2009年12月12日 (土)

アメリカにおける山下義韶(2)

Muph006_45mid
(山下義韶と妻山下筆、1904年ごろ)

ニューヨーク・タイムズ紙1904年(明治37年)12月29日(木)

 アナポリス海軍兵学校におけるJiu Jitsu (柔術)
 
新方式の教師、山下、兵学校に着任

メリーランド州アナポリス。12月28日――海軍兵学校で柔術を教えるY・山下は、本日、日本大使館海軍武官の竹下勇中佐に伴われて当地に着いた。山下は竹下中佐を通じて任用された。この新たな攻撃防御の方法は、来月初めから兵学校の体育授業の一部として取り入れられる。

ニューヨーク・タイムズ紙1904年(明治37年)12月31日(土)

 大統領、柔術を試す
日本人の専門家に偉い弟子
 アナポリス兵学校での授業

ワシントン。12月30日――日本の山下教授は、本日、日本大使館海軍武官の竹下中佐によって大統領に紹介された。山下教授はハーバード大学でも柔術の授業を行っているが、数週間前にすでに大統領に会っており、現在運動家の注目を集めているこの技術(science)について何度かレッスンをした模様である。大統領の柔術の腕前については教授は言明を避けたが、偉い弟子を誇りに思っていることは明らかである。
 山下教授はモートン海軍省長官をも訪問し、兵学校生徒に対する柔術の訓練について話し合った。この技術をアナポリスに導入する取り決めがなされ、今回山下教授が任用されたものである。任務の詳細については、山下教授が明日モートン長官および兵学校校長のブロンソン大佐と協議する。

 アメリカにおける山下義韶
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-6168.html
 では、三種類の記述を挙げたが、そのうち英語版ウィキペディアが上記のニューヨーク・タイムズ記事に矛盾せず、一番正確であるらしいことが分かる。
   ニューヨーク・タイムズ12月31日付けの記事では、山下が30日に大統領に紹介されたが、数週間前にすでに会っている――としているが、3月にすでに紹介されていることを同紙は知らなかったものと見える。
   山下対ジョージ・グラントの対戦は1904年3月に行われたものであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月10日 (木)

身長について(2)

 西郷隆盛の五尺九寸も二十九貫も目分量に決まっている。

「西郷どんは大きいなあ。六尺あるだろうか?」
「うーむ、六尺はなかろう。九寸かな」
「それくらいだろう」

Pkmzyrjs

 という具合に、崇拝者たちがご本人のいないところでうわさしたのだ。体重も同じでしょう。西郷さんが身長を測ったり体重計に乗ったりはしないと思う。
 グーグルの検索窓に入力すると
 
5尺 9寸 = 1.78787879 メートル
29貫 = 108.75 キログラム

 と出る。だからといって、西郷隆盛が178.8cm、108.75kgはいけません。
 そもそもむかしの人は身長体重をそんなに正確に知る必要はなかったはずだ。四捨五入して「五尺の体」というくらいだ。体重も1貫=3.75kgという大まかな単位を用いた。
 我々は自分の身長をセンチ単位で把握している。これは中学や高校を卒業するまで毎年1度は身体検査があるからだ。
 明治維新後かなり早い時点で、徴兵を視野に入れて学校での身体検査が始まったのだろう。兵士としては身長五尺(151.5cm)は欲しい。明治十三年式村田銃は全長130cm、銃剣をつけると170cm以上になったから、あまり小さい兵隊では困る。しかし徴兵検査をしてみると五尺に足りない男がかなりいたらしい。日露戦争では、徴兵基準を5尺から150cmに引き下げたくらいだ。(日露戦争の主力装備の三十年式歩兵銃は村田銃より短く軽かった。この銃を改良したのが大東亜戦争まで使われた三八銃だ。)

 相撲取は身長体重を正確に計った。栃若時代まで五尺何寸何分、二十何貫という表示だった。これを換算すると若乃花は179cm、栃錦は177cmという具合になる。センチ未満はもちろん四捨五入。

 西郷隆盛については

丈が高くて百八十センチくらゐはあつたといふ。

 といふ具合に書くべきでせう。

 谷幸雄について、英語の資料に「体重は9ストーン」と書いてあったので、これを柔道か柔術か(13)では、57.15kgと換算してしまった。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/13_5b63.html
 これはよろしくない。辞書によれば「体重のときは1ストーンは通例14ポンド(6.35kg)」だ。日本の貫以上に大まかな単位を用いるのは、だいたいどれくらいかが分かればよろしい、ということでしょう。
 ウィキペディアの「谷幸雄」の項目を書いた人が「身長160cm未満、体重は60kg未満」としたのは賢明だ。

| | コメント (0)

