2008年6月 2日 (月)

柔道か柔術か(23)

 日本近代文学の起源に限らず、何でも起源というものは見えにくくなる。
 だからウィキペディアの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」のような空想的記事が大手を振ってまかり通ることになる。
 英語版のウィキペディアもデタラメである。Catch wrestlingという項目があって、日本語版の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」とよく似た内容が書いてある。カール・ゴッチが猪木、藤波、ヒロマツダ、佐山聡、藤原喜明、前田日明などを教えた、なんてことまで書いてあります。いったいに英語版ウィキペディアの格闘技関係はむやみに日本のことに詳しくて、猪木以下のレスラーはそれぞれ独立の項目になっている。
 Catch wrestlingも、まったく空想である。英語版ウィキペディアの編集者はさすがにセンスがあって

This article does not cite any references or sources. (October 2007)

 と注意書きを付している。「空想で記事書く、よくありません。典拠示すよろし」ということです。

 文献の証拠を示さなくてもよいのなら、何でもでっち上げることができる。
 柔道や剣道の韓国起源説などがその最たるものです。
 judoは「ユド」という発音でウリナラのものなんだって。剣道は「コムド」だそうです。悪意で外国人をだまそうというよりは、韓国人自身が本気で信じ込んでいるようだ。
 どうしてそういう妄想におちいるのか? 
 1970年に漢字を全廃したことが大きいと思う。むかしの文献が読めなくなった。古い文献は漢文だから読むにはそれなりにスキルがいるけれども、大韓民国成立後に書かれたものまで全部読めなくなったのだからひどい。
 テコンドーなどは韓国起源をでっち上げて、とうとうオリンピック種目にしてしまった。文献が読めないものだから、こういうことをして恬として恥じないのだ。
 
 話が逸れた。英国のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの場合も同じだ。文献の証拠が大切だと言いたいのです。
 百年前の文献を丁寧に調べれば、分かってくるはずだ。

(1)20世紀はじめには、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルのレスリングがプロレスとして行われていた。
(2)力づくでフォールを狙うレスリングで、なかなか勝負がつかなかった(漱石が見て「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」とあきれた)。
(3)タニ・ユキオをはじめとする柔術家が異種格闘技戦を挑んで、絞め技、関節技でギブアップを狙うという戦い方を始めた。
(4)それまではプロレスにサブミッション・レスリングという考え方がなかった。
(5)プロレスは第一次大戦(1914-19)でいったん廃れたが、戦後復活するときに、対柔術戦からサブミッションを取り入れた。
(6)ビリー・ライリーのスネークピットというジムで、グレコローマン、フリースタイル、柔術の三要素を取り入れたレスリングを教えた――というのはだいたい正しいだろう。
(7)しかし「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」とは、スネークピットのレスリングではなく、フリースタイルのことである。

 以上はあくまで仮説である。しかし前に言ったように、手間さえ厭わなければ検証できるはずだと思う。あるいは反対の証拠が見つかる(反証される)かも知れない。
 私が特に強調したいのは上の(3)(4)あたりである。20世紀初頭の英国のレスラーたちが関節技でギブアップを狙うという戦い方を知っていたのならば、体重が57kgに満たない「ちっぽけなジャップ」が連戦連勝できるはずがないではないか。

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 前田日明はカール・ゴッチの関節技がものすごいことを語って、西洋中世の騎士たちが(日本の戦国武者のように)組み討ちをして関節を極める戦いをしたのだろう――という推測をしている。
 プロレスの技術論ならば私などが口を差し挟む余地はない。しかし、この話に関する限り、前田さんの勘違いでしょう。
 西洋中世にも剣術、弓術、槍術、馬術などはあり、文献がいくらでも残っているはずだ。しかし、西洋には柔術に相当するもの、すなわち鎧武者同士の組み討ち術はなかった。だからこそJiujitsuという日本語がそのまま使われたのだ。Jiujitsuと自分の名前を合成してBartitsuなんてのを作る者も出てきた。
 そして、シャーロック・ホームズは日本のバリツのおかげでモリアーティ教授の魔手から逃れたのである。

 サブミッション・レスリングの柔術起源説は、丁寧に調べれば文献で実証できるかも知れない。
 あるいは実証できない(文献がない)かも知れない。
 レスリングには、ボクシングと違って、アーサー・コナン・ドイルやクィンズベリー侯爵のような社会的地位の高い支持者がいなかったことが大きい。(続く)

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2008年5月31日 (土)

柔道か柔術か(22)

 レスリングは古代ギリシャで行われたスポーツだ。
 ソクラテスもプラトンもアリストテレスもレスラーだった。プラトンはかなり強かったらしい。そもそも彼の名前は「肩幅の広いやつ」という意味のあだ名なんだそうです。
 彼らはどんなレスリングをしたか? グレコローマンスタイルですね。自分の下半身を使ってはならず、相手の下半身を掴んではならない。
 なぜ、そんな不自然なスタイルで戦ったか? 理由は明らかでしょう。

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 この絵では一本背負いをかけている。しかし内股なんかは危険である。フリースタイルにある「股裂き」なんぞは、おぞましい。
 やがて時代も進歩してパンツが発明されたけれども、レスリングは変わらなかった。ヨーロッパ大陸では相変わらずグレコローマンスタイルで戦っていた。
 イギリスでは、どこを掴んでもよろしい(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)というスタイルが発生した。
 このスタイルのレスリングは、あるいは18世紀からあったかも知れない。しかし、蒸気機関が発明された18世紀に「隆盛した」なんてことはあり得ない。19世紀でもまだ駄目でしょう。そんな余裕はなかったはずだ。
 ウィキペディアの記事は空想である。
 エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1844)を読めば分かるはずです。悲惨だったのだ。

 ヴィクトリア朝も末期になると労働者階級にもいくらか余裕ができて、ミュージックホールに行って楽しむなんてことも始まったようだ。20世紀になるとかなり盛んになった。
 そのミュージックホールでやるようなプロのレスリングをもとにしてアマチュアレスリングを作るときに、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」という舌をかみそうな名前の代わりに「フリースタイル」と呼ぶことにしたのだ。
 プロレスリングからアマチュアレスリングを作ったのであって、その逆ではありません。
 アマレスで実績をあげてプロレスに転向するという道筋が現在あるからといって、昔からそうだったとは限らない。アマチュアスポーツというのはごく最近に発見されたものだ。この辺の事情は、柄谷行人『西洋近代スポーツの起源』を読んで下さい。

