2008年6月27日 (金)

英会話を学ぶ

 現在多くの大学で、英会話や会計学、コンピュータなどの実務教育が進行しています。いずれも、海外や就職などですぐに役に立つスキルです。 
 この傾向は一見いいことづくめのようですが、実際には企業が研修にかけるお金をけちって、大学にまかせようとしているにすぎないようにも見えます。しかも、ここで教えられる英会話は、けっしてハーバード大学やコロンビア大学の大学院で学ぶための英語ではありません。ここで学ぶエリートたちは、むしろ昔ながらの読み書きを要求されているのです。
 ですから若者たちが英会話を学んだからといって、すぐに国外で活躍することなど夢物語です。移民労働者として、アメリカのマクドナルドでバイトをするのに役立つくらいでしょう。このように実務教育とは、競争社会の中で落ちこぼれた者を満足させる方法でもあるのです。(p. 213)

How about potatoes?

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2008年6月12日 (木)

英語の発音

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 ユル・ブリンナーはなぜ頭を剃っていたのか?
 彼はロシア出身で(生年は1915年か1920年のどちらか)、1941年にアメリカに渡って演技の勉強を始めた。
 彼はあるプロデューサーに
「僕はスターになりたいのですが、何かいい方法はありませんか?」と尋ねた。
 プロデューサー答えて曰く
"Be bold."
 ブリンナーはまだ英語がよくできなかったから、boldをbaldと聞いてしまった。
「そうか、ハゲになればスターになれるのか」
 と思って早速剃髪したところ、『王様と私』の主役に抜擢され、一躍スターになった。
 むかしある映画雑誌で読んだ話です。

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2007年9月29日 (土)

英文手紙の書き方(2) 高等編

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 僕は、アメリカ人と一回会うだけだったらアメリカ的にやります。一々説明するのは面倒くさいから、パッパとやっているけれど、友だちになっていくほど、日本的な接し方とか、日本人はこうするのだということを教えていくわけです。それも冗談半分でやるんだけど、たとえば、ボスナックさんから手紙が来て、”I want to……”と手紙が来たら、ボスナックさんに、「われわれ日本人はこんな失礼な手紙は絶対に出さない。手紙の初めから、私はこうしてほしいなど日本人は絶対に言わない」と言うんです。そしたら「いったいどうするのか」と言うから、「まず、春暖の候……いうて書くんや」と(笑)。そうでしょう? そういうことを書いて、それからおもむろに、「陳ぶれば」という言葉があって、そこからお願いとかが始まるのです。
 そこで何とか説明する。私という人間と、あなたという人間がいて、「私はあなたに……して欲しい」という手紙の出だしは駄目なんやと。私とあなたは、この春という世界に一緒にいる。だから、まず「春暖の候」といわなくてはいけない。その状況のなかで二人が生きていることを確認してから、「ところで」といわなくてはいけないのだと言うたら、「すごいな、やはり日本人はすごい」と。次にボスナックさんから来た手紙には、"Spring has come……”とか書いてあるんですよ。「へえ!」というようなもので。「あなたもだいぶ礼儀正しくなった」と冗談を言ったりするんですが、そういうことを通じて彼は日本人を知っていく。

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2007年9月16日 (日)

英文手紙の書き方

 翻訳業の仕事の一部に商業用の手紙の英訳がある。

 拝啓 貴社益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

 この書き出しは省略してよろしい。これはだいたい共通了解になっている。
 拝啓の代わりにDear Mr.……と書く。貴社益々以下は省いて、すぐに用件に入る。
 商業用の英文手紙では、用件を「見出し」として書くこともある。Re ……という形を使う。「……に関する件」という意味である。たとえば初めに

  Re Vampires

 と書いてあれば、「なるほど吸血鬼の話だな」とすぐ分かるので便利だ。ニンニクや十字架を準備すればいいわけだ。

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  吸血鬼に関する件
 拝啓 弊社顧客、ミンシング・レインの茶仲買商ファーガソン・アンド・ミュアヘッド商会のロバート・ファーガソン氏より、本日付け書簡にて吸血鬼に関して照会を受けました。弊社専門は機械類の査定であり上記の件は営業範囲外であるため、ファーガソン氏には本件を貴殿に御相談なさるよう勧告させて頂きました。マティルダ・ブリックスの件における貴殿の功績は失念しておりません。

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 簡にして要を得た手紙ですね。ちなみにマティルダ・ブリックスは女の名前ではない。スマトラの巨大ネズミに関わる話であるが、シャーロック・ホームズは、まだワトソンに話すには時期尚早だと考えていたらしい。サセックスの吸血鬼の原文はこちら
 
 ところが、我々が英訳させられる手紙では、肝心の用件がどうも要領を得なくて困ることがある。たとえば「コンサートの開催が遅れる」ことを取引先に通知するのに、次のように書く人がいる。

