2008年7月16日 (水)

コナン・ドイル卿?(9)

「今年はシャーロック・ホームズの生誕百周年」どんよりしたある秋の朝、ミセス・ブラッドリーが言った。「この記念すべき年にふさわしいお祝いをうっかりしそびれてしまったとしても、心配はご無用。ブーン・チャントリー卿からわたしたちに、シャーロック・ホームズの夕食会への招待状が届いたわ。夕食会は十一月二十五日、彼のお屋敷で開催される予定よ」
(『ワトスンの選択』p.1の書き出し)

「ブーン・チャントリー卿」が怪しい。2頁を見ると今度は「ブーン卿」と書いてある。Sir Boone Chantreyでしょうね。
 今年の5月に出た本だけれど、延原氏や大久保氏の時代から進歩していないのは困る。こういう翻訳はまだ多い。

 柳広司氏の『吾輩はシャーロック・ホームズである』は大傑作です。表紙はホームズみたいだけれど、背が低いのが変だ。六フィートには見えない。実は……
 この作品の唯一の瑕瑾は「コナン・ドイル卿」と書いてあることです。そのほかは脱帽するほかないできばえだ。

 ホームズなら延原謙訳という定評があったのだけれど、さすがに耐用期限が来たのか。
『フランシス・カーファックス姫の失踪』も何とかならんかね。
 Lady Frances Carfaxは伯爵令嬢である。偉いのだけれど「姫」は困る。
 日暮雅通氏の訳

「レディ・フランシスは、亡くなったラフトン伯爵の直系の一族のなかでまだ生きているただひとりの子孫だ。きみも覚えているかもしれないが、一族の財産を継いだのは男のほうの家系だった。彼女に残されたのは限られた財産しかなかったが、そのなかに銀と珍しいカットのダイヤモンドを施した古いスペインの装身具があった。レディ・フランシスはそれがたいそうお気に入りなんだ――気に入りすぎて、銀行に預けておこうともせず、肌身離さず持ち歩いている。……」

 しかし、このあとの一文がデタラメです。

「レディ・フランシスというのははかなげな風情の美しい人で、まだ中年というには若いくらいの年齢だというのに、不思議なめぐりあわせというのか、つい二十年前にはたいそうな取り巻きだった人たちからすっかり見捨てられてしまった」

A rather pathetic figure, the Lady Frances, a beautiful woman, still in fresh middle age, and yet, by a strange chance, the last derelict of what only twenty years ago was a goodly fleet.

  ちくま文庫の高山宏訳

「本当にかわいそうな人でね、このレディ・フランセスは。美人で、まだ中年の入口という年なのに、奇怪な運命にもてあそばれて、つい二十年前の溌剌たる姿の残骸という有様なのだ」

 正解です。「超人高山宏」なのだそうで、こんなところを間違えるはずがない。
 
 
  日暮訳にかえると――いやあ、翻訳って本当に怖ろしいですね。
 原文は動詞がない破格の形です。
 しかしthe Lady Francesが主語です。be動詞の省略と考えればよい。isをどこに補うのかと問われると困るけれど。ほかの要素はすべてこの主語に対する補語なのだ。
 the Lady Frances=the last derelict of what only twenty years ago was a goodly fleet
  が読めないで勝手訳をこしらえてはイケナイ。fleetが集合名詞だからといって「取り巻きだった人たちがどうこう」などは駄目。「現在のレディ・フランシスは20年前に立派な艦隊であったものの残骸である」という比喩です。

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2008年7月15日 (火)

コナン・ドイル卿? (8)

 The Honourable Ronald Adairの殺人事件が大いに波紋を呼んだという話から始まるのは『空き家の冒険』でした。
 
 ロナルド・アデヤ卿が不可解きわまる状況のもとに殺害されて、ロンドン中の興味をわきたたせ、上流社会を震えあがらせたのは、1894年の春のことだった。
(延原謙訳)

 貴族の子息であるロナルド・アデア卿が異常かつ不可解きわまりない殺され方をして、ロンドンじゅうの興味をかきたて社交界を震撼させたのは、1894年の春のことだった。
(日暮雅通訳)

 Honourableを両氏とも「卿」と訳している。これでよろしいか?
 HonourableはLordとどう違うか?
 ジーニアス大英和辞典
3[限定][H~;通例 the ~] 閣下《◆((英))では伯爵の次男以下の男子, 子爵・男爵のすべての子, ((米))では議員などに対する敬称;【略】 Hon, Hon.》∥the H~ Mr. Justice Smith スミス判事閣下《◆通例姓名を伴うが, 姓だけの時は Mr., Dr. をつける》

 とりあえず米国のことは除外して考える。
 Lordは侯爵から男爵までの爵位を有する人と公爵・侯爵の息子に対する敬称である。Honourableは爵位を有する人には使わない。伯爵の次男以下の男子と子爵・男爵のすべての子に対する敬称である。
 正典にはthe Honourable Miss Milesという名前が出てきた。子爵か男爵の娘もHonourableをつけて呼ぶのですね。
 この女性はどこに出たのでしょうか? 
 チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンが
「……the Honourable Miss Milesとドーキング大佐の婚約が突然破談になったのは覚えておられるでしょうな。式の二日前になって、モーニングポスト紙に取り止めという記事が出ましたな。なぜか? 実に信じられんことですが、わずか1200ポンドというアホみたいな金があれば、万事解決していたはずなんですよ。……」
 と言って、ホームズとワトソンを憤激させたのだった。

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 いずれにせよ、LordとHonourableではかなり差がある。前者の方がずっと偉いのだ。それにHonourableは女性にも使うのだから「卿」という訳語はやはり不適当でしょう。
 どう訳するか? カタカナのまま「オナラブル」としても読者には分からない。LordやSirほど頻出はしないのだから、ケースバイケースで処理するのがよいと思う。ミルヴァートンの台詞を、日暮雅通氏は
「ミス・マイルズとドーキング大佐のご婚約が……」と訳している。Honourableは無視してしまったのだ。賛成ですね。
 ジョン・ル・カレにThe Honourable Schoolboyという小説がある。訳題は『スクールボーイ閣下』である。こういう綽名で呼ばれる人物がいて云々という話で、それが題名になっているのだから無視するわけには行かない。閣下と訳するのがベストでしょう。

『空き家の冒険』にかえって、日暮氏が「貴族の子息であるロナルド・アデア卿が…」と原文にない語句を補ったのは、何とか元の英語の意味を伝えたかったのでしょう。しかし「卿」はよろしくない。
 私ならば、「伯爵令息ロナルド・アデア氏」とする。ロナルド・アデアがメイヌース伯爵の次男であることが少し先に出てくる。これを一部先取りするのですね。

