2009年9月15日 (火)

刺青について(9)

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 1906年(明治39年)、明治天皇にガーター勲章を授けるコンノート殿下。ガーター勲章は英国の最高の勲章である。舞踏会で女の人がガーター(靴下止め)を落としたのを王様が拾って自分の脚につけたのがはじまりという粋な勲章である。だから脚につける。1902年に日英同盟を締結し1905年には日露戦争に勝ったので、天皇がガーター勲章を受けることになった。この勲章は、大正天皇、昭和天皇、今上天皇ももらっている。
 コンノート殿下はヴィクトリア女王の三男である。アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子は長男アルバート・エドワード(エドワード7世)の子供なので、コンノート殿下の甥に当たる。殿下は1881年(明治14年)に来日した甥たちの腕の龍の刺青を見て感銘を受けたから、自分も刺青をすることにした。天皇に勲章をつけてから日光東照宮を見物に行ったが、名人初代彫宇之(1843-1927)を日光に呼んで刺青を彫らせた。図柄は不動明王だったという説もあるが、これは怪しい。背中一面に彫るだけの時間はなかったはずだ。

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 コンノート殿下は日本で熱狂的に歓迎された。三越がカラーのブロマイドを出したくらいだ。夏目漱石などはこの騒ぎを苦々しく思っていた。

水島寒月
「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、庚申山一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと云う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと云うので今まで静まり返っていたやからが、紛然雑然糅然としてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以て脳裏をかけ廻る。……」

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2009年2月27日 (金)

語学力養成について

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  私の思うところによると、英語の力の衰えた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方から言うと当然のことである。なぜかと言うに、我々の学問をした時代には、すべての普通学はみな英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科もみな外国語の教科書で学んだが、我々より少し以前の人になると、答案まで英語で書いたものが多い。我々の時代になっても、日本人の教師が英語で数学を教えた例がある。かかる時代にはだてに――金時計をぶら下げたり、洋服を着たり、ひげを生やしたりするように――英語を使って、日本語を用いる場合にも、英語を用いるというのが一種の流行でもあったが、同時に日本の教育を日本語でやるほどの余裕と設備とが整わなかったからでもある。従って、単に英語を何時間教わるというよりも、英語ですべての学問を習ったと言ったほうが事実に近いくらいであった。すなわち英語の時間以外に、大きな意味においての英語の時間が非常にたくさんあったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然とできねばならぬわけである。
語学の力の衰えた原因
 ところが「日本」という頭を持って、独立した国家という点から考えると、かかる教育は一種の屈辱で、ちょうど、英国の属国インドといったような感じが起こる。日本のnationalityは誰が見ても大切である。英語の知識くらいと交換のできるはずのものではない。従って国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は自然勢いを失うべきが至当で、だんだんその地歩を奪われたのである。実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、日本では学問をした人がないからやむをえないということに帰着する。学問は普遍的なものだから、日本に学者さえあれば、必ずしも外国製の書物を用いないでも、日本人の頭と日本の言語で教えられぬというはずはない。また学問普及という点から考えると、(ある局部は英語で教授してもよいが)やはり生まれてから使い慣れている日本語を用いるに越したことはない。たとえ翻訳でも西洋語そのままよりは良いに決まっている。
(明治44年(1911年)夏目漱石)

 アジアやアフリカの国で、たとえば物理学を自国語で教えることができるのは、日本、韓国、台湾、中国くらいだろう。高校の物理の教科書をタガログ語、インドネシア語、スワヒリ語などで書くことができるか。
「英国の属国インド」では、マハトマ・ガンジーがヒンディー語を国語にしようと頑張ったが、これはインドの独立よりはるかにむつかしかった。
 むかし知り合った人で「子供をオーストラリアの小学校に入学させたい」というのがいた。「英語ができるようになる」というのだ。「日本語はどうするの?」と聞いたが、質問の意味が分からなかったらしい。馬鹿なやつだ。

