2008年5月23日 (金)

交通標語

 アメリカの高速道路でなんといっても嬉しいのは、あの醜く愚劣な交通標語がひとつもないことですね。すっきりしていて、実に気持がいい。これは前々からしつこく力説していることなのだが、だいたい「交通事故ゼロを目指そう」なんて垂れ幕を歩道橋にかけておく位で、交通事故死が世界からひとつでも減るものだろうか。そんな何の意味もない、全く役にも立たないものを手間暇かけて仰々しく道路に出しておく神経が僕にはよく理解できない。書いてある文句もだいたいの場合センスがなくて、読んでいて不快である。何もアメリカが日本より偉いと言っているわけでは決してないけれど、少なくともアメリカ人は、交通標語を作らないという点に関しては日本人より偉い。(村上春樹)

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2008年2月22日 (金)

ゴルゴ13の狙撃銃(3)

 ゴルゴ13は1968年に小学館のビッグコミック誌に連載が始まり、いまだに現役で活躍しているのですね。さいとうたかお先生に励ましのお便りを出そう。

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 ゴルゴ13についてはずいぶん研究が進んでいる。
 ウィキペディアで「ゴルゴ13」を引くと、M16の狙撃銃としての使用の問題についても詳しく書いてある。以下引用

・現実のM-16について
  本来のM16は、軍用アサルトライフルである。狙撃銃としての精度は、大口径の銃・ボルトアクションライフルのほうが優れている。また「死者を出すよりも負傷者を増やすほうが、敵方へのダメージが大きい」という合理的理由により、殺傷能力は小さい(反面、携行弾数が多くなっている)。
  ただしM16はアサルトライフルとしては高精度である。遠距離狙撃には用いる事ができないが、100m程度の近距離狙撃には用いられる事もある。そのため特殊目的ライフル(Special Purpose Rifle)として、M16の狙撃銃型も存在する。
・作中でのM16の描写
  単純に任務を遂行する目的としては、M16がそぐわない事は、ゴルゴ13も承知の上である。しかしながらゴルゴ13はフリーランスの狙撃手であり、単純な狙撃をこなせばいいという訳ではなく、戦闘に突入する事も頻繁にある。よって、狙撃兼戦闘のための銃として、M16は最適の選択である。その意味をゴルゴは作中でAKシリーズを設計したカラシニコフに対して、「俺はワンマンアーミーだからだ」と一言で述べている。 (引用終わり)

「ゴルゴ13も承知の上である」と言うことだったのか。なるほど。
 しかし、ひとつ気になることがある。アサルトライフルって何だ?
 どうやら突撃銃assault rifleのことらしい。
 リーダーズプラス英和辞典で引いてみよう。

assault rifle
【軍】 突撃銃, アソールトライフル《大きな弾倉をもつ軍事用(半)自動ライフル; アソールトライフルタイプの民間人用の銃》.[G Sturmgewehr の訳; MP 44 に対し Hitler が命名]

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 assaultの発音はカタカナなら「アソールト」になるのは常識だと思うけれど、どうやら、アサルトライフルが定着してしまったようだ。
 詩人のRobert Browningは正しい発音でブラウニングと呼ぶが、
 有名な銃器設計者のJohn Browningはブローニングと呼ぶことになっているのと同じらしい。

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 私を起こしたのはライフルの安全装置を外す、カチャリという金属音でした。戦場にいる兵隊なら、たとえどれだけ深く眠っていようとも、その音を聞きのがすことはありません。それは何といいますか、特別な音なのです。それは死そのもののように重く、冷たいのです。私はほとんど反射的に、枕元に置いたブローニングに手をのばそうとしましたが、誰かにこめかみのあたりを靴底で蹴りあげられ、その衝撃で一瞬目が見えなくなりました。呼吸を整えてからうっすらと目を開けると、私を蹴ったらしい人間がかがみ込んで私のブローニングを拾い上げるのが見えました。ゆっくりと顔を上げると、二丁のライフルの銃口が私の頭に向けられていました。その銃口の向こうには蒙古兵の姿が見えました。
(間宮中尉)

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2007年4月 9日 (月)

叶姉妹(2)

  こういうのもありました。

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2007年3月29日 (木)

叶姉妹

 村上春樹は、1994年4月に小説『ねじまき鳥クロニクル』の第一部、第二部を刊行した。謎の叶姉妹はこの作品に登場する。姉はマルタ、妹はクレタという名前であった。しかし第2部で妹のクレタは、クレタ島に行ってしまう。姉のマルタは行方不明になる。

