軍事

2012年8月15日 (水)

オレンジ計画(敗戦記念日に)

オレンジ計画(ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%A8%88%E7%94%BB

オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、War Plan Orange)は戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国日本)との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。カラーコード戦争計画のひとつであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別視していたわけではない。しかしながら、最終的には原爆投下の原動力となった側面は見逃すことは出来ない。計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用されている[1]。そして無辜の市民を殺傷したのである。
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2011年1月 8日 (土)

旅順の陥落

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V・I・レーニン 1905年1月14日

 「旅順は降伏した。
 この事件は、現代史上のもっとも大きな事件の一つである。きのう電報で文明世界のすみずみにつたえられたこの数語は、圧倒的な印象、巨大で恐ろしい破局、言葉ではつたえがたい不幸の印象、を呼びおこす。強大な一帝国の精神的力が地に落ち、まだしかるべき発展を遂げることができなかった若い一人種の威信がうすれつつある。一個の政治体制全体に判決がくだされ、長々しい野心の連鎖が中断され、大きな努力がうちくだかれつつある。もちろん、旅順の陥落はすでにはやくから予見されていたし、人々はすでにはやくから口さきでごまかし、用意の文句で自分をなぐさめてきた。しかし、目に見えて明らかな、なまの事実が、因襲的な虚偽の全体をうちくだいている。いまでは、生じた崩壊の意義を緩和することはできない。ここにはじめて旧世界は取りかえしのつかない敗北ではずかしめられたが、この敗北は、あれほども神秘につつまれた、見たところ少年のように若い、きのう文明へ呼びだされたばかりの新世界によって、くわえられたのである」。
 ヨーロッパのある大ブルジョア新聞は、この事件の直接の印象のもとに、こう書いている。ところで、ここでみとめなければならないのは、この新聞はヨーロッパのブルジョアジー全体の気分をあざやかに表現することに成功したにとどまらないということである。新しいブルジョア世界の成功に不安を感じ、長いあいだヨーロッパの反動のもっとも頼りになる砦とみなされてきたロシアの軍事力の崩壊に肝をつぶした、旧世界のブルジョアジーの真の階級的本能が、この新聞の口を通じてかたっているのである。戦争に参加していないヨーロッパのブルジョアジーさえもが、やはりはずかしめられ圧倒されたように感じているのは、ふしぎなことではない。彼らは、ロシアの精神的力とヨーロッパの憲兵の軍事力とを同じものと見ることに、それほど慣れていたのである。彼らにとっては、若いロシア人種の威信は、現代の「秩序」をかたくまもっている、ゆるぎのない強力なツァーリ権力の威信と、切りはなしえないようにむすびついていた。だから、支配者、命令者たるロシアの破局が、ヨーロッパのブルジョアジー全体に「恐ろしいこと」とおもわれるのも、ふしぎなことではない。この破局は、全世界の資本主義的発展が異常に促進されること、歴史が促進されることを意味するが、ブルジョアジーは、このような促進がプロレタリアートの社会革命を促進するものであることを、非常によく、あまりにもよく知っており、苦い経験によって知っているからである。西ヨーロッパのブルジョアジーは、長いあいだの停滞の空気のなかで、「強大な帝国」の庇護のもとで、大いに身の安全を感じていた。ところがとつぜん、ある「神秘につつまれた、少年のように若い」力が、大胆にもこの停滞を打破し、この支柱を粉砕するのである。
  そうだ、ヨーロッパのブルジョアジーには、おそれるだけの理由がある。だが、プロレタリアートには、喜んでよい理由がある。われわれのもっとも兇悪な敵の破局は、ロシアの自由が近づいていることを意味するばかりではない。それは、ヨーロッパのプロレタリアートの新しい革命的高揚をも予告しているのである。
 しかし、なぜ、そしてどの程度に、旅順の陥落は真に歴史的な破局なのか?