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2009年1月23日 (金)

嘉納治五郎対夏目漱石

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 夏目金之助(1867-1916)は、1893年(明治26年)7月に26歳で帝国大学文科大学英文科を卒業した。10月に高等師範学校(→東京教育大学→筑波大学)の英語教師となった。年俸は450円であった。
 1914年(大正3年)に行った講演『私の個人主義』では、このときの嘉納治五郎(1860-1938)との縁を次のように語っている。嘉納は明治14年に帝国大学を卒業し、明治26年に高等師範学校校長になっている。漱石より7歳上の33歳であった。
 講道館を創設したのは明治15年である。同年、嘉納は22歳の若さで学習院教頭になっている。

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 その時分は今と違って就職の途は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等師範からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ周旋してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届がちで、とうとう自分に祟って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るような事を云いながら、他にも相談をされては、仲に立った私が困ると云って譴責されました。私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持ですから、いっそ双方とも断ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きをやり始めたのです。するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談はきまった、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行がかり上否だとは云えませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えるともったいない話ですが、私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。

 嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持しようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
 しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向な所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。

 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。

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(松山中学時代の漱石。前から3列目、左から2番目)

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2008年11月29日 (土)

柔道か柔術か(25)

 運動競技は色々だけれども、格が高いものと低いものがあった。本場イギリスの昔の話です。
 大学やパブリックスクールでやる競技が中流以上の階級の競技である。

The lower of the three is Gilchrist, a fine scholar and athletic, plays in the Rugby team and the cricket team for the college, and got his Blue for the hurdles and the long jump.

三人のうちで一番下の部屋にいるのがギルクリストです。よくできる学生で運動家です。カレッジのラグビーとクリケットの選手で、ハードルと幅跳びではブルーを持って(大学対抗戦代表に選ばれて)います。

 もちろん『三人の学生』ですね。ヒルトン・ソームズ先生がシャーロック・ホームズに説明しているところ。カレッジというのは「聖路加カレッジ」であった。陸上競技ではカレッジどころか大学全体の代表にも選ばれている。でも、どちらの大学なんだろう。オックスフォードかケンブリッジか、それが問題だ。
 ギルクリスト君はラグビーとクリケットと陸上競技の選手だった。これにボートを加えると、大学やパブリックスクールでやる主要な競技になる。運動競技は勉強よりも大切なくらいだった。

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 1901年渡英した夏目漱石は、留学先を決めるためにケンブリッジを視察した。

 ケンブリッジへつくと驚いたのは書生が運動シャツと運動靴で町の内をゾロゾロ歩いている。これは船を漕いだり丸を抛げたりまたは自転車へ乗る先生方であって、そして大学生の大部分はこの先生方である。(1902年2月9日 狩野・大塚・管・山川宛書簡)

 夏目金之助は結局ケンブリッジなどには行かず、ロンドンの場末の下宿に籠城して必死に研究に没頭した。気が狂いそうになったくらいだ。あなたの見たケンブリッジの書生の生活が「文武両道」なんですよ――などと言えば怒り出しただろう。
 7年後の1908年(明治41年)、漱石は小川三四郎に運動会を見物させている。

 たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。(明治の運動会

 運動には冷淡である。
 ところが、英国では運動競技が生活の一部であった。その中でもラグビー、クリケット、陸上競技、ボートが特に格式が高い競技だった。
 格式が高い競技、たとえばラグビーは、たとえばレスリングのような下層階級の競技の違いは何か?
 競技をめぐる言説のありようが違う。分かりにくい? 一度、こういう言葉遣いをしてみたかったの。
 ラグビーに関してはいくらでも文献があるが、レスリングの文献は少ない――ということを前から言っています。
 今回は少し回り道をした。(続く)

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2008年10月29日 (水)

明治の運動会

 百年前、1908年(明治41年)の秋、小川三四郎は運動会を見物に出かけた。

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 運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな築山をいっぱいに控えて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい日和がよいので寒くはない。しかし外套を着ている者がだいぶある。その代り傘をさして来た女もある。