 姉妹は、その後日本に帰り、叶恭子、叶美香と名乗って芸能活動をはじめた。

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 姉妹は講道館柔道の創始者、嘉納治五郎の曾孫に当たるという説もあるが、講道館側ではこれを認めていないようだ。

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2007年1月27日 (土)

やがて哀しき外国語

 村上春樹さんのエッセイの題名ですが、中国語に訳すると何となるか、知ってますか? 台湾で去年の11月に下図のような訳本が出ました。中国語の新聞の書評欄
http://big5.china.com.cn/book/txt/2007-01/19/content_7683820.htm

《終於悲哀的外國語》 作者:村上春樹 版本:時報出版2006年11月 定價:260(新台幣)

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我應該不算是村上春樹迷,因為他的小説,我沒有全部讀過,讀過的也不是毎本都喜歡,但《終於悲哀的外國語》,我沒有一篇不喜歡。

私は村上春樹のファンで、彼の小説は全部読んでいる。読めばどれもすばらしいと思わないものはない。『やがて哀しき外国語』も、私はどの一篇もすばらしいと思わぬものはなかった。

(訳文に責任は持ちません。だいたいこれくらいの意味だろうと思うのですが。何でも「ファン」のことを「迷」というらしいことは、どこかで読んだことがある。)

 共通一次の成績を自慢する男のことも書いてある。

令向來“無所屬”的村上春樹無法接受,而對於日本政府外派的精英官員炫耀聯招成績的行徑,他也極盡諷刺,稱他們是“共通一次男”。

村上春樹さんはそもそも「無所属」なので無法接受(というのはどういう意味かね?)である。これに対して日本政府から派遣された留学生は威張っている。これを彼は(どうやら「他」=「彼」らしい)諷刺して「共通一次男」と呼んでいる。――でよろしいか? 中国語のできる人は自分で読んでください。
 もう一つ、台湾の新聞から村上さんの写真とサインです。

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2007年1月24日 (水)

センター試験を廃止しろ

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 1980年代のいつごろであったか、予備校の教員室で雑談していて、同僚の先生に
「共通一次試験はどうなりますかね。僕はそのうちなくなると思うけど」
と言ったことがある。共通一次試験というのは、現在のセンター試験の前身である。1979年から1989年まで行われ、1990年からセンター試験と改称された。
「なくなるものか。あんたは物の見方が甘いよ」
と一蹴されてしまった。この先生曰く、共通一次試験がこれだけ大規模に行われているということは、試験事務を担当する役人がたくさんいてポストがたくさんある、ということだ。役人がいったん出来たポストを手放すと思うかね。ポストがあればそのための仕事を無理にでも作り出すのが役人というものだぜ。

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「大学入試センター」という立派な役所が出来上がり(今は「独立行政法人」だという。ふつうの役所とどう違うのか?)、その役所でしかるべきポストに就いているお役人には仕事が必要だ。「センター試験」とはよく言ったものだ。本当にあの先生の言ったように、入試センターをなくせないのだから、試験がなくなるはずがない。
 まことに不明の至りだった。でも、「そのうちなくなる」なんて希望的観測を述べたのは、共通一次試験の弊害があまりにも明らかだったからだ。この試験の導入前に小室直樹氏が「共通一次試験は必ず失敗する」と予言していたが(毎日新聞社「エコノミスト」誌1979年1月30日、2月6日、2月23日号)、まったくその通りになったのだ。

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http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/

 小室氏の「共通一次試験は必ず失敗する」という記事は、上、中、下としてエコノミストの3号に載ったのだが、その副題はそれぞれ「階層構成機能を強め、特権校を助長」「社会科学的分析を欠いた対症療法」「受験産業栄え、教育滅ぶ」であった。まことにその通りではないか。
 というぐらいのことは、誰でも分かっているはずなのに言う人は少ない。
「青空学園数学科」http://www33.ocn.ne.jp/~aozora_gakuen/
の主催者が次のように述べている。

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(以下引用)
 私の子供が99年に大学に入りました.今の大学はどうなっているのか見てやろうと思って,父兄の入学式入場券をくれたので,入学式にいってみました.
 学長は入学試験というものについて次のことを言っていました.
 センター試験は全くその人の力を測ることにはなっていない.今年の地理の問題で,ある国の主要な生産物を問う問題が出ていた.地理学の教授に聞いたが,大学センターが正解としているものを主要な生産物とは断定できない,と言っていた.それをマーク式で答えさせるなんて無意味だ.じっくり読めば読むほど時間が足りなくなるような試験は,試験でない.
 諸君は受験競争を勝ち抜いてここに来たのだが,大学での勉強は,受験勉強とはまったく違う.受験の学力と大学に入ってからの力とは別のものである.
 私はそれを聞いて無性に腹が立ちました.国立大学の学長が何を無責任なことを言っているのか.本当にセンター試験が無意味だと言うなら,センター試験を廃止するために学長としてなすべきことをすべきである.それをせずに,試験の弊害を入学式で得々としゃべるのは,偽善であり,無責任である.
(引用終わり)