 何でもかでも「卿」で済ませてしまうのはいけません。
 グーグルに「チャーチル卿」と入力してみると3万1900件もある。英語では
 Sir Winston Churchillか、単にSir Winstonかである。
 Lord Churchillではないし、Sir Churchillとは言わない。
 歴史上の人物なのだから、日本語では呼び捨てでチャーチルと言えばよいのだ。
  ドイル卿、コナン・ドイル卿、アーサー・コナン・ドイル卿もやめましょう。翻訳では「サー・アーサー・コナン・ドイル」か「サー・アーサー」とする。はじめから日本語ならば単にコナン・ドイルなどとして敬称は省くのがよろしい。

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2008年7月14日 (月)

コナン・ドイル卿? (7)

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『バスカヴィル家の犬』で巨大な魔犬に襲われて(?)死んだのは、Sir Charles Baskervilleであった。この人が死ぬと、モーティマー医師が音頭をとって跡継ぎを探した。故人の甥に当たるHenry Baskervilleという男がアメリカにいることが分かった。この男は物語に登場したはじめからSir Henryと呼ばれる。
 バスカヴィル家は準男爵(baronet)の位を世襲している。原則として長男が位を継ぎ、Hugoという名前であれば、Sir Hugo BaskervilleまたはSir Hugoと呼ばれる。*Sir Baskervilleという呼び方はしない。準男爵は男爵の下、ナイトの上の位であるが、貴族ではない。
 延原謙氏の翻訳では「チャールズ卿」「ヘンリー卿」と書いている。これはよろしくない。
 最新の日暮雅通氏の訳ではさすがに「サー・チャールズ」「サー・ヘンリー」となっている。
 むかしは翻訳にカタカナ書きの英語を使うことをいやがって、無理にでも訳す傾向があったようだ。しかしパンツを猿股はよろしいが、ブラジャーを「乳押さえ」はちょっと困りますね。
 Lordを「卿」と訳するとすればSirには別の訳語を宛てるべきで、訳語がなければカタカナのままにしておくのが妥当でしょう。

 もう一つ、訳がむつかしい敬称にHonourableがある。
 
  It was in the spring of the year 1894 that all London was interested, and the fashionable world dismayed, by the murder of the Honourable Ronald Adair under most unusual and inexplicable circumstances.
 
 何という冒険の書き出しでしょうか?

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2008年7月13日 (日)

コナン・ドイル卿? (6)

 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝によると、1902年8月にドイルがナイトの位をもらうとすぐ、出入りの洗濯屋が「サー・シャーロック・ホームズ」宛ての請求書を持ってきた。ドイルはかんかんに怒って「お前、ふざけた真似をするなよ」と怒鳴りつけた。
 ところが洗濯屋は別にふざけたのではなかった。担がれただけだった。ナイトの位を授けられると名前が変わる、好きな名を選ぶことができて、ドイルは名探偵の名を選んで「サー・シャーロック・ホームズ」になった――と友達から聞かされて信じ込んでしまったのだった。
 英国人でもナイトのことはよく知らないのだ。日本人が知らなくても仕方がないか。
 そもそもknightとは何か? リーダーズプラス英和辞典
knight
1 《中世の》騎士; 《貴婦人に付き添う》武士.
・the Knight of the Rueful Countenance 憂い顔の騎士《Don Quixote のこと》.
★封建時代に, 名門の子弟が page から squire に昇進し武功を立てて knight となった. ナイトに就任する儀式を accolade といい土地と黄金の拍車 (spurs) を下賜された.

 これが本来の意味である。元々は中世の騎士であって、日本で言えば侍のうち上級の者、「上士」「馬乗りの身分」くらいに当たりますか。ナイトに就任する儀式accoladeではdubbingということをする。ダビングというとテープに録音することしか思い浮かばないけれど

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 エリザベス女王も、同じようにショーン・コネリーの肩を剣で叩いた。両肩を叩いてから
 Rise, Sir Thomas.
と言ったはずである。Thomas Sean Conneryが彼の本名である。「サー・トマス」または「サー・トマス・ショーン・コネリー」が正式の呼び方である。
 サーと呼ばれる身分にはもうひとつ準男爵がある。ナイトは一代限りだが、準男爵の位は世襲である。

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2008年7月12日 (土)

コナン・ドイル卿? (5)

 正典にはLordと呼ばれる人がほかにも何人も出てくる。『独身貴族』では、Lord Backwaterバックウォーター卿という人がいて、これはセント・サイモン卿の友人で「ホームズ氏の判断力と分別は絶対に信頼できる」と言って探偵を推薦したらしい。バックウォーター卿は、侯爵、伯爵、子爵、男爵のいずれかの爵位を持っているか、それとも公爵か侯爵の次男以下である。
 ハノーヴァー・スクエアの聖ジョージ教会で行われた結婚式はごく内輪のもので、花嫁側は父親のアロイシウス・ドラン氏だけだった。花婿側は、バルモラル公爵夫人(花婿の母)、バックウォーター卿、ユースタス卿とレディ・クレア・セント・サイモン(花婿の弟と妹)、それにレディ・アリシア・ウィッティントンだった。
 結婚式はちょっとした妨害があったけれども無事済んだのだが、

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その後で大騒動が起きて、ホームズが乗り出すことになったのだった。
 それはそれとして、レディというのが出てきた。花婿の妹はLady Clea St. Simonだった。リーダーズプラス英和辞典でLadyを引いてみると
Lady
英国では次の場合 女性に対する敬称:
(1) 女性の侯・伯・子・男爵
(2) Lord (侯・伯・子・男爵) と Sir (baronet または knight) の夫人
(3) 公・侯・伯爵の令嬢. 令嬢の場合は first name につける.
 
 花婿の妹は上の(3)に当たる。レディ・アリシア・ウィッティントンは(2)か(3)だろう。(1)ではないと思う。女性が自分で爵位を持っていて「女侯爵」や「女伯爵」などになる場合はまれのはずだ。
 ともかく、Lordは貴族、日本で言えば大名クラスに対する尊称であって、「卿」と訳すことになっている。
 ただし、貴族の中でも一番上の公爵Dukeはまた別格である。
 ホルダーネス公爵Duke of Holdernessが出てきたのは、何という冒険だったか?
『プライアリー・スクール』でした。校長のハクスタブル博士が大騒ぎしてベーカー街でひっくり返ったのは、ホルダーネス公爵がものすごく偉かったからだ。

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 公爵に対してはLord Holdernessという呼び方をしてはならない。Lordは侯爵以下に使うのである。Duke of Holdernessと呼ぶか、His (Your) Grace(閣下)と呼ばねばならない。
 この公爵には一人息子がいるのだが、この子がまだ10歳の子供なのにLord Saltireソルタイア卿と呼ばれている。この「一粒種にしてお世継ぎ」がいなくなったというので大騒ぎになったのだった。
 この事件は1901年(明治34年)のことらしい。イギリスには明治維新がなかった。廃藩置県も版籍奉還もなく、徐々に改革を進めて封建制から近代国家に移行してきたので、封建遺制の残存がある。封建諸侯が元の偉さを多分に残している。さすがのホームズも相手が公爵となると特別扱いしたのだった。

