コナン・ドイル

2015年6月14日 (日)

コナン・ドイル自伝について

 オスカー・ワイルドとコナン・ドイルがはじめて会ったときの話は、以前にこのブログで書いたことがある。拙訳『コナン・ドイル』(平凡社)にも載っている。
 最後の望みをかけてドイルは『マイカ・クラーク』の原稿をロングマン社に送ってみた。 幸運にもアンドルー・ラングがこの原稿を読んで、出版すべきだと言ってくれた。1889年2月にこの本が刊行される直前に、ドイルはこう書いている。「この10年、懸命に書き続けてきたが、ペンで稼いだのは平均すると1年に50ポンドにもならない」しかし成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット社のために『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。(『コナン・ドイル』より)
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 英文学史上まことに奇妙な組み合わせを記録しているのは、コナン・ドイルである。当時、彼は流行らない医者であり、ほとんど無名の作家であった。ドイルは、アメリカの出版社リッピンコット社の編集者と晩餐をともにするためにサウスシーからロンドンに出て来た。相客はギルという名前のアイルランド人の下院議員とオスカー・ワイルドであった。ワイルドはまず『マイカ・クラーク』を絶賛してドイルを寛がせた。ワイルドの会話はドイルに忘れがたい印象を与えた。「彼は我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた。まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本当の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった」。彼は身振りは少なく言葉は簡潔だったが、活き活きと面白い話をすることができた。未来の戦争はどうなるかという話になると、彼は「敵味方それぞれ一人ずつ化学者がつく。この化学者が瓶を一つ持って前線に出てくるのです」と言った。これを真面目くさった顔で言うので、三人の聞き手は噴き出してしまった。ドイルはワイルドが即興でこしらえた短い話を披露している。「友の幸運は我が不愉快である」という人口に膾炙した言葉が話題になると、ワイルドはたとえ話をしてみせた。あるとき、悪魔の手下どもが聖人を怒らせようとした。しかしいくら頑張っても聖人は泰然自若としている。通りかかった悪魔は手下の失敗を見て、ひとつ教訓を与えようとした。「どうも未熟だなあ。わしがちょっと手本を見せてやる」悪魔はこの隠者に近づくとささやいた。「お兄さんがアレクサンドリアの司教になりましたよ」たちまち賢者の顔は嫉妬と怒りでゆがんだ。「こういうふうにやるんだよ」と悪魔は手下どもに教えたというのである。この晩の出会いの結果、ドイルは『四人の署名』を書き、ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』を書いた。(ヘスキス・ピアソン『オスカー・ワイルド伝』より。この訳文は『コナン・ドイル』の訳者あとがきに収める)>
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 この後を『コナン・ドイル自伝』ではどう書いているか?
 
 その晩の結果は、ワイルドも私も「リッピンコット」誌に小説を書く約束のできたことだった。それで書いたのがワイルドの「ドリアン・グレーの肖像」で、これは高い倫理的水準にあるものだった。わたしの書いたのはホームズの第二作「緋色の研究」だった。
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 延原謙ともあろうものが、こういう間違いをするのか。『緋色の研究』は言うまでもなくホームズの第一作である。このとき書いた第二作は『四つの署名』(延原謙訳による。私は『四人の署名』の方がよいと思う)である。
 翻訳には(あるいは文章を書くことには)、間違いが付き物だ。Even Homer nods.延原さんだってウッカリする。こういうところは、校閲がしっかり見なくちゃ。「新潮社の校閲はすごい」と書いている人が多いが、そうかなあ? 拙訳で
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 まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本当の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった」。
 の部分が、延原謙訳では
 感じかたや如才なさにこまやかさはあったが、一人芝居の男は心から紳士ではありえない。
 となっていて、これが誤訳だということはだいぶ前に書いた。「ショルトーの正体」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/2-a547.html これは校閲では分からないだろう。英語の読み方の間違い。荻原さんは、「ワイルドは変態」という先入観にとらわれて間違ったのだ。変態だったのは確かだが、紳士だったのだ。ドイルは「刑務所に入れなくてもいいだろう」と思っていた。
 新潮文庫の『コナン・ドイル自伝』も,そろそろ改訳してもいいのでは?