 三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。新時代の青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾っている。そのうえ遠距離だから顔がみんな美しい。その代りだれが目立って美しいということもない。ただ総体が総体として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。

 三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫の猿股をはいて婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の徽章をつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服の袖を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前の所へ出た。低い柵の向こう側から首を婦人席の中へ延ばして、何か言っている。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いてゆく。柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。美禰子は急に振り返った。うれしそうな笑いにみちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。すると、よし子が立った。また柵のそばへ寄って行く。二人が三人になった。芝生の中では砲丸投げが始まった。

 砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も、もとの席へ復した。砲丸は時々投げられている。第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して立っていた。ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。
 
 
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 200メートルの一等は25秒74だった。末續慎吾選手の20秒03という日本記録と比べるとかなり遅い。しかし、東大の御殿下グラウンドでは400mトラックは取れなかったはずだ。一周250mくらいのトラックで多分スパイクシューズも履かずに走ったのだろうから、速い方である。でも百分の一秒までどうやって計ったのだろう? 東京オリンピックのときでも十分の一秒までだったはずだ。100メートルの金メダルはボブ・ヘイズで10秒0だった。
 砲丸投11m38はまあこんなものでしょう。日本記録は畑瀬聡選手の18m56。畑瀬選手は身長184cm、体重110kgだという。明治時代には100kgを越える男なんて滅多にいなかった。

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2008年6月20日 (金)

水着について(3)

 ヴィクトリア朝的お上品ぶりで日本を見るとどう見えたか。

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 ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズは、1854(安政5)年下田での見聞をもとに次のように断定を下した。「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。」
――平凡社『逝きし世の面影』p.296

 それから約半世紀後の明治38年ごろになると、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の通っている銭湯は混浴ではなくなっているようだ。
 しかし、女の裸は別に珍しいものではなかった。
 水島寒月君の提案する「俳劇」の趣向

「まず道具立てから話すが、これも極く簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が独り言のように心配した。「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。でその下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです。」…………「ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ」
http://neko.koyama.mond.jp/?eid=293820 より。この「挿絵でつづる漱石の猫」は傑作です。 

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2008年2月27日 (水)

昔の英国の入学試験(2)

 コナン・ドイルは1875年、ガンジーの15年前に大学入学資格試験に合格している。
 ヘスキス・ピアソンのドイル伝では

 In his last year he edited the College magazine, and at the end of his time amazed everyone by taking honours in the London Matriculation.

  ストーニーハースト校の最終学年に彼は校内誌を編集し、最後にthe London Matriculationで優等の成績を取ってみんなを驚かせた。

 このthe London Matriculationは、ガンジーの伝記に出てきたa London University matriculationと同じものだろう。

  ジョン・ディクスン・カーのコナン・ドイル伝

……彼は、けんめいに身を震わせながら、他の十三人の少年といっしょに、ロンドン大学の試験を受けた。その結果をつつみこんだ小包郵便が、ものすごく暑い七月の一日、ロンドンから到着して、校長室へ運びこまれた。
……受験した十四人のうち十三人がパスし、ストーニーハーストはじまって以来の好成績だった……
……アーサーは、単にパスしたばかりでなく、実に優秀な成績でパスしたのである。

 大久保康雄氏は「ロンドン大学の試験」と訳している。
 しかし、ロンドン大学の入学試験ではない。ドイルは合格してエディンバラ大学に入学したのだから。

 ガンジーの場合も、合格はしたけれども大学に入学はしなかった。英語の力をつけるために、力試しに受けただけである。ガンジーはインナー・テンプル法曹学院に入学した。こちらは無試験である。法律の授業はなかった。学生の義務は授業料を払うことのほかに、1年に24回、学院の食堂で夕食を取ることだけだった。入学してから3年後に弁護士資格試験があったが、これはごく簡単なもので、よほどの馬鹿でなければ合格した。
 だから、ガンジーは暇を持て余していた。社交ダンスやバイオリンを習ったり、菜食主義を広める運動をしたり、英国人女性に誘惑されかかったりして、3年を過ごした。彼はヒンズー教の聖典、バガヴァット・ギーターを初めて(英訳で)読んだ。ガンジーが「マハトマ」への道を歩み始めるのは、南アフリカに渡ってからである。このころは、まだボンヤリした青年である。
 
