2009年11月25日 (水)

ショルトーの正体(5)

 コナン・ドイルは、オスカー・ワイルドだけでなく、ワイルドの敵のクイーンズベリー侯爵とも因縁があった。二人ともボクシングの熱心なパトロンだった。当時の上中流階級では少数派だったから、知り合いだった。
 ドイルは自身ボクシングをたしなみ、前に「シャーロック・ホームズの階級」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1-6a46.htmlで紹介した『クロックスリーの王者』(コナン・ドイル傑作選Iに収録)やベアナックル・ボクシングを扱った『ロドニー・ストーン』をはじめ多くのボクシング小説を書いている。

 クイーンズベリー侯爵は1867年に定められたクイーンズベリー・ルールで有名だ。このルールによって、グローブ着用、3分1ラウンド制、10秒のダウンでノックアウト、レスリング行為(クリンチからの攻撃)の全面的禁止など、現代ボクシングの基礎が作られた。
 第9代クイーンズベリー侯爵(1844-1900)はスコットランドの貴族だった。

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 彼はボクシングのほかに乗馬や狐狩りにも熱心で競走馬も何頭か所有していた。彼は1872年に上院議員に選ばれたが、1880年になって英国君主へのキリスト教方式による忠誠の誓いを拒否して大問題を起こした。彼は熱心に無神論をとなえた上に、ボクシングなどという下品なスポーツに肩入れしたので貴族の間では評判が悪かった。

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 アルフレッド・ダグラスはこの侯爵の三男だった。息子のアルフレッド・ダグラスと父親の侯爵ジョン・ショルトー・ダグラスは性格も見た目もずいぶん違った。
『四人の署名』に出てくるショルトーは、サディアスよりもその父親が問題なのではないだろうか。ジョン・ショルトー少佐は、ワトソンの妻メアリーの父親モースタン大尉の死に関わりがあった。メアリーはジョン・ショルトーの名を思い出したくないので、夫をジョンと呼ばなかったくらいだ。
 メアリーはJohn H. Watsonのスコットランド風のミドルネームHamishをわざわざイングランド風に直して「ジェームズ」と呼んでいた。
 この点については、ドロシー・セイヤーズ女史の『ドクター・ワトソンのクリスチャン・ネーム』を私が訳しているので、ご覧ください。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_b26f.html

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2009年11月24日 (火)

ショルトーの正体(4)

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 オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿と親密になったのは1891年だった。同じ年、ドイルは「ストランド・マガジン」の7月号から12月号に『ボヘミアの醜聞』から始まる6編を載せて一躍有名になった。
 1895年、ワイルドはアルフレッド・ダグラス卿の父親、クイーンズベリー侯爵に侮辱されたので彼を名誉毀損で刑事告訴した。ところが裁判では名誉毀損は成立しなかった。かえってワイルドの方が男色禁止法 Buggery Act (1533年制定、当初は死刑が罰だった。1885年修正)違反に問われ、有罪となり投獄された。この事件の顛末はオスカー・ワイルド 最初の現代人
 http://www.geocities.jp/oscar_wilde_fansite/biography.htm
に詳しい。
 この年、ドイルは『勇将ジェラール』を書いていた(ホームズは2年前にライヘンバッハの滝で殺してしまった)が、ワイルドの事件について
「そら見たことか! ざまあ見ろ」
とは言わなかった。(ワイルドは演劇で大成功して妬まれていたから、こういう反応が多かった。)
 ドイルはむしろワイルドに同情的だったようだ。ワイルドの事件には
「どうも困った騒ぎだ。ああいう趣味は自分には分からないけれども、一種の病気だから、非難しても仕方がない」
という態度だったようだ。
 これはドイルに限らず良識ある人に共通した態度だった(ただし1967年まで同性愛は刑法上の犯罪だった)。