 公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵が貴族で、貴族のうち侯爵以下に対してLordという尊称をつける。このLordは「卿」と訳することになっている。
 ナイトの位knighthoodは貴族よりは下である。Sirという称号を「卿」と訳しては紛れが生じてしまう。

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2008年7月 8日 (火)

コナン・ドイル卿? (4)

「ずっとのちに彼は『三人のガリデブ氏』を書いて、この物語のなかで上記の日にシャーロック・ホームズにナイトの爵位を辞退させているのであるが…」(『コナン・ドイル』大久保康雄訳 p.304)

 そうでした。シャーロック・ホームズはコナン・ドイルと同じ日にナイトの位をもらうはずだった。しかし、ホームズは意固地だから辞退し、ドイルも辞退したかったけれど、母親に説得されて受けたのだ。
 大久保康雄氏は「ナイトの爵位」と書いていますね。これはよろしくない。間違い。
 爵位というのは、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵のいずれかの位のことだ。

公爵 duke (prince)
侯爵 marquess (marquis)
伯爵 earl (count)
子爵 viscount
男爵 baron

  括弧の中は英国から見て外国の爵位。たとえばバートランド・ラッセルは兄の死後に伯爵の位を継いでEarl Russellになった。フランスのモンテ・クリスト伯爵はThe Count of Monte Cristo。

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 日本では1869年に華族制度を設け、1884年の華族令で、公、侯、伯、子、男の5段階の爵位を定めた。これが1947年まで続いた。鹿鳴館と違って、この華族は西洋の貴族の猿真似ではない。
 華族になったのは、公家、大名家、維新の功臣の家であった。公家と功臣はともかく、大名家は西洋の封建諸侯(feudal lords)にほぼ対応するものだった。
 旧将軍家、島津家、毛利家が公爵、大大名(加賀前田家など)が侯爵、中規模の大名が伯爵、5万石未満の小大名が子爵、1万石以上だが分家で大名の格がない家が男爵になった。
 私の小学校の同級生のT君は旧伯爵家の御曹司だった。ドジな子だったので先生によく怒られていた。先生は「こりゃ、T、立っておれ」などと叱りつけておいて「昔だったらお手討ちになるところだな、ハハハ」と笑うのだった。学校から道路一本隔てたところにお城があって、お城の中のものすごく広い家に一度遊びに行ったことがある。昔は三十二万石の城主だったのだ。
 こういう日本の「殿様」を英語に訳するとlordでしょう。日本と西洋の封建制はよく似ていた。封建制があったのは日本と西洋だけだ。マルクスは資本論(第1巻は1867年刊行)で「封建制が現在も残存しているのは日本だけであるから、封建制の研究には日本を研究すればよろしい」という意味のことを書いている。
 lordを辞書で引いてみると、「卿」という訳語が出る。「殿様」を訳語にしてもよいと思うけれど。

 ジーニアス大英和辞典 lord
3. a…卿(きよう)《◆(1)侯[伯, 子]爵の略式の称号;呼びかけも可. (2)男爵の普通の称号;洗礼名を付けない. (3)公[侯]爵の(長子を除く)子息の儀礼的称号;姓を省いてよい》(【略】L., Ld.)∥L~ Cardigan カーディガン卿(=the Earl of Cardigan)/L~ Morrison モリソン卿(=Baron Morrison of Lambeth).

つまり、卿はLordの訳語として使われているのだから、Sirも卿と訳しては困るだろう、と言いたいのです。
 正典では、たとえばLord St. Simonセント・サイモン卿という『独身貴族』の結婚問題に絡んだ騒ぎがありましたね。
 このセント・サイモン卿という人は
「ロバート・ウォルシンガム・ドゥ・ヴィア・セント・サイモン。バルモラル公爵家次男。ふむ。紋章は、地は紺、黒い中帯の上方に三個の鉄菱をあしらう。生年は1846年。四十六歳。結婚に若すぎるとは言えないな。前内閣の植民省次官。父公爵は元外務大臣。プランタジネット王家の直系で、母方はチューダー王家の血を引く。……」

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2008年7月 6日 (日)

コナン・ドイル卿? (3)

 ドイルの功績に対してナイトの位が授けられることになった。

1899年10月   ボーア戦争勃発。ドイル志願。
1900年4月   野戦病院監督として南アフリカに赴く。
1901年1月   ヴィクトリア女王崩御。エドワード7世即位。
1901年8月   『バスカヴィル家の犬』連載を始める。
1902年1月   『南アフリカの戦争――その原因と経過』出版
      5月    ボーア戦争終結
      8月    エドワード7世戴冠式

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 コナン・ドイルは、1902年8月の戴冠式の機会にナイトの位を授けられることになった。

「8月9日、戴冠式の当日を告げる鐘の音がひびきわたったとき、コナン・ドイルは、同時にナイトに叙せられるオリヴァ・ロッジ教授とともに、バッキンガム宮殿の檻のなかへつれこまれた。絹衣装の盛装をこらして美々しく飾りたてた人びとのまんなかで、この二人は心霊学の問題の討議に熱中し、そこへ出かけてきた目的すら忘れてしまうありさまだった。そして、ほどなく彼は日光のなかへ、まだいくらか反抗的な気分で、アーサー・コナン・ドイル卿となって出現したのであった。」
(ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』大久保康雄訳 早川書房版p.304)

 ようやく本題です。
 彼はSir Arthur Conan Doyleとなった。これを大久保康雄氏は「アーサー・コナン・ドイル卿」と書いているが、これでよろしいのか?

 よろしくない。ナイトの位をもらったドイルのことを、「アーサー・コナン・ドイル卿」「コナン・ドイル卿」「ドイル卿」「アーサー卿」と呼ぶのは、いずれも不適切である。
 間違いだ――とまでは言い切れないのがむつかしいところだ。
 Sirの称号は、「日本にないもの」だからだ。

「日本にないもの」とは何か?
 英語の初歩の授業では、先生がたとえばbookと発音の模範を示し、生徒がその後について一斉にbookととなえますね。
 明治時代、英語教育が始まったばかりのころは、少々方式が違った。
先生「book 本」 生徒「book  本
 というふうに、先生が単語の発音と意味をとなえ、生徒たちが復唱した。
notebook  帳面」 「notebook  帳面
pencil 鉛筆」 「pencil 鉛筆
knife  包丁」 「knife  包丁
という具合である。発音より意味に重点を置いた。発音は先生も不確かなことが多かった。knifeはクニフェと読んだかも知れない。読み方はどうでもよく、意味の方が大切だったのだ。
 しかし先生にも意味が分からない単語が出てくることがあった。そういうときは
butter  日本にないもの」 
cheese   日本にないもの
 とするしかなかった。バターやチーズがどういうものか、見なくては分からない。
   Cheese and butter are made from milk.
  日本にないもの日本にないものは牛乳から作る。

