物理(「光と熱」)の3科目だった。(なぜ数学は不要?)
 コナン・ドイルが1875年に合格したときの科目は、カーやピアソンによる伝記には書いてない。

 ロンドン(ユニバーシティ)マトリキュレーションは、だいたい「大学入学資格試験」と訳しておけばよいだろう。要するに

(1)競争試験ではなく資格試験
(2)ロンドン大学が出題し採点した。
(3)オックスフォードとケンブリッジ以外の大学の受験生用

 コナン・ドイルたちはロンドンまでで受験に出かけたのではなく、スコットランドのストーニーハースト校で試験を受け、答案をロンドン大学に送ったのだろう。
 カーのドイル伝で「その結果をつつみこんだ小包郵便」と書いているのは、採点した答案を小包で送ってきたということだ。
 当時は現在のセンター試験のような馬鹿な制度(廃止しろ!)はなかった。試験は完全な「記述式」だったはずだ。それでもロンドン大学で全国の試験ができたのは、志願者が少なかったからだろう。
 志願者が多くて競争試験になったのは、陸軍士官学校と海軍兵学校だった。そのための予備校がビジネスとして成立していたことは、モリアーティ元教授の職業(1)--(5)に書きました。

 1875年は明治8年である。このころ日本にはもちろん大学入試などなかった。大学の設立は明治10年になってからである。
 1890年は明治23年である。この年、夏目金之助(漱石)は帝国大学に入学している。(東京帝国大学と書くのはおかしい。大学はまだ一つしかない。)どういう試験を受けたか、漱石の伝記を読んでも書いてあるのを見たことがない。

 むかしはのんびりしていてよかった、ということです。

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2008年2月17日 (日)

天璋院様の

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 君を待つ間の姫小松……………
 障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾き出す。「宜い声でしょう」と三毛子は自慢する。「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言を吐かねばならぬ事がある。
 

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2007年8月31日 (金)

シャーロック・ホームズ対夏目漱石

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 シャーロック・ホームズ(1854-?)と夏目漱石(1867-1916)がはじめて顔を合わせたのは、1901年(明治34年)5月上旬の或る火曜日の夕方のことであった。

 ホームズとワトソンはホーマー街にクレイグ博士を訪ねた。ベーカー街からは近くで、歩いて行ける。

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 クレイグ先生は燕の様に四階の上に巣をくっている。敷石の端に立って見上げたって、窓さえ見えない。下から段々と昇って行くと、股のところが少し痛くなる時分に、ようやく先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮のノッカーがぶら下がっているだけである。しばらく門前で休息して、このノッカーの下端をこつこつと戸板へぶつけると、内から開けてくれる。
 開けてくれるものは、何時でも女である。近眼のせいか眼鏡を掛けて、絶えず驚いている。年は五十位だから、随分久しい間世の中を見て暮らした筈だが、矢っ張りまだ驚いている。戸を叩くのが気の毒な位大きな眼をしていらっしゃいと言う。

 ホームズも真鍮のノッカーの下端をこつこつと戸板にぶつけた。五十位の婆さん(五十なら立派な婆さん。100年前のことです)が戸を開けてくれた。
 ところが先客があって、クレイグ先生はこの男を相手に大声でしゃべっていた。

 ホームズが小声でワトソンにささやいた。
「支那人らしいね」
「いや、私は日本人ですよ」 
 と、その黄色い男が突然こちらをむいて、するどい声でいった。うっかり口にした非礼を耳ざとくもききとがめられたのと、めずらしく自分の観察があやまっていたことで、さすがのホームズが耳までまっかになった。
「いや、これは失礼、日本の方はめったにお目にかかることが少ないとはいえ、あすにでもわが大英帝国と攻守同盟をむすびそうなお国の人を見まちがえるなんて? いや、今度は第一御皇孫がご誕生になったそうでおめでとう。けさの新聞で見ると、お名前はヒロヒトと名づけられたそうですね。シャーロック・ホームズをまず劈頭に赤面させられた唯一の国民に、永遠の繁栄がありますように!」