 1943年に初の本格的なコナン・ドイル伝を書いたヘスキス・ピアソンは、1946年に『オスカー・ワイルド伝』を書いた。この時にはまだジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)が存命だったので、ピアソンはショーに相談した。
「ショーさん、僕はオスカー・ワイルドの伝記を書こうと思うのですが、どんなものでしょうか?」
「まあ、やめておいた方がいいと思うよ。何しろ、例の件があるからねえ。わしが死んで、それから君も死んで……ところでピアソン君は何年生まれ? そうか、わしより30年も若いねえ。君も死んでから何年も経てば、あれも大したことじゃない、犯罪ではない、ということになっておるだろう。伝記を書くなら、それからじゃよ」
 しかし、ピアソンはワイルド伝を書いた。何しろ伝記を書くのが仕事で、ショーの伝記も1951年に書いているのだ。
 ピアソンは何よりも才人としてのオスカー・ワイルドを尊敬していたので、そこに焦点を当てて書いた。男色はあったかもしれないが、大した問題ではない。ピアソンの考えを大幅に「意訳」すると
「織田信長は森蘭丸をかわいがったけれど、信長は別に変態ではない。オスカー・ワイルドだって同じことです」

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2009年11月23日 (月)

ショルトーの正体(3)

 オスカー・ワイルドとコナン・ドイルが1889年に出会ったとき、ワイルドは35歳、ドイルは30歳だった。ドイルはこの年の2月に歴史小説『マイカ・クラーク』を出していた。
 ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』によると

 成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット誌に『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。

 1889年のドイルには、成功は「すぐそこまで来ていた」が「まだ」だった。一方、ワイルドはすでに名士だった。『ドリアン・グレイの肖像』はまだ書いてないし劇場での大成功は1892年からだったが、作品より先に本人が有名になっていたのだ。
 ワイルドは、1878年にオックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業して翌年ロンドンに出てくると、奇抜な服装と才知でたちまち評判になった。あちこちのパーティにひっぱっりだこで、パーティではワイルドがどういう気の利いたこと言うか、みんなが耳をすませていた。風刺雑誌『パンチ』にオスカー・ワイルドのカリカチュアが載った。

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 1881年には、ギルバートとサリバンがオスカー・ワイルドがモデルの喜歌劇Patienceをヒットさせた。これはニューヨークでも上演されたので、プロモーションのためにワイルドをアメリカに呼ぼうということになった。1881年末に渡米したワイルドは1882年1年間かけて全米70箇所で講演して回った。
「植民地へ講演に行って稼ぐ」というのは、大先輩の作家チャールズ・ディケンズもやったことだ。しかしディケンズの場合は、功成り名遂げてから自作を朗読して回ったのだ。ワイルドはまだ28歳で詩集を2冊出しただけだった。しかし彼の講演はアメリカの聴衆に受けて大成功だった。

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 ドイルと初めて会った1889年には、ワイルドは『婦人世界』誌の編集長で、前年に『幸福な王子』を出版していた。
 翌1890年に唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』を発表した。1892年に『ウィンダミア卿夫人の扇』が初演され、ワイルドの劇作家としての大成功が始まった。彼がクイーンズベリー侯爵との裁判事件で没落するのは1895年である。

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2009年11月21日 (土)

ショルトーの正体(2)

 小林・東山両氏の本、「ドイルはワイルドからあまり良い印象を受けなかったらしく、……」の前の段落に、こう書いてある。

 ドイルは自伝で、オスカー・ワイルドに初めて会った時のことを書いている。1889年のできごとであった。「ワイルドは唯美主義のチャンピオンとしてすでに名をなしていた。彼は私たちよりも群を抜いているだけだったが、それでもこっちのいうことには面白がってみせる術を心得ていた。感じかたや如才なさにこまやかさがあったが、一人芝居の男は心から紳士ではあり得ない。この晩の結果はワイルドも私も『リピンコット』の誌に小説を書く約束ができたことだった。それで書いたの場、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』と私の『四つの署名』とであった。(延原謙訳『わが思い出と冒険』新潮文庫、97ページ)

 延原謙訳が誤訳だから、「あまり良い印象を受けなかったらしく」という誤解が生じたのです。原書(Memoirs and Adventuresという題ではないので気がつかないが下の本)を見てみよう。

He towered above us all, and yet had the art of seeming to be interested in all that we could say. He had the delicacy and feeling and tact, for the monologue man, however clever, can never be a gentleman at heart. He took as well as gave, but what he gave was unique.

