2008年7月17日 (木)

環境にやさしい馬鹿

 くたばれ福田康夫。くたばれ環境省。もう少しして盛夏になると、東京都心で環境大臣が音頭をとって焼け石に水をまく行事をやるからね。嘲笑しよう。

 京都議定書では日本はEUと米国に嵌められて、何も分からないまま大きな負担を押しつけられたのだそうだ。
「議長国日本は、終始一貫、蚊帳の外」だったのだという。
『諸君!』8月号の櫻井よしこ氏『まやかしの地球温暖化対策に終止符を』が引用する佐和隆光氏の言葉
「会議が二週目に入ってまもなく、毎夜のごとく開かれるパーティーの会場で、ある外務官僚が私のところにやってきて『排出権取引って何ですか』と尋ねた。私が簡単な説明をすると、その官僚は『どうやらそういうものが導入されるらしいのです』と答えた。」
 
 びっくりでしょう。どうすればいいのだ? 
 ゴミの分別に協力したり、買い物に行くのにエコバッグを使ったりしていては駄目だ、ということだけは分かるはずだ。とりあえず、次のような文献を読め。
   反リサイクル党宣言 参照。
 京都議定書から脱退を宣言するには、どうすればよろしいか?
  断固として脱退するのがベストであるが、日本の政治家にそういう決断は無理かも知れない。それならば、「排出権取引」に難癖をつけて(なぜ中国に得をさせなければならないのか、不公平だ云々)実質的にサボる方法はないのか?

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2008年7月 9日 (水)

サミットの成果?

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 2050年までに温室効果ガス排出を半減する? どう考えても実現不可能だ。福田ビジョン? 福田さんが2050年に生きているはずがない。真面目に考えなかったのだ。官僚に書かせた作文を読んだだけでしょう。福田にビジョンなんて、「比丘尼に魔羅出せ」というようなものだ。
 そもそもそんな目標を掲げる意味があるのか? 地球温暖化の原因は太陽の黒点の活動で温室効果ガスではないという説があるじゃないか。
 ブッシュががんばってくれたおかげで「共有する」という曖昧なかたちになった。インドや中国は当然のことながら反対するし、これで当分は具体的に日本の国益を損なう措置はとられないで済むのではないか。
 福田をできるだけ早く辞めさせ、後任の人がこの問題は何となくうやむやにしてしまう――という手を使う智恵が日本人に残っていれば、国益を損なわないで済むのではないか。

 京都議定書では日本はEUと米国に嵌められて、何も分からないまま大きな負担を押しつけられたのだそうだ。
「議長国日本は、終始一貫、蚊帳の外」だったのだという。
『諸君!』8月号の櫻井よしこ氏『まやかしの地球温暖化対策に終止符を』が引用する佐和隆光氏の言葉
「会議が二週目に入ってまもなく、毎夜のごとく開かれるパーティーの会場で、ある外務官僚が私のところにやってきて『排出権取引って何ですか』と尋ねた。私が簡単な説明をすると、その官僚は『どうやらそういうものが導入されるらしいのです』と答えた。」
 
 びっくりでしょう。どうすればいいのだ? 
 ゴミの分別に協力したり、買い物に行くのにエコバッグを使ったりしていては駄目だ、ということだけは分かるはずだ。

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2008年7月 6日 (日)

日本を見捨てない?

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 ブッシュ大統領は、「拉致で日本を見捨てない」と言ったのだそうだ。本当だろうか? 本当でしょうね。NHKのニュースでそう言っていたから。
 どうも恥ずかしいことですね。ブッシュさんは見捨てない云々を英語で言ったはずだ。
 We won't desert Japan.
 と言ったのだろうか?
 福田氏はそんなことを目の前で言われて平気だったのか?

「別に構いませんよ。北朝鮮のことはアメリカの好きなようにしていただければよろしい。私どもは私どもでやりますから。平壌へ特殊部隊を送り込める体制を早急に整えます。核武装もすぐに着手します」と言うのが独立国の首相ならば当たり前だと思うけれど。

 ところが実際には、福田氏は横田さんの本の英語版をブッシュ氏にプレゼントしたのだって。どういう神経かね。

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2008年7月 1日 (火)

非暴力直接行動(8)

