夏目漱石

2012年9月28日 (金)

よくってよ。知らないわ。

「さっきの話をしなくっちゃ」と兄が注意した。
「よくってよ」と妹が拒絶した。
「よくはないよ」
「よくってよ。知らないわ」
 兄は妹の顔を見て黙っている。妹は、またこう言った。
「だってしかたがないじゃ、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって。好きでもきらいでもないんだから、なんにも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」
 三四郎は知らないわの本意をようやく会得した。兄妹をそのままにして急いで表へ出た。

 ずっと昔に上京したときは、東京では「よくってよ。知らないわ」というような口のきき方をする女性に会えるはずだと思っていた。三四郎は、美禰子さんもよし子さんもいい。そういう女性に「**さん、ずいぶんねえ」とか言われてみたかったのだが……

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2011年12月 4日 (日)

theの発音(4)

 1900年から1902年まで留学した漱石がtheの発音を聞き違えるだろうか。そのころロンドンでは、theはゼと発音したのではないだろうか。

 倉田判事は、もう一つ「面白い文献を見付けた」と書いている。南方熊楠全集(平凡社版)5巻550ページに次のような文章がある。

 大正十一年(1922年)七、八月の交、植物採集に日光へ往って湯本の旅館に泊まったとき、隣室に京浜のよほど豪家の子息らしい十七、八の若者が洋人二名と宿りおった。その様子が英語修練のため洋人の費用を出して起居一切英語専用で旅行とみえた。その若者がイロイロ話すをきくと、という冠詞を一々注意してと発音する。二人の洋人もお姫様が屁をすかすごとく徐(しず)かに話し、必ずといわずにといいおった。……

 倉田氏はもう少し長く引用している。南方熊楠は1867年生まれで漱石と同年である。1884年大学予備門に入って漱石や子規と同級生になった。1886年予備門を中退して渡米した。1892年イギリスに渡り1900年に日本に帰国した。漱石とは入れ違いである。南方熊楠は21歳から34歳まで

 主として英語圏に滞在し、そのうち九年間は大英博物館で十数カ国語の本を読んでいたという語学の天才である。百篇に上る英文論考を発表しているし、サーカス一座に同行中、踊り子宛の付け文の返事を代筆したという逸話に示される俗語会話の練達ぶりや中国語の四声を論じた文章からも、この人の英語発音を聴く耳の確かさは信用していいだろう。それがこのようにはっきりザではなくゼであると言うのは、彼が生活していた十九世紀末のロンドンの巷の発音は、ゼつまり[ðe]に近い発音だったことを推測させる。(倉田pp.54-5)

  倉田氏は(注)として、大野晋『日本語について』を引用して、時間の経過によって英語でも日本語でも発音は変わるものだと言う。今の学生の発音はwが消えて、例えば「河合さん」をkaaisan「買わない」をkaanaiと発音する傾向があるという。英語のtheの発音にもそういう変化があったのではないか――というのである。
 私(ブログ筆者)は、むかしは柔術を「充実」、武術を「ブジツ」と発音したことを書いた。『シャーロック・ホームズの愉しみ方』p.157とp.192。
 
 

   theの発音の変化について、倉田氏は「英語学者の専門的意見を叩いてみたい」と書いている。この本が出たのが1985年である。その後『英語青年』か何かでこの問題が論じられたことがあるだろうか?
 シャーロック・ホームズにとって、アイリーン・アドラーは常に「ゼ・ウーマン」であった。
(話は違うけれども、ブリティッシュ・ミュージアムのリーディングルームでホームズと南方が出会って意気投合し……というのはありですね。The Adventure of the Wild Folklorist ホームズもカルデア語の語根の研究などをしているのだから。)

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2011年12月 3日 (土)

theの発音(3)

[迷亭と独仙が碁を打つシーン]

「そうおいでになったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは這入れるものじゃないんだ」
「這入って失敬仕り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道から馳け出してくるところだよ」

 このDo you see the boyは何だ? 
「ドゥー・ユー・シー・ザ・ボーイ」ではない。それでは意味不明だ。
 漱石は「ドゥー・ユー・シー・ゼ・ボイ」と読んだのだ。「ずうずうしいぜ、おい」と比べよ。
 残念ながらこれは私が発見したのではない。