 一つだけほかのスポーツの例を見ておこう。

Img212019031_3

 1924年のパリ五輪。フランス代表のミドル級選手、シャルル・リグローが片手スナッチで87.5kgを挙げたところ。彼は金メダルを取った。片手スナッチなんて、やってみれば分かるけれど、ずいぶんむつかしい。左右不均衡な筋肉の発達を助長して体によくない。なぜ無理にこういう挙げ方をしたか? 
 重量挙げ競技のルーツは、職業的怪力芸だからだ。ユージン・サンドウ(コナン・ドイルとボディビル参照)のような職業的力持ちが派手でお客に受ける片手技をやったからです。そういうのを見て、素人が自分もやってみようというので、重量挙げ競技が始まった。現在の重量挙げは、両手によるスナッチとクリーンアンドジャークの2種目です。

 レスリングでも同じことだ。初めにプロレスがあった。プロレスに二種類があった。ヨーロッパ大陸はグレコローマンで、英国はキャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルだった。プロレスからアマレスができた。(続く)

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柔道か柔術か(21)

「柔道か柔術か」の最近の記事は、http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm
を参考にして書いています。
 上記のサイトでは100年前の英国の新聞や雑誌を引用している。柔術家やレスラーが書いた本も挙げてある。
 マルクスみたいにブリティッシュミュージアムへ通って文献調べをすれば「柔術とレスリング」について画期的なモノグラフが書けるのだけれど。
 まあそんなことを言っても仕方がないか。
 上のサイトで一番よく引用しているのはThe Sporting Lifeという雑誌である。前に挙げた

パラゴン・バラエティー劇場
マイルエンド街
TO-NITE TO-NITE TO-NITE
アポロ提供、特別出演
日本人レスラー
ユキオ・タニ

 という広告はこのスポーティングライフ誌の1904年12月号に採録されている。

 次の記述もスポーティングライフ誌に基づいている(残念ながら何月号かが書いてない)。

 In 1904 he did beat Jimmy Mellor in a £100 match for the lightweight wrestling championship, catch-as-catch-can style.
 Mellor was Britain's best lightweight, and claimed the world's championship. So this victory was a terrific performance by Tani, as the newspapers of the time recognised. The Sporting Life praised "a thoroughly genuine sporting match," and then going on to say, "The little Jap showed what a wonder he is by beating the Englishman at his own game. Two falls to one was the decision, though the fall given against Tani was questioned by many."

 1904年にタニは、ジミー・メラーを相手に百ポンド懸賞試合をして勝っている。これはライト級レスリング選手権をかけて、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルで試合をしたのだ。
 メラーはライト級では当時英国一のレスラーで、世界チャンピオンを名乗っていた。だからこの勝利はタニには大変な偉業で、当時のマスコミもこれを認めた。スポーティングライフ誌は「まことにスポーツマンらしい試合だった」と賞賛した。続いてこう書いている。「小さなジャップは相手のイギリス人の得意分野に踏み込んで勝って見せた。実に感服の至りだ。タニは2フォール対1フォールで勝ったのだが、タニに対するフォールは成立していないのではないかと言う者が多かった」

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が、フォールで勝負をつける、関節技なしのレスリングで、ほぼフリースタイルと同じだったことがうかがえるはずだ。
 ジョージ・ハッケンシュミットが1902年にヨーロッパ大陸から英国に渡ってきて、グレコローマンからフリースタイルに切り替えた――ということを前に書きました。英語では「フリースタイル」をcatch-as-catch-canと書いてあったのだ。
 本当ならば、この英語の用法を百年前の雑誌を手に取って確かめる必要がある。文献調べをしたいというのは、そのためだ。
 しかし、次のように考えてみることはまずできるだろう。

(1)タニはプロレスラーと戦って連戦連勝した。
(2)プロレスの第一人者、ハッケンシュミットはタニの挑戦を避けた。
(3)ハッケンシュミットを含むプロレスラーのスタイルは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」だった。
(4)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンには関節技などのサブミッションがなかった。

 仮に「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」についてウィキペディアの記述が正しいとすれば、スープレックスなどの投げ技も関節技もできる、カール・ゴッチみたいなレスラーが18世紀ごろからいたことになる。

20070729

 ところが実際はハッケンシュミットでさえタニを恐れたのは、そもそも関節技や絞め技など、サブミッションを知らなかったからだ。
 どうでしょう? 
 (続く)

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2008年5月29日 (木)

柔道か柔術か(20)

 まず簡単なところから。catch-as-catch-canという英語はふつうはどういう意味で使われているのか? 辞書で調べてみよう。
 OEDには載っていない。
 インターネットでThe New Dictionary of Cultural Literacy, Third Edition.  2002.を引いてみる。

 catch-as-catch-can

  A phrase that describes a situation in which people must improvise or do what they can with limited means: “We don’t have enough textbooks for all of the students, so it’ll be catch-as-catch-can.”

限られたもので急場をしのぎやりくりする状況をあらわす言葉。「学生全員に行き渡るだけの教科書がないから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンで行こう」

ランダムハウス英和辞典 catch-as-catch-can

adj.(主に米・カナダ)あらゆる機会をつかんで利用する;思いつきの,出たとこ勝負の,手当たり次第の:a catch-as-catch-can life 行き当たりばったりの生活.

エンサイクロペディア・ブリタニカ(英語版を翻訳)

Catch-as-catch-can wrestling

立ち技と寝技の両方でほとんどあらゆる技と戦術が許されている基本的なレスリングの様式。ルールが禁じるのは通常相手を負傷させる行為だけである。すなわち、絞めること、蹴ること、眼に指を入れること、拳で叩くことである。競技の目的は相手の両肩を同時にグラウンドにつけることである。従来はイングランドで「ランカシア・スタイル・レスリング」として知られていたが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは英国と米国で一番人気のあるレスリングの形となり、わずかに修正を加えて、オリンピックや国際競技に「フリースタイル・レスリング」として採用された。

 catch-as-catch-canは、ウィキペディアの言うような「ランカシア訛り」(「ランカシア方言」のつもりか?)ではない。ごくふつうの英語である。

 レスリングでは、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル」だと言えることは、ブリタニカで分かるだろう。
 ただ、「拳で叩くこと(hitting with a closed fist)」というところはブリタニカの記述が不正確だ。平手打ち、突っ張り、空手チョップなどはもちろん禁止である。
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは
(1) フォールで勝負をつける。
(2) 関節技はない(「相手を負傷させる行為」として禁止)。
(3) グレコローマンとの違いは、上半身だけではなく「掴めるところをどこでも掴んでよろしい=catch as catch can」

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャッチ・キャン・レスリング」が100年前にどういう意味で使われていたかは、文献を調べればよい。検証あるいは反証である。
 徹底的に調べるには英国へ行かねばならない。私はそこまでできないけれど、調べる手掛かりだけは示しておきたい。(続く)

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2008年5月26日 (月)

柔道か柔術か(19)