 ホームズもずいぶんお世辞を言ったものですね。漱石はどう答えたか? 
「永遠の繁栄? いや、滅びるね
 とは、このときは言わなかったようだ。
 あとは山田風太郎の『黄色い下宿人』を見て下さい。ちくま文庫に『明治十手架』と一緒に収録されています。

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2007年5月26日 (土)

座右の名文

 漱石の『坊ちゃん』を、「探偵」小説であり「恋愛」小説である、といったら、「えっ、なんで?」とおおせのかたが多かろう。しかし、たしかにそうなのである。
 まず、「探偵」小説の件からおはなししよう。――「探偵」とカギカッコをつけてあることに御注意くださいね。「探偵」小説といっても、推理小説だというのではない。漱石の大きらいな「探偵」がしきりに出てくる小説だというのである。

――自分の文章のふりをして続きを書きたいところだけれど、だめでしょうね。すぐにばれる。
 高島俊男『座右の名文』文春新書p.95の最初の2段落です。
 続きが読みたい人はすぐに本屋へ。

 漱石論、坊っちゃん論、漱石と探偵論などは、山ほどある。だから、高島先生と似たことを言っている人も、あるいはいるかも知れない。
 でも、「探偵」小説であり「恋愛」小説である――というふうにズバリと書いて、腑に落ちる説明をしてくれる人はほかにいないだろう。

……『坊ちゃん』は、ちょっとわけのわからない、薄気味のわるいようなところのある作品だ……
 こんなことが書いてあるのも、この本だけだと思う。どこがわけがわからなくて薄気味わるいのか、ちゃんと謎解きがあります。上等の探偵小説と同じである。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。」
 これは、苦沙弥先生の意見である。
 高島俊男という人は、こういう探偵ではない。シャーロック・ホームズのような名探偵である。

 漱石のほかに、新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、齋藤茂吉が、高島先生の好きな文章家である。
 
   アマゾンにもうカスタマーレビューが出ている。

少しも質が落ちない口述筆記本, 2007/5/25
 素晴らしい本だ。この本はあとがきにあるとおり、高島氏がしゃべり、別の人がそれを筆記したもの。口述筆記は読みやすいが、中身が薄くなり質が落ちるのがふつうだ。しかしこの本は少しも落ちていない。口述筆記だと正直に書いていなかったら私は高島氏自身が書いたものだと思っていただろう。高島氏が目が痛み原稿が書けなくなったという事情によるものだから、他の粗製濫造本とは時間のかけかたが違うのだ。 …………

 話は逸れるが、この評者のあまカラという人がちょっと凄い読書家である。ほかの本のレビューも読んでみてください。たとえば福田恒存の『私の幸福論』のレビュー

……この幸福論の大きな特徴は美醜という問題から書き始めていることだろう。夫に捨てられた妻の身の上相談に、福田氏はその妻の顔を見た上でなければ答えられない、と驚くべきことを書く。ブスに生まれついたことを宿命として受け入れる、そこからでないと幸福論は始まらない、というのだ。これには読者からあまりに救いがない、という反論が届く。それに対して福田氏はさらに答える。この最初のやりとりは本書の白眉である。……

   僕は早速この本を注文しましたね。

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2007年5月 9日 (水)

漱石と柔術?