2009年12月 9日 (水)

身長について(1)

……たとへば西郷隆盛の身長は一七八・八センチで、体重は一〇八・七五キロであつた。これは先々代若乃花の身長と体重にほぼ近い。このことは前にも書いた(『青い雨傘』所収)。
 夏目漱石の身長・体重はわかりませんね。森鴎外も不明。
 三島由紀夫は、これは体重はわからないが、身長ならわかる。
 自称によれば一六五センチですが、実は一六二センチであつたといふ藤田三男さんの証言があります。藤田さんは河出書房の元編集者。でも、わたしがどこかの劇場ですれ違つたときの印象で言へば、一六一センチくらゐだつたなあ。あれぢや権力意志が高まつて、自衛隊に突入したくなるよ。(『人形のBWH』p.197)

 丸谷才一の最新エッセイ集におさめる「ロンメル戦記」の一節。「砂漠の狐」と呼ばれたドイツのエルヴィン・ロンメル将軍(1891-1944)の戦記のことだけれど、わずか数行の間にも西郷隆盛から三島由紀夫まで話があちこちに飛ぶのが丸谷流だ。
 西郷隆盛の身長体重については、たしかに『青い雨傘』に書いてあった。

 史料によれば、西郷隆盛は、身長五尺九寸、体重二十九貫ですね。これを換算して、現代の力士と比較してみます。……

(換算すると、五尺九寸=178.8cm、二十九貫=108.75kgになるらしい。先々代若乃花が179cm、105kgであった。)

Mrt0812201246001p1

……つまりおほよそのところ、若乃花(先々代)すなはち前双子山親方くらゐだつたと思へばいいわけです。おや、小兵ぢやないか、などと言ふなかれ。幕末から維新にかけての日本人は今よりもずつと丈が低かつたから、当時としては西郷はものすごい巨漢だつたでせう。威風あたりを払ふものがあつたに相違ない。

 しかし、西郷隆盛が178.8cm、108.75kgというのはどんなものでしょう? 丸谷才一とも思えない。上手の手から水が漏れたか? 
 西郷隆盛が身長と体重の測定を受けたか? 相撲取や学生じゃないんだから、そんなことはしない。
「西郷さん、あんたの身長と体重はどれくらいかな?」
なんて、失礼なことは勝海舟だって聞けなかったでしょう。

Katsusaigou

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月25日 (水)

ショルトーの正体(5)

 コナン・ドイルは、オスカー・ワイルドだけでなく、ワイルドの敵のクイーンズベリー侯爵とも因縁があった。二人ともボクシングの熱心なパトロンだった。当時の上中流階級では少数派だったから、知り合いだった。
 ドイルは自身ボクシングをたしなみ、前に「シャーロック・ホームズの階級」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1-6a46.htmlで紹介した『クロックスリーの王者』(コナン・ドイル傑作選Iに収録)やベアナックル・ボクシングを扱った『ロドニー・ストーン』をはじめ多くのボクシング小説を書いている。

 クイーンズベリー侯爵は1867年に定められたクイーンズベリー・ルールで有名だ。このルールによって、グローブ着用、3分1ラウンド制、10秒のダウンでノックアウト、レスリング行為(クリンチからの攻撃)の全面的禁止など、現代ボクシングの基礎が作られた。
 第9代クイーンズベリー侯爵(1844-1900)はスコットランドの貴族だった。

Queensbi_2

 彼はボクシングのほかに乗馬や狐狩りにも熱心で競走馬も何頭か所有していた。彼は1872年に上院議員に選ばれたが、1880年になって英国君主へのキリスト教方式による忠誠の誓いを拒否して大問題を起こした。彼は熱心に無神論をとなえた上に、ボクシングなどという下品なスポーツに肩入れしたので貴族の間では評判が悪かった。