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」――ウィキペディアの記述

キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch as catch can)はイギリス・ランカシャー地方発祥のレスリングの一種で、フリースタイルレスリングおよびプロレスのルーツ。18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンのビリー・ライレージムなどで隆盛した。試合形式は通常リングを使用し時間無制限で行われた。勝敗はタップアウトまたはピンフォールで決まった。キャッチ・レスリング、または単にキャッチ、またはランカシャー・レスリングとも呼ばれる。

技術体系
多彩なテイクダウン(タックルと投げ技の総称)、ブレイクダウン(グラウンドでの攻防におけるポジショニング技術)、サブミッション(関節技と絞め技の総称)、ピン(フォール技)の技術体系を持つ。その多くは現代のプロレス、アマチュアレスリング、総合格闘技やグラップリングの技術にも影響を与えている。
テイクダウンには、タックル、スープレックス(後ろ反り投げ)、サルト(捻りを加えた反り投げ)、スロイダー(相手の腕を前から掴んでの投げ)、ラテラル(相手の胴をクラッチしての蹴手繰り)などがある。
サブミッションには、ハーフネルソン、ハーフハッチ、アームロック、ヒールホールド、ヘッドロックなどがある。
ピンには、体固め、エビ固めなどがある。

語源

語源はCatch Anywhere You CanまたはWho Can Catch Canのランカシャー訛りといわれている。

 残念ながら、この記述はほとんど全部間違っていると私は思う。
 少なくとも、ウィキペディアにいわゆる「独自研究」だろう。
 いや、独自に研究するのはまことに結構なのだけれど、研究の結果は検証できなければいけない。
 たとえば
(キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは)18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンのビリー・ライレージムなどで隆盛した。
 という。しかし
・18世紀(千七百何年?)にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが「隆盛した」ことは、どういう文献から分かったのですか? 文献を引用しなくてもよい。他の者が文献で確かめる手掛かりだけは残しておくべきでしょう。

 私は、このウィキペディアの記述に対して、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは
(1)「ランカシア地方発祥」ではない。
(2)フリースタイル・レスリングの「ルーツ」ではない。
(3)18世紀にはまだなかった。
(4)サブミッションはなかった。

 と考えている。以上は消極的な仮説である。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは何かについて、積極的な仮説もいくつかある。
 ただ、私はこれをあくまで仮説として提出するのである。典拠は示さないけれども、それは単にその暇がないからである。
 仮説は、検証(verify)できるか、少なくとも反証(refute)できなければならない。
 手間さえ厭わなければ検証あるいは反証できるかたちで、柔道/柔術とレスリングの関係について、いくつかの仮説を示したい。(続く)

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2008年5月25日 (日)

柔道か柔術か(18)

 タニ・ユキオは第一次大戦が始まったころには、ミュージックホール・レスリングの世界から引退したようだ。大戦の帰趨が定まり始めた1918年には、日本人のコイズミ・グンジが中心になってロンドンに設立したBudokwai(武道会)で柔道/柔術を教えるようになった。
 タニは1880年(明治13年)生まれで、1900年に19歳で渡英した。ミュージックホール・レスリングから引退したあとは、1950年に亡くなるまで英国にとどまってBudowkaiで教え続けた。

Tani_sm

 1920年に嘉納治五郎がロンドンを訪れたときにはタニ・ユキオに講道館二段を与えている。
 Budokwaiは2008年で90周年を迎えた。現在英国で柔道をやっている人たちは、タニ・ユキオの孫弟子くらいに当たるようだ。
http://www.thebudokwai.com/

 これとは別に、1920年代の英国ではランカシアにビリー・ライリーのレスリングジム、いわゆる「蛇の穴」ができた。このジムからはビル・ロビンソンやカール・ゴッチが育ったことで有名である。

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 ただ、いわゆる「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルのレスリングについては少々誤解があるようだ。柔術にも無関係の話ではないので、次はこれを見てみよう。(続く)

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柔道か柔術か(18)

 タニ・ユキオは第一次大戦が始まったころには、ミュージックホール・レスリングの世界から引退したようだ。大戦の帰趨が定まり始めた1918年には、日本人のコイズミ・グンジが中心になってロンドンに設立したBudokwai(武道会)で柔道/柔術を教えるようになった。
 タニは1880年(明治13年)生まれで、1900年に19歳で渡英した。ミュージックホール・レスリングから引退したあとは、1950年に亡くなるまで英国にとどまってBudowkaiで教え続けた。

Tani_sm

 1920年に嘉納治五郎がロンドンを訪れたときにはタニ・ユキオに講道館二段を与えている。
 Budokwaiは2008年で90周年を迎えた。現在英国で柔道をやっている人たちは、タニ・ユキオの孫弟子くらいに当たるようだ。
http://www.thebudokwai.com/

 これとは別に、1920年代の英国ではランカシアにビリー・ライリーのレスリングジム、いわゆる「蛇の穴」ができた。このジムからはビル・ロビンソンやカール・ゴッチが育ったことで有名である。

B7d5541514c562b03f1812e6aabba432

 ただ、いわゆる「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルのレスリングについては少々誤解があるようだ。柔術にも無関係の話ではないので、次はこれを見てみよう。(続く)

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2008年5月22日 (木)

柔道か柔術か(17)

 ジョージ・ハッケンシュミットは1905年にはニューヨークで全米チャンピオンのトム・ジェンキンスを負り、最初の世界ヘビー級チャンピオンと認められた。
 ハッケンシュミットは1908年にシカゴでアメリカ人のフランク・ゴッチ(1878-1917)に負れるまで世界チャンピオンであった。

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 シカゴでのハッケンシュミット対ゴッチ戦では、ゴッチが体にオイルを塗る、目潰し、ひっかき、パンチなど卑怯な手を使ったと言われる。
 1911年にシカゴで行われた再戦では、ハッケンシュミットが一本目を取り、二本目と三本目をゴッチが取るという事前打ち合わせができていたが、ゴッチが約束を破って初めから勝ちに行き、二本を連取した。
 かなり現在の「プロレス」に似てきたわけだ。

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 しかし、ハッケンシュミットもヨーロッパ大陸では、前述のように真面目なグレコローマンスタイルでプロレスリングをしていたのだ。英国に来てからはフリースタイルで戦うようになった。
このフリースタイル・レスリングが20世紀初めの英国では「プロレス」だったのだ。1901年(明治34年)12月18日に夏目漱石がロンドンでプロレスを見た話は前に書きました。漱石曰く「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも、一、二と行事が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大に埒のあかない訳さ。」(柔道か柔術か(5))