 まず第一に目につくのは、戦争の経過におけるこの事件の意義である。日本人にとっての戦争のおもな目的は達成された。進歩的な、すすんだアジアは、おくれた、反動的なヨーロッパに、取りかえしのつかない打撃をあたえた。一〇年まえ、ロシアを先頭とするこの反動的ヨーロッパは、若い日本が中国を壊滅させたことに不安をいだき、日本から勝利の最良の果実を奪いとるために結束した。ヨーロッパは、旧世界の既成の諸関係と特権、その優先権、アジアの諸民族を搾取するという、長い年月によって神聖化された古来の権利を、まもった。日本が旅順をとりもどしたことは、反動的ヨーロッパ全体にくわえられた打撃である。ロシアは六年のあいだ旅順を領有し、幾億、幾十億ルーブリを費して、戦略的な鉄道をしき、港をつくり、新しい都市を建設し、要塞を強化した。 この要塞は、ロシアに買収され、ロシアに奴隷的につかえているヨーロッパの多数の新聞がみな、難攻不落だとしてほめたたえたものである。軍事評論家たちは、旅順の力は六つのセヴァストーポリに等しいと言っている。とごろが、イギリスとフランスがいっしょになってセヴァストーポリ一つの占領にまる一年もかかったのに、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、八ヵ月でこの要塞を占領したのである。この軍事的打撃は取りかえしのつかないものである。制海権の問題も――これはこんどの戦争における主要で根本的な問題なのだが――決定された。はじめのうちは日本の艦隊にまさるともけっしておとらなかったロシアの太平洋艦隊は、決定的に壊滅させられた。艦隊の作戦基地そのものが奪いとられ、ロジヂェストヴェンスキー艦隊は、あらたに数百万ルーブリを空費したのち、イギリスの漁船にたいするいかめしい戦艦の大勝利ののちに、すごすごとあとへひきかえすよりほかに仕方がなかったのである。艦隊だけでロシアのこうむった物質的損失だけでも、三億ルーブリの額に達するとみられている。しかし、さらに重大なのは、一万人もの優秀な海兵隊を失ったこと、一つの陸上軍をそっくり失ったことである。多くのヨーロッパの新聞は、いまではこれらの損失の意義をかるく見ることにつとめ、そのさい、こっけいなまでに熱を入れ、あげくのはては、クロパトキンは「重荷がおりた」、旅順についての配慮を「免除された]とまで言っている! ロシア軍は、一軍全体をも免除されたのだ。捕虜の数は、イギリスの最近の資料によれば、四万八千人に達し、さらに幾千人かが、金州付近の戦闘と要塞そのものの付近の戦闘でたおれている。日本軍は、遼東半島全体を完全に占領し、朝鮮、中国、満州に圧力をくわえるための測りしれない重要性をもつ拠点を獲得しようとしている。それはまた、八万―一○万の歴戦の一軍、しかも巨大な車砲力をもった一軍の手をあげて自由にクロパトキンとたたかいうるようにした。そして、この重砲力が沙河に到着すると、日本軍はロシア軍主力にたいして圧倒的に優勢となるであろう。 
 そうだ。専制はよわめられた。いちばん信じようとしない人々までが、革命がおこることを信じはじめている。人々が全般的に革命を信じることは、すでに革命の始まりである。それの続きについては、政府自身がその軍事的冒険によって、配慮している。そして、重大な革命的攻撃を支持しそれを拡大させることについては、ロシアのプロレタリアートが配慮するであろう。
 外国新聞の報道によれば、専制政府は、ぜがひでも戦争を継続することにきめ、クロパトキンに二〇万人の軍隊をおくることに決したといわれる。戦争がまだ長くつづくことは大いにありうることだが、しかし勝利の見込みがないことはすでに明らかである。そして、およそ戦争が長びけば、ロシアの人民が専制のくびきをなおしのんでいることからこうむる測りしれない困苦は、つよまるばかりであろう。いままででも日本軍は、どの大会戦のあとでも、自己の軍事力をロシア軍よりすみやかに、豊富に補強してきた。ところで、完全に制海権をにぎり、ロシアの一軍を全滅させた今では、日本軍はロシア軍よりも二倍も大きな増援軍をおくりうるであろう。日本軍の優秀な砲兵力の全量は、要塞戦につかわれていたにもかかわらず、日本軍はいままでロシアの将軍たちをつづけざまにうちやぶってきた。日本軍はいまやその兵力の完全な集中をなしとげたが、ロシア軍はサハリン〔樺太〕ばかりでなく、ウラヂヴォストックにも気をくばらなければならない。日本軍は、満州の最良の、もっとも人口の多い部分を占領したのであって、彼らはここで、征服した国の資材で、しかも中国の援助を得て、軍隊を給養することができる。ところが、ロシア軍は、ますますロシアからはこばれてくる糧食だけにたよらなければならなくなり、隊をこれ以上増強することは、十分な量の糧食の輸送が不可能なため、クロパトキンにとってまもなく不可能となるであろう。
 しかし、専制がこうむった軍事的崩壊は、わが国の政治制度全体の破滅の兆候として、よりいっそう大きな意義を得ている。戦争が雇い兵か、もしくは人民からなかば切りはなされたカストの代表によって行われていた時期は、またとかえらぬ過去となった。戦争は、いまでは国民によって行われる。――ネミロヴィチ-ダンチェンコの証言によれば、クロパトキンでさえ、この真理が単なる飾り文句でないことを、いまでは理解しはじめているという。戦争は、いまでは国民によって行われるのであり、だから、現在では戦争のつぎのような大きな特性がとくにはっきりと現れてくる。それは、いままではごく少数の自覚した人々にしかわかっていなかった、人民と政府との不一致を、数千万の人々の月のまえに現実に暴露するということである。ロシアのすべての進歩的な人々が、ロシアの社会民主党が、ロシアのプロレタリアートが、専制にくわえている批判は、いまや日本の武器の批判によって裏書きされている。しかも、その裏書きの仕方は、専制がなにを意味するかを知らない人々でさえが、また、このことを知っていながらしかも全心をうちこんで専制をまもろうとしている人々でさえが、専制のもとで生きることの不可能なことをますます感じつつあるほどのものである。人民が実際に自分の血で専制の勘定を支払ってやらなければならなくなるやいなや、専制が社会発展全体の利益や全人民(ひとにぎりの官吏とかお歴々以外の)の利益と両立しないことが目に見えて明らかになった。専制は、ばかげた犯罪的な植民地冒険によって袋小路にはいりこんだのであって、この袋小路からは、人民自身だけが、しかもツァーリズムの破壊という代価をはらってはじめて、脱げだすことができるのである。