 それからボートも漕ぎました。その自分いろんな色の帽子を造って被ることが流行ったもんだから、吾々の仲間でも黒い帽子を被ることにして、Black Clubと名づけました。よく向島へ出掛けたものですよ。又その頃大学に乗馬会というものが出来て、夏目君も、是公も、私も、狩野君も入ってました。講道館へは夏目君は通ったかしら? 何でも遣りよったから、多分少しは通ったろうと思います。私は勿論通いましたが、例のルーズベルトの前で試合をして、最近亡くなって十段を追贈せられたという、何とか云いましたね、そうそう山下八段はその自分はまだ二段でした。その他外来のスポーツとしては庭球も遣りました。その人はローンテニスと云ったものです。初めは一橋にあった予備門の芝生の上で、よく先生方が球の打ち合いをしていられたが、未だ規則も何もない、決して本物のテニスではなかったのでしょう。成立学舎の向側に三菱――現今の郵船会社でしょうね――その三菱の船長をしていたクレープスという外人が住んでいて、その庭で時々テニスをしていました。これは本物のテニスだったんでしょうね。しかし高い黒板塀がめぐらしてあったから、私どもはただ塀の下から覗いてみるだけでした。最後に野球ですが、前にも申す通り、その頃大学は一橋にあって、今の赤門内は一面に草ぼうぼうの野原で、だ他店問題だけがあそこに置いてありました。で、天文台関係の人達だけがその草原で時々ベースボールをやる。ベースボールと云っても、ベースも何も置いてあるわけではない。ただ球を打ってそれを何人かで受け留めるだけですがね。私も夏目も予備門の生徒だから、あの辺へ遊びに行くと、人数の都合上仲間に入れと云われて、時たま球を受け留める役にまわった。或時夏目が球を受け取り損ねて、睾丸(きんたま)にあたったものと見え、頻りに「痛い、痛い!」と云っていたが、明くる日から学校を休んで出て来ない。さては球が睾丸に当たったせいだなと心配していたが、よく聞いて見ると、その前からお汁粉を飲み過ぎて盲腸炎になったのでした。
(太田達人「予備門時代の漱石」より)

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「ルーズベルトの前で試合した山下八段」は
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

山下 義韶(やました よしつぐ、1865年3月13日 - 1935年2月26日)は、講道館四天王の一人で、十段位を最初に許された柔道家である。
 小田原藩(現在の神奈川県)の武芸の指南役の家に生まれる。1884年8月14日の講道館に入門後に頭角を現し、入門からわずか3ヵ月後には初段を取得、横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎と共に講道館四天王とされた。1885年6月には二段、同年9月三段、1886年5月四段、1893年1月15日五段、1898年1月六段と、順調に昇段。   その後1902年にアメリカのシアトルに渡り、演武や講和を通じて柔道の普及に尽力。1904年10月23日には七段位となった。 
  1905年3月29日にはワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
  1907年に契約期間満了に伴い帰国し、その後は講道館の指南役を務めた。以降も1920年3月17日八段、1930年4月1日九段と昇段を重ねる。1935年2月にその生涯を閉じると、嘉納治五郎は同年10月24日、「終始一貫斯道ノ普及ニ務メソノ成果国内ニ遍ク遠ク海外ニモ及ビソノ功績極メテ顕著ナリ」とし講道館史上初となる十段位を贈った。なお、2006年現在、柔道十段を認められたものは山下を含めわずか15人である。

 


漱石は講道館へ通ったのだろうか?

『三四郎』には、広田先生が来客と柔術の稽古をするシーンがある。(柔道か柔術か(1))
坊ちゃん』の喧嘩のシーンもなかなかよく書けていますね。

 ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨へ中ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。教師の癖に出ている、打て打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛げろ。と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思うんだ。身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。

 実際には松山中学での漱石は文学士だというので月給80円で校長よりも高給取りだったという。むしろ赤シャツだったのだ。でも「身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだ」というのも漱石の一面でしょうね。
 ロンドン留学中にはプロレスを見に行ったことを正岡子規に手紙で報告しているくらいだから、格闘技にも関心があった。(柔道か柔術か(5)参照)
 予備門時代には「器械体操が群を抜いて上手かった」という。(夏目漱石年譜
 英語教師になってからは、possibleとprobableの違いを質問されて、
「私がこの教壇上で逆立ちをすることはpossibleであるがprobableではない」と答えたというから、運動は得意だったのだ。

 講道館で柔術を稽古した可能性はあると思いますね。この方面は今更研究する人がいないのでしょう。資料がないのが残念だ。どなたかご教示下さい。

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2007年4月28日 (土)

芥川龍之介、漱石を語る

 先生はよく銭湯に出かけられた。ある日先生は流し場で石鹸を使っていると、はたの上り湯のところに一人の頑丈な男がどんどん湯を浴びながら、後ろにかがんでいる先生の頭の上にその飛沫を遠慮会釈もなく浴びせかけた。――根がかんしゃく持ちの先生は一途にむっと腹が立ったのででかい声を張り上げて「馬鹿野郎」とどなりつけた。――どなりつけたまではよかったが、それと同時にこの男が自分に手向かってきたらどうしようと思うと、急に怖ろしくなって少しうろたえたそうですが、先生のえらい権幕におそれたものかその男が、素直な声で「すみません」と謝った……「おかげでやっと助かったよ」と先生はほんとうに助かったように述懐されました。