 まことにその通り。誰かこの人に反論できるだろうか? こういう無責任ばかりがはびこって、どうなったか? 
 馬鹿が増えた。以前もある程度馬鹿はいたが、共通一次試験/センター試験以後は馬鹿が著しく増殖した。

 もう一つ引用をしたい。作家の村上春樹氏は1990年代の初めにプリンストン大学に滞在していた。そのときのことを講談社の雑誌『本』に92年から93年にかけて連載した。

 この『やがて哀しき外国語』の終わりの方で、プリンストンで会った「どうしようもない人(日本人)」たちのことを書いている。
(以下引用)
 でも中にはまったくどうしようもない人がいる。そしてそういう人々の多くは、どういうわけかいわゆる「超エリート」である。会っていちおうの挨拶をした次の瞬間から「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」と、滔々と説明を始めるような人々である。だいたい僕らが大学に入った頃には共通一次なんてものはなかったので、のっけからそんなこと言われても何が何やらよくわからない。しかしもっとよくわからないのが、自己紹介がわりに共通一次の点数を持ち出す人間の神経である。いったい何を考えているのだろうか。こういう人たちがエリートの役人として、日本で幅をきかせてエバッているのかと思うと(アメリカに来てもかなりエバッていた)、これはちょっと困ったことなんじゃないかなという気がする。
 という話をプリンストンで勉強している日本人の女子学生にしていたら、「あ、そういうの多いんですよ。珍しくありません。この前もひとり会いました」ということだった。ニューヨークから電車で帰ってくるときにたまたま日本人の男と隣になったら、それが派遣組の役人で、「僕は……省で……課長補佐(だかなんだか)をしていてね、共通一次は……点なんだよ」と延々まくしたてたらしい。馬鹿馬鹿しいのでろくに相手にしなかったら、腹を立てて憎々しげな捨て台詞を残して向こうに行ったという。「まったくあの人たち何を考えているんでしょうね」と彼女も呆れていたけれど、まったく本当に何を考えているのかしらん。(引用終わり。まだ続くけれど)

 信じられない。本当だろうか? やっぱり本当でしょうね。「高松市には甲村記念図書館がある」というのは村上さんが作った話だが、この本は『海辺のカフカ』のような小説ではない。エッセイなのだ。作り話を書くはずがない。
 もちろん昔から学歴自慢の人はいくらもいた。でも仮に「僕は東大卒だから早稲田卒の村上君より偉い」なんて思っている人がいたとしても、ひそかに思うだけで、まさか口には出さなかった。ましてや試験で何点だなんて! これは明らかに共通一次以降の現象である。共通一次試験とセンター試験は、「階層構成機能を強め、特権校を助長」しただけではない。馬鹿を作ったのだ。

 村上さんがプリンストンにいたのはもう十何年も前のことだから、この課長補佐(だかなんだか)の人たちは今や……省で指導的立場にいるはずだ。官僚を辞めて政治家になった人もいるだろう。
 これは怖いことだよ。ワタヤノボルみたいな奴も怖いけれど

 馬鹿はもっと怖い。何倍も怖い。

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2007年1月20日 (土)

村上春樹を英語で読む

 4月からあるカルチャーセンターで「村上春樹を英語で読む」という講座を始めようかという話がある。(あるカルチャーセンターなどと曖昧なことを書くのは、まだ未定の要素があるから。)
 村上春樹の小説はほとんどが英訳されている。その中から一冊選ぶとして、短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)の英訳After the Quakeを「英語の本として」読んでみる、というのはどうだろう。

Five straight days she spent in front of the television, staring at crumbled banks and hospitals, whose blocks of stores in flames, several rail lines and expressways. She never said a word. Sunk deep in the cushions of the sofa, her mouth clamped shut, she wouldn't answer when Komura spoke to her. She wouldn't shake her head or nod. Komura could not be sure the sound of his voice was even getting through to her.