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2015年4月11日 (土)

オペラ歌手ではない

 
 またホームズを復活させるまでのあいだ、ACDは妻以外の女性と恋に落ちた。若くて美しいスコットランド人のオペラ歌手ジーン・レッキーのことを、母親やごく親しい友人には話している。社会的にも知的レベルでもACDと対等であるリッキーは、彼にとって人生でもっとも愛すべき存在になった。だが骨の髄までヴィクトリア朝の紳士であるACDは、妻を裏切ることはできなかった。(上の本p.55)
 ジーン・レッキー(この本ではリッキーと混在しているがレッキーに統一する)は、オペラ歌手ではなかった。オペラ歌手といえば、「かのいかがわしき記憶に残る」故アイリーン・アドラーと同じ職業ではないか。ジーンはadventuressではなかった。1897年、38歳で病妻を抱えたドイルと24歳の処女ジーンが出会って、1907年に結婚するまで10年間純愛を貫いたのである。
 ジーンは美しいメゾソプラノの声を持っていたが、音楽は良家の子女の嗜みとしてやっていたので、職業ではなかった。はじめて会ってしばらくして、ドイルは彼女がコンサートでベートーヴェンのスコットランド歌曲を歌うのを聞いている。
 これは翻訳の間違いではなく、原文が間違っているのだろう。
 ところが、訳者が作った「シャーロック・ホームズ関係年表」では、1907年に「ドイル、三人の子を持つジーン・レッキーと再婚」とある。
 ジーンはドイルと結婚して3人の子供をもうけたのである。これが彼女には最初の結婚で、子持ちではなかった。

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2014年4月 9日 (水)

ワトソン、ドイルに会う

 実在のシャーロック・ホームズの生活が、殺人事件、スパイ事件、スキャンダルに彩られて充実して行くにつれて、これと併行して「活字のホームズ」の生活が始まろうとしていた。ワトソンが後になって潤色しているのでないとすれば、最初の事件の間にもう新しい友人の活躍を記録しておこうと思いついたらしい。この記録を後にワトソンは『緋色の研究』という題で刊行することになる。

「すばらしい!」と私は叫んだ。「君の功績は当然社会が認めるべきだ。ぜひこの事件の記録を公表したまえ。君にその気がなければ、僕が代わりにやろう」
「好きなようにしたまえ、ドクター」と彼は答えた。

 ローリストン・ガーデンの怪事件については、ドレッバーとスタンガソンの死の謎をホームズが解明したすぐ後にワトソンは記録を書き上げた。しかし、どうやって活字にすればいいかは分からなかったので、原稿はベイカー街の部屋の引出に仕舞い込んであった。やがて、ワトソンは出版の機会を与えてくれる男と会うことになる。