  ガンジーが1890年に合格したときは、ラテン語、フランス語、物理(「光と熱」)の3科目だった。(なぜ数学は不要?)
 コナン・ドイルが1875年に合格したときの科目は、カーやピアソンによる伝記には書いてない。

 ロンドン(ユニバーシティ)マトリキュレーションは、だいたい「大学入学資格試験」と訳しておけばよいだろう。要するに

(1)競争試験ではなく資格試験
(2)ロンドン大学が出題し採点した。
(3)オックスフォードとケンブリッジ以外の大学の受験生用

 コナン・ドイルたちはロンドンまでで受験に出かけたのではなく、スコットランドのストーニーハースト校で試験を受け、答案をロンドン大学に送ったのだろう。
 カーのドイル伝で「その結果をつつみこんだ小包郵便」と書いているのは、採点した答案を小包で送ってきたということだ。
 当時は現在のセンター試験のような馬鹿な制度(廃止しろ!)はなかった。試験は完全な「記述式」だったはずだ。それでもロンドン大学で全国の試験ができたのは、志願者が少なかったからだろう。
 志願者が多くて競争試験になったのは、陸軍士官学校と海軍兵学校だった。そのための予備校がビジネスとして成立していたことは、モリアーティ元教授の職業(1)--(5)に書きました。

 1875年は明治8年である。このころ日本にはもちろん大学入試などなかった。大学の設立は明治10年になってからである。
 1890年は明治23年である。この年、夏目金之助(漱石)は帝国大学に入学している。(東京帝国大学と書くのはおかしい。大学はまだ一つしかない。)どういう試験を受けたか、漱石の伝記を読んでも書いてあるのを見たことがない。

 むかしはのんびりしていてよかった、ということです。

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2008年2月17日 (日)

天璋院様の

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 君を待つ間の姫小松……………
 障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾き出す。「宜い声でしょう」と三毛子は自慢する。「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言を吐かねばならぬ事がある。
 

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2007年8月31日 (金)

シャーロック・ホームズ対夏目漱石

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 シャーロック・ホームズ(1854-?)と夏目漱石(1867-1916)がはじめて顔を合わせたのは、1901年(明治34年)5月上旬の或る火曜日の夕方のことであった。

 ホームズとワトソンはホーマー街にクレイグ博士を訪ねた。ベーカー街からは近くで、歩いて行ける。

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 クレイグ先生は燕の様に四階の上に巣をくっている。敷石の端に立って見上げたって、窓さえ見えない。下から段々と昇って行くと、股のところが少し痛くなる時分に、ようやく先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮のノッカーがぶら下がっているだけである。しばらく門前で休息して、このノッカーの下端をこつこつと戸板へぶつけると、内から開けてくれる。
 開けてくれるものは、何時でも女である。近眼のせいか眼鏡を掛けて、絶えず驚いている。年は五十位だから、随分久しい間世の中を見て暮らした筈だが、矢っ張りまだ驚いている。戸を叩くのが気の毒な位大きな眼をしていらっしゃいと言う。

 ホームズも真鍮のノッカーの下端をこつこつと戸板にぶつけた。五十位の婆さん(五十なら立派な婆さん。100年前のことです)が戸を開けてくれた。
 ところが先客があって、クレイグ先生はこの男を相手に大声でしゃべっていた。