 第一次大戦前のイギリスでは、だいたいこういう「真面目なプロレス」が行われていたらしい。これに対してタニ・ユキオをはじめとする日本人の柔術家たちが絞め技や関節技の威力で対抗していた。タニのほかによくレスラーと戦ったのはミヤケ・タロウという柔術家であった。
 体重210ポンド(95kg)のレスラー、アレック・マンローがタニと15分以上戦って賞金を得たのは1909年のはじめのことであった。この試合はスコットランドのグラスゴーで行われた。マンローは同じ日のうちに、キルマーノックという町(やはりスコットランド)でミヤケとも戦い、やはり15分以上戦って賞金を得た。
 ここで注目すべきは、タニにしてもミヤケにしても、負けることなど考えもしなかったし、実際負けなかったことだ。
(1)お互いに柔道着を着る
(2)フォールではなくギブアップで勝負をつける
という二つのルールがある限り、ずっと体が大きいプロレスラー相手でも自信があったのだ。だからこそ、タニは世界チャンピオンのハッケンシュミットに挑戦したのだ。1910年にはタニはインド人レスラーのグレート・ガマにも挑戦している。

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 英国のレスリング事情はだいたいこんなもので、日本人柔術家は、プロレスラーに対抗して優位を保っていた。
 こういう状況をめちゃめちゃにしたのが第一次世界大戦の勃発である。1914年8月4日に英国がドイツに対して宣戦布告すると、レスリングや柔術どころではなくなってしまった。
 60歳のシャーロック・ホームズも『最後の挨拶』をしたのだった。(続く)

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2008年5月21日 (水)

柔道か柔術か(16)

 タニ・ユキオは、もちろんプロレスラーとも戦った。プロレスラーの中には15分戦って賞金を獲得した者もごくまれにいたようだ。
 ランカシャーのライト級レスラー、ボビー・ビッケルや、スコットランドのヘビー級のアレック・マンローなどが15分以上戦った(しかし勝てなかった)という記録が残っている。このマンローは体重が210ポンド(95kg)あって、当時としては非常に大型のプロレスラーだった。
 プロレスラー相手の戦いは、相手も「こんなチビの外人に負けてたまるか」というつもりでかかってくるので、ラフな試合になることもあった。マンチェスターでトム・コナーズという男と戦ったときがそうだった。
 コナーズは、試合の初めに恒例によって握手をすると、そのまま握った手を引っ張ってタニを捕まえ、ボディスラムで叩きつけようとした。タニは空中で身を翻して逃れたが、二人はもつれ合ってオーケストラピットに転落した(ミュージックホールの舞台で試合をしたのだ)。
 上がってくると、コナーズが反則のパンチを出した。観客が盛んにブーイングする。タニは相手の襟を掴んで倒し、マウンティングポジションから締めにかかった。コナーズはまたもや下からパンチを出したが、タニは構わず締めて、1分55秒、ギブアップを奪った。
 タニは当時のプロレスのチャンピオンだったジョージ・ハッケンシュミット(1878-1968)にも挑戦した。

Hackenshmidt1903

 エストニア出身で「ロシアのライオン」の異名を取ったハッケンシュミットは、身長175cm、体重99kgの大男だった。彼はロシアでレスリングと重量挙げを覚え、プロレスラーとしてヨーロッパ大陸で連戦連勝した。当時大陸のプロレスはグレコローマン・スタイルであった。ルールは現在のアマレスのグレコローマンとほぼ同じである。下半身を使ってはならず、相手の下半身を掴んではならない。投げ技はプロレスでいう「バックドロップ」や「スープレックス」のような反り投げが中心である。投げて寝技に持ち込んでフォール勝ちを狙う。いわゆるサブミッション(関節技などで参ったと言わせること)はなかった。
 ハッケンシュミットは1902年に英国に渡り、ここでもたちまち第一人者になった。彼はグレコローマンから英国で主流のフリースタイルに徐々に切り替えて行った。
 1903年11月、ハッケンシュミットがアントニオ・ピエリというレスラーと戦ったときに、タニはマネージャーのアポロと一緒にリングに上がり、3000人の観衆の前で挑戦状を渡した。
 ハッケンシュミットは「グレコローマン・レスリングのルールならば戦ってもよろしい」と答えた。タニの体重は9ストーン(57kg)足らずなのだから、これでは話にならない。タニの要求は、もちろん柔術ルールによる異種格闘技戦であった。
 ハッケンシュミットほどの体力があっても、未知の柔術技は怖ろしかったものと見える。この少し前には、フランスの有名なグレコローマン・レスラーで小型ハッケンシュミットと言われたモーリス・デリアスがタニに挑戦して敗れている。デリアスは体重が190ポンド(86kg)ある超一流のレスラーだったが、「ちっぽけなジャップは彼を簡単に打ちのめした」という。(続く)

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2008年5月20日 (火)

柔道か柔術か(15)

(承前--「格闘技」参照)タニ・ユキオは遅くとも1904年(明治37年)ごろにはミュージックホール・レスラーとして大活躍していた。
 バーナード・ショーの『バーバラ少佐』(1905年初演)に登場する乱暴者は、「日本人レスラーと17分4秒も戦った男がいる」と聞いて怯えるのだった。「日本人レスラーに勝った」のではない。そんな強い者がいるはずがない。17分以上もギブアップしなかったのがすごいというのだ。
 タニ・ユキオは英国全土を巡業して懸賞試合を行った。「タニに勝てば100ポンド、勝たなくても15分ギブアップしなければ20ポンド進呈」という懸賞だったが、賞金を獲得する者はほとんどいなかった。
 タニは小柄だったから(身長は5フィートではなくもう少し高かったという説もあるが、小さかったことは確か)、組み易しと見て挑戦する力自慢は多かった。しかし全く勝負にならなかった。
 タニがどういうふうに戦ったか、いちいち調べてはいないので想像で書くのですが、相手が素人の場合は数秒で勝負がついたと思いますね。柔術は関節技や絞め技が決め手であるが、そういうのを出すまでもなく、投げ技で決まったと思う。
 最近の格闘技ファンは「投げ技偏重の柔道はたいしたことがない。寝技中心のブラジリアン柔術の方が強い」と思っているようだけれども、それは誤解である。
 これは、オリンピックなどの世界大会がよくないのだ。柔道を知り尽くした者同士が国の威信をかけて慎重な戦いをする。だから微妙な勝負になって、組み手争いが続いたり、腕を突っ張り腰を引いて逃げに回ったりする。そうすると審判が両手を胸の前でグルグルグルと回して選手を指さし「指導!」と言う。あれがまことに滑稽で、柔道弱い説の元になっていると思いますね。
 柔道/柔術は元来ああいうものではない。武道/武術であるから、非対称的な戦いのためのものだ。
 どういうことかというと、相手がこちらの技を知らないことを前提にしているのですね。アテネ五輪で絶対の本命だった井上康生選手が二大会連続の金を取れなかったのは、外人選手が井上のビデオを徹底的に研究してきたからだという。スポーツではなく実戦の一発勝負ではそういうことはあり得ない。いきなり物凄い内股をかければ、それで決まりだ。