 第一短編『UFOが釧路に降りる』の英訳UFO in Kushiroの書き出しである。

  これなら英語の本を読むのがはじめてという人でも、何とか読めるはずだ。翻訳では凝った言い回しやむつかしい単語は使わない。何より、分からなくなれば日本語の方をのぞいてみればよいのだ。いわば「補助輪付きで『原書』を読む」のである。
 こうやって英語で書いてある本をともかく読むのに慣れることに、まず意義があると思う。「英語を読む」というと、週刊誌の『タイム』を読むなんてのが流行っているようだけれど、そんなことをする人の気が知れないね。

 アメリカ人が日本語を勉強するときは、源氏物語や夏目漱石や村上春樹を読むはずだ。週刊文春や週刊朝日をわざわざ辞書を引いて読むなんて馬鹿なことはしない。
 日本語でも英語でも、週刊誌は斜めに読むものだ。ゆっくり時間をかけて読むためには「ゆっくり読む値打ちのあるテキスト」でなければならない。
 村上春樹の小説は繰り返して読んで面白いし、別の言語で読んでみるとまた一層面白いのである。私は『神の子どもたちはみな踊る』はドイツ語訳のNach dem Bebenで読み直してみたが、日本語で読んだときは見逃していた細部の仕掛けに気がついた。
 たとえば、最後の短編『蜂蜜パイ』では、小夜子が娘の沙羅にねだられて淳平の前で「ブラはずし」をやってみせる。
「服を着たままブラをはずして、テーブルの上に置いて、それをまたつけるの。いっこの手はいつもテーブルの上に載せておかなくちゃいけないの。それで時間をはかるの。ママはすごくうまいんだよ」
  ゆっくり読むとこのエピソードの「必然性」が分かる。村上春樹は小説がうまいなあ、と当たり前のことに感心するのである。

 味をしめてKafka am Strandを読んだが、これも大変よろしかった。もちろん『海辺のカフカ』ですね。Gefaehrliche Geliebteというのも読んでみた。これは『国境の南、太陽の西』である。この本はドイツではテレビの書評番組(というのがあるらしい)で、有名な文芸評論家が「単なるエロ小説である。文学的ファーストフードである」とこき下ろし、これに別の文芸評論家が反発して村上擁護論をぶって大喧嘩になったのだそうだ。これで「そんなにエロならば読んでみようか」という読者が殺到して、ドイツでは村上春樹がベストセラー作家になったのだという。そう言えば『海辺のカフカ』の独訳が出たのは英訳よりずっと早かった。
 
 外国語訳で読んで違和感がある作家とそうでない作家がいて、村上春樹は後者に属すると思う。川端康成の雪国の英訳Snow Countryは、訳者のサイデンステッカー氏が頑張っていることはよく分かるのだが、英語で読むとどうも西洋人が和服を着ているところを見たような落ち着かない気分になる。もちろん日本人が英語で川端康成を読む必要は毛頭ないので、原文の日本語で読めばよいだけのことである。
 村上春樹の『東京奇譚集』は、月刊『新潮』に連載した4編と書き下ろしの1編をおさめているが、私はこの中の『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は英訳のWhere I'm Likely to Find Itの方を先に読んだ。ニューヨーカーのオンライン版からダウンロードできたからである。(今はオンラインでは読めない。短編集Blind Willow, Sleeping Womanに収録。)これは、はじめから英語で書いたものだと言われれば信じてしまいそうな感じである。凶器みたいに尖ったハイヒールを履いた女が「私」の事務所にやってきて夫を捜してくれと依頼するところなどは、まったくレイモンド・チャンドラーである(すぐにMurakamiesqueな展開が始まるが)。日本語版の方が上手な翻訳みたいな感じがする。

 カルチャーセンターの講座は、実際に開講するかどうかまだ未定であるが、村上春樹を入り口にして英語の本を読む楽しみを味わってもらえればと思っている。

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2006年2月 9日 (木)

原文が間違っている!

 翻訳すべき原文が間違っていることがありますね。そういう場合、翻訳者の皆さん、どうしていますか?
  私が手がけた『ガンディーと使徒たち』の翻訳では、著者の記憶違いで年号が間違っている箇所があった。これはもちろん黙って正しい年号に直しておきました。

  村上春樹の『羊をめぐる冒険』の英訳A Wild Sheep Chase(translated by Alfred Birnbaum)は、かなり省略があって少々乱暴な訳です。誤訳もある。自動車の「セリカ」をわざわざNissan Celicaと訳しているのなどは、まあご愛敬でしょうが。
 しかしBirnbaumさんが村上さんの間違いを訂正している箇所もあります。