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   一八八五年十一月にロンドン市庁舎で開かれた医師会の晩餐会にワトソンが行ってみる気になったのは直前になってからであったが、これが後に大きな意義を有することになる。ワトソンの隣に坐った医師はポーツマスの近くのサウスシーにある自宅からロンドンまで出て来ていた。この若いスコットランド人の医師の名前は、アーサー・コナン・ドイルであった。コナン・ドイルは、一八五九年五月二十二日にエディンバラで生まれたが、画家とイラストレーターを輩出した家系の出だった。彼の伯父はパンチ誌の表紙とイラストを描き、祖父は政治漫画家だった。カトリックだったので、ドイルはイエズス会のストーニーハースト校で教育を受けてから、自宅に戻ってエディンバラ大学医学部に学んだ。ドイルの少年時代には、父親のチャールズ・アルタモント・ドイルのアルコール中毒が暗い影を落としていた。公務員の職を失ってから、ドイル父は精神病院に入院しているか、自宅の最上階に引き籠もって何年も過ごした。家族は彼を持て余していた。エディンバラ大学を卒業してから、ドイルはリバプールとアフリカ大陸西海岸を往復する貨客船の船医をしばらく務めたが、大学の同窓生ジョージ・ターナヴィン・バッドの申し出を受け入れて、プリマスで医院を共同経営することにした。これは悲惨な結果に終わった。バッドはペテン師で、独自の奇妙な治療法を売り物にしていた。それだけでなく、バッドは他人の金を自分の金みたいに平気で使い込んだ。ドイルがバッドの手中から逃れてサウスシーに自分の医院を開業することができたのは幸運だった。
 ワトソンとドイルは、初めて会った時から共有するものが多いことに気がついた。ワトソンの先祖にスコットランド人がいること、二人ともサウスシーに関わりがあることが、会話のきっかけになったに違いない。初めて会った時に話題に上ったとは思えないが、ワトソンとドイルは暗い秘密を共有していた。二人とも、家族にアルコール中毒者がいることに悩んでいた。酒がワトソンの兄を滅ぼしていた。『四人の署名』でホームズが述べた言葉は、自分の推理力をひけらかしただけだったが、ヘンリー・ワトソンの失敗に終わった短い人生を正確に要約している。「彼はだらしない人だった。ひどくだらしがなくてずぼらだった。前途有望だったのに、何度もチャンスを逃して、しばらく貧乏するかと思うと時には金回りがよくもなったが、結局は酒びたりになって死んだ」。ドイルの父親も芸術の才能をアルコールの海に溺れさせて、何年も精神病院や療養所で暮らし、一八九三年に死んだ。
 ワトソンがベイカー街で共同生活をしている並外れた男のことをその晩のいつ話したかは分からないが、ドイルはすぐに夢中になって聞いたに違いない。開業医として地歩を固めようとしていただけでなく、ドイルは文学にも野心があった。処女作『ササッサ渓谷の謎』は彼がまだ学生のうちにエディンバラのチェインバーズ・ジャーナル誌に載った。ドイルはありとあらゆる雑誌に小説を書いて、医業の乏しい収入を補おうとしていた。ワトソンと会ったころには、ドイルの最大の文学的成功は『J・ハバック・ジェファーソンの証言』という小説だった。これは一八八三年にコーンヒル・マガジンに匿名で載った。他の小説はほとんど注目されなかったが、この作品だけは論争の的になった。これは、今や伝説になっているメアリー・セレスト号の乗員消失事件に基づいていた。一八七二年にこの船を発見した英国の役人が、小説を実録だと思い込んだらしく大憤慨している。この話は「始めから仕舞いまででっち上げ」であって、その及ぼす害は計り知れないと彼は書いている。この反応は、ドイルの想像力がいかにすごかったかを証明するものであり、『J・ハバック・ジェファーソンの証言』に注目を集めた。このような経験があったので、ドイルはフィクションの味付けができる実話を求めていた。
 ワトソンの不思議な友人の話を聞いて、ドイルはこれは行けると思ったに違いない。ワトソンと初めて会ってから数週間後、ドイルは彼から聞いた話を自分が書いてみようと思ったようだ。ドイルの筆跡のノートが残っていて、探偵にはシェリングフォード・ホームズ、ワトソンにはオズモンド・サッカーという仮名がつけられている。
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  しかし、二人がもう一度食事を共にしたとき、ワトソンは自分の書いた原稿を見せた。ドイルはこれを読んで感心したので、自分で書くのは止めにしてワトソンの著作権代理人になることにした。ドイルはホームズの話を自分が書くのを止めるのを残念だとは思わなかったようだ。ドイルは常に自分の本領は歴史小説にあると信じていたので、終生誇りに思っていたのは、ホームズやワトソンとの関わりではなく、『白衣の騎士団』や『マイカ・クラーク』のような小説だった。彼は「『白衣の騎士団』にはホームズ百篇分の値打ちがある」と書いている。一九二三年になってもアメリカの雑誌に「もし私がホームズなどに関わらなければ、私の高級な仕事の価値が覆い隠されることはなく、私の文学的地位はもっと確固としたものになっていただろう」と書いている。しかし、一八八〇年代には、ホームズが将来は大変な名声を博するなどということはまだ分からなかった。後になって何を言おうが、ドイルはワトソンの著作権代理人の仕事を喜んで引き受けたのである。
 現代の読者は、ワトソンの原稿にドイルが出版社を見つけるのに苦労したと知れば驚くだろう。この作品の可能性を見抜ける出版社がなかったとはどういうことだろう。しかし『緋色の研究』(二人は相談してこの題名をつけることにした)は、一八八六年夏に数社に送られたが、出版してもよいという会社はなかった。アロースミス社という出版社が七月に原稿を返送してきた。ドイルはもちろん他の会社にも原稿を送ったが同じような結果だった。ワトソンは、このころはまだ友人の宣伝をしてやらねばとは思っていなかったし、ホームズ自身もやめておけと言っていたから、小説のことは諦めようと言った。しかし、ドイルは粘った。やがて一八八六年十月になって、ウォード・ロック社から手紙が来た。「拝啓。貴殿の小説を読ませていただき、気に入りました。残念ながら今年は出版できかねます。現在市場には安っぽい小説が溢れているからであります。しかし、来年までお待ちいただければ、二十五ポンドにて著作権買取の条件で出版させていただきたく存じます」これは、ワトソンが期待していた大称賛からは程遠かった。金額も二人を興奮させるものではなかった。しかしドイルは依頼人を説得して、ワード・ロック社の条件を受け入れさせた。
『緋色の研究』は一八八七年十一月に『ビートンズ・クリスマス年鑑』に一挙掲載された。これはワード・ロック社の雑誌だったが、数十年前にサミュエル・オーチャード・ビートンが創刊したものだった。彼は『家政学』の著者で料理研究家として有名だったミセズ・ビートンの夫だった。(『シャーロック・ホームズ伝』第5章より)