 ときどき、「これは自分が書いたことにしたい」と思う文章がある。元東京高裁判事倉田卓次氏の『裁判官の書斎』に収める「漱石の『猫』の中の一行について」はその一つだ。最新版の漱石全集では、この箇所に倉田判事の発見を取り入れた注がついているはずだ。この本は今ならアマゾンで1390円で買える。絶対にお得な買い物だ。

 boyを漱石は「ボイ」と書いている。辞書の発音記号には長音符がないのでこの方が「正しい」はずだ。ほかには内田百閒が真似をして必ず「ボイ」と書いている。
 theは「ゼ」と書いた。プッシング、ツー、ゼ、フロントがそうであるし、『猫』にも「七代目樽金」が出て来た。

「何んでも昔し羅馬に樽金とか云う王様があって……」「樽金? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬の七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」

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2011年12月 2日 (金)

theの発音(2)

 一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。云うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。

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2011年10月30日 (日)

ミレーのオフェリア

 御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前に散らついている。裾模様の振袖に、高島田で、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母さん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑が出来ました」
 余はまた写生帖をあける。この景色は画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
 花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。

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2011年10月17日 (月)

イギリスの予備校(3)

 ザ・ゲイブルズは、ハロルド・スタックハーストが経営者兼校長を務める小規模の私立学校である。このような学校は19世紀末にはかなりあったらしい。『バスカヴィル家の犬』で、ステイプルトンはどう言っているか?

「学校をやっておりましてね」とステイプルトンが語り出した。「北の方におったのです。私の気質ですから、ああいう仕事は単調で退屈でしたが、若い人たちと生活をともにし、精神の形成を助けたり、自分の性格や理想をきざみつけたりするのは、とてもやり甲斐のあることでした。でも、運がなかったんですね。学校がひどい流行病にやられて、三人も犠牲者を出しました。その打撃からたち直れなくて、資産もあらかた消えてしまいました。もっとも生徒たちに接する機会がなくなったことを別にすれば、不運もまたよしと言いたいところですが」(富山太佳夫訳)

 夏目漱石がロンドンで下宿した家も元は私立学校だった。
 
 かかるありさまでこの薄暗い汚苦しい有名なカンバーウェルと云う貧乏町の隣町に昨年の末から今日までおったのである。おったのみならずこの先も留学期限のきれるまではここにおったかも知れぬのである。しかるにここに或る出来事が起っていくらおりたくっても退去せねばならぬ事となった、というと何か小説的だが、その訳を聞くとすこぶる平凡さ。世の中の出来事の大半は皆平凡な物だから仕方がない。この家はもとからの下宿ではない。去年までは女学校であったので、ここの神さんと妹が経験もなく財産もなく将来の目的もしかと立たないのに自営の道を講ずるためにこの上品のような下等のような妙な商買を始めたのである。彼らは固より不正な人間ではない。正道を踏んで働けるだけ働いたのだ。しかし耶蘇教の神様も存外半間なもので、こういう時にちょっと人を助けてやる事を知らない。そこでもって家賃が滞る――倫敦の家賃は高い――借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、しまいに閉校する。……運命が逆まに回転するとこう行くものだ。可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー不憫なる――憫然なる彼らはあくまでも困難と奮戦しようという決心でついに下宿を開業した。その開業したての煙の出ているところへ我輩は飛び込んだのである。(夏目漱石『倫敦消息』)

 漱石が「昨年の末」と言うのは1900年の年末であった。1900年の10月にロンドンに着いて以来三軒目の下宿である。倫敦漱石記念館のサイトによればhttp://soseki.intlcafe.info/lodgings/lodging-3.html

 漱石が移ってきたこの下宿の家族構成は、主人のブレット夫妻、ブレット夫人の妹ケイト・スパロー、下女、女学生、使用人、そして日本人下宿人数名であった。ブレット夫人と妹のケイトは下宿屋を始める以前、小さな私立女学校を経営していたが、伝染病が発生して閉鎖、以後下宿屋に変わった。
 下宿の主人は日本人好きでよく日本人を下宿させており、漱石が移ってきた当時、田中孝太郎、渡辺和太郎など5名の日本人がいた。