 ある人が先生に、「先生のような方でも女に惚れるようなことがありますか」ときくと、先生はしばらく無言でその人をにらめつけていたが「あばただと思って馬鹿にするな」と言ったということをごく最近ある友達からききました。

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2006年12月 2日 (土)

ヴィクトリア女王の葬儀

1901(明治34)年1月23日(水)
 昨夜六時半女皇死去すat Osborne. Flags are hoisted at half-mast. All the town is in mourning. I, a foreign subject, also wear a black-necktie to show my respectful sympathy. "The new century has opened rather inauspicuously." said the shopman of whom I bought a pair of black gloves this morning.

2月2日(土)
 Queenの葬儀を見んとて朝九時Mr. Brettと共に出づ。
 Ovalより地下電気にてBankに至り、それよりTwopence Tubeに乗り換う。Marble Archにて降りれば甚だ人ごみあらん故next stationにて下らんと宿の主人いう。その言の如くしてHyde Parkに入る。さすがの大公園も人間にて波を打ちつつあり。園内の樹木皆人の実を結ぶ。漸くして通路に至るに到底見るべからず。宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。漸くにして行列の胸以上を見る。棺は白に赤を以て掩われたり。King, German Emperor等随う。

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 夏目漱石は身長158センチだったから、イギリス人の間に入っては見物できない。親切な下宿の主人が肩車してくれたのである。

 Kingというのは、ヴィクトリア女王崩御と同時に即位したエドワード7世(1841-1910)である。
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  German Emperorはヴィルヘルム2世(1859-1941、在位1888-1918)。この人はフリードリヒ3世とヴィクトリア(英ヴィクトリア女王の王女)の子である。ヴィクトリア女王は孫に当たるこの皇帝のことを常々「ウィリーは悪い子じゃない」と言っていたそうである。

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 1901年には、夏目漱石は34歳。前年9月に横浜を出航し渡英した。1902年12月にロンドンを発ち帰国の途についた。
 
 

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2006年9月19日 (火)

柔道か柔術か(6)

 漱石は一種のプロレスを見せられて退屈したらしい。面白いはずがない。当時はまだプロレスのルール(無ルール)は発明されていない。アマチュア式にやったから、なかなか勝負が付かなかったのだ。
 12時までかかったというのは、3分間のラウンドを何十ラウンドもやったのでしょうね。当時はボクシングも15ラウンドの制限はなくて、勝負が付くまでやった。
「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」というほかない。
 しかし、日本人の柔道家がレスラーと戦うようになると、様相は一変した。寝技で関節を決めるというやり方を持ち込んだからである――というのは私の推測であるが、だいたい当たっていると思う。手間さえ厭わなければ検証できる仮説だと思う。
 漱石は「日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負」だと聞いてわざわざ出掛けたのである。こういう客が多くて大入り満員になったのだろう。
「肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が遅れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった」というのは、ちょっと怪しい。初めから日本人は出る予定はなかったのだろう。「日本人出場!」と広告しておけば客が集まるからだろう。
 とすると、これ以前に、日本人の柔道家/柔術使がレスラーを相手に勝負して評判になった試合が(たぶん複数)あったはずだ――私が検証できるというのは、このことである。

 漱石が見た試合の結果は「翌日起きて新聞を見ると、夕十二時までかかった勝負がチャンとかいてあるには驚いた。こっちの新聞なんて物はエライ物だね」というのである。
 とすれば、それ以前の試合の記録もあるはずだ。「ジュージツという不思議な業を使う日本人が出場し、何ラウンドに何某からギブアップを奪った」というような記事があるに違いない。
 漱石が1901年12月に英国の下宿で取っていたのは何という新聞か? これは調べれば分かる。たとえばデイリー・テレグラフであるとすると、この新聞のバックナンバーを遡って調べるのですね。
 どなたか、漱石学者で格闘技にも興味があるという人がやってくれませんか? ブリティッシュ・ミュージアムに行って100年以上前の新聞のバックナンバーを調べれよろしい。何年の何月何日に日本人の柔道家誰々が何というレスラーと戦ったか、記録があるはずだ。
 講道館出身の柔道家が渡英していたに違いない。彼が自分の業を「柔術」と呼んでいたのは、ブラジルへ行ったコンデ・コマこと前田光世の場合と同じだろう。