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2014年3月31日 (月)

評伝か伝記か 再論(1)

「評伝か伝記か」については、『コナン・ドイル』の訳者あとがきで由良君美氏を引いて次のように書いた。  

 本書はアーサー・コナン・ドイルの伝記であって、「評伝」ではない。単に伝記と言えば済むところを日本では「評伝」という言葉を使う場合が多いのを私は不思議に思ってきた。「評伝」については、由良君美氏が「以前から気になっていた」と書いている。
  
 以前から気になっていたことだが、わが国には評伝というジャンルがあって、これが独自の人気を博している。「人物評伝などという言い方は特に好まれる。ところで「評伝」に相当する外国語は何かと考えると、ハタと当惑する。日本における「評伝」という語の成立を調べてみたら、さぞ面白かろう。資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする「伝記」の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での「評伝」というジャンルはない。「伝記」の事実尊重主義と「批評」の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が「評伝」。二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。優れた見識を持つ筆者の手になる「評伝」は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物になる。個性による個性の照明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。  
 こういう秀れたものの場合は良い。しかし本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、「評伝」というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。  
 わが国で本格的ノンフィクション文学が発達せず、辞典類の記述も評伝的恣意に甘く流れがちなのも、このことと関係があるだろう。 (由良君美『みみずく偏書記』二一五頁、二一六頁)  

 ここまではよろしい。その後に勇み足をしている。

 評伝に相当する外国語は何か? 和英辞典で引いてみよう。たとえば研究社大和英辞典にはcritical biographyと書いてある。しかし、こんな英語はない。これはあくまでも「辞書の説明用の英語」である。実際に英文を書くときに日本語の評伝のつもりでcritical biographyという言葉を使っては、意味が通じない。事実に基づく「伝」と好悪を含む「評」が峻別されないというのは、英語の読者にはとうてい理解できないはずだ。