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 その代わり、こちらも相手が何をしてくるか、全く分からない。タニが英国で試合をしていたときには、一応「パンチは反則」というルールがあったけれども、それでも反則をしてくる相手もいた。そういう相手にも何とか対応しなければならない。
 タニの場合、投げ技で十分効果があったのは、床が畳ではなく板張りだったことが大きいと思う。受身も知らない外人がいきなりズデンと倒されたら、それだけで戦意喪失したはずだ。大外刈りなどは、タニは自ら禁じ手にしていたと思いますね。きれいに決まったはよいけれど、相手が堅い床に後頭部から落ちて脳震盪を起こしては困るから。
 たいていの相手には投げ技で十分なのだけれど、大きくて力が強い者には技が決まらないことがある。そういうときは寝技に引き込んで関節を決めればよい。投げ技の場合のように数秒では済まないけれど、そう時間はかからなかったはずだ。――というような試合の様子がうわさとなって普通のイギリス人にも伝わっていたことが『バーバラ少佐』から分かるのである。(続く)

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2008年4月23日 (水)

柔道か柔術か(14)

(承前)タニ・ユキオがどれだけ強かったか、プロレスラーによる評価を見てみよう。
 南アフリカ出身のプロレスラー、トロンプ・ヴァン・ディゲレンの自伝から。写真の左の人物がディゲレン。

Vandiggellen

 1908年にアポロ・サルド・クラブで、私は初めて柔術の凄みを知った。当時タニはイングランド中のミュージックホールで技を見せて回っていた。それまでヨーロッパではこの護身術はよく知られていなかった。すばしこいちっぽけなジャップが大男を数秒のうちにやすやすとやっつけるのを見て、人々は驚嘆した。力は無益だった。タニの技は敵の力を利用していた。タニが電光石火のごとくかけてくる技から逃れようと、こちらがもがけばもがくほど痛みが強くなるのだ。
……アポロ・サルド・クラブの常連たちの要望で、私はこの小さいがたくましいジャップと勝負してみた。まずはレスリングである。タニはフェアで柔術技は出さなかったから、二三分のうちに私がピンフォール勝ちした。これは当然の結果だったので、私は笑いながら柔術用のキャンバス製のジャケットを身につけた。十七秒後、私は笑うどころではなく、息が詰まって必死にマットを叩いていた。相手のジャケットに手をかけたと思ったらすぐにマットに叩きつけられ、起き上がろうとする前に相手の両足が首に絡みついて息ができなくなった。足を外そうとしてもどうにもならない。このホールドには力だけでなく何か特別のコツがあるらしい。
 もう一度やってみた。今度は、私がタニのジャケットを掴むと、彼は自分から後方に倒れて片足を私の腹にあてて、私は空を切ってとぶことになった。

Jujitsu1
起き上がるチャンスはなかった。またもや太い足が首に絡みついて締め付けた。今度は15秒で、私は両手でマットを叩いてギブアップした。このちっぽけな「黄禍」に肩を貸してもらって歩きながら、あんたはほんとに日本のチャンピオンなのか、と聞いてみた。「とんでもない。宣伝のためにそう言っているだけだ。日本では私など三流だよ。本物のチャンピオンはみんなアマチュアでね、見せ物にはしない。柔術の極意は宗教に近いのだ」

 レスラーと戦うときは相手に柔道着(「キャンバスのジャケット」)を着せたらしい。しかし現代の柔道着とはだいぶ違う。袖丈が短くて、ほとんど半袖シャツである。

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 護身術に使う場合は相手は洋服だからこの方が実戦に近いのである。場合によっては双方裸で、技だけは柔術の関節技や絞め技を使うこともあったようだ。

 この時代には、アメリカでは山下義韶(後に十段)などが柔道/柔術を教えている。コンデ・コマこと前田光世はアメリカからブラジルに行って、ブラジリアン柔術の開祖となった。
 ロシアには広瀬武夫がいた。広瀬は海軍の駐在武官であったが、日本の不思議な武術の達人であるらしいという噂が広まり、レスラーなどを相手に技を見せたこともあったようだ。サンボの起源は広瀬の柔術と関係があるらしいが、この話はまた。
 

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2008年4月 2日 (水)

柔道か柔術か(13)

パラゴン・バラエティー劇場
マイルエンド街

TO-NITE TO-NITE TO-NITE (TO-NITE=TONIGHT)
アポロ提供、特別出演
日本人レスラー
ユキオ・タニ

タニに勝った者には特別賞100ポンド。タニは体重9ストーン(57.15kg)しかないが、どんなに大きい相手の挑戦も受けて立つ。タニが15分以内に負かすことができなかった者には、アポロ(タニのマネージャー)が20ポンドの賞金を提供。プロのチャンピオンクラスのレスラーは特に歓迎。アマチュアの腕試しを奨励するために、アポロはタニが負かすことのできなかった者に40ポンドの価値のある銀製カップを進呈。一番健闘したアマチュアには高価な金メダルを差し上げる。出場申込は毎晩試合開始前までに。

 これは『スポーティングライフ』誌の1904年12月号に記録されているタニ・ユキオの興業のポスターである。
 タニ・ユキオは1900年ごろ、バートン=ライトの「バーティツ」の指導員として渡英した。当時19歳だった。まもなくバートン=ライトと別れたタニはミュージックホール・レスリングの世界に入った。
 これは当時ストロングマン(怪力男)アポロの名で知られたウィリアム・バンキアがバーティツの道場でタニと手合わせしてその実力に驚いたことがきっかけだった。
 バンキアによると

Yukio_tani_2

タニは身長5フィート(150cm強)しかないから簡単にやっつけられると思った。ところが驚いたことに、2分もたたないうちにこちらがやっつけられてしまった。どういう手を使ったのかはまったく分からないのだが、試合の終わりには私はすっかり伸びてしまった。ジャップはニヤリと笑って「どうだ、参ったか」と言うのだった。

 バンキアは当時プロレスの世界でトップのレスラーたちをバートン=ライトの道場に呼んでタニと戦わせようとした。(すでにプロレスができていたことが分かる。しかし、現在のプロレスとは違ってアマチュアレスリングに近いルールで試合をしたらしい。1901年に夏目漱石がプロレスの試合を見に行って退屈した話は柔道か柔術か(5)に書きました。)
 ところが誰もが尻込みして戦おうとしない。ようやく元全英チャンピオンのトム・キャノンがマットに上がったが、

Tomcannon

一分もたたないうちに投げ技をかけられ、マットの外の石の床に落ち、びっくりして参ったと言った。
 こうしてタニは、素人でもプロでも誰の挑戦でも受けるミュージックホール・レスリングの世界に入った。(続く)

http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm
を参考にして書いています。
 ただし、前回のバーナード・ショーの『バーバラ少佐』に「日本人のレスラー」の話が出てくるのは、私が自分で見つけました。このレスラーはたぶんタニでしょうね。

