格闘技

2012年10月 8日 (月)

ノーベル賞?

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 ノルウェーの森の作者にして講道館の館長。今年は文学賞もらえるか? しかし、柔道金メダルゼロは困るね。やれやれ。

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村上氏の写真が間違っていた。お詫びして訂正します。

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2012年8月18日 (土)

英国人女性柔道家と八田一朗

 1935年に外人女性としてはじめて柔道の黒帯を得たサラ・メイヤー女史が八田一朗氏のことを回想している。http://judoinfo.com/mayer.htm
 メイヤー女史は小泉軍治が1918年に創立したロンドン武道会で柔道を習い、1930年代の日本で修業した。1935年には京都武徳会で初段を得た。彼女は同年中に八田一朗を伴って帰国し(八田を小泉や谷幸雄に紹介し)再び武道会で修業してから自分の道場を設立した。

 メイヤー女史が小泉軍治に宛てた手紙。

1934年9月12日、東京
小泉さん。
 お手紙でお灸(moxsa treatment)がそちらで好評だということを知り、喜んでいます。私が帰国する頃には小泉さんは大金持ちになってロールスロイスを乗り回しているでしょうね。
 八田一朗さんが東京駅に出迎えてくれました。私は7月末にこちらに来て二週間ほど滞在するつもりでした。彼は私にホテルに泊まらないで彼のうちに泊まれと言ってくれました。私が神戸へ戻るときは、向こうで借りている家を処分して八田さんのお父さん宅に滞在すればよいというのです。それで私は一種の養子みたいにしてもらって、好きなだけ八田家に泊まればよいということになりました。Mayer3

 昨夜、一朗さんと私は有名な三船さんと食事をしました。講道館では三船さんに一度稽古を付けてもらい、よく見学しました。三船さんは飛び抜けた人です。弱々しく繊細に見える小柄なお爺さんです。稽古を付けてもらったとき、三船さんは上機嫌で、私はゴムボールみたいに部屋中投げ飛ばされました。投げ返してやろうとするとひらりひらりと体をかわされてしまうのです。(メイヤー女史は三船十段があちこちの道場に教えに行くのを追いかけて稽古を付けてもらったが、講道館では「女子部の道場へ行きなさい」と言われるので、あまり好まなかったという。女子部は「女学校みたい」でよくなかったそうだ。山本という高段者に稽古を付けてもらったときは、「柔道をするとき、私は自分を女だと思っておりません」と言ったら、90キロの体重で遠慮なくのしかかられて弱ったという。)

  東西でお互いに学び合ったわけで、柳澤氏の労作の裏話です。メイヤー女史が早稲田レスリング部の練習を見学する話も面白い。英語は易しいはずなので、是非お読み下さい。http://judoinfo.com/mayer.htm
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  歴史的記録を残す・尊重するという態度は、メイヤー女史にも、柳澤氏にももちろん那嵯涼介氏にもある。那嵯氏の取材対象となった人たちはビル・ロビンソンのような大物・傑物でも歴史に関心がないらしい。前にも書いたことだが、大先輩で「スネークピット」の創立者の正確な記録を残しておくのが英国人の義務のはずだが。僕は「スネークピットのサブミッションは柔術から取り入れたのだろう」と書いた。僕は取材していないので、これは推測に過ぎない。直接取材できる人は、これを否定できるなら否定してみて下さい。
 僕は神秘的秘教的な柔術の話なんぞは書いていない。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとはフリースタイルの古い言い方だ」というような命題を書き付けているだけだ。これに対しては「間違いだ」「その通りだ」のいずれかで答えられるはずだ。これ位のことがワカランなんて、プロレファンの頭はどうなっておるのか? 諸君の脳みそは豆腐か?

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2012年8月 7日 (火)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの憶説(本場版)

 catch-as-catch-canはfreestyleの古い言い方に過ぎないのですが、英米人でも分からない人が多いらしい。だから、「アメリカの那嵯涼介」みたいな人が上のような本を書いている。前にも書いたが、日本人だって、「活動写真=映画」はまだ分かるだろうが、「省線=国電」となると知らない人が多いだろう。同じように英米人も古い英語を知らないというだけのことだ。この本のカスタマー・レビューは英語で書いてあって、英米でもプロレスファンなどという人種は余り上等でないことがよく分かる。
 "Say uncle."というのはuncleが「参った」の意味になるので、これは英和辞典にも出ている。しかし、プロの試合の「タップ」ではなくて、子供の喧嘩でしょう。私も小学生のとき、隣の家の同じ年の子供と取っ組み合いの喧嘩をしたけれども、関節技や絞め技をかけるなどという恐ろしいことは考えたことがなかった。
 1908年のロンドン五輪では、バンタム級(54kg以下)からヘビー級(73kg以上)まで5階級にわたって、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、すなわちフリースタイルのアマチュア・レスリングが行われた。
 この試合の様子は、当時の新聞雑誌に載っているはずだ。調べてご覧なさい。勝負はフォールで決まったので、アームロックで一本なんて試合はなかったことが分かるはずだ。
 同じ1908年にプロのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン世界選手権が行われ、前田光世が出場したことも前に書いた。前田も柔道の技は封印して純レスリングで戦い、タイムズ紙上で絶賛されたのだ。