「一九三四年に羊博士は東京に呼び戻され、陸軍の若い将官に引き合わされた。将官は来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立していただきたい、と言った。」
 
 どこが間違いか、分かりますか? はい、「若い将官」が間違いですね。将官というのは、もちろん大将、中将、少将を言う。五十歳くらいにならないと大日本帝国陸軍の少将にはなれなかったはず。若い「将校」のつもりでうっかり「将官」と書いてしまったのでしょう。後にノモンハン事件を調べて『ねじ巻き鳥クロニクル』を書くことになる村上さんも、このころはまだ若くて昔の軍隊のことなどよく知らなかったらしい。
 英訳は
In 1934, the Sheep Professor was called back to Tokyo and was introduced to a young army officer. For the big, immiment North China campaign, the Sheep Profesor was asked to establish a self-sufficiency program based on sheep.

  a young army officerとなっています。将官をそのまま訳せばgeneralになるところ。なお、羊博士をSheep Professorと訳してあるのは誤訳ではありません。英語のDoctorはそんなに偉くないので、ここはProfessorでなければならない。
「羊毛の自給自足体制を確立」をto establish a self-sufficiency program based on sheepは、微妙にずれているような気もする。少なくとも私には書けない英語だ。これが英語らしい英語なのだろうか? 英米人にはもう一人の翻訳者Jay RubinよりもBirnbaumの文章の方がよいという人もいるようだけど、どんなものだろう?

今度は同じ箇所を、ドイツ語訳 Wilde Schafsjagdで見てみましょう。

1934 wurde er nach Tokyo zurueckbeordert und einem jungen Armeegeneral vorgestellt. Angesichts des bevorstehenden grossangelegten Vormarschs der Armee nach Nordchina beauftragte der General ihn mit der Plannung und Durchfuerung eines Selbstversorgunssystems fuer Schafwolle.  (ウムラウトをeで置き換えた。)

「将官」の訳語は、ArmeegeneralとGeneralになっています。ドイツ語の訳者はJuergen Stalphという人ですが、この人に限らず、ドイツ人は律儀に直訳する傾向がある。「来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて」など、Angesichts以下できちんと訳してあります。しかし、原文の間違いには気がつかなかった。
 なぜ気がつかなかったかというと、無理もない事情があるのです。ドイツ国防軍では「若い将官」は特に珍しくなかったからです。日本の場合、昇進は徹頭徹尾、年功序列だったけれども、ドイツでは、特にヒトラーが総統になって以降は、三十代前半で少将に抜擢されるケースがかなりあったようです。
 ドイツの「若い将官」ならば、「羊毛の自給自足体制確立」というような実務にも自分で取り組んだでしょう。しかし旧日本軍では、将軍は閣下として祭り上げられていて、何でも佐官クラスが取り仕切っていた。ノモンハン事件(1939年)も、少佐参謀だった辻正信が主導権を握って関東軍を引き回して起こしたらしい。
 1934年に羊博士と接触したという若い「将校」も、せいぜい少佐くらいでしょう。ひょっとしたら辻正信本人だったかも知れない。まだ大尉か中尉くらいだったでしょうが。
 この辺の事情は、なかなか外国人には分からない。英訳者のBirnbaumさんはあまり細かいことにこだわらずに勢いで訳してしまうので、ときどき間違いもあるのだけれど、この場合は怪我の功名だったのでしょう。

 産業翻訳、特に日本語から英語への翻訳では、原文の間違いは毎回のようにありますね。
 翻訳者にも「守秘義務」があるので、むやみに例を挙げられませんが、sourceが特定できないものなら構わないでしょう。

 某大企業の会長の挨拶の原稿ですが、どこが間違いか分かりますか?

「本日はXXXXの開会式に、文仁親王・同妃、両殿下のご臨席を賜り……」

 もちろん「文仁親王・同妃、両殿下」がおかしいのです。昔なら不敬罪ものだ。皇族のお名前をむやみに呼ぶものではない。ましてや、この場合はご本人が目の前においでになるのだ。当然「秋篠宮両殿下」でなければならない。
 女性週刊誌やテレビで「雅子様」「紀子様」「愛子様」などと言うのは仕方がない。しかし、大企業の総務部員ともあろうものが、これくらいの常識がなくては困る。右翼の街宣車が来たらどうするつもりだ。普通の人だって、たとえば「山田課長」の代わりに「太郎さん」なんて呼ばれればムッとするでしょう――というような話をして、原文を直してもらいました。

 ところで、一昨日のニュースによれば「秋篠宮妃殿下紀子様はご懐妊なさった」そうですね。おめでとうございます。
 

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