[悪い例]
 残念ながら、今月末に開催予定であった次回コンサートの劇場に重大な欠陥が見つかりました。予定販売数を上回るチケット販売には本当に感謝しています。欠陥は、最初、山口営業部長が発見しました。換気装置が時折、突然止まることに偶然気づいたそうです。しかも、止まるときに、観客席にも聞こえるような、かなり大きい不快な音が鳴ります。……

 こんな手紙を本当に書く企業人がいるのか? 実際にいるのだ。本当に困る。
 これは私が訳した実例ではない。機密保持契約があるので「こんなアホがいる」という話はできない。
 これは日経ビジネス人文庫『電車で覚えるビジネス英文作成術』のp.30に出ている例です。
 
  [改善例]
 大変申し訳ないのですが、今月末開催予定の次回コンサートを延期しなければならなくなりました。この延期で大変なご迷惑がかかってしまうことを心よりお詫び致します。延期の理由は次の2点です。
① Moon Light劇場の欠陥
② パンフレット印刷の遅れ

 この本は題名通り英文の書き方の本なので、悪い例も改善例も、まず英語が書いてある。
 著者の藤沢晃治氏はよくできる人で立派な英語だと思う。ただし「電車で覚える」はちょっと誇大広告。電車の中で薄い本を読んで英語が書けるようになるはずがない。
 しかし

「まず要点、次に説明を書く」
これが、ビジネス英文の大原則
     

  という同書p. 28の「大原則」は、英語でも日本語でも同じだ。拳々服膺してもらいたいものだ。
 日本語で筋の通った手紙を書いてもらえれば、専門家が英語に直します。元の日本語が駄目ならばいくら翻訳者が頑張っても駄目である。まず日本語がちゃんと書けなくては駄目だ。英語以前の問題だ。

 英文和訳と和文英訳の両方の経験から言うと、手紙に限らず、マニュアルでもプレゼンテーションの原稿でも、ビジネス文書は英語で書かれたものの方が日本語のものより概して優れているようだ。
 英語の文書はふつうに翻訳すればたいてい読んですぐ分かるものになる。日本語の文書は、そのまま英語に訳したのでは「何を言いたいのかさっぱり分からない」ということになることが多い。
 上の「悪い例」は、一つ一つのセンテンスは文法的にも語法的にも正しい英語に訳してあるが、英文の手紙として出せば、まず読んでもらえないだろう。
 和文英訳の前段階として「和文和訳」が必要になることが多い。それでセンテンスの順序入れ替えから始まって大規模な脱構築を行うことになる。
 ところが、ものすごく偉い人の書いた文章だと、「意訳はまかりならぬ。直訳せよ」と厳命が下る場合がある。
 例の「美しい国」の話なども、多分そうだったと思う。翻訳者は苦労しただろうな。

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2007年8月24日 (金)

水戸黄門 Vice-Shogun

このお方をどなたと心得る?

Who do you think this gentleman is?

(Do you know who this gentleman is? と比較せよ。)

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2007年1月20日 (土)

村上春樹を英語で読む

 4月からあるカルチャーセンターで「村上春樹を英語で読む」という講座を始めようかという話がある。(あるカルチャーセンターなどと曖昧なことを書くのは、まだ未定の要素があるから。)
 村上春樹の小説はほとんどが英訳されている。その中から一冊選ぶとして、短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)の英訳After the Quakeを「英語の本として」読んでみる、というのはどうだろう。

Five straight days she spent in front of the television, staring at crumbled banks and hospitals, whose blocks of stores in flames, several rail lines and expressways. She never said a word. Sunk deep in the cushions of the sofa, her mouth clamped shut, she wouldn't answer when Komura spoke to her. She wouldn't shake her head or nod. Komura could not be sure the sound of his voice was even getting through to her.

 第一短編『UFOが釧路に降りる』の英訳UFO in Kushiroの書き出しである。

  これなら英語の本を読むのがはじめてという人でも、何とか読めるはずだ。翻訳では凝った言い回しやむつかしい単語は使わない。何より、分からなくなれば日本語の方をのぞいてみればよいのだ。いわば「補助輪付きで『原書』を読む」のである。
 こうやって英語で書いてある本をともかく読むのに慣れることに、まず意義があると思う。「英語を読む」というと、週刊誌の『タイム』を読むなんてのが流行っているようだけれど、そんなことをする人の気が知れないね。