 旅順の陥落は、ツァーリズムのもろもろの罪悪にもっとも大きな歴史的総決算の一つをつけるものである。これらの罪悪は、戦争がはじまった当初から表面に出はじめたが、いまやますます広範に表面に出て、ますますおさえがたくなるであろう。わが亡きのちに洪水きたらばきたれ!――大小のアレクセーエフたちはみな、洪水がほんとうにやってくるとはおもいもしなければ信じもしないで、こう論じていた。だが、将軍や軍司令官たちが無能でくだらない連中であることがわかった。一九〇四年の戦役の全史は、イギリスのある軍事評論家の権威ある証言(『タイムス』紙上の)によれば、「陸海戦略の初歩的原則を犯罪的なやり方でないがしろにしたもの」であった。 文武の官僚は、農奴制度の時代とまったく同じ、ごくつぶしの汚吏であることがわかった。将校は、無教育で、未熟で、訓練を欠き、兵士との緊密な結びつきをもたず、彼らの信頼を得ていないことがわかった。農民大衆の蒙昧、無知、無学、萎縮は、近代技術が要求すると同様の、高い質の人的材料を必然的に要求する近代戦において、進歩的な一国民とぶつかったとき、おそろしいほどあからさまに現れた。創意に富んだ意識的な兵士や水兵なしには、近代戦での成功は不可能である。小口径速射銃と機関銃の時代、艦船が複雑な技術的構造をもち、陸上の戦闘に散開隊形がとられる時代には、どんな忍耐強さも、どんな肉体力も、大衆闘争のどんな群衆心理や結束も、優越をあたえることはできない。専制ロシアの軍事的威力は見かけだおしのものであることがわかった。ッァーリズムは、最新の要求に応じうる近代的な軍事組織にとってじゃまものであることがわかった。――しかも、この軍事こそは、ツァーリズムが全心をうちこんできたものであり、なによりも誇りとしてきたものであり、また、人民のどんな反対をもおしきって測りしれない犠牲をはらってきたものである。白く塗りたる墓――専制は、対外防衛の分野で、すなわち、それにもっとも縁が深くて、もっとも身近な、いってみればその専門の分野で、まさにこういうものだったのである。もろもろの事件は、豪華な軍艦の購入と建造に何億ルーブリという金が投じられるのを見てわらって、現代の艦船をあやつる能力がないのだから、また、実際知識をもって軍事技術の最新の改善を利用することのできる人間がいないのだから、これらの出費は無益である、と言っていた外国人たちが正しかったことを確証した。艦隊も、要塞も、野戦堡塁も、陸上軍も、みな時代おくれでなんの役にもたたないことがわかった。
 国の軍事組織と、国の経済体制および文化制度とのあいだの関連が、現在ほど緊密であったことはかつてない。だから、軍事的崩壊は深刻な政治的危機の始まりとならずにはおかなかった。すすんだ国とおくれた国との戦争は、すでにいくたびか歴史上にあったように、こんども偉大な革命的役割を演じた。そして、戦争――あらゆる階級支配一般の必然的で取りのぞきえない同伴物――の仮借することのない敵である自覚したプロレタリアートは、専制を壊滅させた日本のブルジョアジーがはたしているこの革命的任務に、目をふさぐことはできない。プロレタリアートは、あらゆるブルジョアジーとブルジョア制度のあらゆる現れとに敵意をもつが、しかし、このように敵意をもつからといって、プロレタリアートは、ブルジョアジーの歴史的に進歩的な代表者と反動的な代表者とを区別する義務をまぬかれはしない。だから、革命的な国際社会民主主義のもっとも一貫した断固たる代表者であるフランスのジュール・ゲードとイギリスのハインドマンとが、ロシアの専制を粉砕しつつある日本にたいする同情を率直に表明したことは、まったく当然である。もちろん、わがロシアでは、この問題でも思想の混乱をしめした社会主義者があった。『レヴォリュツィオンナヤ・ロシア』は、ゲードとハインドマンをしかりつけて、社会主義者が支持できるのは労働者の日本、人民の日本だけであって、ブルジョアジーの日本ではない、と声明した。この叱責がばかげているのは、ちょうど、保護関税派のブルジョアジーとくらべて自由貿易派のブルジョアジーのほうが進歩的であるとみとめたからといって、社会主義者を非難しようとするのと同じである。ゲードとハインドマンは、日本のブルジョアジーと日本の帝国主義を擁護したのではない。彼らは、二つのブルジョア国の衝突の問題で、両国のうちの一目の歴史的に進歩的な役割をただしく指摘したのである。「社会革命派《エス・エル》」の思想の混乱は、もちろん、わが国の急進的インテリゲンツィアに階級的見地と史的唯物論とが理解できないことの避けられない結果であった。新『イスクラ』も混乱をしめさずにいることはできなかった。同紙は、はじめのうちは、ぜがひでも平和だという空文句をすくなからずしゃべっていた。のちに、平和一般のためのえせ社会主義的な運動は、進歩的ブルジョアジーと反動的ブルジョアジーとのどちらかの利益にかならず奉仕することになるのを、ジョレースがはっきりとしめすというと、この新聞は「前言を訂正」しようともがいた。いまではこの新聞はついに、日本ブルジョアジーの勝利を「あてこむ」(!!?)ことは時宜をえたものでないとか、戦争は、それが専制の勝利におわろうと敗北におわろうと、「それにはかかわりなく」災厄であるとかいう、月なみの議論を吐くまでになっている。