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2006年9月18日 (月)

柔道か柔術か(5)

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「午後からセント・ジェームジズ・ホールでサラサーテの演奏がある。どうだろうワトソン、患者の方は、二、三時間待たせておいても大丈夫だろう?」
「今日は体が空いている。仕事はそう忙しくはないのだ」
「じゃ帽子をかぶりたまえ。行こう。まずシティへ寄って行く。途中で昼食をとろう。プログラムにはドイツの曲が多いが、これはイタリアやフランスの音楽より僕の好みに合う。ドイツものは内省的だが、僕はいま大いに内省したいと思っているのだ。さあ行こう」

          1887(明治20)年10月29日(土) 赤毛連盟

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……先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。五十銭の席が売切れて這入れないから一円二十五銭奮発して入場仕ったが、それでも日本の聾桟敷見たような処で向の正面でやって居る人間の顔などはとても分からん。五、六円出さないと顔のはっきり分かる処までは行かれない。頗る高いじゃないか。相撲だから我慢するが美人でも見に来たのなら壱円二十五銭返してもらって出て行く方がいいと思う。ソンナシミタレタ事は休題として肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が遅れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代わり瑞西のチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも、一、二と行事が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大に埒のあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒そうとする。倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をして居る。御陰に十二時頃までかかった。ありがたき仕合である。翌日起きて新聞を見ると、夕十二時までかかった勝負がチャンとかいてあるには驚いた。こっちの新聞なんて物はエライ物だね。……

   1901(明治34)年12月18日(水) 夏目金之助より正岡常規へ

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 St. James's Hallは、現在も音楽会やスポーツの興業に使われているようだ。一円二十五銭の中等席でも「向の正面でやって居る人間の顔などはとても分からん」というのだから、かなり大きな会場らしい。しかし武道館ほどではないと思う。サラサーテのバイオリン独奏はビートルズの公演じゃないんだから。

 漱石は「日本の柔術使」と書いていますね。『坊ちゃん』でも『三四郎』でも柔道ではなく柔術だった(柔道か柔術か(1)参照)。柔道という呼び方が定着したのは昭和になって学校体育に採り入れられてからではないだろうか? 

 漱石が見たのはどうも一種のプロレス興業の走りのようですね。この辺はもう少し詳しく明日。

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2006年5月28日 (日)

博士号について

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 二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日に至るまで、当局者と余とは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図らずも上田万年、芳賀矢一二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合って別れた。
 翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。
「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付かたがたこの段申進候敬具」
 余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。
「拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故、小生の希望通り取計らいかぬる旨の御返事を領し、再応の御答を致します。
「小生は学位授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。
「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。
「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆って、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。
「最後に小生は目下我邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒みて、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。
「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手許まで御返付致します。敬具」
 要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施す解釈に依って極まるのである。ただし余は文部省の如何と、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通に認むるの自由を有している。
 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従を強いざる限りは、この問題はこれより以上に纏まるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。
 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれどもというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
 従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。この事件の成行を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。

夏目漱石「博士問題の成行」
――明治四四、四、一五『東京朝日新聞』――

 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作ら れました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。(コピーさせてい  ただきました。お礼を申し上げます。ただし、ルビはすべて省きました。)

 漱石の博士号問題のあったのは明治44年、1911年である。もう「末は博士か大臣か」という時代ではなくなっていたけれども、まだ学位の権威は高く、漱石の辞退は大騒ぎになった。

 英国では、そんなに大した研究はしなかったらしいワトソンもドイルもずっと前に博士号をもらっている。
 ホームズの学生生活(2)の訳注で「論文の題目は残っていない」と書いたが、あれは私の間違い。エフティさんのご指摘があった。