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  左上のカラー写真はグレコローマンかも知れない。いずれにせよ、アマチュア・レスリングは百年前から現在と同じスタイルで行われていたのだ。昔はプロレスとアマレスが同じスタイルだったことは前に述べた。
  私は「反証を挙げてみろ」と言っているのだ。「何年何月にどこで誰対誰のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合があってアームロックで一本が決まった」というような記録が残っていれば出してみてください。谷幸雄も前田光世も柔道技を封印してキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合に出て賞賛されている。そんな記録はないだろう、と私は見当をつけているのですが。「ないことを証明する」のは不可能だということは分かりますね。だから「反証を挙げよ」というのだ。
  谷幸雄が柔術の技を使ってキャッチ・レスラーに楽勝した試合の記録は私がこのブログで和訳している。谷がキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合に出て、柔術技を使わずに(すなわち、ほぼ現在のフリースタイルレスリングと同じレスリングをして)全英ライト級チャンピオンに勝った試合の記録も和訳した。グレート・ガマ対スタニスラフ・ズビスコの試合(1910年9月10日)もキャッチ・アズ・キャッチ・キャンであったが、サブミッションなし、勝負はピンフォールのみで決まるというルールで、大凡戦(引き分け)になって非難されたのだった。
 私は「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」と銘打った試合でフォールではなくサブミッションで勝負がついたものはなかったはずだ――と予想している。あったというなら一試合だけでもいいから、何年何月何日どこで行われた誰対誰の試合でどういう技で決着がついた、という記録を発掘してみなさい。

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2012年8月 6日 (月)

五輪にあわせた必読書「日本レスリングの物語」(柳澤健)

 標題の記事があるのは、見えない道場本舗。力作です。八田一朗が偉かったのだけれど、それだけの話ではない。http://d.hatena.ne.jp/gryphon/
 以下、まるごと引用させてもらう。

レスリング、その世界的起源は。中央アジアレスリングとは
  ここはプロレス寄りというか、プロレスファンのほうが詳しかったり、逆にあやしげな伝説を信じたりするのでおさらい。

  柳澤氏はレスリングを「騎馬遊牧民の、重い家畜を自在に動かす、生き物をコントロールスする技術」「中央アジアの騎士の技術」が根底にあるとしている。

  ゆえに「西のボスポラス海峡から東のインダス河流域まで」実は無数の最強レスラーが近代以前にひしめいていて・・・これがその後のトルコ刈りに通じたり(後述)

  しかしレスリングがギリシャ・ローマに起源を持つようなイメージがあるのはなぜか、というと・・・これも「植民地主義批判のあまり非科学的議論が多い」とも批判される「黒いアテネ」問題がある。。つまり・・・端的にこの本から引用していうと

  永い間、ペルシャやモンゴルやアラビアやトルコから抑圧を受け続けたヨーロッパ人は、世界中の植民地化を図ると共に、メソポタミアではなくギリシャを文明の起源とする”世界史”を捏造した。――ここまで読んでも分からないだろう。あとは直接「見えない道場」を見てください。

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2012年8月 4日 (土)

ロンドン五輪(1908年)のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン

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 1908年ロンドン五輪が開催された。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは大成功で、5カ国のレスラーがメダルを獲得した。グレコローマンでメダルを得たのは7カ国のレスラーだった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリースタイル)のバンタム級で銅メダルを得たカナダのオーベール・コテ選手はカナダ初のメダリストであった。彼は自分の農場を抵当に入れてロンドンまでの旅費を捻出していた。
 大英帝国のアレクサンドラ王妃がホワイトシティ・スタジアムで優勝者にトロフィーを授けたとき、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは遂に国際的なアマチュアスポーツとして認められたのである。
1908年ロンドン五輪では、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイル・レスリングは次の階級で行われた。

バンタム級 (54kgs)
フェザー級 (60.30kgs)
ライト級 (66.6kgs)
ミドル級(73kgs)
ヘビー級 (73+kgs)