 下線部を、延原謙氏は

彼は与えもした代わりに、与えるものは独特であった。

 と訳している。意味不明である。だから、小林・東山氏は引用から省いている。しかし引用部分だって「彼は私たちよりも群を抜いているだけだった」を始め、ナンセンスだ。
 正しい訳は

  彼は我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた。まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本物の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった。

 これで意味が通るはずです。
 延原謙訳では、ワイルドが「一人芝居の男」だったことになる。とんでもない間違いだ。
 コナン・ドイル(1859-1930)は1889年にオスカー・ワイルド(1854-1900)と初めて会った。そして「あのワイルドさんが僕の小説をほめてくれた!」と感激したのだ。まだ専業作家ではなかったドイルに対して、ワイルドはすでに名士だった。ところがワイルドは本物の紳士で、少しも偉そうにしない。ドイルの小説をあらかじめ読んできてくれた上に、ドイルの言うことを面白そうに聞いてくれた。さすがに有名になる人は違う、とドイルは感心したのだ。

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2009年11月20日 (金)

ショルトーの正体(1)

 ドイルはワイルドからあまり良い印象を受けなかったらしい、オスカー・ワイルドを戯画化して《四つのサイン》にでてくるサディアス・ショルトーを描いた。ショルトーは「南ロンドンという荒涼たる砂漠のなかの芸術のオアシスです」と話し始めるが、これはワイルドが1882年にアメリカ旅行をした時に「アメリカ女性? 彼女は常識という人を当惑させる砂漠の中の魅力的なオアシスですよ」と話した警句のパロディである。
(小林司・東山あかねp.155)

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 サディアス・ショルトーのモデルがオスカー・ワイルド? ワイルドはもっと偉かったと思いますよ。彼は少なくとも禿頭ではなかった。しかし、小林司・東山あかね両氏だけではなく、ほかの人たちもだいたい同じ意見のようだ。
  
 河出書房版ホームズのクリストファー・ローデンによる注釈を水野雅士氏の本から孫引きさせてもらう。

「サディアス・ショルトーの人物描写の中に、疑いようのないオスカー・ワイルド的なものが存在している。ワイルドは大変な、そしてきざな愛煙家であった。サディアス・ショルトーも水ぎせるを愛用している点においては――そうである。…………」…………さらにローデンは、《四つのサイン》でホームズが指摘したサディアス・ショルトーの筆跡に関する「この(縦に)長く書くべき文字の群を見てみたまえ。短い文字の列からほとんど頭が上に出ていない。dはaのようだし、lはeのようだ。しっかりした人物なら、どれほど読みにくい文字を書いたとしても、長い文字を短い文字のようには書かないものだ。彼が書くkは安定性に欠けるし、大文字にはうぬぼれが透けて見える」という特徴は、ワイルドの筆跡と共通する部分があると述べ、そのことから「リピンコッツ」誌のスタッダードが設定した会見で初めてワイルドにあったドイルは、その後おそらくワイルドと手紙のやりとりを始めたのだろう、とローデンは推測している。
(水野雅士pp.277-8)

「大変な、そしてきざな愛煙家」というなら、シャーロック・ホームズも同じではないか。
 ローデン氏の「推測」も、当てにならないと思う。コナン・ドイルとオスカー・ワイルドが文通していたなどと、どうして言えるのだろうか。どちらの伝記にも、文通のことなど書いてはない。

 
 