 第二次大戦後の植民地の独立はどのようにもたらされたか?
 ベトナム。フランスとしては、戦後にベトナムを独立させるつもりは毛頭なかった。1945年9月、ホー・チ・ミンたちはハノイでベトナム民主共和国の成立を宣言したが、フランスは軍隊を送った。1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍がベトミン軍に降伏しジュネーブ協定によって撤退するまで第一次インドシナ戦争が続いた。
 インドネシア。日本の敗戦後、オランダは独立を認めず軍隊を送った。1949年まで続いた独立戦争には、残留日本兵2000名も参加した。
 マレーシアとシンガポール。マレー半島は戦略的に重要な領土なので英国は簡単に手放そうとはしなかった。マレー系と中国系の対立もあり、マラヤ連邦として完全に独立したのは1957年である。(シンガポールは1965年に分離独立)
 ビルマ。1942年、アウンサン(アウンサンスーチー女史の父親)らが日本軍の後押しで英軍を駆逐、翌年ビルマ国建国。1945年3月、アウンサンは英国側に寝返ったが、戦後英国は独立を許さず、再び英領となった。1948年、ビルマ連邦として独立。
 住民が非暴力の抵抗運動を行い、支配者が植民地主義の悪を反省して立ち去る――というシナリオが実現していたらどんなに素晴らしいことか。しかし…

 アジア諸国の独立については
・インドとパキスタンを除き、日本軍が支配者を駆逐した。
・日本の敗戦後、現地人が独立戦争を戦った。
・フランスやオランダは負けて追い出された。イギリスは必ずしもそうではない。植民地保有のコストが割に合わなくなってきたのだろう。「インドはもう十分元を取ったし、ビルマのようなつまらない所を持ち続けても。しかし、マレー半島はまだ手放せないぞ」
・インドでガンジーの非暴力主義が独立を「四半世紀以上遅らせた」かどうか。しかし仮にガンジーの指導が貫徹していたらどうか。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)の路線がなかったとしたらどうか?

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 1943年11月の大東亜会議出席者。左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、王兆銘(中国)、東條英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)。

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2008年6月30日 (月)

非暴力直接行動(7)

 ガンジーは1948年1月30日に暗殺された。
 インドが独立したのは前年の1947年8月15日であった。パキスタンとの分離独立であったため、ガンジーは独立式典にも参加しなかった。初代首相は国民会議派におけるガンジーの盟友ジャワハルラール・ネルー(1889-1964)であった。

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 インドが独立を勝ち取ることができたのは、ガンジーの非暴力直接行動が功を奏したからだろうか?
 英国の政治学者バーナード・グリッグは、「ガンジーの非暴力主義がインドの政治的解放を四半世紀以上遅らせたことはほとんど確実であろう」という。(ガンディーと使徒たちの書評
 別宮暖朗氏の『軍事学入門』

 日本の敗戦から2年後、イギリスはインドの独立を承認しました。この独立も、イギリスが財政上つりあわないと判断したことが大きかったと思われます。イギリスは1931年に成立した労働党のマクドナルド挙国一致内閣のころから、インドをカナダ、アイルランド、オーストラリアなどと同様の地位の自治領として独立させることを考えていました。
 その理由は、1919年に起きたアムリツァールの暴動などにより治安維持コストが予測不可能になったことだと思われます。……
 ……植民地の独立とは……恒常的ハラスメント(宗主国から派遣された官民に脅威を与えること)により、駐留経費が割に合わなくなり、宗主国が独立を許さざるを得なくなったものが大半です。ハラスメントとは言論やオープンな武力行使ではなく、「テロ」の形をとることが多いものです。

 ガンジーの非暴力運動がイギリスに対して「道徳的衝撃」を与えたことは確かである。しかし、これは相手がイギリスだったからで、ナチス・ドイツやスターリンのソ連ならば、ガンジーは問答無用で殺されていただろう。
 インドの独立をもたらしたものは、「非暴力」ではない。端的に言えば「テロ」であった――というのだが。

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2008年6月27日 (金)

非暴力直接行動(6)

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 1930年3月12日、ガンジーは「塩専売法」を標的とした非暴力直接行動を開始した。彼はグジャラート州アーメダーバードの近くのサーバルマーティ・アーシュラムから200マイル南のダンディーの海岸まで、数十人の弟子と新聞記者を引き連れて「塩の行進」を開始した。海岸に着くと鍋を持って海に入り、天日で少量の塩を作って法を犯し逮捕を待った。こうして違法な塩を作る運動はインド全土に広がった。ガンジーが率いた最大の抵抗運動であった。数十万人が入獄した。
 UPI通信のアメリカ人記者ウェブ・ミラーは、5月21日、ボンベイの150マイル北にあるダラサナ製塩所へのデモ行進で起きた事件を次のように描写している。

 命令が発せられると、数十人の現地人警官が前進してくるデモ隊に襲いかかり、彼らの頭上に鉄を巻いたラーティーの雨を降らせた。誰一人、殴打を避けようと手を挙げる者はなかった。彼らはボーリングのピンのように倒れていった。私の立っているところからも、無防備の頭蓋骨を警棒が叩く怖しい音が聞こえた。後列の者は、警棒が振り下ろされるたびに自分が殴られたかのようにうめいて息を吸い込んだ。……彼らはひるまず、顔を上げ、音楽にも声援にも励まされず、重傷や死を避ける見込みもなく、ひたすら前進して行った。警官隊が襲いかかり、組織的機械的に第二列を打ち倒した。格闘はなかった。デモ隊は静かに前進して打ち倒された。