 そうではないのだ。ロシアの自由の大業とロシア(および全世界)のプロレタリアートの社会主義のための闘争の大業は、専制の軍事的敗北に大いにかかっている。この大業は、ヨーロッパの現秩序守護者のすべてに恐怖の念をあたえている軍事的崩壊から、大きな利益を得た。革命的プロレタリアートは、戦争反対の煽動を倦むことなく行わなければならないが、そのさい、一般に階級支配が存続しているかぎり戦争は除去されえないことを、つねに記憶していなければならない。平和にかんするジョレース流の月なみ文句は、被抑圧階級には役にたたない。被抑圧階級は、二つのブルジョア民族のあいだのブルジョア的な戦争にたいしては責任がなく、あらゆるブルジョアジー一般を転覆するためにあらゆることを行っており、そして、「平和な」資本主義的搾取の時期にも人民の災厄が限りなく大きいことを知っている。しかし、自由競争に反対して戦争しながらも、われわれは、それが半農奴制度とくらべては、進歩的であることをわすれることはできない。あらゆる戦争とあらゆるブルジョアジーに反対して闘争しながらも、われわれは、煽動を行うさいには、進歩的ブルジョアジーと農奴制的専制とを厳格に区別しなければならず、また、ロシアの労働者が不本意ながらも参加者となっている歴史的戦争の偉大な革命的役割につねに注意しなければならない。
 古いブルジョア世界と新しいブルジョア世界との戦争に転化したこの植民地戦争をはじめたのは、ロシアの人民ではなく、ロシアの専制である。恥すべき敗北に陥ったのは、ロシアの人民ではなく、専制である。ロシアの人民は専制の敗北によって利益を得た。旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。戦争はまだけっしておわっていないが、戦争が継続すれば、それだけロシアの人民のなかでの動揺と憤激はかぎりなく拡大し、新しい偉大な戦争、専制にたいする人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいてくる。ヨーロッパのもっともおちついて冷静なブルジョアジーさえもがひどく狼狽しているのも、理由のないことではない。彼らは、自由主義にたいするロシアの専制の譲歩には心から同感してはいるが、ヨーロッパ革命の序幕としてのロシア革命を火よりもおそれているのである。
 ドイツ・ブルジョアジーのこうした冷静な機関紙の一つは〔『フォシシェ・ツァイトゥング』、 一九○五年一月六日〕つぎのように書いている。「ロシアに革命が爆発するなどということはまったくありえない事がらだ、という意見が、かたく根をおろしていた。人々はこの意見を、ありとあらゆる論拠で擁護している。ロシアの農民の不動性とか、彼らはツァーリを信仰し、僧侶に依存しているとかいうことが、引合いに出される。不平分子のなかの極端な分子は一にぎりの人間にすぎず、盲動(小さな燃えあがり)とテロリスト的な暗殺を組織することはできても、全般的な蜂起を呼びおこすことはけっしてできないと人々は言う。不平分子の広範な大衆には、組織と武器がたりず、そしてこれが主要なことだが、危険をおかしてやってみる決意が欠けている、とわれわれは聞かされる。ロシアのインテリゲンツィアは、普通ほぼ三〇歳ぐらいまで革命的気分をもっているだけで、そのあとは、官職の居心地のよい巣にぐあいよく身をおちつけてしまう。こうして、熱狂家の大部分は平凡な役人への転化をなしとげるのである」。しかし――と、この新聞はつづけて言う、いまでは、いくたの兆候が一大変化を証拠だてている。ロシアの革命についてかたっているのは、もはや革命家ばかりではなく、〔イェ・エヌ・〕トルベツコイ公爵のような――内務大臣あての彼の手紙は、いま外国のあらゆる新聞に転戦されている――、「熱中」などとはまったく縁のない、秩序の堅実な支柱でさえも、それをかたっている。「ロシアで革命が懸念されているのには、あきらかに事実的な根拠がある。なるほど、ロシアの農民が熊手を手にとって憲法をたたかいとりにでかけるなどということは、だれも考えていない。しかし、革命ははたして農村でおこるのだろうか? 現代史における革命運動の担い手には、ずっとまえから大都市がなっている。ところが、ロシアでは、南から北まで、東から西まで、ほかならぬ都市に動揺がおこっている。この結末がどうなるかについては、だれも予言しようとするものはないが、しかし、ロシアでは革命はありえないと考えている人々の数か日一日と減少しつつあることは、疑いない事実である。そして、もし重大な革命的爆発があとにつづいてやってくるなら、極東の戦争でよわめられた専制がそれを制御できるかどうかは、まったく疑わしい」。
 そうだ。専制はよわめられた。いちばん信じようとしない人々までが、革命がおこることを信じはじめている。人々が全般的に革命を信じることは、すでに革命の始まりである。それの続きについては、政府自身がその軍事的冒険によって、配慮している。そして、重大な革命的攻撃を支持しそれを拡大させることについては、ロシアのプロレタリアートが配慮するであろう。