Bosie_cover_lg

 アルフレッド・ダグラスはこの侯爵の三男だった。息子のアルフレッド・ダグラスと父親の侯爵ジョン・ショルトー・ダグラスは性格も見た目もずいぶん違った。
『四人の署名』に出てくるショルトーは、サディアスよりもその父親が問題なのではないだろうか。ジョン・ショルトー少佐は、ワトソンの妻メアリーの父親モースタン大尉の死に関わりがあった。メアリーはジョン・ショルトーの名を思い出したくないので、夫をジョンと呼ばなかったくらいだ。
 メアリーはJohn H. Watsonのスコットランド風のミドルネームHamishをわざわざイングランド風に直して「ジェームズ」と呼んでいた。
 この点については、ドロシー・セイヤーズ女史の『ドクター・ワトソンのクリスチャン・ネーム』を私が訳しているので、ご覧ください。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_b26f.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

アメリカにおける山下義韶

①(山下義韶は) 1905年(明治38年)3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
(ウィキペディア「山下義韶」)

② 1902年5月に、山下は柔道普及のため渡米した。初めはハーバード大学で教えた。彼の最初期の弟子には南軍のリー将軍の曾孫であるメアリー・リーがいた。テオドール・ルーズベルト大統領は彼に海軍兵学校でも教えさせた。そこで行われた戦いで、山下は190cm、113kgのアメリカ人レスラー、ジョージ・グラントと戦った。グラントは体落としとヨコオトシ(?)で投げられてピンフォール(?)された。この目覚ましい勝利によって、山下は海軍兵学校で2年間教える契約を得た。
(Judo Greats Past and Present http://judoinfo.com/greats.htm

Series14_01_2
(アメリカにおける山下義韶と妻の筆)

③ 山下は日本公使館を訪れ、1904年3月に海軍武官の竹下勇中佐は山下をホワイトハウスに連れて行きテオドール・ルーズベルト大統領に紹介した。[11]  ルーズベルトはホワイトハウスでレスリングとボクシングを練習していた。また彼はウィリアム・スターギス・ビゲローから柔術着をプレゼントされ[12] 、長崎滞在中に柔術を研究したフィラデルフィアの警察官J・J・オブライエンから柔術を習っていた。[13][14][15]  ルーズベルトは山下の技に感銘を受け、1904年の3月と4月に、山下はホワイトハウス内の一室で大統領とその家族や職員に柔道を教えた。[16][17]  その後、別の場所で、山下と妻の筆は、マーサ・ブロー・ワッズワース、ホリー・エルキンズ、グレース・デーヴィス・リーなどの名家の夫人とその子供達に柔道を教えた。[18]
 1905年1月、山下は海軍兵学校で柔道を教える仕事を得た。生徒は約25名で、その中には将来提督になるロバート・L・ゴーマリーもいた。[19]  この仕事は学期末で終わり、山下は翌年度は雇用されなかった。[20]  ルーズベルト大統領はこれを聞くと海軍長官に声を掛け、彼を通じて兵学校校長に山下を再雇用させた。[21] その結果、山下は海軍兵学校で1906年6月まで柔道を教えた。[22]
(英語版ウィキペディアYamashita Yoshiaki(名前の読みはYoshiakiまたはYoshitsuguであるとしている))

Fudeyamashita
(柔道を教える山下筆)

 上の③英語版ウィキペディアについている[21]などの数字は参照文献を示す。たとえば
21. Memorandum from Charles J. Bonaparte, Secretary of the Navy, to Chief, Bureau of Navigation, dated November 3, 1905, in US Naval Academy archives.

 米海軍公文書館にある文書を挙げているのだ。年月日に関する限り、英語版ウィキペディアが正しいだろう。①の1905年3月29日にレスラーとルーズベルトの面前で戦ったという記述は不正確だと考えざるを得ない。
 ③の英語版ウィキペディアには、ジョージ・グラントなるレスラーと戦ったという記述はない。だからといって戦いがなかったとはもちろん言えない。しかし②では同じレスラーの身長体重が190cm、113kgとなっている。どちらが正しいか?
 外国での百年前の出来事なので食い違いが起きるのはやむを得ないか?