 アメリカ人が日本語を勉強するときは、源氏物語や夏目漱石や村上春樹を読むはずだ。週刊文春や週刊朝日をわざわざ辞書を引いて読むなんて馬鹿なことはしない。
 日本語でも英語でも、週刊誌は斜めに読むものだ。ゆっくり時間をかけて読むためには「ゆっくり読む値打ちのあるテキスト」でなければならない。
 村上春樹の小説は繰り返して読んで面白いし、別の言語で読んでみるとまた一層面白いのである。私は『神の子どもたちはみな踊る』はドイツ語訳のNach dem Bebenで読み直してみたが、日本語で読んだときは見逃していた細部の仕掛けに気がついた。
 たとえば、最後の短編『蜂蜜パイ』では、小夜子が娘の沙羅にねだられて淳平の前で「ブラはずし」をやってみせる。
「服を着たままブラをはずして、テーブルの上に置いて、それをまたつけるの。いっこの手はいつもテーブルの上に載せておかなくちゃいけないの。それで時間をはかるの。ママはすごくうまいんだよ」
  ゆっくり読むとこのエピソードの「必然性」が分かる。村上春樹は小説がうまいなあ、と当たり前のことに感心するのである。

 味をしめてKafka am Strandを読んだが、これも大変よろしかった。もちろん『海辺のカフカ』ですね。Gefaehrliche Geliebteというのも読んでみた。これは『国境の南、太陽の西』である。この本はドイツではテレビの書評番組(というのがあるらしい)で、有名な文芸評論家が「単なるエロ小説である。文学的ファーストフードである」とこき下ろし、これに別の文芸評論家が反発して村上擁護論をぶって大喧嘩になったのだそうだ。これで「そんなにエロならば読んでみようか」という読者が殺到して、ドイツでは村上春樹がベストセラー作家になったのだという。そう言えば『海辺のカフカ』の独訳が出たのは英訳よりずっと早かった。
 
 外国語訳で読んで違和感がある作家とそうでない作家がいて、村上春樹は後者に属すると思う。川端康成の雪国の英訳Snow Countryは、訳者のサイデンステッカー氏が頑張っていることはよく分かるのだが、英語で読むとどうも西洋人が和服を着ているところを見たような落ち着かない気分になる。もちろん日本人が英語で川端康成を読む必要は毛頭ないので、原文の日本語で読めばよいだけのことである。
 村上春樹の『東京奇譚集』は、月刊『新潮』に連載した4編と書き下ろしの1編をおさめているが、私はこの中の『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は英訳のWhere I'm Likely to Find Itの方を先に読んだ。ニューヨーカーのオンライン版からダウンロードできたからである。(今はオンラインでは読めない。短編集Blind Willow, Sleeping Womanに収録。)これは、はじめから英語で書いたものだと言われれば信じてしまいそうな感じである。凶器みたいに尖ったハイヒールを履いた女が「私」の事務所にやってきて夫を捜してくれと依頼するところなどは、まったくレイモンド・チャンドラーである(すぐにMurakamiesqueな展開が始まるが)。日本語版の方が上手な翻訳みたいな感じがする。

 カルチャーセンターの講座は、実際に開講するかどうかまだ未定であるが、村上春樹を入り口にして英語の本を読む楽しみを味わってもらえればと思っている。

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2007年1月 8日 (月)

誤訳迷訳欠陥翻訳(3)

 山岡洋一氏は、光文社の「古典新訳シリーズ」でミル『自由論』の翻訳を出している。

 しかし私などが最大の恩恵を受けているのは、氏の労作『CD-ROM経済・金融英和/和英実用辞典』(日経BP)である。

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 ところが、これがアマゾンでは見つからないのですね。仕方がない。たとえばKinokuniya Bookwebを見てください。「取り寄せ」だそうですが、手に入るかも知れない。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9972413969
 「山茶花」さんからアマゾンにもあるというコメントをいただいたが、現在「在庫切れ」だそうです。――1月11日追記

 このCD-ROMがなければ、私などまったく仕事にならないのだ。
 たとえば次のような日本語を英語に訳してみてください。

 資産の消滅の認識に係る会計上の考え方は、リスク・経済価値アプローチと財務構成要素アプローチとに大別される。リスク・経済価値アプローチとは、資産のリスクと経済価値のほとんど全てが他に移転した場合に当該資産の消滅を認識する方法であり、一方、財務構成要素アプローチとは、資産を構成する財務的要素に対する支配が他に移転した場合に当該移転した財務構成要素の消滅を認識し、留保される財務構成要素の存続を認識する方法である。