 Sirはいまだに「日本にないもの」である。baronならば「男爵」でなくてはだめで、「伯爵」とすれば間違いである。
 Sirは「日本にないもの」なのだから、どう訳せば間違いとは言えない。
 しかし、ほかの位や称号との釣り合いを考えると
 Sir Arthur Conan Doyleは
「サー・アーサー・コナン・ドイル」と言うべきだ。
「アーサー・コナン・ドイル卿」はいけない。

 英語では
 Sir Arthur Conan Doyleまたは単にSir Arthurと言うが、
 *Sir Conan Doyle や*Sir Doyleは言わない。
 日本語で「コナン・ドイル卿」「ドイル卿」はいけない。「アーサー卿」もだめ。
 大久保康雄氏が「アーサー・コナン・ドイル卿」と書いているし、延原謙氏は『バスカヴィル家の犬』で「チャールズ卿」「ヘンリー卿」と書いているので、翻訳家の皆さんがいまだに真似をしている。
 しかし、もうやめましょう。「サー・アーサー・コナン・ドイル」「サー・チャールズ」「サー・ヘンリー」の方式に統一することを提案したい。
 もう少し説明が必要かも知れない。

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2008年7月 5日 (土)

1901年のボディビル大会

 1901年9月31日、ロンドンのロイヤル・アルバートホールで世界初のボディビル大会が開催された。(コナン・ドイルとボディビル参照)

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 アーサー・コナン・ドイル(黒の背広姿)と有名な怪力男ユージン・サンドウ(グレーらしい背広姿)などを審査員として、裸男が肉体美を競った。

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 厳正な審査の結果、左から1位のウィリアム・マレー、2位のD・クーパー、3位A.C.スマイズが選ばれた。着衣の男はユージン・サンドウ。 アマチュアはちゃんとパンツをはいてポーズしたらしい。

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 サンドウがイチジクの葉っぱをつけてポーズしたのはプロだからである。
 近年で最高のボディビルダーは、アーノルド・シュワルツェネガーだと思っている人が多いだろうが、そうではない。1960年代から70年代に活躍したセルジオ・オリバの方がはるかにすごかった。サイズだけならば現代のビルダーはもっと大きいが、これはアナボリックステロイド剤を乱用しているからだ。

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2008年7月 4日 (金)

コナン・ドイル卿? (2)

 1902年1月9日、ドイルはパンフレットを書き始め、毎日16時間書いて、17日には
The War in South Africa: Its Cause and Conduct
南アフリカの戦争――その原因と経過
 という6万語のパンフレットを仕上げた。
「私の個人的見解はできるだけ表へ出さず、目撃者の言を、農家の炎上とか暴行とか集中キャンプとかその他の論争問題について、その多くはボーア人であるが、書き記した。説明はなるだけ簡単に短くしたが、事実の正確さについてはどこまでも一貫し、焼けた農家の実数についてだけは自身がないけれど、といっても重大な質問を受けたことは一度もない。私の記述が充実しており効果的であるのを重いながらペンをおいたときは、うれしくてたまらなかった」(『わが思い出と冒険』p.231)

ドイルはこのパンフレットの刊行のために寄付を募った。パンフレットを書き終えるころには1000ポンドほどが集まった。
「多くはあまり余裕もない中から無理をして送ってよこした少額の金であった。中でもきわだった特徴は、毎日のように目の前で行われる中傷に答えることができないのでみじめにされている外国在住の女教師(家庭教師)からの寄付の多いことだった。」(p.232)
  2ヶ月ほどで英語版は30万部ほどを売り上げた。フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ハンガリー語、ロシア語など20カ国語の訳本が出版された。これによって
「大陸の諸新聞の論調に急速な著しい変化が現れた。」(p.238)
 少なくとも「英軍の残虐行為」という悪評はドイルの努力によって払拭された。
「ここまできて私の胸底に深く印象の残っていることは、政府が自分のことなのに十分の説明と防衛策に出なかったことである。一個人が三千ポンドを費やして、一ヶ月という短い期間に世界中の世論に著しい感銘を与え得たのだから、真に資力も知能もある組織ならば、どんなことができるであろう?」(p.240)

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 ボーア人の部隊。
 ボーア人はゲリラ戦を挑んだ。英軍は苦戦を強いられ、ゲリラへの補給を絶つために女子供を含む12万人をconcentration camp強制収容所に収容し、農地や農場を焼き払った。収容所では2万人が死亡した。
 しかし、大陸の新聞で伝えられたような「残虐行為」は、白人であるボーア人に対しては行われなかった。

 1906年、南アフリカは英国領となっていたが、ズールー族の酋長が徴税官を投槍で殺し、これをきっかけにズールー族の反乱がはじまった。
 当時南アフリカにいた37歳のガンジーは、大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、在住インド人による篤志救急隊を組織した
 ガンジーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンジーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。
(『ガンディーと使徒たち』より)

 この残虐行為はさすがに悪評を呼んだ。しかし、今回は英国の国際的な評価が問題になるような事態にはならなかった。相手は黒人なのだもの。

 ともかく、1902年のドイルは「南アフリカ大虐殺」の冤罪を独力で晴らしたのである。ナイトの位はこの功績に対して与えられた。
 しかし、まだ本題に入っていない。

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2008年7月 3日 (木)

コナン・ドイル卿? (1)

 1902年、アーサー・コナン・ドイルはナイトの位(knighthood)を授けられ、Sir Arthur (Conan Doyle)と呼ばれるようになった。
 シャーロック・ホームズ譚を書いて大衆を楽しませた功績によるのではない。ポール・マッカートニーは1998年に、ショーン・コネリーは1999年にナイトの位をもらっているが、芸能活動のおかげでナイトに叙せられる人が出てきたのはごく最近である。

「ショーン・コネリーはナイトに叙せられた」
Sean Connery was created a knight.