「こんな英語はない」というのが間違い。これは「ありますよ」と指摘してくれた人がいる。調べてみると確かにある。

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2013年9月24日 (火)

アーサーとジョージ(2)

 ジョージ・エダルジ事件について要領を得た記述があるのは、ヘスキス・ピアソンの伝記『コナン・ドイル』(拙訳)である。ウィキペディアにも詳しい記述があるが、煩雑すぎる。

 二十世紀が始まったころに、スタッフォードシャー州グレート・ワイリーの教区牧師はエダルジという名前のパールーシー人[ペルシャ系インド人、ゾロアスター教徒が多い]であった。彼はインドから来て英国人女性と結婚していた。二人の間には息子と娘がいた。エダルジ家は村人に嫌われていた。村人たちはパールーシー人などにキリスト教を教えられたくはないと思ったのだろう。牧師館宛てに汚い言葉を使った脅迫状が送り付けられるようになった。同じころ、何者かが厩に忍び込んで馬を刃物で傷つける事件が続発して、警察は何故早く犯人をつかまえないのかと非難を浴びた。やがて警察は、どういうわけか匿名の脅迫状の書き手と馬の傷害事件の犯人が同一人物だという結論に達し(脅迫状に馬の事件に触れたくだりがあった)、犯人は牧師の息子ジョージ・エダルジだと決めつけた。ジョージは逮捕され、裁判にかけられ懲役七年の判決を受けた。一九〇三年のことであった。この事件は警察のでっち上げだった。判決の不当性は明かであり、抗議する者もいたし『トルース』誌上でも盛んに取り上げられた。しかし、コナン・ドイルが一九〇六年になってこの事件を取り上げなければ、エダルジ青年は七年間の服役を終えて一生を台無しにされていただろう。ドイルはたまたま『アンパイア』紙を見てエダルジ青年の陳述を読んだ。一言一句に真実の響きがあった。
 ドイルは直ちにほかの仕事を全部中止して、この事件に全精力を注いだ。裁判記録を読み、エダルジ家の人々に話を聞き、事件現場を調べた。ドイルの発見した事実は特異なものだった。ジョージ・エダルジは鉄道法に関する著書が一冊ある事務弁護士であり、法学生時代の記録は非の打ち所のないものだった。勤務先のバーミンガムの弁護士事務所ではエダルジは賞賛され、法律学校では最高の成績をあげ、酒は一滴も呑まず、残虐行為を働きそうなところは少しもなく、静かで勉強好きで理性的な性格であり、何より目が悪くて六フィートも離れると人の顔が分からないくらいだった。
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この最後の点が決定的だった。馬を傷つけるには、暗い夜に鉄道の線路を越え、生け垣を越え、針金が貼ってあるところを通り抜け、そのほかにもたくさんある障害を回避して厩に忍び込まなければならない。それに父親は眠りが浅い男で同じ部屋に寝ていたのだが、寝室のドアに鍵をかけ、息子が夜中に外に出たことはないと誓っていた。
 ドイルは一九〇七年一月にデイリーテレグラフ紙にこの事件について一連の記事を書き、大反響を呼んだ。政府は委員会を作って証拠を再検討させた。委員会というものは愚か者の集まりとしか思えないことが多いが、この委員会も例外ではなかった。エダルジが馬を傷つけたという冤罪は晴らしたが、匿名で自分の家族宛に脅迫状を書いたという説は固守したから、正義が行われなかったのは本人にも責任があるとして、エダルジに賠償金を支払うことを拒んだ。エダルジは直ちに釈放され弁護士協会は彼の復帰を認めたが、三年間服役したのに一文の補償金も支払われなかった。
 ドイルは独自の調査によってこの脅迫状を書き馬を傷つけたのが近辺に住む別の男だということを突き止めた。これは常習的な犯罪者だった。ドイルは証拠を揃えてこれを当局に渡した。ところが内務大臣のグラッドストーン卿は官僚のトップに過ぎないことが明らかになった。彼は明白な事実を認めるのを拒んだのである。犯人は馬用の手術刀を他人に見せてこれで馬をやったのだと告白していた。彼は屠殺場で訓練を受けかなりの腕前だった。匿名で手紙を書いたことが何度もあった。彼の筆跡と彼の兄弟の筆跡がこの事件の脅迫状の筆跡と一致した。彼は定期的に気が変になった。彼がいない間は脅迫状も来ず馬の被害もなかったのに、戻ってくるとまた始まった。エダルジが監獄にいる間にも凶行は続いた。これだけの証拠を揃えてやったのに無視するなど、内務省の官僚は正気ではないとドイルは思った。しかし官僚に理性と公正を期待するなど、ドイルの方が正気ではなかったのだ。(p.p195-197)