 いかがですか? まず手も足も出ないはずだ。『CD-ROM経済・金融英和/和英実用辞典』を使わないから出来ないのだ。使えば出来るとは限らないけれど、使わなければ出来ない。ほかの辞典では駄目である。
 たとえば研究社の『新和英大辞典』は日本の英語学界の最高峰が集まって作った辞書であるが、営業部を引いてみるとthe business departmentと書いてある。これでは駄目ですね。営業部は英語では十中八九はsales departmentとなることはご存じの通り。この和英辞典は全体としてはよくできているが、英語と日本語の一対一対応(場合により一対多対応)という考え方を基本に作っているので、実際には使えない場合が多いのだ。「営業部」ならば、営業と部に分解する。部はまずdepartmentであろう。営業はbusiness、あるいは場合によりtrade、operationなど。この場合はbusinessを採ってthe business departmentとする――こういうやり方では限界があるのだ。
 あるいはlessという単語ならば、littleの比較級より少ないという意味である、と書けば英和辞典の仕事は終りである。しかし、たとえばfair value less cost to sellをどう訳するか? 山岡氏の辞典を見れば「売却コスト差し引き後公正価額」とちゃんと書いてある。
 上の例では「財務構成要素」アプローチの訳語が山岡氏の辞典に出ているわけではない。この英訳は私が自分で考えました。
 しかし、たとえば「認識」の訳語は、和英辞典では、cognition, recognition, coginizance, awareness, consciousness, perception, knowledge, understandingなどたくさんあるけれども、会計用語としてはrecognize/recognitionであることを、山岡氏の辞典を何度も引いて確かめてあるから、安心して翻訳が出来るのだ。
 ふつうの辞書とはどこが違うか?
 経済金融などの分野で英語の読み書きに実際に使える辞典を作るにはどうすればよいか? 英米の専門書、雑誌や新聞の記事、報告書などから例文を大量に集め、これに一々和訳を付けて、「英和対訳データベース」を作り、これをもとに辞典を作ればよろしい。
 その結果、lessを「差し引き」と訳さなければならない場合があることが分かってくる。あるいは、「重要性を認識する」はto realize the importanceであるが、「収益を認識する」はto recognize incomeでなければならないことが分かってくる。
 
 こういう辞典を作ってくれた山岡洋一氏が訳したものならば信頼できるはずだ。
 しかしそもそも『国富論』の話であった。
 原文An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsは以下にあるのでちょっとのぞいてみましょう。
http://www.econlib.org/LIBRARY/Smith/smWN.html

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2007年1月 7日 (日)

誤訳迷訳欠陥翻訳(2)

 別宮氏の本が扱っている翻訳書は「特選」だけあっていずれ劣らぬ迷訳ぞろい、どれを取り上げたらいいか、目移りして困るくらいである。
 一番反響が大きかったのはアダム・スミス『国富論』の翻訳批判、「読書はナゾ解きではない」(1989年12月号)ではないだろうか。

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 この時点で国富論の訳は

 岩波文庫の大内兵衛訳
 河出書房の水田洋訳
 中央公論社の大河内一男訳

 があった。現在は岩波文庫に水田洋訳が入り、中公文庫から大河内一男訳版が出ている。現在の岩波文庫版は訳者名が「水田洋、杉山忠平」である。

 岩波文庫版については、アマゾンのカスタマー・レビューで「おろしあ」という人がこう書いている。

(星の数は5つのうち2つ) 訳文が難渋, 2002/10/23
 一見原文に忠実な訳で信頼が置けるように見えるが,中公文庫版に比べて難渋なことは否めない。しかも監訳者水田氏と英文学者・別宮貞則氏との間で論争された訳文の適否の箇所については,相変わらず改められていない部分も見られる(訳者の見解と言えばそれまでだが…)。

 別宮氏の主標的は水田洋訳だった。これに対して水田氏が「これでいいのだ」と反論したらしい。その結果、いくらか改めた箇所もあるが、そのままの箇所もあるらしい。どういう訳文だったのか?

・完成品を、貨幣か労働か他の財貨と交換するにあたって、原料の価格と職人の賃銀とを支はらうにたりるであろうところをこえて、このしごとの企業者の利潤として、いくらかがあたえられなければならないのであって、かれはこの冒険に自分の資財をあえて投じたのである。

 これで分かるという人がいたら「天才と紙一重」だ。一度どこかで頭を診てもらった方がよろしい。別宮氏の挙げる大河内訳は

・完成品を、貨幣なり労働なり他の財貨なりと交換する場合には、こうした冒険に自分の資本(ストック)を思いきって投じるこの企業家にたいして、その利潤として、原料の価格と職人の賃銀を支払うに足りる以上になにかか与えられなければならない。

 これならよく分かる。別宮氏の挙げた水田洋訳の例をもう一つだけ。

・したがってこれらの財貨が、かれにたいしてこの利潤をうまぬかぎり、それらがじっさいにかれにとってかかったと、まったく正当にいわれうるものを、それらはかれにはらいもどさないのである。
Unless they yield him this profit, therefore, they do not repay what they may very properly be said to have really cost him.