 もう一つ、山下義韶対レスラーの戦いの「記録」を見てみよう。
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser14_p03.html

④ 3月1日ホワイトハウスにおける他流試合はどのようであったのか。山下義韶は身長160センチ、体重68キロ、年令は40歳を超えたばかりであった。これに対するジョージ・グラント海軍大尉は身長2メートル、体重160キロ、年令は山下より10歳若いレスラーであった。レスリングタイツ1枚のグラントに対して柔道衣スタイルの山下は、相手の太い腕に捕まってしまったら勝てないとふんだ。相手が向かってくるところを得意の足技で崩し、のしかかろうとする力を利用して巴投げで投げ飛ばしたという。起き上がろうとするグラントの背中に回って山下は喉(のど)締め(裸(はだか)締め)にいき、グラントが立ち上がろうと伸ばした左手の一瞬の隙をついて腕ひしぎ十字固めで攻めた。慣れない肘関節を極められたグラントはたまりかねてついに右手でマットを叩き「ギブアップ」という結末となった。この間わずか2分であったが、山下もすぐには立ち上がれない程心身を消耗していたという。

 日時は3月1日(何年?)、決め技は腕拉ぎ十字固めである。また別バージョンだ。しかしどういう文献を根拠にこれを書いたのか? なかなか難しいものですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月19日 (月)

ルーズベルト、常陸山、山下義韶

 この年(1907年、明治40年)、天下の日下開山横綱常陸山が洋行に踏み切って(土俵を踏み切ったら負けだが)世間をアッと驚かした。
 生来鼻の高い外人ぽい顔で「異人」と仇名された位で、百七十四糎百三十一キログラム(相撲らしい表現じゃないネ)五尺七寸五分三十五貫の体だから、第二十六代ルーズベルト大統領と面会して土俵入りを見せても位負けしかなっただろう。何しろこちらは十九代横綱、十五も格が上なんだから(昔のガキの自慢くらべとかわんないネ)。……

02_hitachiyama_2

 ところでルーズベルトは明治三十五年にも講道館嘉納治五郎の高弟山下義韶から柔道を教わっているので、僅か五年の間に二種類の和風レスリングを見せられた珍しい体験をもつ大統領だ。
(柳澤愼一、pp.248, 249)

Teddyroosevelt1

 ウェッジ文庫の『明治大正スクラッチノイズ』おすすめです。スクラッチノイズとは、レコードと針の摩擦で出る雑音のこと。柳澤愼一という人は雑学の大家ですね。
 山下義韶がルーズベルトに柔道を教授した年は、この本では明治35年(1902年)になっているが、ウィキペディアの記述では明治38年(1905年)だったように読める。明治36年としている人もいるようだ。調べてみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月17日 (土)

前田光世伝(13)

 ブラジリアン柔術

 1917年、前田光世はパス劇場(Teatro da Paz どこ?)で柔道演武会を行った。これを見ていたガスタオン・グレーシーの14歳の息子カーロスは自分も柔道(当時は嘉納柔術とも呼ばれていた)を学びたいと思い、前田に入門した。カーロスは柔術の修業を続け、弟のエリオ・グレーシーとともにグレーシー柔術、すなわち現代のブラジリアン柔術の開祖となった。1921年、ガスタオン・グレーシーは家族とともにサンパウロに移った。当時17歳だったカーロスは前田に習った柔術を兄弟のオスヴァルド、ガスタオン、ホルヘに教えた。エリオはまだ幼く病弱で医者に稽古を禁止されていたので、兄たちの稽古を見学していた。しかし彼もやがて健康になり、今ではエリオがブラジリアン柔術の開祖だと考える人が多い(カールソン・グレーシーのようにカーロスこそが開祖だとする人もいる)。

Kimura

(エリオ・グレーシー対木村政彦。腕絡み(キムラ)が極まるところか。1951年。動画 http://www.youtube.com/user/kjkj5#p/a )

前田光世の格闘理論

 レンゾ・グレーシーの書いたMastering Jujitsuによれば、前田がカーロス・グレーシーに教えたのは柔道(柔術)だけではない。世界中でキャッチ・レスラーやボクサーやその他サバットなど各種のマーシャルアーツの使い手と戦って培った前田光世独自の格闘理論を同時に教えたのだ。レンゾ・グレーシーの本は前田の格闘理論を詳述している。徒手格闘は、打撃局面、組み技局面、寝技局面などの局面に明確に分けることができるというのである。できるだけ自分の強みを活かすことができる局面に戦いを限定するのが賢いやり方だという。この理論がグレーシー流の戦い方の基本だとこの本は言う。

◇これでおしまい。ウィキペディア英語版のMitsuyo Maedaの翻訳です。訳者による付け足し等は分かるように書いてあるはず。ごく一部省略あり。たとえば(12)では、「フルニエというフランス人レスラーをも破った。」の後に、The Havana papers attributed Maeda with a Cuban student called Conde Chenard.とあるが訳さなかった。原文英語が間違いで意味不明のため。