 むかしの英国では私立学校は割合に簡単に作ることができ、簡単に潰れる場合もあったらしい。ハロウやイートンのような伝統があって財政的基盤がしっかりしている学校ばかりではなかった。「ぶな屋敷」の事件の依頼人だったヴァイオレット・ハンター嬢は、後にウォールソールの私立学校の校長になったというが、どのような学校だったのだろうか?
 英国の学校は私立学校の方が歴史が古くて主流だった。シャーロック・ホームズが「まさに灯台だよ。未来を照らす灯だ」と誉め称えた公立小学校board-schoolsは、1870年になってようやくできたものだ。

「イギリスの予備校」という題で書き始めたが、結局coaching establishmentと呼ばれているからには予備校であろう、ということしか分からなかった。むかしの英国の教育制度は複雑だったのだ。

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2010年11月12日 (金)

パスポートとビザについて

 第1次世界大戦前の英国には、シャーロック・ホームズの登場人物たちだけではなく、日本人もかなり自由に入国できたようだ。
 たとえば柔術家谷幸雄(1880―1950)は、1900年にエドワード・バートン=ライト(格闘技バーティツの創始者)に招かれてロンドンにやってきた。谷幸雄は菊の紋章がついた大日本帝国のパスポートなどは持っていなかったと思うがどうだろう? 
 同じ年にもっとずっと有名な日本人が渡英している。夏目漱石(1867―1916)である。この人がどういう書類を持っていたか、あるいは書類など不要だったのか、これは誰か調べた人がいるのではないだろうか?
 
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 谷幸雄はバートン=ライトのバーティツ道場でインストラクターを務め、やがて柔術家としてミュージックホールに出演して素人の力自慢やプロレスラーの挑戦を受けるようになった。1918年には小泉軍治の設立したロンドン武道会の柔術師範になった。英国に定住して稼ぐのに「就労ビザ」のようなものは不要だったのではないだろうか?
 このあたりの事情をご存じの方はお教えください。

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2010年10月12日 (火)

「実家」の誤用

(1) 離婚の危機をもまねく! 実家依存症の妻たち

(2)「都内に実家があるのに、どうして早々と家を出て、ひとり暮らしとかしちゃうわけ? しかも女なのに」
と、実家暮らしの男女からよく聞かれるので、自分なりに理由を考えてみました。

(3)8月に札幌で発生した連続女性暴行事件(後に一人は死亡)で逮捕されたと同姓の江別の不動産業者が、インターネット上で「容疑者の実家」と事実無根のデマを流布された問題は、この業者が10万枚の打ち消しチラシを配布、業界団体も文書を出すなど、地域ではうわさも収まりつつある。また、ネット上でも新たな書き込みはなく終息してきた。

(4) 私の大学の先輩()でも、育児をしているなどと揚言していたのがいたが、麻布高校卒現役で東大工学部卒、モテモテで、山一証券と厚生省の両方受かったが賃金がいいので山一、潰れるのを前もって察知したか別の証券会社へ移っていたというエリート中のエリート、背は高く実家は東京都内の医師で、かといって浮気をして家庭を壊すような人ではないと、そういう人である。

(1)は正しい。(2)(3)(4)は誤用だ。実家とは「お嫁に行った女の実の親の家」のはずだ(「婿養子に入った男の実の親の家」の場合もあるかも知れないが)。
 広辞苑には次のように書いてある。しかし、これは辞書が間違っている。

じっか【実家】
①自分の生れた家。父母の家。「―に帰る」
②婚姻または養子縁組によって他家に入った者から元の家をいう称。「家」の制度の廃止により法律上は廃語となった。さと。

 昔はふつう男は「実家」を使わなかった。

 遠路わざわざ拙宅まで御出披下候よし恐縮の至に存候。その節何か愚兄より御話申上候由にて種々御心配ありがたく存候。小生は教育上性質上家内のものとは気風の合はぬは昔よりの事にて、小児の時分よりドメスチック・ハッピネスなどいふ言は度外に付しをり候へば今更ほしくも無之候。……
(明治28年12月18日 正岡子規宛)