これだけの利益を生まなければ、もどってくる金は、実際にかかったとまちがいなく言えるだけの額にもみたないことになる」というような形に変える大胆さが読者への親切というものだろう――これは別宮氏の評。

 まったく「読者への親切」なんてかけらほどもないのである。だから別宮氏は他にも例をたくさん挙げてコテンパンにやっつけた。
 それで水田訳は駄目だということになって絶版になった? とんでもない。少々お色直しをしただけで大威張りで岩波文庫に引っ越したのである。なぜだ?
 訳者の水田洋氏がものすごく偉いからである。水田氏はアダム・スミス研究では国際的な業績を上げた学者なのだ。英文の著書が何冊もあります。

 だから、この偉い先生の訳が分からんなんてのは、もう「読者の方が悪い」という無茶苦茶なことになったわけだ。
 しかし、いくら何でもそれはひどいというので、国富論の新訳に取り組んでいるのが山岡洋一氏である。
 岩波文庫版の『国富論』について山岡洋一氏は

 おそらく最大の問題は、ごく普通の言葉を使って、ごく普通に書かれている『国富論』を、専門分野の翻訳に使われる一対一対応型の方法で訳したことだろう。スミスは一語を一義に用いてはいないし、一義を一語で表現してもいない。ごく普通の英文でみられるように、一語をいくつもの意味で使い、一義をいくつもの語で言い換えていく方法をとっている。これを一語一義、一義一語の原則を想定して訳していくと、英文和訳の回答のような文章ができあがる。読者には意味が伝わらなくなる。

 と言われる。山岡氏の『国富論』の新訳を考える理由を是非ご覧下さい。
 山岡訳『国富論』は、原稿は完成しているが未刊である。ぜひどこかから出して欲しいものだ。(続く)

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2007年1月 5日 (金)

誤訳迷訳欠陥翻訳(1)

 この前、佐々木直次郎訳『モルグ街の殺人事件』が駄目だと言った(モルグ街/病院横町)。

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 しかしこの翻訳については、ずっと昔に痛烈な批判が出ていた。別宮貞徳教授の有名な「欠陥翻訳時評」が20年以上前に佐々木訳を取り上げ、「自動翻訳者の限界」を指摘している(『翻訳の世界』1984年9月号、『特選 誤訳迷訳欠陥翻訳』ちくま学芸文庫)。

 別宮先生は「自動翻訳機程度の仕事に満足する――いや、それをもって最高とする翻訳者が書くとこんな文章になる。」として例をたくさん挙げている。そのうち三つだけ取り上げます。

・僕はとうに、一人だけの犯人が彼の荷物を岸まで引きずって行ったことを話したときに、彼がボートを利用したらしいということをちょっと言っておいた。

・彼の才能と人好きのする性質とは彼女の注意をひき、また実際に彼は愛されていたようにも思われた。だが彼女の家柄に対する矜持はとうとう彼女に彼を捨てさせて……

・それの隠匿の方針が総監の方針のなかにあるものだったなら――それの発見は全然疑いの余地はなかっただろう、……

 第1例の別宮先生による書き直し

・ぼくは、犯人は一人で荷物を岸まで引きずっていったと前に話したけれど、そのとき犯人はボートを使ったんじゃないかとも言ったはずだ。

 第2例と第3例について、別宮先生曰く。

 第二の例のように、ほんの70字の間に「彼」「彼女」が六回も出てきてはそれこそカレ中毒を起こすし、第三例の「それの隠匿」「それの発見」はのどにつかえる。どこもまちがっちゃいないじゃないか、何が悪い、とおっしゃるか。その考えがまちがっとる、その料簡がよろしくない。たしかに語義はコンピューターみたいに正確だが、ポーは単語の意味一つ一つをまちがえずに解釈してくれというつもりで作品を書いているのではない。
 
 ところが「盲千人目明き千人」とはよく言ったもので、この佐々木直次郎訳を名訳だと思う人がいるのだ。だから青空文庫にも収録されるのだろう。(この差別語を含む段落は別宮先生の文にあらず。ブログ筆者の書いたものです。)
 別宮先生曰く。

 こういうコンピューター訳でも拾う神ありと言うか、この新潮文庫の解説者の曰く、「その正確で、鮮明な彫りの深い訳業によって、長く我々の感謝に値する仕事であった……これは、批評を別にしてのシャルル・ボードレールのポー翻訳に匹敵し、ほかの凡訳に比して坪内逍遙のシェイクスピア移植に該当する、といってもあえて過言ではないであろう」!!

 まったくビックリマークを二つも三つも付けたくなるね。
 しかし、この佐々木訳の場合はまだましな方だ。もっとひどい欠陥翻訳の例を別宮先生はたくさん挙げておられる。この次に少し見てみましょう。

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2006年12月28日 (木)

モルグ街/病院横町(2)

佐々木訳
 我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。そのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので、私が受け持つことにした。

佐々木直次郎 1901-1943。石川県金沢市生まれ。1931年9月より1932年11月にかけて第一書房より刊行された「エドガア・アラン・ポオ小説全集」は、ポーの本格的翻訳として注目された。――青空文庫)