 オックスフォード全集『思い出』《入院患者》注釈によると
 ドイルが博士号取得のため提出した論文タイトルは次の通り。
 'An Essay upon the Vasomoter Changes in Tabes Dorsalis'
 「脊髄癆における血管運動神経の変化に関する試論」
 またD・スタシャワーによるドイル伝 "Teller of Tales" penguin  books (2000)によると論文提出後の1885年7月、ドイルはエジンバラまで出かけ、口頭試問(oral exam)を受けて博士号をゲットしたそうです。

 読んでコメントを下さる方がいるのはありがたい。最新のドイル伝まで読んでおられるのですね。どうも畏るべき人がいるものだ。このドイル伝は私も読んでみなくては。

 しかし、博士はそう大したものではなかったらしいというのは、大筋で正しいと思う。
 これに比べるとドイツの学位制度は大変だった。社会学者マックス・ウェーバー(1864-1920)は1889年にベルリン大学で博士号を取得した。夫人マリアンネによる伝記(みすず書房)では

 彼のゴールドシュミットに捧げられた大部の学位請求論文『中世商事会社史序論』は……すでに立派な学問的著作たるの実を挙げ、その成果をウェーバーは彼の最後の社会学上の著述のなかにも組み入れたのである。「そのためには私は数百冊ものイタリアやスペインの法規集を通読しなければならず、それよりもまずそれらの書物を或る程度理解できるくらいに両国語を習得しなければならなかったが、……」(学位審査ではテオドール・モムゼン(1817-1903)がウェーバーと徹底的に討論した。)……(モムゼンは言った)「しかしいよいよ自分が墓場へ向かわなければならないとき、<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ウェーバーに向かってであろう」……

Max_weber_2_1

 ドイツの博士号は学者になるための必要条件で、このあと更に教授資格論文を書いて、ウェーバーは1894年、29歳でハイデルベルグ大学教授になる。
 もちろんドイツの大学でも一般学生はそれほど熱心に勉強したわけではない。ビールを飲んで楽しく過ごしていたらしい。
 しかしドイツ式の博士制度は、英国のジェントルマン流の学問と比べて大きな成果をあげた。英語や英文学研究でもドイツの方が進んでいたくらいだった。漱石が個人教授を受けたクレイグ先生は、ドイツのシュミットが1874年に出版したShakespeare Lexiconを越えるものを作ろうとしていたが、遂に完成を見ずに亡くなった。シュミットの辞典は今でもシェイクスピアを読むには欠かせないらしい。

 このドイツ式の博士制度を輸入したのがアメリカである。博士号が学者になるための必要条件であるというのは変わらないが、現代では博士は大量に作られるから、玉石混合で、ノーベル賞クラスの研究もあれば、かなりいい加減なのもあるらしい。会社員や役人で博士号を持っている人も随分いるという。
 
 日本の場合は、文科系ではまだ博士の方が教授より偉い場合が多いらしい。少し前の話になるが、1975年、すでに慶應大学教授になっていた文芸評論家江藤淳が『漱石とアーサー王伝説』で文学博士号を受けたときは、論敵の大岡昇平が「漱石で博士号をもらうなんて」と冷やかした。
 理科系では、所定の課程を終えて論文を書けば(レフリーのいる雑誌に英語で書くのだから簡単ではないが)博士号は得られるので、大分アメリカ式に近づいてきているらしい。

 今では文科でも理科でも少なくとも「学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至る」という大層なものではないようだ。
 それはそれとして、漱石の啖呵は痛快ですね。
「それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。」というのは、英語で言えば
Please note that I had had neither need nor ability to decline the offer before that.というようなことになりますか。ともかく英語式、非日本的発想ですね。

『ホームズの学生生活』の続きですが、肝心のところで疑問点が出てしまった。当方はオックスフォードやケンブリッジに留学したことがないので、よく分からないところがある。もう少し調べます。
 お金をいただいている(「薄謝」なのが遺憾)翻訳なら徹底的に調べます。編集者に調べてもらうという手もある。しかしこの場合は趣味ですから、最終的に分からなければそのまま訳して「分かる方教えてください」ということにするつもり。