 ホームズが小声でワトソンにささやいた。
「支那人らしいね」
「いや、私は日本人ですよ」 
 と、その黄色い男が突然こちらをむいて、するどい声でいった。うっかり口にした非礼を耳ざとくもききとがめられたのと、めずらしく自分の観察があやまっていたことで、さすがのホームズが耳までまっかになった。
「いや、これは失礼、日本の方はめったにお目にかかることが少ないとはいえ、あすにでもわが大英帝国と攻守同盟をむすびそうなお国の人を見まちがえるなんて? いや、今度は第一御皇孫がご誕生になったそうでおめでとう。けさの新聞で見ると、お名前はヒロヒトと名づけられたそうですね。シャーロック・ホームズをまず劈頭に赤面させられた唯一の国民に、永遠の繁栄がありますように!」

 ホームズもずいぶんお世辞を言ったものですね。漱石はどう答えたか? 
「永遠の繁栄? いや、滅びるね
 とは、このときは言わなかったようだ。
 あとは山田風太郎の『黄色い下宿人』を見て下さい。ちくま文庫に『明治十手架』と一緒に収録されています。

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2007年5月26日 (土)

座右の名文

 漱石の『坊ちゃん』を、「探偵」小説であり「恋愛」小説である、といったら、「えっ、なんで?」とおおせのかたが多かろう。しかし、たしかにそうなのである。
 まず、「探偵」小説の件からおはなししよう。――「探偵」とカギカッコをつけてあることに御注意くださいね。「探偵」小説といっても、推理小説だというのではない。漱石の大きらいな「探偵」がしきりに出てくる小説だというのである。

――自分の文章のふりをして続きを書きたいところだけれど、だめでしょうね。すぐにばれる。
 高島俊男『座右の名文』文春新書p.95の最初の2段落です。
 続きが読みたい人はすぐに本屋へ。

 漱石論、坊っちゃん論、漱石と探偵論などは、山ほどある。だから、高島先生と似たことを言っている人も、あるいはいるかも知れない。
 でも、「探偵」小説であり「恋愛」小説である――というふうにズバリと書いて、腑に落ちる説明をしてくれる人はほかにいないだろう。

……『坊ちゃん』は、ちょっとわけのわからない、薄気味のわるいようなところのある作品だ……
 こんなことが書いてあるのも、この本だけだと思う。どこがわけがわからなくて薄気味わるいのか、ちゃんと謎解きがあります。上等の探偵小説と同じである。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。」
 これは、苦沙弥先生の意見である。
 高島俊男という人は、こういう探偵ではない。シャーロック・ホームズのような名探偵である。

 漱石のほかに、新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、齋藤茂吉が、高島先生の好きな文章家である。
 
   アマゾンにもうカスタマーレビューが出ている。

少しも質が落ちない口述筆記本, 2007/5/25
 素晴らしい本だ。この本はあとがきにあるとおり、高島氏がしゃべり、別の人がそれを筆記したもの。口述筆記は読みやすいが、中身が薄くなり質が落ちるのがふつうだ。しかしこの本は少しも落ちていない。口述筆記だと正直に書いていなかったら私は高島氏自身が書いたものだと思っていただろう。高島氏が目が痛み原稿が書けなくなったという事情によるものだから、他の粗製濫造本とは時間のかけかたが違うのだ。 …………

 話は逸れるが、この評者のあまカラという人がちょっと凄い読書家である。ほかの本のレビューも読んでみてください。たとえば福田恒存の『私の幸福論』のレビュー

……この幸福論の大きな特徴は美醜という問題から書き始めていることだろう。夫に捨てられた妻の身の上相談に、福田氏はその妻の顔を見た上でなければ答えられない、と驚くべきことを書く。ブスに生まれついたことを宿命として受け入れる、そこからでないと幸福論は始まらない、というのだ。これには読者からあまりに救いがない、という反論が届く。それに対して福田氏はさらに答える。この最初のやりとりは本書の白眉である。……

   僕は早速この本を注文しましたね。

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