鴎外訳
 己が始めてこの男に逢つたのは、モンマルトル町の小さい本屋の店であつた。偶然己とこの男が同じ珍書を捜してゐたのである。その時心易くなつて、その後度々逢つた。一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。それに己はこの男の博覧に驚いた。又この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引入れられるやうであつた。丁度その頃己は或る目的の為めにパリイに滞留してゐたので、かう云う男と交際するのは、その目的を遂げるのにひどく都合が好いと思つた。その心持を己は打ち明けた。そこでとうとう己がパリイに滞留してゐる間、この男が一しょに住つてくれることになつた。二人の中では己の方が比較的融通が利くので、家賃は己が払ふことにして妙な家を借りた。それはフオオブウル・サン・ジエルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなつて、次第に荒れて行くばかりの家である。何でもこの家に就いては、或る迷信が伝えられているのださうだつたが、我々は別にそれを穿鑿もしなかつた。二人はこの家を借りて、丁度その頃の陰気な二人の心持に適するやうに内部の装飾を施した。

  Our first meeting was at an obscure library in the Rue Montmartre, where the accident of our both being in search of the same very rare and very remarkable volume, brought us into closer communion. We saw each other again and again. I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme. I was astonished, too, at the vast extent of his reading; and, above all, I felt my soul enkindled within me by the wild fervor, and the vivid freshness of his imagination. Seeking in Paris the objects I then sought, I felt that the society of such a man would be to me a treasure beyond price; and this feeling I frankly confided to him. It was at length arranged that we should live together during my stay in the city; and as my worldly circumstances were somewhat less embarrassed than his own, I was permitted to be at the expense of renting, and furnishing in a style which suited the rather fantastic gloom of our common temper, a time-eaten and grotesque mansion, long deserted through superstitions into which we did not inquire, and tottering to its fall in a retired and desolate portion of the Faubourg St. Germain.

(1) 鴎外は一人称に「己」を使っている。これは「おれ」と読ませるが、「俺」とは少し違う。「おのれ」を簡略化した「おれ」で、鴎外が小説の語り手用に使う一人称である。会話は君僕調である。
「おい。ドユパン。あんまり不思議じやないか。正直に言ふが、今の話は実際の口から出ての耳に這入つたのだか、どうだかと疑はずにはゐられないね。」
 一人称に「ぼく」「わたし」「わたくし」「おれ」など、そのほかにもいろいろあって選取り見取りというのは、考えてみればおかしな言語である。しかし鴎外の「己」が定着しなかったのはやむを得ないだろう。私は佐々木氏のように「私」で行くことにしている。「わたし」とでも「わたくし」とでも勝手に読んでください、というつもり。

(2)an obscure library in the Rue Montmartre
・モンマルトル街の名もない図書館
・モンマルトル町の小さい本屋の店

 鴎外訳が正しい。ポーは先進国フランスに憧れていて舞台をパリに設定した。だからフランス語のlibrairie(本屋)をそのままlibraryと英語に直したのだ。「名もない図書館」などは日本語だけで考えてもおかしいはずだ。ちなみに図書館のフランス語はbibliotheque。

(3) I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme.

・フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。

・一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。

 candorという抽象名詞の扱いが問題である。日本語では「率直さで(詳しく)話す」などとは言わない。「率直に話す」なら分るが。鴎外訳が自然な日本語である。「率直さ」という抽象名詞の馬鹿馬鹿しさはどうだ。「正直に」の方なら「正直さ」か? 「優しさ」なんてことを言うやつがいると口をひねってやりたくなるのだけれど、ああいう言い方はもう1930年代に胚胎していたらしい。

(4) I felt my soul enkindled within me by the wild fervor, and the vivid freshness of his imagination.

・彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。

・この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引入れられるやうであつた。

「はげしさ」と「清新さ」という抽象名詞を主語にした文は、自分が翻訳するのならば絶対に書きたくないね。(小林秀雄が「美しい花はあるが、花の美しさというものはない」なんて滅茶苦茶なことを言ったのも、たぶん「美しさ」という抽象名詞にインチキくさいものを感じたからだろう。)ではどうすればよいというと、すぐに名案は浮ばない。鴎外訳ではいかにも用語が古い。天稟(てんりん)というのはどういう意味だろう? 己の「霊」も現代の用法からは離れているようだ。

(5)I was permitted to be at the expense of renting,…………Faubourg St. Germain.

 佐々木訳で 長い形容詞相当語句名詞

どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな

二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用

 を鴎外訳では短いセンテンスの積重ねで処理している。

 関係代名詞の構文をなるべく「後からひっくり返って」訳さないというのは、僕なんか予備校教師のときから心掛けていたのだけれど。生徒が自分の訳文をチェックできるように「ひっくり返り訳」も一応は読上げるけれど、それだけでは辞書と首っ引きでようやく読めたみたいでかっこ悪い。「こなれた訳」もできるぞ、諸君とは次元が違うのだ、ということを見せておかないと具合が悪いのである。