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2006年5月13日 (土)

オックスフォードかケンブリッジか(2)

Cambridgetowncentre

……さて、これから留学地選定の件を方付けねばならぬ。ケンブリッジかオックスフォードか乃至エジンバラかロンドンか、と色々思案をしたが幸い或る西洋人の紹介を持っていたから一先ケンブリッジに行って様子を見て来ようと思うて出掛て見た。これが英国内の旅行の最初である。ケンブリッジへつくと驚いたのは書生が運動シャツと運動靴で町の内をゾロゾロ歩いている。これは船を漕いだり丸を抛げたりまたは自転車へ乗る先生方であって、そして大学生の大部分はこの先生方である。それから段々大学の様子を聴て見ると先ず普通四百ポンド乃至五百ポンドを費やす有様である。この位使わないと交際などできないそうだ。尤もやり方でもっと安くも出来るが世間がそういう風だから衣服その他これに相応して高い。月謝も高い。留学生の費用では少々無理である。無理にやるとしたところが交際もせず書物も買えず、下宿に閉じ籠もっているなら何もケンブリッジに限った事はない。少しでも楽な処に行くが善いと判断した。ここにおいてケンブリッジもオックスフォードも御已めにして、この度はエジンバラかロンドンかと考え出した。……
――夏目漱石書簡 1901年2月9日 鹿野亨吉・大塚保治・管虎雄・山川真二郎宛

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2006年5月 4日 (木)

鴎外・漱石・子規

……鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳も無之、これも小子嗜好の下等なる故と只管慚愧致をり候。元来同人の作は僅かに二短編を見たるまでにて全体を窺ふ事かたく候得ども、当世の文人中にては先づ一角ある者と存じをり候ひし。試みに彼が作を評し候はんに結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色あるやうに思はれ候。尤も人の嗜好は行き掛りの教育にて(仮令ひ文学中にても)種々なる者故己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏屈な議論に見ゆる者に候得ば、小生自身は洋書に心酔致候心持はなくとも大兄より見ればさやうに見ゆるも御尤もの事に御座候。……
…………
 時下炎暑のみぎり御道体精々御いとひ可被成候。拝具。
    八月三日                 平凸凹拝
 のぼるさま

 明治24(1891)年、夏目漱石から正岡子規に宛てた手紙である。二人とも25歳。漱石は9月に帝大英文科2年に進学する。子規は翌年帝国大学を退学し日本新聞社に入社する。
 鴎外の「二短編」とは、『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』のうちの二つである。舞姫が処女作で明治23年1月に発表。この三編をドイツ土産三部作という。――以上、岩波文庫和田茂樹氏の注による。

Souseki

(学生時代の漱石)

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2006年5月 2日 (火)

先生と私

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

 I always called him "Sensei". I shall therefore refer to him simply as "Sensei", and not by his real name. It is not because I consider it more discreet, but because I find it more natural to do so. Whenever the memory of him comes back to me now, I find that I think of him as "Sensei" still. And with pen in hand, I cannot bring myself to write of him in any other way.

 エドウィン・マクレラン氏の訳である。Senseiには、次のように脚注を付けている。
*The English word "teacher" which comes closest in meaning to the Japanese word sensei is not satisfactory here. The French word maitre would express better what is meant by sensei.

 先生という日本語は英語に訳せないらしい。

 ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』は映画館で見た。猛龍伝説というサイトによると日本公開は1974年7月だそうだ。もう30年以上もたったのか。

 ブルース・リー演ずる中国人青年の老先生が悪い日本人の柔道家に殺される。リー青年が先生の遺体に取りすがって泣く。ブルース・リーは"Teacher! Teacher!"と号泣して、「先生! 先生!」と字幕が出たように覚えている。
 まず北京語版を作ったらしい。英語版に翻訳するときに手間と金をけちったに違いない。
 ただ、例の「アチョー」だけは吹き替えではなく、ブルース・リー本人の声なのだそうだ。

Brucelee

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2006年2月15日 (水)

柔道か柔術か(1)