 どうもみなさん、オスカー・ワイルドを見くびっているのではないか。吉田健一を読んでみて下さい。「英国では、近代はワイルドから始まる。」いや、ワイルドを読めばよいのだ。

 アーサー・コナン・ドイルもジョン・H・ワトソンも正常な男だったから、「例のこと」があったワイルドを嫌っているはずだ、高く評価するはずがない――という先入観があるのでは?
 ドイルはワイルドを尊敬していたし、変態あつかいなどしなかった。したがって(?)、ワトソンも同じだった。

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2009年11月11日 (水)

毛むくじゃらのアイヌ人(7)

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"Round-headed," he muttered.  "Brachycephalic, gray-eyed, black-haired, with suggestion of the negroid.  Celtic, I presume?"
"I am an Irishman, sir."

「頭は丸いな」と彼はつぶやいた。「短頭。眼はグレイ、髪は黒い。ネグロイドの気味もある。ケルトと見たが、ひが目か?」
「僕はアイルランド人です」

 アーサー・コナン・ドイルの『Lost World 失われた世界』(1912)。チャレンジャー教授が初対面のエドワード・ダン・マローン記者の顔を見てこう言う。
 ケルト人は現在のアイルランド人やウェールズ人の先祖だ。白人であるが、金髪碧眼で長頭の北方人種と違って、眼はグレイで髪は黒く短頭であり、いくらかネグロイド(黒人)の要素が混じっていると考えられていたようだ。ドイル自身もアイルランド人だ。
 イングランドで主流のアングロ・サクソンはドイツから渡ってきたゲルマン民族だ。これは白人の中の白人で「アーリア人種」ということになっていたらしい。

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  アーリア(英Aryan, 独Arier)という言葉は色々な意味で使うが、1888年にチャールズ・モリスが書いた『アーリア人種』では、後のナチ人種論と同じように「理想的な白人」の意味だったようだ。(上の表紙のイラストは顔面角が実際より大きい、理想化されたアーリア人像)

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 Aryan.  Not only clean but also pure!

 日本人を「アーリア人種」に含めるトンデモ説もあった。日本人は毛むくじゃらのアイヌ人の血を引くから、朝鮮人や支那人と違って白人なのだ!

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2009年1月 9日 (金)

シャーロック・ホームズの階級(6)

 ウィリアムズとマクマードは、何に出てきたか?

「父は一人で外出するのを怖がっていて、ポンディシェリ荘にはプライズ・ファイターを二人、門番に雇っていました。今夜皆さんをお連れしたウィリアムズもその一人です。彼は元全英ライト級チャンピオンでした。……」
 サディアス・ショルトーが父ジョン・ショルトー少佐のことを語っているのだった。もちろん『四人の署名』ですね。
 ウィリアムズはライト級チャンピオンで、もう一人のマクマードはライト級ではないとすると、ウェルター級かミドル級だろう。

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「お連れは、おれの知らん人だもんね」
「いや、マクマード、知ってるぞ。まさか、私を忘れたはずはなかろう。4年前、アリソン館で、慈善試合の夕べに3ラウンド打ち合ったアマチュアを、覚えていないのか」
「まさか、あのシャーロック・ホームズさんでは! ほんとだ。何で分かんなかったんだろ。そんなとこに突っ立ってねえで、こっちへ来て、あごの下に例のクロスヒットを一発くれてりゃ、すぐに分かったのに。いやあ、あんたも才能があったのに、惜しいことしたねえ。プロになってたら、結構いいとこまで行ってたよ」
「聞いたか、ワトソン。全部しくじっても、僕にはまだ一つ科学的な職業が残っているのだよ」