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 100年前には文学もナイトの位には何の役にも立たなかった。ドイルより偉い文学者でもナイトにはなっていない。
 ドイルがナイトになったのは、第二次ボーア戦争(1899年10月-1902年5月)と関係がある。1899年10月ボーア戦争が勃発すると、40歳のドイルはミドルセックスの連隊に一兵卒として志願したが、この志願は却下された。そこでドイルは民間の医師で編成した野戦病院の監督として南アフリカに渡り、1900年4月から7月まで傷病兵を看護した。
 1901年終わりから1902年はじめにかけて、ドイルは南アフリカでイギリス軍が残虐行為を働いているという悪評がヨーロッパに広まっていることに気づいた。イギリス兵は
・ダムダム弾を使用し
・銃剣で赤ん坊を突き刺したりし
・ボーア人の女性を強姦し
・ボーア人の子供を飢え死にさせている
などという報道が外国の新聞で盛んに行われた。もちろん、すべてウソであった。 
  たとえばダムダム弾は南アフリカでは使われなかった。普通の軍用銃の弾丸はフルメタルジャケット(full metal jacket)弾で、鉛の弾芯を真鍮で完全に覆ったものである。この弾丸は標的、すなわち人間に当たった場合、貫通する可能性が高く無用の苦痛を与えない。ところが弾頭に十字の切れ込みを入れておくと、命中後四つに分裂して人体に食い込み大きなダメージを与える。しかし、これは1899年のダムダム弾禁止宣言、1907年のハーグ陸戦条約で禁止されている。英国が白人同士の戦いにダムダム弾を用いるはずがない。この弾丸はカルカッタの近くのダムダムという町にある兵器廠で作ったのでダムダム弾というのである。インドの土人に対して使ったものに決まっているではないか。
 ドイルはイギリスを弁護するためにパンフレットを書いた。

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2008年6月 2日 (月)

柔道か柔術か(23)

 日本近代文学の起源に限らず、何でも起源というものは見えにくくなる。
 だからウィキペディアの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」のような空想的記事が大手を振ってまかり通ることになる。
 英語版のウィキペディアもデタラメである。Catch wrestlingという項目があって、日本語版の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」とよく似た内容が書いてある。カール・ゴッチが猪木、藤波、ヒロマツダ、佐山聡、藤原喜明、前田日明などを教えた、なんてことまで書いてあります。いったいに英語版ウィキペディアの格闘技関係はむやみに日本のことに詳しくて、猪木以下のレスラーはそれぞれ独立の項目になっている。
 Catch wrestlingも、まったく空想である。英語版ウィキペディアの編集者はさすがにセンスがあって

This article does not cite any references or sources. (October 2007)

 と注意書きを付している。「空想で記事書く、よくありません。典拠示すよろし」ということです。

 文献の証拠を示さなくてもよいのなら、何でもでっち上げることができる。
 柔道や剣道の韓国起源説などがその最たるものです。
 judoは「ユド」という発音でウリナラのものなんだって。剣道は「コムド」だそうです。悪意で外国人をだまそうというよりは、韓国人自身が本気で信じ込んでいるようだ。
 どうしてそういう妄想におちいるのか? 
 1970年に漢字を全廃したことが大きいと思う。むかしの文献が読めなくなった。古い文献は漢文だから読むにはそれなりにスキルがいるけれども、大韓民国成立後に書かれたものまで全部読めなくなったのだからひどい。
 テコンドーなどは韓国起源をでっち上げて、とうとうオリンピック種目にしてしまった。文献が読めないものだから、こういうことをして恬として恥じないのだ。
 
 話が逸れた。英国のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの場合も同じだ。文献の証拠が大切だと言いたいのです。
 百年前の文献を丁寧に調べれば、分かってくるはずだ。

(1)20世紀はじめには、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルのレスリングがプロレスとして行われていた。
(2)力づくでフォールを狙うレスリングで、なかなか勝負がつかなかった(漱石が見て「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」とあきれた)。
(3)タニ・ユキオをはじめとする柔術家が異種格闘技戦を挑んで、絞め技、関節技でギブアップを狙うという戦い方を始めた。
(4)それまではプロレスにサブミッション・レスリングという考え方がなかった。
(5)プロレスは第一次大戦(1914-19)でいったん廃れたが、戦後復活するときに、対柔術戦からサブミッションを取り入れた。
(6)ビリー・ライリーのスネークピットというジムで、グレコローマン、フリースタイル、柔術の三要素を取り入れたレスリングを教えた――というのはだいたい正しいだろう。
(7)しかし「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」とは、スネークピットのレスリングではなく、フリースタイルのことである。

 以上はあくまで仮説である。しかし前に言ったように、手間さえ厭わなければ検証できるはずだと思う。あるいは反対の証拠が見つかる(反証される)かも知れない。
 私が特に強調したいのは上の(3)(4)あたりである。20世紀初頭の英国のレスラーたちが関節技でギブアップを狙うという戦い方を知っていたのならば、体重が57kgに満たない「ちっぽけなジャップ」が連戦連勝できるはずがないではないか。

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 前田日明はカール・ゴッチの関節技がものすごいことを語って、西洋中世の騎士たちが(日本の戦国武者のように)組み討ちをして関節を極める戦いをしたのだろう――という推測をしている。
 プロレスの技術論ならば私などが口を差し挟む余地はない。しかし、この話に関する限り、前田さんの勘違いでしょう。
 西洋中世にも剣術、弓術、槍術、馬術などはあり、文献がいくらでも残っているはずだ。しかし、西洋には柔術に相当するもの、すなわち鎧武者同士の組み討ち術はなかった。だからこそJiujitsuという日本語がそのまま使われたのだ。Jiujitsuと自分の名前を合成してBartitsuなんてのを作る者も出てきた。
 そして、シャーロック・ホームズは日本のバリツのおかげでモリアーティ教授の魔手から逃れたのである。

 サブミッション・レスリングの柔術起源説は、丁寧に調べれば文献で実証できるかも知れない。
 あるいは実証できない(文献がない)かも知れない。
 レスリングには、ボクシングと違って、アーサー・コナン・ドイルやクィンズベリー侯爵のような社会的地位の高い支持者がいなかったことが大きい。(続く)

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2008年4月17日 (木)

メレディスとドイル

 サウスノーウッド時代にドイルが特に誇りに思ったのは、ジョージ・メレディス(1828―1909)との繋がりだった。今となってはなぜかが分かりにくいのだが、メレディスは晩年の二十年間に文壇で偶像視されていた。理由は二つあった。第一に、メレディスの文章は読みにくく、そもそも理解できないことも多かった。したがって(1)名文であり(2)深遠な思想がある、ということになった。第二に、ふつうの読者はメレディスなど読まないので、同時代の作家は競争相手になる恐れのない彼を安心して祭り上げることができた。それに、どんな職業でも誰かひとり大御所がいて仰ぎ見ることができれば有り難いものだ。トマス・ハーディ(1840―1928)は1990年代にはまだ貫禄が足りなかったし、メレディスは社会的政治的に安全で恰好の崇拝対象だったのだ。ハーディの番が来るのはもっと後になり歳を取って危険がなくなってからである。
 カーライル(1795―1881)なきあとメレディスこそが文学の第一人者だと思ったから、コナン・ドイルはメレディス論を書き、1892年11月にはアッパーノーウッドの文学学術協会で彼について講演した。ドイルは文豪からボックスヒルの自宅に招かれることになった。このときの会見は庭で始まったが、危うくその場で終わるところだった。メレディスは自宅の裏の小高い丘を指して「先ほどあの天辺まで登ったのです」と言った。ドイルは新聞でメレディスの健康が優れないことを読んでいたから、驚いて「ずいぶんお元気ですね」と言った。メレディスは怒って「私を八十の爺とでも思っているのですか」と答えた。ドイルは「ご病気と伺っておりましたので」と言い訳し、メレディスは怒りを飲み込んだ。昼食の席でドイルは赤ワインを一本あけ、メレディスの話に聞き入った。昼食後二人はメレディスが仕事をする四阿まで険しい細い道を登った。ドイルが先に立った。後ろで滑って転ぶ音がしたが、ドイルは懲りていたから振り返らず気がつかない振りをした。「恐ろしく自尊心の強い老人だった。助け起こしたりすればとんでもないことになるのは本能的に分かった」とドイルは書いている。無事に四阿におさまったところで、メレディスは書きかけの小説を朗読してくれた。ドイルは非常にいいと思ったのでそう言うと、メレディスはそれでは書き上げることにしようと答えた。『驚くべき結婚』が完成したのは、ドイルがこのとき著者を助け起こさなかったおかげかも知れない。
(ヘスキス・ピアソン『コナン・ドイル』より)