エダルジの父親が牧師を務めていた村はGreat Wyrlyである。この訳書ではグレイト・ワイリーと書いたが、ウェアリーの方が正しい発音に近いようだ。
  パールシーというのは民族名なので、本当は「パールシー人」という書き方は正しくない。英語でZen Buddhism禅仏教とかKinkakuji Temple金閣寺寺などと書くのと同じで仕方がないのかも知れないが。
 

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2013年9月23日 (月)

アーサーとジョージ(1)

『フロベールの鸚鵡』と『終わりの感覚』のジュリアン・バーンズに『アーサーとジョージ』という未訳の長篇がある。
 ジュリアン・バーンズは『終わりの感覚』でブッカー賞を得た。『フロベールの鸚鵡』と『アーサーとジョージ』はブッカー賞にノミネートされたが、受賞できなかった。

Arthur & Georgeはの題材はドイルがインド人弁護士の冤罪を晴らした有名な事件であるが、バーンズはこの事件をアーサー・コナン・ドイルとジョージ・エダルジの幼時から死に至るまでの伝記小説という形で、書き直した。
 ジョージ・エダルジ事件では、コナン・ドイルがパールシー(ペルシャ系インド人)の英国国教会牧師の息子エダルジの冤罪(警察のでっち上げ)を見事に晴らした。一九〇七年のことであった。
 コナン・ドイルの愛妻ルイーズは当時死病であった結核を患っており、ドイルと21歳の美女ジーン・レッキーとの間でプラトニックな関係が始まっていた。ドイルは最善の努力を払ってルイーズを生き延びさせようとしたが、ジーンと結ばれるためにはルイーズが死ななければならなかった。
 このあたりの事情は、コナン・ドイル伝では無視できないはずであるが、ヘスキス・ピアソンのものも含めて従来の伝記では書かれていない。
 ジュリアン・バーンズが、伝記小説という形でこの事件を取りげたのが、『アーサーとジョージ』である。バーンズは、典型的な英国人アーサーとパールーシーの牧師とスコットランド女性の混血だったジョージの対比伝(『アーサー』の章と「ジョージ」の章が交互に現れる)という形を発明し、小説家の特権で探偵小説作家と牧師の息子の内面を描いてみせる。

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2013年9月15日 (日)

コナン・ドイルとアガサ・クリスティ

[1930年、ジョージ・エダルジは54歳になっていた。ドイルの努力のおかげで釈放され、弁護士の仕事を再開することはできていた。彼はロンドンで妹のモードと暮らしていた。ある朝、サー・アーサー・コナン・ドイルが昨日9時15分にサセックスの自宅、ウィンドルシャムで死去したというニュースを読んだ。ジョージは1906年にはじめて会って以来のサー・アーサーとの付き合いを思い出した。サー・アーサーは「ジョージ、私は君が無罪だと思うのではない。無罪だと知っているのだ」と言ってくれた。ジーン・レッキー嬢と結婚したときは披露宴に呼んでくれた。ドイルの自伝『わが思い出と冒険』には、「彼以上に私が誇らしく思ったゲストはいない」と書いてある。ドイルの婦人参政権反対やスピリチュアリズムのキャンペーンにはジョージは賛同することができなかった。}