 藤井日達師はガンジーに南無妙法蓮華経を教えたのであるが、非暴力直接行動の方法はガンジーから学んだ。1956年の砂川と1930年のインドでは同じことが起きていた。

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2008年6月26日 (木)

非暴力直接行動(5)

 ベ平連の事務局長であった吉川勇一氏の「非暴力と非合法」(1998年8月1日)から引用する。全文はhttp://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N49/N49-11.html

一九五六年の砂川闘争
 いちばん有名なのは、一九五六年秋、東京都・砂川基地拡張阻止の運動の際、日本山妙法寺の僧侶たちがとった行動だろう。
 基地拡張のための強制測量を阻止しようとして、東京地区労の労働組合、全学連、平和団体などがスクラムを組む前で、黄色い衣を着け、団扇太鼓をたたく僧侶や信者たちが座り込んで読経を続けていた。退去を要求する何度かの警告の後、警察機動隊が排除にかかり、座り込む僧侶たちの頭の上に容赦なく棍棒を振り下ろした。この事件は当時、平和委員会のデモに加わってスクラムを組んでいた私の目の前で起こった。
 棍棒で頭を割られ、血が噴出し、倒れるものが次々と出ても、僧侶たちは動ぜず、ひたすら読経を続けた。機動隊の暴行によるその場面は、まさに凄惨と言うにふさわしいものだったが、私は、読経を止めぬ妙法寺の僧侶たちの行動に激しく心を打たれた。そのうち、警官のほうもそれ以上の殴打を止め、一人ずつ、引き抜いて連行してゆく方針に変えた。ついで、私たちのデモも引き抜かれ、二列に並んだ警官の列の間を一人一人、突き飛ばされ、殴られながら、離れた場所へつれて行かれた。だが、多くの参加者は、そこからまた遠回りの道を戻って再びピケット・ラインの後部についたのだった。

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 日本山妙法寺は、藤井日達(1885-1985)が創立した日蓮宗の新宗教団体である。
 現在も世界各地で団扇太鼓をたたいて積極的な平和運動を展開している。成田空港(1978年開港)の建設反対運動にも関わり、4000メートル滑走路予定地に平和塔を建設した。この平和塔の移転に際しては、日本山妙法寺と運輸大臣等の間に「空港の軍事利用を行わない」という取極書がかわされた。

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 日蓮宗系の別の団体が「ガンジー、キング、イケダ」などととなえているが、あれは冗談である。本気にしてはいけません。
 ガンジーと関わりがあったのは藤井日達師である。日達師は1933年にインドでガンジーに会っている。当時63歳のガンジーと48歳の藤井日達師は意気投合したらしく、日達師はガンジーのアーシュラム(修業所)に滞在した。日達師はガンジーたちに「南無妙法蓮華経」を教えた。
 ガンジーとその晩年をともにした弟子によると、1930年代半ばから40年代半ばまで、アーシュラムでは毎朝4時20分に祈りの集会が始まった。まず、ひとりが小さな(団扇)太鼓をたたいて、日本語で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」ととなえるのだった。その後で2分間瞑想してから、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教などの祈りをとなえ聖歌をうたった。
「南無妙法蓮華経」がお題目であることはインド人には分からなかったと見えて、この弟子は「日本の僧侶が教えてくれた仏教のお経」と書いている。(続く)

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2008年6月25日 (水)

非暴力直接行動(4)

 非暴力直接行動について。
 しかし、議論なんてアホらしくなってきました。
 運送会社の倉庫に忍び込んで盗み出した鯨肉を堂々と見せびらかして、「横領を告発する」だって。

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 盗人猛々しい。三分の理もない。
 そんなことが日本で通用すると思っているのか? どこの国でだって通用しないよ。
 自分たちをマハトマ・ガンジーになぞらえるとは図々しい奴等だ。
 もちろん月とスッポンなので、まともに真面目に相手にしてはいけません。

 しかし、せっかくガンジーとの比較をやりかけたのだから、ちょっと極端な場合を考えてみよう。
 ガンジーはヒンドゥー教徒として「牛は神聖だ」と信じていた。もちろん牛肉は食べなかった。

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 南アフリカの支配者の白人はキリスト教徒だから、かわいそうにも牛の神聖性を知らない。ビフテキなんかを食べて罪を犯している。彼らを助けてあげなければならない。ガンジーは牧場、精肉所、レストランなどに対して非暴力直接行動を起こした――としたら、どうなっただろうか? 答えは明らかでしょう。