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2008年3月29日 (土)

柔道か柔術か(12)

ミュージックホールのレスリング



バーナード・ショー『バーバラ少佐』第2幕

救世軍ウェストハム宿泊施設。1月の寒い朝。25歳の乱暴者ビル・ウォーカーと46歳だが貧乏やつれで老人に見えるピーター・シャーリーが口論している。

ビル 俺を怒らせるなよ。殴られたくねえだろ。
シャーリー ふん。女を殴ったら次は年寄か? 若い男は相手にできんのか。
ビル 何をぬかす。さっき、ここに若いやつがいたじゃねえか。殴っただろう。
シャーリー へっ、あれが男か。飢え死にしかけの浮浪者だぞ。お前、わしの娘婿の弟が殴れるか。
ビル 誰だ、そいつは。
シャーリー ボールズポンドのトッジャー・フェアマイルっていうんだ。ミュージックホールで20ポンドせしめたんだぞ。日本人のレスラーと17分4秒も戦ったんだぞ。
ビル 俺はミュージックホール・レスラーじゃねえ。そいつ、ボクシングはできるのか。
シャーリー できるさ。お前はできねえだろう。

 まだ口論は続くが、「日本人のレスラーと17分4秒も戦った」男の話を持ち出されて乱暴者はすっかりおとなしくなってしまう。

 バーナード・ショーの『バーバラ少佐』が初演された1905年には、ミュージックホール・レスラーというものがあったことが分かる。
 ミュージックホールは音楽堂ではない。酒も出す大衆演芸場である。そこで試合をするのがミュージックホール・レスラーである。レスラー同士戦い、飛び入りの力自慢の挑戦も受けて立った。
 その一人にものすごく強い日本人のレスラーがいた。素人がレスラーに挑戦する場合、「勝てば何ポンド」という懸賞試合になるが、この日本人に限っては「15分以上ギブアップしないで戦えば20ポンド」という条件だった。
 この日本人レスラーはタニ・ユキオという名前だったらしい。(続く)

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2007年6月23日 (土)

バートン=ライトのステッキ術

 バートン=ライトの創始した格闘技「バーティツ」は、シャーロック・ホームズの「バリツ」と関係があると言われています。

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 これについては、柔道か柔術か(8)-(11)あたりに書いておりますので、詳しく知りたい人はどうぞご覧下さい。

 日本の柔術にない工夫はステッキ対ステッキの戦い方です。ちょっと写真を見てみましょう。

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 ステッキ術についてもっと詳しく知りたい人は
http://ejmas.com/jnc/jncart_barton-wright_0200.htm
をご覧下さい。
 上のサイトにもありますが、こちらは素手、相手はステッキを持っている場合はどうするか、たとえば

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  この足技は空手ではなくフランスのサバットという蹴り主体の格闘技だそうです。オシャレですね。
   もう一つ、素手対ステッキの例。ボクシングとはちょっと違うでしょう。ふつう西洋人はこういうふうに腰を割らない。日本の武道の影響でしょう。パンチを決めたあとに「残心」があるのも素敵だ。

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   次はまたステッキ対ステッキですが、両手で持つのは西洋では珍しい。これも日本の剣術の影響だと思う。

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  もう一組、今度は剣術とはかなり違う動きをしている写真。

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2007年6月16日 (土)

ホームズの木刀術(11)

 もう一つ、これは米海軍のシングルスティックの稽古風景。

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 海軍のシングルスティックは、どうやら木刀をカチカチと打ち合わせるだけらしい。剣道やフェンシングとは違って勝負はつけないようだ。
 シャーロック・ホームズは、パブリックスクールへ行かなかったとすると、この海軍式のシングルスティックをどこかで覚えたのだろう。

 米英ともに、左手を(上の写真は裏焼きらしく左右逆だが)背中の後ろに回しているのはどういうわけだろう。
 そもそも我々日本人から見ると、もう少し剣を長くして両手で持てばいいのにと歯がゆくなる。しかし、それぞれ民族的な癖があって、日本人の剣の使い方が特殊なのだろう。中国の青竜刀はずいぶん重いはずだが、やはり片手使いだ。

 スターウォーズの「ライトセーバー」は両手で持つのだった。

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 しかし、あのチャンバラは黒澤映画の真似だろうが、全くさまになっていなかったね。
 ジョージ・ルーカスは三船敏郎にダース・ベイダー役で出演を依頼して断られたのだという。ダース・ベイダーが例のお面を脱いで、三船の顔が出て来たら凄かったのに。三船敏郎なら、もちろん本物の剣戟を見せてくれただろう。
 ちなみに、ヨーダには宮沢喜一氏を起用する方針だったという。

 スターウォーズのチャンバラがおかしいのは
(1)まず刀の持ち方。

Final

 両手で持つなら、もっと重そうにしなくちゃ。軽ければ片手で振り回せばいいのだ。左右の手の間隔がくっつきすぎているし、むやみにきつく握っている。「手のうち」なんて言ってもアメリカ人には分からないだろうな。

(2)ライトセーバーを持った同士が互いにすり寄って刀と刀を打ち合わせるのも変だ。

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 西洋剣術ではああいうふうにやるのだろう。フェンシングのサーブルでも、相手の攻撃をまず剣で払ってこちらに攻撃権が移り、それから斬るなり突くなりする。
 剣道では抜き胴などという技がある。中西門下で千葉周作の先輩だった高柳又四郎は、誰と試合しても自分の竹刀に相手の竹刀を触らせずに勝ち「音無し剣法」といわれた。
 椿三十郎もそうだった。最後の仲代との例のシーンは凄かったし、十数人を一度に斬ってしまったときでも、三船の刀は一度も敵の刀に触れていない。反撃する暇を与えず、二太刀ずつ浴びせて全員を殺してしまった。

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 エーと、何の話だったか。ずいぶん話が逸れた。

 ホームズのsinglestickが「棒術」ではなく、「木刀術」だということだった。それははじめから分かっていたが、昔のイギリスの木刀がどんなものか、どう使ったかは知らなかった。調べてみるものですね。

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2007年6月15日 (金)

ホームズの木刀術(10)

 シングルスティックの試合では、相手の頭を割って流血させるのが目的だという。乱暴な話だ。ただ、トネリコの木は日本の樫の木刀ほど硬くはないから、脳震盪にはならないのではないか(と思う)。