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2008年3月 5日 (水)

評伝

 以前から気になっていたことだが、わが国には評伝というジャンルがあって、これが独自の人気を博している。<人物評伝>などという言い方は特に好まれる。ところで<評伝>に相当する外国語は何かと考えると、ハタと当惑する。日本における<評伝>という語の成立を調べてみたら、さぞ面白かろう。資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする<伝記>の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での<評伝>というジャンルはない。<伝記>の事実尊重主義と<批評>の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が<評伝>。二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。優れた見識を持つ筆者の手になる<評伝>は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物になる。個性による個性の照明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。
 こういう秀れたものの場合は良い。しかし本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、<評伝>というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。 
 わが国で本格的ノンフィクション文学が発達せず、辞典類の記述も評伝的恣意に甘く流れがちなのも、このことと関係があるだろう。
(由良君美『みみずく偏書記』pp.215-216)

『先生とわたし』は評伝でしょう。「筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物にな」ったといえる。

「伝記」対「評伝」は、私も以前から気になっていたことで、コナン・ドイルの伝記に関して触れたことがある。
  日本では、伝記と評伝を区別せず、何となく伝記の高級なのが「評伝」であるかのような認識がある。岩波書店からPenguin Livesというシリーズの翻訳が出ているが、ペンギン評伝叢書と称しているのはまことに見識がないと思う。

  ジュリアン・シモンズの『コナン・ドイル』は、イギリスには珍しい<評伝>である。
 コナン・ドイルの<伝記>としては、ジョン・ディクスン・カーの書いたものがあるけれども、失敗作である。
 イギリス式の本格的な伝記として、ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル』を紹介したいと私は思っているのだけれど。
 これについては、カテゴリーのコナン・ドイル、特に「コナン・ドイル伝の邦訳」をご覧下さい。

Arthurconondoyles

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2008年2月27日 (水)

昔の英国の入学試験(2)

 コナン・ドイルは1875年、ガンジーの15年前に大学入学資格試験に合格している。
 ヘスキス・ピアソンのドイル伝では

 In his last year he edited the College magazine, and at the end of his time amazed everyone by taking honours in the London Matriculation.

  ストーニーハースト校の最終学年に彼は校内誌を編集し、最後にthe London Matriculationで優等の成績を取ってみんなを驚かせた。

 このthe London Matriculationは、ガンジーの伝記に出てきたa London University matriculationと同じものだろう。

  ジョン・ディクスン・カーのコナン・ドイル伝

……彼は、けんめいに身を震わせながら、他の十三人の少年といっしょに、ロンドン大学の試験を受けた。その結果をつつみこんだ小包郵便が、ものすごく暑い七月の一日、ロンドンから到着して、校長室へ運びこまれた。
……受験した十四人のうち十三人がパスし、ストーニーハーストはじまって以来の好成績だった……
……アーサーは、単にパスしたばかりでなく、実に優秀な成績でパスしたのである。

 大久保康雄氏は「ロンドン大学の試験」と訳している。
 しかし、ロンドン大学の入学試験ではない。ドイルは合格してエディンバラ大学に入学したのだから。

 ガンジーの場合も、合格はしたけれども大学に入学はしなかった。英語の力をつけるために、力試しに受けただけである。ガンジーはインナー・テンプル法曹学院に入学した。こちらは無試験である。法律の授業はなかった。学生の義務は授業料を払うことのほかに、1年に24回、学院の食堂で夕食を取ることだけだった。入学してから3年後に弁護士資格試験があったが、これはごく簡単なもので、よほどの馬鹿でなければ合格した。
 だから、ガンジーは暇を持て余していた。社交ダンスやバイオリンを習ったり、菜食主義を広める運動をしたり、英国人女性に誘惑されかかったりして、3年を過ごした。彼はヒンズー教の聖典、バガヴァット・ギーターを初めて(英訳で)読んだ。ガンジーが「マハトマ」への道を歩み始めるのは、南アフリカに渡ってからである。このころは、まだボンヤリした青年である。
 
  ガンジーが1890年に合格したときは、ラテン語、フランス語、物理(「光と熱」)の3科目だった。(なぜ数学は不要?)
 コナン・ドイルが1875年に合格したときの科目は、カーやピアソンによる伝記には書いてない。

 ロンドン(ユニバーシティ)マトリキュレーションは、だいたい「大学入学資格試験」と訳しておけばよいだろう。要するに

(1)競争試験ではなく資格試験
(2)ロンドン大学が出題し採点した。
(3)オックスフォードとケンブリッジ以外の大学の受験生用

 コナン・ドイルたちはロンドンまでで受験に出かけたのではなく、スコットランドのストーニーハースト校で試験を受け、答案をロンドン大学に送ったのだろう。
 カーのドイル伝で「その結果をつつみこんだ小包郵便」と書いているのは、採点した答案を小包で送ってきたということだ。
 当時は現在のセンター試験のような馬鹿な制度(廃止しろ!)はなかった。試験は完全な「記述式」だったはずだ。それでもロンドン大学で全国の試験ができたのは、志願者が少なかったからだろう。
 志願者が多くて競争試験になったのは、陸軍士官学校と海軍兵学校だった。そのための予備校がビジネスとして成立していたことは、モリアーティ元教授の職業(1)--(5)に書きました。

 1875年は明治8年である。このころ日本にはもちろん大学入試などなかった。大学の設立は明治10年になってからである。
 1890年は明治23年である。この年、夏目金之助(漱石)は帝国大学に入学している。(東京帝国大学と書くのはおかしい。大学はまだ一つしかない。)どういう試験を受けたか、漱石の伝記を読んでも書いてあるのを見たことがない。