 ポーをはじめて読んだのはもう何十年も前のことだから、モルグ街も黒猫もアッシャー家も新潮文庫の佐々木直次郎訳だった。当時は翻訳調がどうだとか、誤訳があるかも知れないとか、全く気にならなかった。比較の対象がないのだから仕方がない。
 自分で英語を読むようになると贅沢になってきたのだろうか。もう佐々木訳ではとうてい読めたものではない。
 新潮文庫もいくら何でももう新訳が出ているだろう。と思ってアマゾンで調べてみると、驚いたね。『黒猫・黄金虫』『モルグ街』『モルグ街(新版?)』と新潮文庫の佐々木直次郎訳が3冊も「在庫あり」だ。モルグ街はカスタマーレビューで「翻訳も非常に良いと思います」だって。信じられない。

 青空文庫でも佐々木直次郎はずいぶん優遇されている。10作品が公開中で4作品が作業中である。ポーのものはほとんど青空文庫で読める。
 利用させてもらっておいて文句を言うのも悪いけれど、何だか誤解があるみたいだ。佐々木直次郎氏の日本語はたしかにやや古めかしいけれど、古いからといって格調が高いわけではない。後世に残す価値はありません。現代の雑駁な日本語の走りである。
 英語もそんなに読めていないようだ。試験の答案だったら減点するわけにも行かないけれどというレベルである。小心翼々と英語と日本語を一々対応させているから、いつか見た三上於兎吉訳『自転車嬢の危難』のような大誤訳はない。だから結構重宝で今でも売れているのだろう。でも本当に読めていたら、こんな日本語は書けないはずだ。

 むかし日本語しか読めなかった子供のころは、英文学に限らず、物凄い翻訳の日本語を平気で読んだものだ。『カラマーゾフの兄弟』も『罪と罰』もたしか米川正夫訳で読んだはずだ。今度読み直すときは江川卓訳にするか。でも江川さんってすごいね。どうしたら野球とロシア文学の両方であんなに大活躍できるのだろうか?
 

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2006年12月27日 (水)

モルグ街/病院横町(1)

モルグ街の殺人事件     佐々木直次郎
 
一八――年の春から夏にかけてパリに住んでいたとき、私はC・オーギュスト・デュパン氏という人と知合いになった。この若い紳士は良家の――実際に名家の出であったがいろいろ不運な出来事のために貧乏になり、そのために気力もくじけて、世間に出て活動したり、財産を挽回しようとする元気もなくしてしまった。それでも、債権者たちの好意で、親ゆずりの財産の残りがまだ少しあったので、それから上がる収入でひどい節約をしながらどうかこうか生活の必需品を手に入れ、余分なもののことなど思いもしなかった。唯一の贅沢といえは、実に書物だけで、これはパリでたやすく手に入った。
青空文庫より 底本の親本は第一書房「エドガア・アラン・ポオ小説全集」1931-1933)

病院横町の殺人犯       森林太郎

 千八百○十○年の春から夏に掛けてパリイに滞留してゐた時、己はオオギユスト・ドユパンと云う人と知合になつた。まだ年の若いこの男は良家の子である。その家柄は貴族と云つても好い程である。然るに度々不運な目に逢つて、ひどく貧乏になつた。その為に意志が全く挫けてしまつて、自分で努力して生計の恢復を謀らうともしなくなつた。幸に債権者共が好意で父の遺産の一部を残して置いてくれたので、この男はその利息でけちな暮しをしてゐる。贅沢と云つては書物を買つて読む位のものである。この位の贅沢をするのはパリイではむづかしくはない。
(初出は1913年(大正2年)6月1日「新小説」誌 1915年『諸国物語』所収)

  Residing in Paris during the spring and part of the summer of 18--, I there became acquainted with a Monsieur C. Auguste Dupin. This young gentleman was of an excellent --indeed of an illustrious family, but, by a variety of untoward events, had been reduced to such poverty that the energy of his character succumbed beneath it, and he ceased to bestir himself in the world, or to care for the retrieval of his fortunes. By courtesy of his creditors, there still remained in his possession a small remnant of his patrimony; and, upon the income arising from this, he managed, by means of a rigorous economy, to procure the necessaries of life, without troubling himself about its superfluities. Books, indeed, were his sole luxuries, and in Paris these are easily obtained.
(Edgar Allan Poe, 1841 原文全文)

 森鴎外訳はドイツ語版Der Mord in der Spitalgasseからの重訳。冒頭部分に省略あり。

此小説の首にはサア・トオマス・ブラウンの語を「モツトオ」にして書いてある。それから分析的精神作用と云ふものに就いて、議論らしい事が大ぶ書いてある。それを訳者は除けてしまつた。原文で六ペエジ以上もある論文のやうな文章を、新小説の読者に読ませたら、途中で驚いて跡を読まずに止めるだらうと思つたからである。……

Face

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2006年12月 9日 (土)

英会話?