 漱石は28歳で中学教師として松山にいた。東京にいる子規が新宿の夏目家を訪ねて家督を継いでいる「愚兄」と話をしたのだ。
「遠路わざわざ小生の実家まで御出披下候よし」などとは書かなかった。

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2010年10月10日 (日)

イナゴかバッタか

「いなご」は日本語訳の聖書にたびたび登場し、なかでも有名なのは『出エジプト記』の一節だろう。エジプトからの脱出を求めるモーセの要求を拒むファラオに対して、神が与える10の厄災の一つとして、こう書かれている。
「もし、あなたがわたしの民を去らせることを拒み続けるならば、明日、わたしはあなたの領土にいなごを送り込む。イナゴは地表を覆い尽くし、地面を見ることもできなくなる。そして、雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす」(新共同訳、10章、4~5節)。
 残念ながら、厳密にいえば、これは誤訳である。英訳『聖書」ではlocustとなっているのだが、この単語はバッタ類を指すものであって、イナゴではない。
(『悩ましい翻訳語』p.24)

「汝もしわが民を去しむることを拒まば明日我蝗をなんぢの境に入しめん。蝗地の面を蔽て人地を見るあたはざるべし。蝗かの免かれてなんぢに遺れる者すなはち雹に打のこされたる者を食ひ野に汝らのために生る諸の樹をくらはん」(文語訳聖書)

 いなごの大群は山を越えてやってきた。はじめのうち、それは巨大な暗雲に見えた。次にぶうんという地鳴りがやってきた。いったい何が起ころうとしているのか、誰にもわからなかった。アイヌの青年だけがそれを知っていた。彼は男たちに命じて畑のあちこちに火を焚かせた。あらいざらいの家具にあらいざらいの石油をかけて火をつけた。そして女たちには鍋をもたせ、すりこぎで力いっぱい叩かせた。彼は(あとで誰もが認めたように)やれることはやったのだ。しかし全ては無駄だった。何十万といういなごは畑に降りて作物を思う存分食い荒らした。あとには何ひとつ残らなかった。
 いなごが去ってしまうと青年は畑につっぷして泣いた。農民たちは誰もなかなかった。彼らは死んだいなごをひとまとめにして焼き、焼き終わるとすぐに開墾のつづきにかかった。
(村上春樹、『羊をめぐる冒険』における蝗害(こうがい) 今日の看猫 20090919 から
http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/bc3a2f9e991933ad222ae257d8f84111

「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」

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2010年8月15日 (日)

サンドウの来日?

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 ユージン・サンドウ(1867―1925)。ボディビルとウェイトトレーニングの先駆者であるが、現代とはやはり少々感覚が違う。イチジクの葉っぱは今から見るとへんてこりんだ。体形はこれくらいが自然でよろしいと思う。(現代のボディビルダーは広背筋と大胸筋を過剰発達させてウェストを絞った逆三角形の体を作ろうとする。)

 前にコナン・ドイルとの関係でサンドウのことを書いたら、カナダ留学中の学生の方から、サンドウが1905年(明治38)年の春か夏に来日したかも知れないという話がある――という情報をいただいた。
 サンドウが本当に来日したかどうか? 来日はしてないように思う。日本に来たのなら、当時の体育界のボス嘉納治五郎と接触があるはずだ。相撲取とどちらが強いか力比べなどをして話題になったはずだ。しかしひょっとすると来ているかも知れない。どなたかご存じの方はご教示ください。
 日本に来たかどうかはともかく、サンドウのダンベル運動は世界的なブームになっていたらしく、正岡子規(1867―1902)の『病床六尺』にも「サンダウの亜鈴」の話が出てくる。『病床六尺』は子規の死去の年の1902年(明治35年)の五月から九月まで日本新聞に連載された。
 左千夫は伊藤左千夫、節は長塚節である。

〇左千夫いふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼らぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思われずと。節いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思う。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞しき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩せたりといへども毎日サンダウの亜鈴を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。 さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。(五月十三日)

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