 むかしはのんびりしていてよかった、ということです。

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2008年2月25日 (月)

昔の英国の入学試験(1)

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 1888年(明治21年)10月、19歳になったばかりのガンジー(モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー)は、客船クライド号から英国サウサンプトンの港に降り立った。
 彼はロンドンのインナー・テンプル法曹学院で3年間勉強して、バリスター(法廷弁護士)の資格を取ってインドに帰るつもりだった。

 以下は『ガンディーと使徒たち』pp.126-127から。

  英国に来てから数ヶ月の間、ガンディーは学業にはあまり身を入れなかった。彼はインナー・テンプル法曹学院に学生として登録しただけで、ほかにはほとんど何もしなかった。しかし、ウェスト・ケンジントンの下宿を引き払ってからは、もう少し真剣に取り組むようになった。当時のインナー・テンプルでは学業はほとんど形式的なものだった。学生は標準的な教科書を何冊か読んで、三年後にコモン・ローとローマ法の二科目の試験に合格すればよかった。試験はごく簡単なもので、ほとんど全員が合格した。学生の義務は、このほかに授業料を払うことと「規定の学期間在学する」ことであった。学生は、自分の所属する学院で一学期に六度夕食を取れば在学したものと見なされた。夕食は実際に食べる必要はなく、所定の時間に正装して食卓に着き一時間ほど坐っておればよかった。卒業するためには十二学期間在学する必要があり、一年は四学期だった。試験に合格し規定の学期間在学した後、学生は紳士として法曹倫理規範に従うことを誓い、バリスターの資格を与えられた。

 ガンディーは、法律書に取りかかる前にまずもっと英語の力をつけなければならないと思った。それにローマ法の研究にはラテン語の初歩も必要だった。彼はオックスフォードかケンブリッジに入学することも検討してみた。しかし、インナー・テンプルに籍を置いたまま大学にも行けなくはなかったが、時間と金が足りなかった。彼はその代わりにロンドン大学の入学試験を受けることにした。これはアーメダバードの試験よりもはるかに難しかったから、彼は受験予備校に通った。一八九〇年一月、彼はラテン語、フランス語、化学の三科目の入学試験を受けた。この試験は不合格で、彼は六月に再試験を受けた。今度は化学の代わりに「熱と光」という科目(この方が易しかった)を取り、合格した。

この本は私が訳したのですが、第2段落に誤訳があります。「ロンドン大学の入学試験」というのが間違い。これは「ロンドン大学の入学資格試験」としなければならない。

 原文は
He therefore settled on a London University matriculation--a much more rigorous examination than the Ahmedabad one--and on a cram tutorial school to help him prepare for that.

  matriculationという単語は知っているつもりだったので、辞書を引かなかった。リーダーズプラス英和辞典を引いてみると

matriculation
大学入学[入会]許可, 入学式; 【英】 大学入学資格試験《現在は GCE に取って代わられた》

 とある。GCDを引くと

GCE
【英】General Certificate of Education(一般教育証明書[試験])全国的に行われる試験で, S level, A level とそれより低いO levelがあったが, O levelは廃止; 大学入学の資格を認定する

 この間違いには、ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝を読んでいて気がついた。コナン・ドイルは1875年、ガンジーの15年前に大学入学資格試験に合格している。(続く)

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2006年12月 5日 (火)

コナン・ドイルとボディビル

 このころのことで今でも愉快な思い出となっている一つの追憶がある。私は「筋肉づくり」をするために例の強人ザンドウ氏の指導を受け、氏と親しくなった。

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1901年にザンドウ氏はイギリスの傷病兵のために何かしようと思いたち、アルバート・ホールでの「筋肉コンテスト」を発表した。まず彼自身がお手本を示し、つづいて幾人かの選手が力と筋肉の見事さを示して賞を争うわけだった。賞は三個で、高さ二フィートの金製の立像、銀の複製、同じく銅賞だった。ザンドウは彫刻家のローズと私にジャッジを頼み、自らはレフリーをつとめた。
 これは意外な評判となり、アルバート・ホールは満員だった。出場選手は八十人にのぼり、ひょうのような皮膚をまる出しにして台の上に立つ。ローズと私は彼らを十人ずつ並ばせ、その中から一人二人と選り抜き、しまいに六人だけに絞った。それからが大変だった。どれも見事に発達した筋肉の持ち主だったからである。結局賞を三個増して三人に与え、後の三人にも像を与えることになったが、三個の像はそれぞれ値段が非常に違うのだから、その順位を決めるのは大変むつかしいことだった。三人ともすばらしい体つきをしていたが、よく見るとうち一人はやや不体裁であり、一人は背が少し低い。そこで私たちは真ん中の一人、ランカシャから来ているマーリという若者に、高価な金像を授けることにした。……コナン・ドイル『わが思い出と冒険』新潮文庫p.255)

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 これがたぶん世界ではじめてのボディビル・コンテストでしょう。「例の強人ザンドウ氏」というのはEugen Sandow(1867?-1925)。本名をフリードリヒ・ヴィルヘルム・ミュラーというドイツ人。オイゲン・ザンドウと読むのが正しいのでしょうが、英米で活躍したので、ユージン・サンドウと呼ぶことが多いようです。
 ヨーロッパ各地で力業を見せてまわり大人気を呼んだ。

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 それまでにも力業を見せ物にする芸人はかなりいた。(上の写真のような凄いことはできなかっただろうけれど。一体全部で何キロになるだろう?)フェデリコ・フェリーニの『道』でアンソニー・クインがやった役などもその一人である。彼はジュリエッタ・マシーナをいじめる悪い奴であった。

 ザンドウのユニークなところは、力だけでなく「筋肉美」を売り物にしたこと、組織的なトレーニング法を開発したことであった。彼はボディビルの元祖だった。写真はかなり残っていますが、ポーズもイチジクの葉っぱも、いま見るとちょっと気味が悪い。

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もっと写真を見たい人はここ

 コナン・ドイルはザンドウの指導でトレーニングに励んだ。もともと筋骨隆々だったから40歳を過ぎてからでもかなり効果があったらしい。ヘスキス・ピアソンのドイル伝によると、彼はボディビルのおかげで一命を取り留めたのだという。
 あるときドイルはオープンカーに乗っていて、土手に乗り上げて転覆してしまった。重さ1トンの車の下敷きになったが、助けが来るまで持ちこたえられたのは日頃のトレーニングのおかげだったという。

 ザンドウの著書は英語ならば現在も入手可能です。下記のうち、Life Is Movement or the Physical Reconstruction and Regeneration of the Peopleという本はザンドウとコナン・ドイルの共著である。どんな本か、取り寄せて読んでみるつもり。シュワちゃんなどとは一味違うザンドウの肉体美を鑑賞したい人はSandow the Magnificentがお勧め。

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2006年11月24日 (金)

正典の61編目?