Lenin

http://www.geocities.jp/meltext001/lenin/l08/l08-033.htmlより

http://www.geocities.jp/meltext001/ で『共産党宣言』『国家と革命』などが学習できます。

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2010年12月 1日 (水)

戦略防衛「構想」

 ウィキペディア英語版によると、SDIが始まったのは1983年3月23日、ロナルド・レーガン大統領が「核兵器を無力化旧式化するプロジェクトをスタートすべし」という演説をしたときだ。

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"I call upon the scientific community who gave us nuclear weapons to turn their great talents to the cause of mankind and world peace: to give us the means of rendering these nuclear weapons impotent and obsolete."

 エドワード・ケネディがこれを評して「スターウォーズじゃあるまいし」と言ったのでthe so-called Star Wars defenseという呼び方ができたらしい。翌1984年にStrategic Defense Initiative Organization(SDIO)ができた。

 日本では当初はテレビでも新聞でも「SDI、いわゆるスターウォーズ計画」と呼んでいた。1980年代に私は「航空宇宙情報」というニューズレターの翻訳をしていて、この日本語を始終書いていた。あるとき、社長兼編集長に相談を受けた。

「あの「いわゆるスターウォーズ計画」というのはバカみたいに聞こえる。ちゃんとした訳語を考えてもらえまいか」
「ようがず。来週までに考えておきましょう」

 Strategic Defenseは「戦略防衛」しかない。問題はInitiativeをどう訳すかだ。当時使っていた辞書はリーダーズ英和辞典の紙版だった。

initiative
1 第一歩, 手始め; 率先, 首唱, 主導; 【軍】 先制.
・have the initiative 《敵に対して》主導権を握っている.
・take the initiative (in doing, to do) 率先してやる, 自発的に先手を打つ, イニシアティブをとる.
2 先駆けて事を行なう才能, 創業の才, 企業心, 独創力.
3 [the ~] 【政】
a 《議会での》発議権, 議案提出権.
・have the initiative 発議権がある.
b 国民[州民, 住民]発案, イニシアティブ《一定数の有権者が立法に関する提案を行なって選挙民や議会の投票に付する制度[権利];
cf. →REFERENDUM》.
on one's own initiative みずから進んで, 自発的に.
a 始めの, 発端の; 初歩の.
[F (INITIATE)]

  ほかの辞書を見ても適当な訳語はない。それまでレーザービーム兵器、レールガン、運動エネルギー兵器等々のまだ「コンセプト」段階のプロジェクトの翻訳をかなりしていたが、そういうものの総合としてのSDIをどう呼べばよいか? 
 戦略防衛構想でよろしいのでは――これは自分で考えたように記憶している。
 このニューズレターは自衛隊や軍需産業やマスコミ関係者が購読していたから、すぐに「いわゆるスターウォーズ計画」は廃れて「戦略防衛構想」で用語が統一された――のだと思う。
 いま私はDDwinというソフトを使って10種類ばかりの電子辞書を串刺し検索している。initiativeを引いてみよう。
 initiativeに「構想」という訳語を宛てているのは、ビジネス技術実用英語大辞典とジーニアス英和大辞典である。

 ジーニアス英和大辞典ではinitiativeの語義の3番目に
 
3. (事態改善への)新規構想, 戦略(cf. SDI).