オリンピックでの認知

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがイングランドでアマチュアスポーツとして公式に認められたのは1888年にアマチュア体育協会によりオリンピック用のスポーツとして受け入れられて以来である。これは英国オリンピック協会のS・ド・カーシー・ラファンの努力による。彼は1914年のパリの会議でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをオリンピック種目に含めるべく論陣を張った。しかしその数日後に第一次大戦が勃発したのだった。
 英国は1908年ロンドン五輪の成功を以後繰り返すことはできなかった。外国では政治的イデオロギー的理由でアマチュアスポーツの支援を強化し、アマチュアリズムを逸脱するに至っているが、英国の政治家はオリンピックの理想を信じてか超然たる態度を取ってきた。近年ようやく変化に兆しが見えてきたが、もう英国のレスリングは手遅れだろう。レスリングの競技人口は激減し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングのスポーツとしての存続は誕生の地で脅かされている。

 以上は以前に紹介した「フリースタイルレスリングの歴史」(英連邦アマチュアレスリング協会)の和訳です。キャッチのアマチュア試合があったのですよ。関節技や絞め技で勝負が決まったかどうか、記録を調べてごらん。「アームロックで一本勝ち」なんて新聞記事があるだろうか? 

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2012年6月 4日 (月)

日本レスリングの物語

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講道館館長にして全日本体育協会初代会長の嘉納治五郎と,体協で秘書をつとめた「日本レスリングの父」八田一朗.若き日の八田は,新聞に「和製ゲイリー・クーパー」と書かれたほどの美貌の持ち主だった.
(『日本レスリングの物語』より。出典:早稲田大学レスリング部70年史)

目次
第1章 柔道を超えろ
第2章 ヘルシンキ
第3章 クーデター
第4章 ササハラの衝撃
第5章 レスリングマスター
第6章 ローマの屈辱
第7章 すべての道は東京へ
第8章 東京オリンピック
第9章 スーパースター
第10章 反逆者
第11章 迷 走
第12章 女子レスリング
第13章 少年レスリング
第14章 未来へ
参考文献
あとがき

 アド・サンテル対柔道、八田会長と猪木アリ戦、ロッキー青木、笹原の股裂きは関節技、京子さんのコーチとしてのアニマル浜口、全女レスラーのアマチュア参戦など。
  柳澤さんはご子息に少年レスリングをさせているそうだ。

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2011年9月17日 (土)

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 プロレスは言葉だ。口から出るものばかりではない。相手にフォールされた時、必死に跳ね返せば、観客には選手のやる気が伝わる。すべての技、すべての動きを言葉にして観客に伝えること、それがプロレスラーの仕事なのだ。
 観客は常に心に響く言葉を求めている。(1985年、p.94)

  一瞬でも「怖い」「凄い」と思わせれば、観客はもう自分のものだからだ。
 相手の技から逃れるためにロープに手を伸ばす。長与千種は決してふつうにはつかまらない。ドラマチックに演出する。
 やや広げた指先に力を込めて数センチずつ動かし、指を一本ずつ、第一関節から第二関節へとゆっくりとロープに乗せた上でようやくつかむ。その間、息を止めていることも重要だ。観客は自分が応援している選手に合わせて呼吸しているものだからだ。レフェリーがロープブレイクを命じると、長与千種はそこで初めて深い息を吐き、観客も一緒に息を吐く。こうして観客は、千種と一体になって試合を戦っているような感覚を得るのだ。(p.p.103-104)

『完本 1976年のアントニオ猪木』ではあの猪木に鋭く切り込んだ柳澤健氏だ。鬼をも拉ぐ猛者かと思いきや、ジャケット裏の著者近影では優男である。強そうに見えない。『木村政彦はなぜ力道山を』の増田俊也氏がいかにも柔道家らしいのとは好対照だ。
 しかし柳澤氏は格闘技を知らないのではない。『1976年』では猪木のレスリングにタックルがないことを鋭く指摘している。『1985年』でもプロレス技術論と「人生」がない交ぜになっている。
『1993年』でも感じたことだが、柳澤氏の強みはインタビューの技術だ。「プロレスは言葉だ」の逆は「言葉はプロレスだ」。プロレスラー柳澤の技の冴えを見よ。

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2011年7月22日 (金)

ヘッドロック

 試合開始のゴングが鳴る。通常の場合、レスラーは時計と反対周りにグルグルと回った後、おもむろに組む。お互いが左腕を相手の首に回し、右腕を相手の肘に当てて組む体勢をロックアップ(もしくはファンダメンタル・ポジション)と呼ぶ。左右が逆になることは決してない。ロックアップはプロレスのひとつの型であり、約束事なのだ。 
 ロックアップの次に行われるのは、通常の場合ヘッドロックだ。世界中どこでもヘッドロックは左腕でかける。レスラーの利き腕がどちらだろうと、右腕でヘッドロックをかけることは決してない。レスラーたちは、あらゆる技を左腕や左足を中心として行うようにトレーニングされている。
(1976年、p.72)