昨日の答え。
 The Man Who Was Wantedという作品です。全文(英語)はこちら
 ホームズの正典は御存じのように長短合わせて60編ですが、一時はこれが61編目として扱われていた。つまりコナン・ドイルの作品とされていた。
 1952年月曜書房から刊行された「シャーロック・ホームズ全集第13巻」(延原謙訳)には、這う男、獅子の鬣、覆面の下宿人、ショスコム荘、隠居絵具師とともに本編が『求むる男』として収録されていた。
 しかし、現在では、ワトソン/ドイルによるものではない、正典ではなく外典であるということになっている。

 1943年、コナン・ドイル伝を書くために調査していたヘスキス・ピアソンは、The Man Who Was Wantedという標題のホームズの短編を発見した。タイプで打ったものである。ドイルの原稿はすべて手書きだったが、秘書にタイプで清書させたと考えればおかしくない。ピアソンはこの原稿の内容を慎重に検討し、ドイルが書いたものだと判断した。
 伝記では次のように書いている。

「……この主人公をかくも長きにわたって維持することができたのは、また読者も最近のホームズ譚が初期作品に比べて遜色がないと見てくれているのは、私が無理に話を作りはしなかったからである」とドイルは書いている。この主張の裏付けとしては、私が彼の書類の調査中に発見したホームズ短編の完成稿をあげればよいだろう。未発表のこの原稿はThe Man Who Was Wantedと題されている。確かに全体として水準には達していないが、冒頭の部分だけはドイルの名に恥じぬものであり、引用に値すると思う。
(以下、ピアソンは、書き出しの部分だけを、ただし拙訳部分よりもう少し長く引用する。)

 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝が評判になると、この「ドイルの未発表原稿」を読みたいという要望が高まった。
 1948年、The Man Who Was Wantedはアメリカのコスモポリタン誌8月号に「長らく失われていたシャーロック・ホームズ譚」として発表された。英国ではサンデイ・ディスパッチ誌49年1月号に掲載された。いずれもコナン・ドイルの作品としてである。

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 ところが、アーサー・ウィテカーという人物が、実は自分が書いたものだと名乗り出た。彼はタイプ原稿のカーボンコピーとドイルからの「貴君のプロットを買い取りたい」という手紙を持っていた。
 どうやら、ウィテカーはこの作品を書き上げ、共作の形で出版したいと考えてドイルに送ったらしい。ドイルは共作を断り、代わりに10ギニーでプロットを買い取ると返事したものと見られる。
 エイドリアンとしては、いったんドイル名義で発表してしまったので、はじめはウィテカーの主張を認めるのを拒んでいたが、歴とした証拠があるのだから仕方がない。The Man Who Was WantedCanonではなくApocryphaに属するものと見なされるようになった。この間、エイドリアンとウィテカーの間にかなりゴタゴタがあったらしい。しかし1952年になっても日本でドイルの作品扱いしていたというのは、どうも解せないところである。
 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝のペーパーバック(1987年版)には、The Man Who Was Wantedに触れた箇所に「ピアソンは現在ならばこうは書かなかったであろう」と脚注がついている。
 なかなかよくできたパスティッシュだと思う。私自身、ずっと昔に日本語で読んだような記憶がある。あれは延原謙訳だったのだろうか?
 英語版は無料で読めます。日本語で読みたい方は日暮雅通氏の訳『指名手配の男』が各務三郎編『ホームズ贋作展覧会』に収録されているはず。

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2006年11月23日 (木)

シャーロック・ホームズの事件簿から

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 1895年の晩秋、私は幸運にもシャーロック・ホームズの極めて興味深い事件の一つに係わる機会を得た。このころ妻はしばらく体調がすぐれなかったので、同窓生だったケイト・ウィットニーと一緒にスイスで休養を取らせることにした。(ケイトの名は『唇のねじれた男』の標題で記録した事件との関連で読者の記憶にあると思う。)私は診療の規模が拡大して何カ月もの間懸命に働いていたから、自身休養を取る必要を大いに感じていた。しかし、アルプスへ行くほど長期間は休めそうにない。妻には自分も何とか一週間か十日ほど休みを取ると約束して、ようやくスイス行き(妻にはこれが是非とも必要だと私は考えた)に同意させたのである。このころ一番大切な患者の病勢が危機にあったが、八月も終わるころようやく峠を越え回復の兆しを示し始めた。どうやら代診の手に委ねても差し支えあるまいと思われたから、転地を兼ねて休養を取るとすればどこがよいか考え始めた。
 すぐに頭に浮かんだのは、旧友シャーロック・ホームズをたずねることであった。もう何カ月も会っていなかったのである。何か重要な事件を手がけているのでなければ、一緒に来るよう誘えばよい。
 こう決めてから半時間もたたぬうちに、私はベーカー街の懐かしい部屋の戸口に立っていた。
 ホームズはこちらに背を向けて長椅子に横になっていた。おなじみのガウンと古いブライアーのパイプは昔のままである。
「入り給え、ワトソン」向こう向きのまま声をあげた。「よく来てくれた。でも、どういう風の吹き回しだい?」
「相変わらず耳がいいね、ホームズ。僕はとうてい君の足音を聞き分けられんよ」
「僕だって聞き分けられないさ。ただ、あかりの暗い階段を二段ずつ上がってきたから、勝手知ったる下宿人かな、とは思った。それでもまだ断定はできなかったが、ドアの外のマットにつまずいた。三月ばかり前に置いたものだ。それでもう名乗ってもらわなくとも分かったのだ」

 何という作品でしょうか?

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2006年11月22日 (水)

コナン・ドイル伝の邦訳

・ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』早川書房1962(原著1949)
・ジュリアン・シモンズ『コナン・ドイル』東京創元社1984(原著1979)
・ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生まれた家』新潮社1983(原著1977)

 ジョン・ディクスン・カーの『コナン・ドイル』の書き出しは

 一八六九年の夏のある午後、エディンバラ市サイエンス・ヒル・プレース三番地の家で、台所のとなりの荒いみがかれた小さな食堂に、ひとりの中年ちかい紳士が、自分のかいた水彩画に向かって腰をおろしていた。彼は過去二十年の歳月を回想していたのである。
 背が高く、絹のような顎髭がチョッキにまでたれて、濃い髪の毛は額を横切って渦まいていたが、そのような異彩をはなつ容貌の人物にしては、態度が隠棲的で、気弱そうだった。身につけている衣服は、見すぼらしいながらも、妻が精いっぱい努力して、世間へ出ても体面がたもてるだけのものにしていた。ただ、ちらと横目で台所のほうを見やった彼の目には、独自の性格と、はるか戸外を見とおす洞察力とがひらめいていた。

「中年ちかい紳士」というのは、ドイルの父チャールズである。小説仕立てにしたわけである。

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