  ビジネス技術英和大辞典では

initiative
the ~ 主導権, イニシアチブ, 自発性, 自主性, 率先; an ~ 構想;U (無冠詞)事を始める能力, 起業心

この辞書は適切な例文をたくさん挙げているのが特徴だ。

◆an initiative designed to...  ~するために打ち出された構想
◆under an initiative proposed by Mr. Sanders; under the initiative of Mr. Sanders  サンダース氏が提案した[サンダース氏の]構想のもとに
◆launch an initiative to tackle a problem  問題に取り組むために構想を打ち出す
◆The Internal Revenue Service has embarked on several major initiatives that will improve our service to you, the American taxpayer.  米国内国歳入庁(IRS)は, 米国の納税者の皆さんへのサービス改善[向上]を図って, いくつかの大構想に着手しました.

 編者の海野文男・海野和子氏が翻訳の現場で「構想」という訳語を考え出されたことが分かる。

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2010年11月21日 (日)

小林一佐

 小林という人が軍人になり出世して連隊長クラスになると、昔なら日本陸軍の小林大佐である。ところが現代の日本には軍隊はない。自衛隊であるから、小林一佐になる。

「我と来て遊べや親のない雀」
「痩せ蛙 負けるな一茶これにあり」

 廃人に戦争ができるか。日本には平和憲法があるから、戦争はしないのだ。
 尖閣に中国軍が攻めてきたらどうする? 自衛隊が迎え撃つとしても、戦争ではありません。「有事」です――というのは井上和彦氏の本に書いてあった。
 井上氏が「こんなに強い」というのに、清谷信一氏は「防衛破綻」であるという。しかし本の題名は編集部が売れるようにつけるので、そんなに正反対のことを書いているわけではない。
 井上氏は、自衛隊員の士気は高いという。だからこそイラクへ行って無事に帰ってこれたので、いざとなっても強いはずだ――ということになる。しかし「いざ」というのは戦争じゃないの? 自衛隊は軍隊ではなく、日本は戦争はしないので……
 そのあたりのことは清谷氏の本にも書いてある。
 某国軍が日本に上陸し、自衛隊の戦車が出動するとする。しかし、
「戦闘車両が道路から逸脱すると道路交通法違反になるので、交戦自体ができない(もっとも、戦車などの前後に回転灯を点灯したパトカーがつけば一応野戦も可能だが)。」
(清谷p.p. 37-8)
 やはり、自衛隊は軍隊ではなくて、戦争を想定していないのが……
 これが何とかして(どう?)うまく行くとしても、清谷氏によれば、自衛隊は装備の調達に大問題があるという。「ガラパゴス化」である。(続く)

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2010年11月 5日 (金)

尖閣戦争

[青木直人] 仙石官房長官は、船長釈放に政治干渉はなかったといいますが、それを信じる人はいないでしょう。明らかにアメリカ大使館筋からもある種の圧力があったと考えるべきでしょう。といいますのは、アメリカでクリントン国務長官が、「尖閣諸島は日米安保の適用範囲内」と発言をした直後に釈放が行われているからです。つまりこれ以上アメリカも、このことを外交問題化してほしくないんです。それで日本に少しずつリップサービスし、アメをしゃぶらせてあげて、代わりに事態を沈静化させるべく日本側に強烈に釈放を迫ったということでしょう。アメリカも中国との関係をこじらせたくないですから、そういう米中と日本を含む三国の外交的な駆け引きが、実は東シナ海において今回展開された。これは今後の尖閣諸島の動向を見る場合、決定的に重要なポイントです。(p.23)
→青木直人氏 http://aoki.trycomp.com/2010/09/post-249.html
   西尾幹二氏  http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=989

 尖閣の流出動画はhttp://www.youtube.com/watch?v=7t1Z7CuFWxI から始まって6件。海上保安庁は中国語で警告している。領海侵犯であるから問答無用で拿捕してよいはず。撃沈するのも国際法上は正当だ。

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2010年4月12日 (月)

白兵戦について(7)