◇英語版には53項目の参考文献がついている。たとえば1905年に前田光世と富田常次郎がウェストポイント陸軍士官学校で柔道の演武を行ったことは前田光世伝(5)に書いたが、原文はボルチモア・サンという新聞の1905年2月22日号を注に挙げている。「富田常次郎が巴投げを掛けようとして二度失敗した」が正しいかどうかは、百年前の英語の新聞を見れば確かめられる。ウィキペディアの記事はこういうふうに書くべきでしょう。次の日本語版の記述と比べられたし。

ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の一人富田常次郎が、体重約160kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関しては、「前田がルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月16日 (金)

前田光世伝(12)

 1916年1月8日、前田光世、大倉、清水の三人は汽船アントニー号に乗ってリバプールに向かった。伊藤徳五郎はロサンジェルスに向かった。オ・テンポ紙によれば、佐竹とラクはマナウスに残って柔術を教えた。前田と佐竹は15年間苦楽をともにしたが、このとき初めて別行動を取った。この訪欧については知られていることは少ない。前田光世はイングランドからポルトガル、スペイン、フランスに行き、1917年に一人でブラジルに戻ってきた。前田はベレンに落ち着き、D・メイ・イリスと結婚した。

Maeda01

 前田はブラジルで依然として人気があり偉大な格闘家として認められていたが、欧州から帰ってからは実際に戦う機会は少なくなった。1918年から19年ごろ、前田は有名なカポエラの使い手であるペ・デ・ボラの挑戦を受けた。前田は相手にナイフを使って戦うことを許した(実際に試合でナイフを使ったかどうかは不明。原文が悪い)。べ・デ・ボラは190cm、100kgの大男だったが、結果は前田の楽勝だった。
 1921年に、前田はブラジルで初の柔道道場を開いた。Clube Remoという名前のこの道場は、初めは4m四方の小屋だったが、やがて消防署に移り、さらにN.S.de Aparecidaの教会に移った。1991年現在では、この道場はSESIにあり、前田の孫弟子にあたるアルフレド・メンデス・コインブラが主宰していた。(この段落、ポルトガル語が不明)
 1921年9月18日に、前田、佐竹、大倉の三人は汽船ポリカープ号でニューヨークに行った。三人は職業欄に「juitsoの教師」と書いている(原文注によれば1820-1957年のニューヨーク港船客リストのデータベースがあってマイクロフィルムが閲覧できるという。前田たちが「ジュージツ」と言ったのを船員がjuitsoと書いたのではなかろうか)。ニューヨークには短期間滞在しただけで、三人はカリブ諸国に移り、1921年12月まで滞在した。この間、前田は妻を呼び寄せた。ハバナでは、佐竹と前田が何度か試合に出た。相手にはパウル・アルヴァレス(リングネームはエスパノル・イコグニト)がいた。アルヴァレスは佐竹と前チリ海軍兵学校教師という触れ込みの大倉を破ったが、前田には負けた。前田はまたホセ・イバラというキューバ人ボクサーに勝ち、フルニエというフランス人レスラーをも破った。

P73

 1925年には、前田光世はパラ州トメアスの移住地に日本人移民を定着させる事業に関わり始めた。トメアス移住地はアマゾンの森林の中にブラジル政府が日本人移民用に確保した土地である。日本人がここで栽培しようとした作物はブラジルではあまり売れず、日本の投資家はこの開発事業から手を引いた。(この「作物」とは米のことだろうか? 日本からの投資は絶えてもブラジル移民は現地で苦闘を続けた。第二次大戦が始まると日系移民は敵国人として財産を没収された。戦後トメアスは日系人が始めた胡椒の栽培で繁栄した。)
 また前田は主に日系人の子弟に柔道を教え続けた。1929年には講道館は彼を六段に進めた。1941年11月27日にはさらに七段位を贈ったが、前田光世は28日にベレンで亡くなったので昇段を知らなかった。死因は肝臓病であった。
 1956年5月には、郷里の弘前市に前田光世の記念碑が建てられ、除幕式に講道館館長の嘉納履正と佐村嘉一郎が出席した。
1_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月15日 (木)

前田光世伝(11)