……ですから、私は道で外国人に会ったら、絶対に英語を使っちゃいけないと言うんです。まず、話す必要があったら日本語で話しなさい。すると、ほとんどの外国人は日本語ができますよ。日本語ができないかわいそうな外国人がいたら、「ホワッツ・ア・ピティー。ユー・ドーント・スピーク・ジャパニーズ」と、こう言って英語を使えばいいんだ。「キャン・アイ・ヘルプ・ユー? メイ・アイ何とか?」っていくと、ただで英会話を習われちゃかなわんと言う外国人が実は凄く多いんです。うるさくてしょうがないとこぼす人もいます。フランス人、ロシア人は、「アー・ユー・アメリカン?」と言われるのが最も不愉快だとか。日本の先生が考えているほど、外国人は英語で話されることを期待も、歓迎もしていないのです。
……でも日本でオフィスを構えて、うちを借りて住んでいる人で、日本語がまったくできないような人は、やっぱりそれは恥ずかしいことだと思わせなきゃいけない。ですから、私は毎日それを実行しています。近所の外国人には日本語で話して、できない人は、「オー、オワッツ・ア・ピティー。ユー・ドーント・スピーク・ジャパニーズ。ハウ・ロング・ハブ・ユー・ビーン・ヒアー?」とか何とかいうと、その人もうなだれる。そこでもってはじめて、ゆっくりと英語でいろいろ助けたり、お説教したりします。
(鈴木孝夫『言葉のちから』文春文庫p.p.182-183)

『閉ざされた言語・日本語の世界』や『ことばと文化』の鈴木孝夫先生も、講演ではどうも性急で過激なレトリックを使うなあ、とびっくりする。しかし論旨には100%賛成だ。
 あの「駅前英会話」というのはほんとにアホですね。駅前がよくないというのじゃないよ。郊外の静かなところでも駄目なものは駄目だ。
 小学生に英語を教えるなんて、日本人を馬鹿にしようというCIAの陰謀だ。中日が日本シリーズをとれなかったのもCIAの陰謀だ。
 Ciaseal_2
  もちろん鈴木先生も「小学校への英語教育の導入は絶対に反対です。」と言われる。それどころか、そもそも「学校教育に英語は不要」と書いておられる。

 私自身は英語が商売道具だから、読み書きはまず不自由しないし、読んだ英語の量、書いた英語の量は平均的なアメリカ人よりはるかに多いと思う。「平均的なアメリカ人」? 平均的な日本人がどれくらい日本語を読み書きするかは、だいたい想像できるはずだ。それより量的にだいぶ少ないのが、「平均的なアメリカ人の英語の読み書き量」でしょう。

 いわゆる英会話になると、田舎に住んでいるからほとんど機会がない。
 外国人に道をたずねられたことは、東京にいたころに何度かある。
"Where is the ward gymnasium?"
 などと聞いてくるから、
「区立体育館か?」
と日本語で聞き返すと頷く。
「この道をまっすぐ行く。100メートル。One hundred meters. 左手に見えるよ」などと手振りを入れて言うと分かるようだ。だいたい、道案内なんて日本語でも苦手である。英語の構文を考えるなんてアホらしいことができるか。
 一度、東大のそばを通りかかって生協の書籍部に入ったら、アメリカ人らしいおっさんに話しかけられたことがある。英語の本を立ち読みしているのを見てこちらをつかまえたので、逃げられない。
「東大のマークの入ったsweaterを土産に買って帰りたいのだが、手伝ってくれますか」と奇抜なことを言う。「ははあ、いわゆるトレーナーのことを英語ではセーターというのだな」とすぐ分かった。
「うーん、そういうものがありますかね。たぶんないと思うけど、まあ見に行ってみましょう」というのは、英語で言ったのである。普通の売り場は書籍部とはだいぶ離れたところにあるので案内した。店員にきいてみると、やはりないという。
 この外人は「あなたは英語が大変上手ですね」と言ったが、これはほめられたことにはならない。ほんとの英語達人なら、そういうことは言われない。

 しかし、東大は銀杏のマークの入ったトレーナーを作るべきだと思うね。きっと売れますよ。慶應は東大より創立が古くて1858年である。立派なマークもある。やはりトレーナーを作らなくちゃ。
Side_logo  
 早稲田は大隈講堂か、いっそ大隈重信の銅像をそのままマークにすればよいでしょう。

Baba13

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2006年12月 8日 (金)

The name is Bond.

Kleinman_gunbarrel

 007ジェームズ・ボンドは、
The name is Bond, James Bond.
と名乗りますね。
 なぜMy name is Bond.ではなくて、The name is Bond.なのだろう?
 後者でなくては駄目だということは、私にも分かる。しかし、何故そうなのかを、定冠詞theの用法という観点から、誰か分かりやすく説明してくれませんかね? 英文法としてはどうなるか、を知りたい。

 我々が英語をしゃべるとして、
The name is Yamada, Taro Yamada.
は、よほど特別の場合でないと、やはり変ではないか。ふつうにMy name is Yamada.と言う方がよいように思う。 

 接着剤なら

The name is Bond, not Cemedine.

Bondw

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