(第一次世界大戦の)宣戦布告の当時、(パブリック・スクールの)在学生の大半は兵役を志願するには年齢が不足であったが、いずれも適当な口実を藉りて従軍の素志を果たし、そのあるものは遂に生還しなかった。後には徴兵制度に変わったが開戦当初、志願によっていた頃、オックスフォード、ケムブリッジ両大学やパブリック・スクールの学生など、いわゆる、特権階級の子弟が率先して国難に馳せたことは周知のことである。政治上の特権はほとんど失われていたが、なお、社会的には特異な待遇を受けていた彼等の、特権を裏返してそこにともなう義務を潔く果たそうとする希願より出でたことに外ならない。いわゆる『ノブレス・オブリージ』の精神である。
 ピーター・ブレナンの自叙伝の一節であるが、たまたまハロー校で博物学の教師を務めていた彼が、夏休みを利用して教え子の某伯爵の一人息子と自転車旅行に出ている。宣戦布告のニュースを聞くと、二人はそのまま、旅先から自転車を走らせてロンドンに駆けつけ、従軍志願者の長い行列に並ぶ。彼は無事に通るが、少年は十六歳を二十歳と詐ったのを見破られて拒ねられる。ぐるっと回って、また、行列の尻尾につく。三度目に遂々業を煮やした曹長がわざとそっぽを向いている中に、勇躍、関所を通り抜けてしまう。
 それから四年半の後、一人は片脚になって帰り、一人は遂に帰らない。
 ああ勿体ない、イギリスに自転車が二台、余分になった。帰還した日に埠頭ではじめて愛弟子の戦死を聞かされると、ニヤッと笑ってそんな独白をいう。こんな場合ひねくれたことをいってみる癖がイギリス人には多分にある。他人に涙なんか見せられものか。(p.p. 74-5)

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『君死にたまふことなかれ』とはずいぶん違う。「学徒出陣」とも違う。
 しかし、第一次大戦時のイギリス兵も多くは機関銃に向かって無謀な銃剣突撃をさせられて死んだのだ。上層部が愚かだったのは日本陸軍だけではない。

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2010年4月 8日 (木)

白兵戦について(6)

 日露戦争には欧州各国が観戦武官を派遣していた。機関銃を装備した敵に対しては銃剣突撃は無意味である――という報告がなされて、欧州で陸軍戦術の革新が行われたか? 

 1913年になってもなお、(第一次大戦で仏軍の総司令官になる)ジョフルは戦術に関し、フランス陸軍の任務をこう書いている。
「フランス軍は、その伝統に立ち返り、今後は攻撃以外の方策を認めない。(中略)この成果は尊い血の犠牲があってこそ得られるべきものである。これ以外の考え方はどんなものであろうと、戦争の本質に反するものとして排除されるべきだ」
 ドイツの考え方も似たり寄ったりだった。1899年に定められた歩兵軍規が、ほとんど手を加えられずに1914年まで受け継がれていた。それには攻撃について、こう書かれている。
 
 後方にいる司令官が突撃の決定を下すと、その指示に「構え銃」の号令が出される。(中略)突撃の先陣の隊列が整いしだい、全ラッパ手が「前進、駆け足」の合図を吹き鳴らし、全鼓手が太鼓を打ち鳴らし、兵士たちは全員、捨て身の覚悟で敵に突撃する。この時、敵陣につっこむ瞬間まで支援部隊に追いつかれないようにするのが、散兵の面目である。敵陣が目前に迫ったときには、かけ声もろとも銃剣で突撃し、つっこんでいくべし。
(p.p.95-6)

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 1915年6月の英軍の突撃のシーン。もちろん銃後の画家が想像で描いたものだ。
 イギリスでは、機関銃の採用には独仏以上に消極的だった。1914年の開戦時、歩兵一個大隊にヴィッカーズ機関銃が2丁あったが、実戦に使う用意はできていなかった。
 司馬遼太郎によれば「日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった」というが、これは日本陸軍だけの伝統ではなかった。

 機関銃に対する軍の反応は、技術的あるいは財政的配慮にもとづいた理論的なものではなく、時代錯誤的な士官団の伝統に根差すものだった。士官たちの戦争に対する観念は、未だに昔ながらの白兵戦と個人の武勇という信念が中心になっていた。自分たちは戦場で相見えるのであり、そこでは主役は未だ人間であり、勇気と覚悟さえあれば必ず勝てるものだと思っていた。幸運にもイギリス人、あるいはフランス人、ドイツ人に生まれたからには、当然それにふさわしい気質にも恵まれているはずだ。そうした者が、単なる機械に昔ながらの自分たちの特権を奪われるのを容認するわけにはいかない。そこで、機関銃を無視することになった。第一次世界大戦前夜のイギリスの司令官にとっては、機関銃はただ単に存在しなかった。
(機関銃の社会史p.126)

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2010年4月 6日 (火)

白兵戦について(5)

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 解説はhttp://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html

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 お祖母さんと孫だから、よく見ると似てますね。
「すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね」なんて、すごい。よく発禁にならなかったものだ。
 第一回の総攻撃で死傷者1万5800人(戦死者5017人、負傷者10843人)という損害がいかに衝撃的だったかが分かる。

 兵頭二十八氏によると、乃木希典は旅順要塞を攻め落とすのに15400人の戦死者を出したことの責任を取って、明治帝に殉死したのだという。(西南戦争で軍旗を奪われた責任、というのがこれまで言われてきたことだ。)
 ところが、日本ではそれまで一会戦の戦死者が1万人を越えることはほとんどなかったという。