 サー・アーサーは探偵役の自演も続けていた。三四年前には、女流作家の奇妙な失踪事件があった。クリスティとかいう名前だった。探偵小説の新星だということだったが、ジョージは新星などに興味はなかった。まだシャーロック・ホームズの事件簿が続いていたのだもの。クリスティ女史はバークシャーの自宅から姿を消し、車がギルドフォードから5マイルほど離れたところで発見された。警察が三度にわたって捜索したが彼女を発見することはできなかったので、サリー州の警察副本部長は、サー・アーサーに依頼した(ドイルは当時サリー州副知事だった)。これに続いて起きたことは多くの人々を驚かせた。サー・アーサーは証人たちを尋問したか? 踏み荒らされた地面を改めて調べて足跡を探したか? 捜査に当たった警官どもを問いただしたか? 有名なジョージ・エダルジ事件のときは、こういうことをやって成功をおさめたのだが。しかし、今回はそんなことはしなかった。彼はクリスティ女史の夫を訪ね、夫人の手袋の片方を入手して、これを霊能者に渡した。霊能者はこの手袋を額に宛てて、失踪した女性の行方を探り出そうとした。……ジョージは、アーサーの新奇な捜査方法のことは新聞で読んだ。自分の事件のときは、もう少し正統的な方法が使われたのは、よかったと思った。(ジュリアン・バーンズp.465)

{アガサ・クリスティはもちろん発見された。ドイルの雇った霊能者の手柄であったとは、ジュリアン・バーンズは書いていない。)

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2012年10月11日 (木)

スピリチュアリズム

 コナン・ドイルの伝記作家を悩ませるのはスピリチュアリズムの取り扱いである。ドイルが「シャーロック・ホームズを憎んでいた」「歴史小説こそ自分の最高の業績だと考えていた」というのは意外なことであるが、自己評価と他者による評価が食い違うのはよくあることだ。しかし、シャーロック・ホームズの作者が降霊会に出席して霊媒の語る死者からのメッセージを聞いていたというのはどうだろう? 
 スピリチュアリズムspiritualismをどう訳するかという問題もある。本書では「心霊学」「心霊主義」「心霊術」などを適当に混ぜて使った。ismをどう訳するかに決まりはない。Marxismはマルクス主義であるが、alcoholismはアルコール主義ではなくアルコール中毒である。
  Spiritは「心霊」と訳するべきだろう。普通の「霊」や「霊魂」では訳しきれない。我々も生前に親しくしていた人が亡くなれば「ご冥福を祈る」のだから、普通の日本人や普通の英国人も「霊」の存在を無視しているわけではない。その霊が霊媒を通じて生者に物理的な信号を送ってくるという考え方が特異なのである。(訳者解説より)

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2012年10月 9日 (火)

ドイルの暗号?

 小林東山学説の集大成となる本である。
 小林司博士は2010年に亡くなられたから「日本を代表するシャーロキアンにして精神科医の著者が送る「最後の挨拶」」(本書の帯)なのである。

 わたしたちは、小林が精神科医だったこともあって、実は1977年ごろから一貫して、「ホームズ物語」の著者であるコナン・ドイルの深層心理を調べてきた。アルコール症の父を持ったドイルの不幸な幼少時代を考えると、彼は、いまでいう「アダルト・チルドレン」である。さらに、母親が15歳年下の男と婚外恋愛に陥って、駆け落ち同然に社会から逃避・同棲した事件(1882年)がドイルの与えたトラウマが、「ホームズ物語」にくっきりと影を落としている(ヴィクトリア朝では同棲が許されなかったので、正確には隣の家に住んだ)。
 そう言ったことをわたしたちは1992年に発見した。「ホームズ物語」は、単なる「探偵小説」だと思われてきたが、文の裏側を読めば、実は著者ドイルが家庭の悩みを打ち明けた「告白録」に他ならないことを見つけたのである。(p.p.18,19)

 「単なる探偵小説」ではない!私(ブログ筆者)はそんなことは少しも気づかなかった。精神科医ではなかったせいだろう(患者になったことはある)。
『行人』や『道草』と漱石の虎馬の関係くらいは頭に浮かんだことがある。しかし名探偵シャーロック・ホームズの冒険の裏にドイルの暗号を読む?