 メアリ・モースタン嬢の父親のモースタン大尉は1874年12月3日に失踪したのだった。それが10年前というのだから、『四人の署名』の事件は1884年のことである。それより4年前の1880年にホームズとマクマードが3ラウンドのエキシビジョン・マッチを戦ったのだった。たぶんミドル級のプロだったマクマードの引退記念だろう。観客席に奉加帳を回したに違いない。26歳のホームズ(まだワトソンには出会っていない)が相手を買って出たのだ。
 マクマードは「背の低い、胸の厚い男」である。身長はせいぜい170cmくらい、体重は当時ミドル級(160ポンド、約72.5kgまで)、引退後4年も経った今では70キロ台後半かも知れない。
 これに対してホームズの方は長身痩躯で、(たぶん右の)クロスヒットを得意とした。相手が左を打ってくるときにこれと交差(クロス)するように右ストレートを打つのである。

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 しかし、これはちょっと大袈裟すぎる。こういう凄惨な話ではありません。ホームズも言うように、ボクシングはscientific professionなのです。

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2009年1月 8日 (木)

シャーロック・ホームズの階級(5)

 それはともかくとして、19世紀末のボクシングでは
・ウェルター級ができていた。
・しかし、適用されない(ミドル級扱いされる)場合があった。

 シャーロック・ホームズは1854年生まれである。ホームズが好んだ運動競技はボクシングとフェンシングだった(『グロリア・スコット』)が、ボクシングでは若いころにはミドル級だったようだ。
 ホームズは、自分の身長は6フィートだと言っている(『三人の学生』)。ワトソンはホームズについて

 身長は6フィートをやや越えるくらいだが、ひどく痩せているのでずっと背が高いように見える。

 と書いている(『緋色の研究』)。

 だいたい183cmくらいの身長だった。ひどく痩せているというのだから、体重はまず65kgぐらいだろう。ウェルター級である。しかしホームズが20歳の1874年ごろにはまだウェルター級はできていないから、ミドル級で試合をしたはずだ。ホームズは三日三晩飲まず食わずでも平気だから、その気になればライト級のリミット135ポンド(61.2kg)まで減量することは容易だった。しかし紳士のスポーツでは、そんなことはしない。ホームズは賞金目当てのプライズ・ファイターではない。
 このprize-fighterというのが、プロボクサーを指すのに正典で使われている英語である。どういうプライズ・ファイターが登場したか?
 サム・マートン、スティーブ、ウィリアムズ、マクマードの4人である。

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 右から、シャーロック・ホームズ、シルヴィアス伯爵、プライズ・ファイターで伯爵の用心棒のサム・マートン。もちろん『マザリンの宝石』に登場するのだった。

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 拳骨を突きつけてホームズを脅しているのが、黒人プライズ・ファイターのスティーブ。ものすごい大男のヘビー級だから危ない。ワトソンはいざとなれば火掻き棒で頭をかち割ってやるつもりである。『三破風館』でしたね。

 ウィリアムズとマクマードの二人は、もっと初期の冒険に登場するのだった。

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2009年1月 7日 (水)

シャーロック・ホームズの階級(4)

「紳士諸君! 試合はクロックスリーの王者ことサイラス・クラッグズと、ウィルスン炭坑のロバート・モンゴメリーとで行われます。ウェイトは162ポンドで行われる予定でしたが、ついさっき計量したところ、クラッグズは161ポンド、モンゴメリーは149ポンドという結果でした。試合には2オンスのグローブを使い、1ラウンド3分で20ラウンド、最後までもつれた場合は判定で勝敗を決定します……」
(富塚由美訳。間然するところがない翻訳である。)