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 木刀に大きな籠柄がついているのは、籠手打ちで木刀を取り落とすと試合がすぐに終わって困るからだろう。左手と脚を紐で結ぶのは何のためか? 左手を挙げて頭をガードするのでは、指を木刀で叩かれて骨折することがあるからだと思う。
 骨折は困るが頭から血が出るは構わん、というのは実に滅茶苦茶である。しかし、互いに流血させるために全力を尽くすのである。頭ばかりねらっても防がれるので、ときどき胴打ちをまじえて相手のガードを下げようとする。痛くても我慢してしっかり頭を守った方が勝者になる。
 パブリックスクールのシングルスティックは、片刃の剣の技術の練習というより、「根性養成」や「肝試し」が目的だったようだ。

 海軍では、もう少しカトラスの実戦に近い形でシングルスティックの稽古をさせた。
 写真は1876年に行われた英国海軍のシングルスティックの演武会。

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 この時点で英国の最近の戦争はロシアとトルコを相手にしたクリミア戦争(1853-56)である。そのほかに東洋へ行って土人をいじめたのは阿片戦争(1840-42)やインド大反乱(1857-58)などをはじめ、数え切れないほどある。しかし、もうカトラスは使われなくなっていたと思いますね。現在の銃剣術と同じで、実用というよりやはり根性養成のための訓練だったのだ。

 インド大反乱に関しては、「アグラの財宝」の事件が想起される。これは実に30年後の1888年になって、インドから持ち帰った財宝がもとでショルト少佐の息子が殺された事件だった。シャーロック・ホームズが見事にこれを解決し、ワトソンは妻を見つけたのだった。

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2007年6月14日 (木)

ホームズの木刀術(9)

 戦闘におけるフェアプレイ! 野蛮と小児らしさのこの原始的なる感覚のうちに、はなはだ豊かな道徳の萌芽がある。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか? 「小さい子をいじめず、大きな子に背を向けなかったものという名を後に残したい」と言った、小イギリス人トム・ブラウンの子供らしい願いを聞いて我々はほほえむ。けれどもこの願いにこその上に偉大なる規模の道徳的建築を建てるべき隅の首石であることを、誰が知らないであろうか。
(Bushido:Soul of Japan, 1900  新渡戸稲造『武士道』矢内原忠雄訳)

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ヒューズ,トマスHughes, Thomas英 1822-96作家.
オックスフォードシャー州アフィントン生まれ.オックスフォード大学で学び,弁護士の資格を得て(1848),州の裁判所の判事となる(1882).リベラル派の下院議員になり,キリスト教社会主義者と親交があり,労働者学校の設立に力を貸した(1854).のちには同大学の校長を務めている(1872-83).パブリック・スクール小説の古典「トム・ブラウンの学校生活」の著者として何よりも記憶されるが,これは,トマス・アーノルドが校長をしていたラグビー校での彼自身の経験に基づいている.
(岩波ケンブリッジ人名辞典)

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トム・ブラウンの学校生活』(1857)は1830年代のラグビー校の学生生活を描いた小説。ヒューズ自身1834年から42年まで同校に生徒として在学し、1872年から83年まで校長を務めた。新渡戸稲造が『武士道』を書いた1900年ごろにはまだ広く読まれていた。

ラグビーの起源は、1823年、イングランドの有名なパブリックスクールのラグビー校でフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリス (William Webb Ellis) がボールを抱えたまま走り出したことだとされていたが、これは後世のロマンティックな創作だという説が有力である。19世紀初頭からボールを持って走る「ランニングイン」が始まったのは確かだが、その第1号がエリス少年だったかどうかは不明であり、手を使うこと自体はそれ以前でも許されていた。エリス少年自体は実在の人物で、オックスフォード大を卒業して神父となり、フランスで没したことが確認されている。南仏コートダジュールの小都市・マントンに墓地がある。ラグビーとクリケットを愛したと伝えられている。
(ウィキペディア「ラグビー」より)

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2007年6月12日 (火)

ホームズの木刀術(8)

 武器は、ふつうのシングルスティックよりも重くやや短い、大きな籠柄のついた太いトネリコの木刀である。選手は「オールド・ゲームスター」と呼ぶことになっているが、これがなぜかは分からない。試合の目的は相手の頭を割ることである。眉毛より上から1インチでも血が流れれば、流血した方の負けである。血は木刀でごく軽く叩けば出るので、わざと敵の胴や腕を激しく打たない限り、特に苛烈な競技ではない。試合をするには、まず帽子と上着を脱ぎ、木刀を取る。それから左手の指にハンカチか紐を巻いて、これを左脚に結びつける。紐の長さは、肘をなるべく高く頭のあたりまで挙げたときに紐がピンと張るように調節する。これで相手が打ってきてもひるまずに肘を高く上げておれば、左横面は完全に防御できる。右手は前に持ってきて木刀を横にして構え、切っ先が左肘と1インチか2インチ重なるようにすると、頭全体が完全にガードできる。相手の方も同じように構え、3フィートくらい、あるいはもっと近い間合いで相対する。こうして互いに相手の頭をねらってフェイントをかけ、打ち、切り返し、一方が「ホールド」と叫ぶか、血が流れるまで続ける。ホールドの場合は1分間休憩してから再開する。血が出た場合はそれで勝負がついて別の組が呼ばれる。選手が上手だと、すばらしい速さで切り返しが続く。子供が鉄柵にステッキをあてて走るとカタカタカタという、あれをもっと重くした音が響く。至近距離で向き合った男たちが木刀を打ち合わせるさまはまことに壮観である。
Tom Brown's School Days, 1857)

Fig2

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2007年6月 8日 (金)

ホームズの木刀術(7)

 カトラスとは何か? 辞書でcutlassを引くと「短剣」と書いてある。これは間違い。
 短剣なら短刀と同じだろうと思ってしまう。短刀は九寸五分がきまりだ。

「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりませぬ」
「フウ存生に対面せで残念。ハテ残り多やな。コレコレ御検使。御見届け下さるべし」
と三宝引き寄せ九寸五分押し頂き
「力弥、力弥」
「ハツハツ」
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりませぬ」
「是非に及ばぬ。これまで」と刀逆手に取り直し、弓手に突き立て引廻す。

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 というような場面で使う。

 カトラスcutlassはどういう人が使ったかというと

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 もちろん、ロング・ジョン・シルバーみたいな海賊だけが使ったわけではない。海軍で使った。英国海軍では1941年まで制式装備だった。
 実際に使ったのはもっと前の帆船時代だ。ナポレオン戦争のころには船は木造で装甲なんかなかったが、大砲の威力が小さかったから砲撃で撃沈はできなかった。敵艦に接舷して「切り込み隊」が乗り込んで勝負を付けた。
 そういうときに使う剣は何がよいか? レイピアは決闘向きで乱戦で使うにはヤワすぎる。技術も必要だ。サーベルの方がよいが、刃渡り80cm以上もあるのは扱いにくい。馬上で使うには長くなくてはならないけれど。
 というわけで、刃渡り60cmくらいの刀を使うようになった。日本でいえば大脇差である。こういう刀で水兵が切り込みをかけた。