 たとえば、バスカヴィル家の犬については

 結論を先に言ってしまえば、ドイルが書きたかったのは、自分の母親メアリが夫を放り出してウォーラーと婚外恋愛をして、実際は夫婦同然なのにそうではないように見せかけて一緒に暮らしているのはけしからぬ、したがってウォーラーは罰せられなければならぬ、と主張したかった、ということであった。
 だから、原典ではベリルとステイプルトンが実際は夫婦であるにもかかわらず兄妹だと見せかけて暮らしており、最後にはステイプルトンが底なし沼に落ちて死ぬ、というかたちでそのことが物語られる。しかし、それだけでは読み物にならないので、尾ひれをつけてストーリーを長くしてある。しかも、それを無意識のうちにドイルが行ったというのが興味深い。(p.91)

 びっくりしたが、真面目にやって欲しい。医学博士ジョン・H・ワトソンが筆者だという事実を無視して、文学代理人の家庭の事情なんかを重視するのは困るじゃないか。
 巻末に新井清司氏作成の「戦後のシャーロック・ホームズ研究書」のリストが載っている。160冊目にヘスキス・ピアソン『コナン・ドイル』(拙訳)を取り上げてもらっているのはありがたい。
 しかし、正典研究を究めた後に余力があれば文学代理人の生涯に及ぶというのが自然なコースではないか。初めからConan Doyle's tiger and horseがどうこうなどと言い出すのは反則ですよ。だから私は訳者解説で「不倫説には根拠がないようだ」と書いたのだ。

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2012年9月24日 (月)

評伝にあらず(3)

 北一輝やナンシー関のような偉人にはちゃんとした「伝記」を書いておくべきだ。
 単に「伝記」と言えばよいところを「評伝」の語を使うのはなぜだろう。

 僕は、小学生用の偉人伝がよくないのではないかとにらんでいる。
 英国ではジョンソンとボズウェル以来、伝記は大人の読み物として確立している。
 ジョンソン博士は小説も一作だけ書いたが(『ラセラス』)、伝記を書き(『イギリス詩人伝』)ボズウェルによって伝記に書かれたので文豪になった。(ジョンソン博士伝を全部読むのは少ししんどいので、僕は抄録版の『ジョンソン博士の言葉』ですませた。これは翻訳がよくてお薦めです。)

 
 
 シャーロック・ホームズは「ボズウェルがいてくれないと、僕は途方に暮れてしまう。I am lost without my Boswell.」とワトソンに言ったことがある。しょってるじゃないか。
 ヘスキス・ピアソンはチャールズ2世(1630-95)からジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)までを伝記に書いて、いずれもベストセラーにした。(オスカー・ワイルド伝は実に面白かったけれど、翻訳は僕には無理だ。超絶技巧がなければ訳せないのが、コナン・ドイル伝との違いだ。僕より「大駒一枚上」の腕前があれば訳せるだろうが、そんな翻訳家はいない(名人と僕の手合いはまず「半香」かな)。ディズレーリはまだ読んでいないけれど、小説家から政治家になったのだから、高級な石原慎太郎だ。)

 
 
  司馬遼太郎が歴史小説の代わりに、『織田信長伝』『土方徹三伝』『坂本龍馬伝』『秋山真之伝』などを書いたようなものだ。
 日本では、「伝記」は子供の読むものだという誤解が「業界」にまで浸透していて、富岡幸一郎氏のような一流の正統派文芸評論家もこれに染まっているようだ。伝記と評伝の違いに気がつくのは「椿説」や「偏書記」を書いた由良君美氏のような異端の士を待たねばならなかったのか。

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