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2011年6月23日 (木)

格闘技の研究者

 古い格闘技の英文資料を次々と発掘して紹介しているサイトがある。
 海外における柔道家の他流試合 http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100330/

① 1898.8.25 タケザワ 対 ヘラクリデス 

② 1905.3.8 前田光世 対 J・F・ネーシング 

③ 1905.3.17 鈴木あらた 対 G・バティスト

④ 1905.4.6 東勝熊 対 G・ボスナー

⑤ 1905.11.30 東勝熊 対 谷幸雄  

⑥ 1906.2.8 東勝熊 対 フィッシモンズ  

⑦ 「イヴニング・ポスト」より・1909 覆面レスラーが柔術家に挑戦  

⑧1911 オール・イン=パンクラチオン=柔拳試合?  

⑨ 1913.3.30 柔術少女ナルスカ・アイ、MSGに登場す  

⑩ 谷幸雄と三宅太郎  

⑪ ニューヨーク・タイムズのプロレス記事

 どれも面白そうでしょう。内容は実に豊富だ。
 私は以前に⑩谷幸男と三宅太郎の一部 1904.4 谷幸雄 対 J・メラー http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100703/
 を紹介させてもらったことがある。谷幸雄、レスリングをする http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/1-5716.html
 インターネット上でも、これだけの英文資料を集めるのが、どれだけ大変か。
 上の「海外における柔道家の他流試合」は、この研究者のサイトのほんの一部だ。
インデックスページ WWDプロレス観戦日記http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/

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「プロレスとわたし」http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/38980840/
 によると
Ⅰ 1975~1983 小・中学生
Ⅱ 1984~1990 高・大学生
Ⅲ 1991~1999 社会人
Ⅳ 2000~
 という年齡らしい。奥ゆかしく「自分語り」をほとんどしていないので、どういう人なのかは分からない。
 格闘技に関心のある人は、ぜひ見てください。那嵯涼介さんも見てください。昔のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのことが分かりますよ。
 

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2011年6月19日 (日)

1993年の女子プロレス

『1976年のアントニオ猪木』の柳澤健氏の新しい本が出た。
 しかし、女子プロレス? そんなもの一度も見たことがないぞ。
 アマゾンの紹介
 
 社会現象にまでなったクラッシュ・ギャルズが引退し、女子プロレス界が迎えた冬の時代。それを打ち破ったのは、ヒールのトップに立つブル中野だった。観客の心を掴む天才・長与千種の手によりクラッシュブームは生まれた。デビル雅美が「男子も含め、100年に一人の天才レスラー」と評した長与の天性の表現力に対抗するため、ブル中野は過激で激しいプロレスに活路を見出すようになる。ヒールでありながら、完璧なジャーマンスープレックスを繰り出す技術。100キロを超える巨体で殴り、蹴り、そして飛ぶ迫力。アジャ・コングとの2年にもおよぶ抗争の中で、かつて女子中高生が黄色い歓声を上げていた観客席は、マニアックな男のプロレスファンが大半を占めるようになっていた。
 1990年11月14日、横浜文化体育館。ブル中野は、金網の最上段に立ち、顔の前で手を合わせて拝んだ。「背骨が突き抜けて死ぬかもしれないけど、まあいいや」。そう思った次の瞬間、ブルは4メートル下のリングに横たわる宿敵・アジャ・コング目がけて飛んだ。この夜、ブル中野は「ブル様」として、また伝説のダイビング・ギロチンを受けたアジャは「アジャ様」として特別な敬意を払われるレスラーへとなった。
http://www.youtube.com/watch?v=PvjmB_MZ88M

 これは確かにすごい。
 柳澤氏はもちろんブル様とアジャ様の両方から話を聞いている。このインタビューがまたすごいのですね。どうすごいか? まあ読んでみることですね。
 誰がどういうふうに話を聞いてくれるかによって、インタビューというのはすっかり話すことが変わってしまうものらしい。
 むかし大宅賞を受けた女流ノンフィクション作家が長与千種をインタビューして、「いかにも」という答えを引き出したらしい。ところが柳澤氏が冒頭でその答えを引用して「……とおっしゃっていました」と聞くと

長与 じつは逆なんです(笑)。

 あっさりひっくり返してしまう。それから二段組み30頁以上のインタビューだ。何でも話す。どうも驚いたね。インタビューはプロレスなのだ。「プロレスラー」としての柳澤氏が分かるためには、インタビューされている場合も読んでみるとよいかも知れない。

『1976年のアントニオ猪木』を紐解く(1)--(5)
http://allabout.co.jp/gm/gc/212934/ 以下。

――話を伺うだけでも、緊張感が伝わってきます。
柳澤「だって相手はアントニオ猪木だよ」

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