関ヶ原の合戦(1600)で、敵味方合わせて六千人。
大坂夏の陣(1615)では、豊臣方から一万四千~一万八千人の戦死者。徳川方は不明。
戊辰戦争(1868-9)では、東軍7400人。薩摩と長州が千人ずつ。東征に参加した他藩では二百人程度。
西南戦争(1877)では、薩摩側6239人、政府軍4653人。
日清戦争(1894-5)では、1264人の戦死。

 ヨーロッパでは桁が違う。

 1812年6月、皇帝ナポレオンは、フランス国民兵四十五万三千を率いてニエメン河を渡河し、ロシアに侵攻した。
 同年十一月、ナポレオンは攻撃発起点まで戻ってきた。しかし、その退却につきしたがっていたフランス兵の数は、一万以下に減っていた。(兵頭p.57)

 しかし
ロシアに三十万~四十万の死体を捨て逃げ帰ってきたナポレオンを、フランス国民は見捨てなかった。フランス国民の外敵に対する戦意は、以前と変わらず維持されたのだった。(p.58)

 アメリカの南北戦争(1861-65)では、南北双方で六十万~七十万の戦死者が出た。日露戦争の戦死者は56162人で、「大坂夏の陣を含む近代以前の大戦争の記録は、塗り替えられた」(p.62)

このあと、日本は第一次大戦の大殺戮には本格的には参加せずに、第二次大戦に参戦するのである。軍事が分からないのも無理はないだろう。兵頭二十八氏の本を読むべし。

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2010年4月 5日 (月)

白兵戦について(4)

 乃木軍がいよいよ第一回総攻撃をはじめたのは、(1904年)八月十九日からであった。瀋陽会戦の開始よりすこし前であった。ところがこの攻撃が、弱点攻撃をもって対要塞戦の原則とするにもかかわらず、もっとも強靱な盤竜山と東鶏冠山をえらび、その中央を突破して全要塞を真二つに分断しようというほとんど机上案にちかい作戦をたて、実施した。 
 この実施によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷一万五千八百人という巨大なものであり、しかも敵にあたえた損害は軽微で、小塁一つぬけなかった。
(坂の上の雲 文春文庫版(4)p.p.176-7)

 第一回総攻撃では、日本軍の銃剣突撃をロシア軍が機関銃でなぎ倒したのである。
「日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった。」(p.176)
乃木将軍無能説は司馬遼太郎によって定着した。
ところが軍学者の兵頭二十八氏によると、必ずしもそんなことは言えないという。旅順のような要塞を1904年8月19日から翌年1月1日まで半年足らずの短期間で陥落させたのは上出来で、死傷者も多すぎはしない。この辺は詳しく説明してもらわないと素人には分かりかねる。
 しかし、旅順での死傷者数に衝撃を受けたのは、当時の日本人がヨーロッパの諸国民と比べて「戦死」に慣れていなかったからだ――という兵頭説ははじめて聞いたが、説得力がある。明治の日本ではヨーロッパより命の値段が高かったらしい。(続く)

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2010年4月 3日 (土)

白兵戦について(3)

 司馬遼太郎の『竜馬が行く』には、ゲベール銃、ミニエー銃、スナイドル銃、シャスポー銃など、色々な銃の名前が出てきて、どれがどれか分かりにくい。
 戊辰戦争の少し前に、西洋ではつぎつぎと新しい銃が発明されていた。当時はクリミア戦争(1853-56)、インド大反乱(1857-58)、南北戦争(1861-65)などが終わったところで、欧米では銃が余っていた。グラバーのような武器商人が日本に売り込みに来て、坂本竜馬や河合継之助などがどんどん銃を買い付けた。
 ゲベール銃というのは要するにマスケット銃であるらしい。マスケット銃の撃ち方はhttp://geopoli.exblog.jp/10585806/
 ミニエー銃は1849年に発明された。先込め式の銃であるが、銃身は滑腔式ではなくてライフルが刻んである。弾は直径が銃身内径より小さいから銃口から込められるが、発射すると膨張してライフルに食い込んで回転を与えられる。これで射程距離も命中精度も飛躍的に向上した。

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ミニエー銃の銃弾

 スナイドル銃やシャスポー銃は元込め式のライフル銃である。当時はまだ単発だったこと、黒色火薬を用いたことを除けば、現代のライフル銃とほとんど変わらない。
 戊辰戦争では、火縄銃から最新式のライフル銃まで各種の小銃が混用された。
 西洋では、イギリスを例に取れば、ナポレオン戦争でマスケット銃、クリミア戦争でミニエー銃、ボーア戦争(1899-1902)でスナイドル銃を使い、命中精度も発射速度も向上していったが、銃剣は重要な武器だった。ただ、ボーア戦争では相手がゲリラであったから、銃剣突撃の機会はほとんどなかったようだ。

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