 モンゴメリーはウェルター級(135-147ポンド)だと言われたのだが、試合はミドル級(147-160ポンド)のリミットを上回る162ポンドで行われることになった。
 ウェイトについては柔軟な考え方をして、試合ごとに適当な契約体重を決める場合があったようだ。現在の格闘技戦と同じである。たとえば吉田秀彦は100キロを超えるヘビー級として戦ってきたが、1月4日の対菊田早苗戦では93キロが契約体重だった(残念でしたね)。
 注目すべきは、グローブの重さが2オンスということである。現代のボクシングではこの体重ならば10オンスのグローブをつける。五分の一の2オンスでは、ほとんど素手と同じである。
 この時代のボクシングは、
・本来なら素手で殴り合うべきだ。
・しかし、やむを得ずクインズベリー・ルールに従ってグローブを付ける。
 ということだったらしい。
 この試合の前にも警察官が現れて「法律は法律だ。グローブを使うのであれば試合の邪魔はせんが、関係者の名前は控えておく」と言う。素手なら犯罪(決闘罪?)になったらしい。
 ゴングが鳴った。

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 両者2オンスの小さなグローブを付けている。
 そのほかに、現在のボクシングと比べてどんな特徴があるか? まず、二人ともガードを下げているが、これは試合開始直後だからだろう。ガードを固める場合もあるのだ。それよりも注意すべきは、両者とも前屈みにならず直立して、体重をほとんど後ろ足にかけていることだ。現在のボクシングのクラウチング・スタイルとは大きく異なっている。
 素手やごく小さなグローブの場合は自然にこういう姿勢になるらしい。現在のように大きなグローブを付けていれば、相手のパンチを自分のグローブでブロックすればよい。素手や小さなグローブではそれができない。前腕でパンチを防ぐことになるから、アップライトな姿勢を取らざるを得ないのだ。

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2009年1月 2日 (金)

シャーロック・ホームズの階級(3)

 三人の男がモンゴメリーに会いに来たのは、「クロックスリーの王者」とボクシングの100ポンド懸賞試合をさせようという思惑からだった。100ポンドあれば、学資をまかなってお釣りが来る。モンゴメリーが承知したことは言うまでもない。

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(挿絵はThe World of Holmesよりお借りしました。下の挿絵も同じ)

クロックスリーの王者というのは

「スポーツ界でクロックスリーの王者として知られるサイラス・クラッグズは1857年生まれ。今年で40歳を迎える」
「若くしてボクシングで稀に見る才能を発揮し、仲間内で次第に頭角を現し、やがて地区チャンピオンに選ばれ、現在の輝かしいタイトルを勝ちとるに至った。だがその地方的名声だけでは満足せず、後援者を得て、1880年5月に旧ロイターズ・クラブで、バーミンガム出身のジャック・バートンとデビュー戦を闘う。当時のクラッグズは142ポンドだったが、15ラウンドを優勢のまま進め、判定でバートンを下した」

 体重が142ポンドということは、ウェルター級(135-147ポンド)なのだろうか? しかし、1880年ごろには、まだウェルター級はなかったみたいだ。

「続いてロザハイズ出身のジェイムズ・ダン、グラスゴー出身のカメロン、さらにファニーという名の青年を次々に倒したため、関係者のあいだで高い評価を受け、北部イングランド出身のミドル級チャンピオン、アーネスト・ウィクロスの好敵手と目された。やがてこのミドル級チャンピオンと凄まじい戦いをくりひろげ、第十ラウンドでノックアウト勝ち」

 あるいは次々と戦う間に体重はいくらか増えたのかも知れない。しかし、ウェルター級のリミット147ポンドを越えたかどうかは全く問題にもならず、デビュー後5戦目でミドル級チャンピオンに挑戦して勝ったのである。ウェルター級という階級は、1880年ごろにはまだなかったことが分かる。
 その後、王者は馬に蹴られて脚を骨折するという不運があり、タイトルを失った。しかし王者は足の不自由を補う戦い方をあみだし、ヘビー級ボクサーをも破った(ライトヘビー級もまだなかったらしい)。その後反則負けの判定を不服として公式戦からは引退したが、40歳の今でも元気で、100ポンド懸賞試合は喜んで受けて立つというのである。
 試合の時が来た。主催者がリング上で「紳士諸君!」と観客に呼びかける。続く言葉が、19世紀末のボクシングの重量階級制と戦い方をよく表している。(続く)

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