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 このようなカトラスとサーベルの稽古用にシングルスティックが使われた。 

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2007年6月 7日 (木)

ホームズの木刀術(6)

 ドイツ第二帝国(1871-1919)ではサーベルによる決闘が行われていた。
 フランスではどうか。これは調べてない。ウィキペディアの記事を引用します。

フランスでは20世紀はじめまで、決闘はごく普通に行われ、その結果が新聞に掲載された。もちろん決闘は非合法化されていたが、あまりに決闘の数が多く、この時代までは実際には取り締まられていなかった。第一次世界大戦後、決闘は古臭いと思われるようになり、新聞記事になることも少なくなった。しかし、散発的に決闘は行われていた。最終的に第二次世界大戦後、決闘はほとんど行われなくなった。しかし、散発的な決闘は現代でも行われることがある。

 本当だろうか? 本当でしょうね。ウソだと考える理由はない。自分でフランス語の文献を調べる余裕はありません。
 こういう決闘には、サーベルではなくレイピアが使われたはずである(もちろん拳銃を使うこともあった)。レイピアというのは

Musketiere

 三銃士やダルタニアンが使ったような突く剣である。このレイピアの稽古用の剣がフェンシングのエペであり、その軽量版がフルーレである。
 シャーロック・ホームズは、グロリア・スコットの事件で

Bar fencing and boxing I had few athletic tastes,……
僕はフェンシングとボクシングを除いて運動の趣味はほとんどなかった……
 
 と言っているが、フェンシングというのはエペのことでしょうね。ホームズはパブリックスクールに行かなかったらしいからラグビーなどのチームスポーツは知らなかったが、親戚にフランス人がいたからフェンシングの心得があった。

 フェンシングにはエペとフルーレのほかにもう1種目「サーブル」がある。しかしこれは実戦用のサーベルとはかなり違う。突くだけでなく切ることもできるが、ごく軽いものだ。柄の部分を見ても分かる。

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 サーベルの実戦とサーブルの試合は、テニスとピンポンくらい違うでしょう。

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 フェンシングとは別にシングルスティックがあって、これがbacksword片刃の剣の練習用ということになっていた。片刃の剣にはサーベルのほかに、cutlassカトラスがあった。(続く)

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2007年6月 6日 (水)

ホームズの木刀術(5)

 ドイツの学生はMensurというものをして、これは辞書に決闘と書いてあるけれども、実は決闘Duellとは違うという話であった。英語でもドイツ語でも辞書が正しいとは限らない。
 Mensurとは何かというと

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 1900年ごろの学生組合のMensurを描いた絵です。
 見れば分かるように、まず剣が違う。サーベルではなく突き専用の剣で大きな鍔がついている。Korbshlaegerという剣である。胴には革製の防具、その下に鎖帷子を着込んでいる。首も厳重に保護している。眼はゴーグルで被っている。二人とも直立不動である。フットワークなどは使わない。
 Mensurというのは決闘ではない。
 決闘DuellはSatisfaktion(英語satisfaction名誉回復)が目的である。喧嘩を剣で解決しようとするのだから、一方が負傷するまではやめない。場合によっては死ぬ危険もあるが、やむを得ないのだ。
 これに対して、Mensurはスポーツの性格が強い。剣を構えて相対している二人は互いに恨みがあるわけではない。決闘とよく似ているけれども決闘ではなく、「肝試し」なのだ。双方防具を着け、その場に直立してフットワークは使わず、剣をもった手だけを動かして叩き合う。だから、命に関わるような大怪我は少なかった。
 もちろん剣を使うのだから、負傷は免れなかった。どうなったかというと、たとえば

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 この学生は頭に怪我をしたらしい。のぞき込んでいる無帽の学生は左頬に「名誉の負傷」がある。日本ならばヤクザの印なのに、ドイツというのは乱暴な国ですね。
 1871年(ドイツ帝国の成立)から1914年までに、ドイツではおよそ1万2000件のMensuren(複数)が行われたという。これとは別に、サーベルによる決闘もあった(こちらはそれほど多くはなかった)。
 ナチスが政権を取ると、決闘は完全に禁止された。Mensurは禁止されなかったが、学生組合が解散させられたので廃れてしまった。
 第二次大戦後にはどうなったか。1951年になってゲッティンゲン大学でMensurを戦後はじめて再開した学生が傷害罪で逮捕された。しかし、「双方同意の上での傷害は傷害罪を構成しないから無罪」という判決が出た。1958年にはベルリン自由大学の学生がMensurを行って退学処分を受けたが、裁判でこの処分が取り消された。だから、Mensurは合法ということになって、現在でも行われているらしい(詳しいことは知りません)。
 どうも怖ろしい国ですね。
 サーベルによる決闘の話であったが、逸れてしまった。続きはまた。

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2007年6月 2日 (土)

ホームズの木刀術(4)

(ホームズから離れて回り道をしている。そのうち木刀術に戻ります。)

 イギリスでは、1829年にウェリントン公爵が決闘をしたのをきっかけに決闘は廃れてきて、1840年代には行われなくなった。このあたりのことは例の偽メール事件の際に「永田君、決闘しよう」という記事を書いたので、見てください。

 ところが、ドイツでは1935年(昭和10年)くらいまでサーベルによる決闘が行われていたというから凄い。満州事変の勃発が1931年9月18日、ヒトラーの総統就任が1933年1月30日である。
 決闘をしたのはまず軍人である。常時携帯しているのだから、何かもめ事があればサーベルで解決しようということになるのは、まあ自然である。
 大学生も決闘をした。近代ドイツの大学ではVerbindung(フェアビンドゥング)とかKorps(コーア)などと呼ばれる学生組合が独自の発達を遂げた。19世紀初めには自由主義的な政治活動の拠点になったこともあるが、まずビールを飲んで楽しくやるのが主な活動であった。

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 上の絵は1900年ごろの学生組合のコンパのようす。

 学生組合は今でもあるらしい。制服制帽のマールブルグ大学学生組合員。JETRO Deutschlandのサイトから一枚お借りしました。

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 ところが学生組合員同士で「名誉の問題」を生ずる場合がある。これをサーベルを使って解決するのである。決闘用のサーベルは騎兵用そのままではなく、もう少し軽いものらしい。

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 これは、やはり1900年ごろの学生の決闘風景。胴、首、右腕、籠手に防具のようなものを付けているし、戦い方もいくらか儀式化されているようだが、命の危険があることは変わらない。
 こういう決闘は、ヒトラーが政権を取ってナチスが学生組合を解散させるまで続いたというから怖ろしい。
 独和辞典でMensurを引くと、「(学生どうしのフェンシングによる)決闘」という定義があるが、サーベルを使うのはあくまでDuell(英語ならduel、決闘)であって、Mensurというのはまた別なのだという。(続く)

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