Brmap

 1913年になると、伊藤徳五郎をキューバに残し、前田光世と佐竹は、エルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、パナマ、コロンビア、エクアドル、ペルーの諸国を巡業した。エルサルバドルでは前田たちが滞在中に大統領が暗殺された。パナマではアメリカ人レスラーが前田に金銭を提供して勝ちを譲らせようとした。彼らは南に進んだ。ペルーではラク(上西貞一)が軍で柔術を教えていたので彼を仲間に入れた。チリでは大倉が、アルゼンチンでは清水が加わった。1914年11月14日、一行はブラジルに着いた。
 ベレン市日本人移民協会会長(ポルトガル語?)の堤ゴッタ(?)氏提供の前田光世のパスポートの記録によれば、前田がブラジル南部の港湾都市ポルトアレグレに着いたのは、1914年11月14日である。ここで彼は最初の演武を行った。その後、前田の一行はブラジル中を巡業した。1915年8月26日には、前田、佐竹、大倉、清水、ラクは北東部の港湾都市レシフェにいた。10月にはベレンにいて、12月18日にマナウスに着いた。伊藤徳五郎はしばらくしてからここに着いた。
 1915年12月20日に、ベレンで初めての演武会がポリテアマ劇場で行われた。オ・テンポという新聞にこの演武会の予告が出ている。同紙によれば、演武会ではまずコンデ・コマが主要な柔術の技を実演し、禁じ手の説明をし、護身術の技も見せることになっていた。その後は観客で柔術家たちに挑戦したい者がいれば挑戦を受け、締め括りにはアルゼンチン選手権者の清水対ペルー軍学校教師のラクがブラジル初の柔術試合を披露する予定だった。オ・テンポ紙によれば、12月22日に柔術世界チャンピオンの前田とニューヨーク・チャンピオンの佐竹が柔術の試合を行って一大センセーションをまきおこした。同じ日に、トルコ出身のオーストラリア・グレコローマン・チャンピオンであるナギブ・アセフが前田に挑戦した。12月24日には、バルバディオ・アドルフォ・コルビアノというボクサーが前田に挑戦したが、前田は「秒殺」で勝ち、コルビアノは前田の弟子になった。
 前田対ナギブ・アセフの試合は、翌1916年の1月3日にポリテアマ劇場で行われた。前田は相手を投げて舞台から落とし、最後はアームロックでギブアップを奪った。

Maeda_koma

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

前田光世伝(10)

 前田光世は1910年7月にキューバに戻った。ここで、前田はフランク・ゴッチ(1878-1917)およびジャック・ジョンソン(1878-1946)との試合を行おうとした。しかし、二人とも彼の挑戦を無視した。前田と戦っても何のメリットもなく、もし負ければ大変な損失になるからだった。

◇フランク・ゴッチ1908年にジョージ・ハッケンシュミットを破ってプロレス世界チャンピオンを名乗っていた。彼は1911年にハッケンシュミットとの再戦に勝ち、1913年までチャンピオンとして君臨した。180cm、91kgであった。

◇ジャック・ジョンソンは、史上初の黒人のプロボクシング世界チャンピオンであった。身長187cm。

Jackjohnson1

彼は1908年にカナダ人トミー・バーンズを破りヘビー級チャンピオンとなり、1915年までタイトルを保持した。彼の勝利は激しい人種差別意識をかきたてた。1910年には元チャンピオンのジェイムズ・J・ジェフリーズが「偉大なる白人の希望の星」としてジョンソンに挑戦したがノックアウトされた。ジョンソンは白人女性と結婚していたためいっそう白人から憎まれた。

Article1166876044012e7000005dc470_4

 1910年8月23日には、前田はハバナでジャック・コンネルとレスリングの試合を行い、引き分けた。1911年になると、キューバにいる前田と佐竹に大野明太郎と伊藤徳五郎が加わった。彼らはキューバ四天王と呼ばれるようになった。
 四天王のキューバにおける人気は日本に伝わり、ジャパンタイムズ紙は前田たちを日本柔道の名声を高めているとほめたたえた。この結果、講道館は1912年1月8日付けで前田光世に五段を与えた。ただ日本国内では、前田がプロレスに関わっているという理由で昇段に反対する意見もあった。

◇前田光世が「講道館から破門された」というのは間違い。嘉納治五郎がそんなことをするはずがない。もし嘉納治五郎が存命ならば、石井慧の総合格闘技進出を喜び、活躍すれば段位を進めるだろう。

Ishii_satoshi001

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