 1882(明治15)年、帝大の学生であった嘉納治五郎は、東京下谷稲荷町の永昌寺に講道館を開いて柔道を創始した。
 その後、嘉納の弟子の姿三四郎たちの活躍によって、柔道はたちまち旧来の柔術を駆逐してしまった――黒澤明の「姿三四郎」を見て、こんな風に考えていましたが、これは間違いらしい。
 柔道が急速に普及したことは確かだ。しかし、その柔道は相変わらず「柔術」と呼ばれていたのではないか。
 
 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。

 広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。門をはいると、玄関に靴が一足そろえてある。医者かもしれないと思った。いつものとおり勝手口へ回るとだれもいない。のそのそ上がり込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらくたたずんでいた。手にかなり大きな風呂敷包みをさげている。中には樽柿がいっぱいはいっている。今度来る時は、何か買ってこいと、与次郎の注意があったから、追分の通りで買って来た。すると座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。だれか組打ちを始めたらしい。三四郎は必定喧嘩と思い込んだ。風呂敷包みをさげたまま、仕切りの唐紙を鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。広田先生が茶の袴をはいた大きな男に組み敷かれている。先生は俯伏しの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、
「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、肘の関節を表から、膝頭で押さえているらしい。先生は下から、とうてい起きられないむねを答えた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てて、袴の襞を正しく、いずまいを直した。見ればりっぱな男である。先生もすぐ起き直った。
「なるほど」と言っている。
「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」
 三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。
「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」
「ええ、もうよろしい」
 三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
 広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。

『坊ちゃん』と『三四郎』(姿ではなくて小川三四郎)は、それぞれ1906(明治39)年と1908(明治41年)の発表です。
 山嵐だって広田先生の客だって、修業したのは柔道のはずだが、漱石は柔術と書いている。まだこの時代には柔術と呼ばれていたらしい。
 私など高校で柔道か剣道かどちらかが必修だったから、昔からそうなのかと思っていた。ところが柔剣道が旧制中学で正科必修となったのはようやく1931(昭和6年)のことである。
 明治時代には、柔道にしろ柔術にしろそんな古くさいものをやっておれるかという雰囲気があったらしい。
 だから嘉納治五郎の講道館は柔道/柔術の修業の機会を与えて大いに歓迎された。柔道と柔術の敵対や反目はなかったし、そもそも両者の区別がなかったのである。(この項続く)

  柔道か柔術かは断続的に(11)まで続きます。カテゴリの「格闘技」も見てください。

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2006年2月11日 (土)

漱石・猫・探偵

 何探偵?――もってのほかの事である。およそ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど寒月君のために猫にあるまじきほどの義侠心を起して、一度は金田家の動静を余所ながら窺った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような陋劣な振舞を致した事はない。

「アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ云う恭謙な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧なんだから困る」
「だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか」
「知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ」
「しかしただの商売じゃない」
「無論ただの商売じゃない。探偵と云ういけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」
「君そんな事を云うと、ひどい目に逢うぜ」

 もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂である。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな」
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖くはありません。珠磨りの名人理学士水島寒月でさあ」
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛なものだね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう」
「熊坂長範くらいなものだろう」
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ失せにけりと云うが、あんな烏金で身代をつくった向横丁の長範なんかは業つく張りの、慾張り屋だから、いくつになっても失せる気遣はないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯たたるよ、寒月君用心したまえ」
「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人よ。手並はさきにも知りつらん。それにも懲りず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ」と寒月君は自若として宝生流に気焔を吐いて見せる。
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらするからさ」と迷亭君が答える。
 今度は主人の番である。主人はもったい振った口調で、こんな議論を始めた。
「それは僕が大分考えた事だ。僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う、見性成仏とか、自己は天地と同一体だとか云う悟道の類ではない。……」
「おや大分むずかしくなって来たようだ。苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申す迷亭も憚りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と云うよ」
「勝手に云うがいい、云う事もない癖に」
「ところがある。大にある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪だが、僕などは終始一貫父母未生以前からただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚は移らずと云うのは君の事だ。……」
「これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから、正直でいいと云うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」
「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、勢自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕まるか、見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛だ。馬鹿馬鹿しい」
(Special thanks to 青空文庫

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