 ガンジーは1896年に殺されかけている。27歳のときだった。南アフリカに来て3年で、まだ非暴力直接行動は始めていない。在留インド人の人間としての尊厳を守るための言論活動をしていただけだ。
 一時帰国していたインドから戻ってダーバンの港に上陸したガンジーを白人の若者たちが見つけた。
「お前は新聞に載っていた男だな」と誰かが叫んでガンジーを後ろから蹴った。男たちは石や煉瓦のかけらをぶつけ、ガンジーのターバンを引きむしってパンチを浴びせはじめた。幸いにもダーバンの警察署長夫人が通りかかり、ガンジーを助けに駆け寄った。彼女はガンジーのそばに立って、パラソルをひろげて彼のむき出しの頭を守った。暴徒もさすがに警察署長夫人には手を出しかねてたじろいでいるうちに、警官隊が駆けつけ、ガンジーを知人の家に連れて行った。
 しかし暴徒は後をつけてきて家を取り囲み、焼き討ちにしてやると脅かした。警察署長が駆けつけて戸口に立った。彼は暴徒をなだめようと、「リンチにかけろ」という歌を一緒になって歌った。

  リンチにかけろ、ガンジーを
  酸っぱいリンゴの木に吊せ

 その間にガンジーの傷に手早く包帯が巻かれ、巡査たちが裏口から連れ出した。彼らは塀を乗り越え柵の間をすり抜け狭い裏道を通って、ようやく警察署に辿り着いた。署長がガンジーは逃げてしまったと告げ、群衆は解散した。

 危ないところだったのだ。この警察署長夫人のような人が出てくるのが英国文明の偉いところなのだが、それはガンジーのメッセージが届いていたからだ。「聖牛を守れ!」では駄目です。
 現代でも同じだ。アメリカやイギリスのマクドナルドの前でインド人が

  The cow is sacred. Beef-eating is a deadly sin.

というプラカードを掲げて立ったとしたらどうか。すぐにぶち殺されます。
 グリーンピース・ジャパンの諸君、日本人がおとなしいことに感謝したまえ。

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2008年6月24日 (火)

非暴力直接行動(3)

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 グリーンピース・ジャパンの諸君はマハトマ・ガンジーを引き合いに出すのだが?

 グリーンピースのやっていることは「非暴力直接行動」であるか?
 要件はまず
(1) 暴力を振るわない。
(2) 直接行動を行う。
 の2点だろう。当たり前だ。
 では「直接行動」とは何か? ガンジーのケースを例に考えてみよう。
 直接行動は
① 違法な行動である。ガンジーの場合は、移民制限法をはじめとする法律に違反することは明らかであった。
② したがって、刑罰を受けるのは当然である。
③ 違法であってもよいが、不道徳な行動であってはならない。

 ③を忘れてはならない。殺人や傷害は暴力である。盗みは「非暴力」ではあるが、不道徳な行動である。
 グリーンピース・ジャパンの諸君が西濃運輸の倉庫から鯨肉を盗み出したのは違法かつ不道徳な行動であった。「違法性が阻却される」というような理屈を述べている人がいるようだが、その前に「不道徳かどうか」を考えて欲しい。

 ①の違法性について。直接行動は大部分の場合に違法であり、例外的に「違法性が阻却される」ことがあるだけだ。
 たとえば、営業中の店の前に集団で立ちはだかって客が入るのを邪魔すれば、威力業務妨害で逮捕される。
 ところが、ストライキ中の組合員がピケを張るはどうだろう。これは正当な争議行為として認められるはずだ。この場合に威力業務妨害の違法性が阻却されるのは、法が労働運動に公益性を認めているからだろう。
 違法な(しかし不道徳ではない)直接行動に訴える者は、刑罰を受けることを覚悟するのである。
 グリーンピースが操業中の捕鯨船を妨害する行為はどうか? 南極海まで警察が逮捕に出向くわけには行かないだけだ。

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 写真はタンカーと母船の間に入り込んだグリーンピースの高速ゴムボート。詳しくはhttp://www.icrwhale.org/080414ReleasebougaiJp.htm

 直接行動については、さらに考えるべきことがある。

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2008年6月23日 (月)

非暴力直接行動(2)

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 1913年3月、キリスト教の儀式によらぬ結婚は無効だという理由でインド人労働者の妻の南アフリカ入国を認めないとする判決が下された。同時に「連邦移民制限法」が制定され、インド人の南アフリカ移住は実質的に禁止されることになった。
 同年9月、ガンジーは非暴力直接行動を開始した。彼は
「南アフリカ連邦中の監獄にできるだけ多くのインド人を送り込もうと決心した。これによって一連の反インド人法の非道徳性を浮き彫りにし、南アフリカの社会に道徳的変化をもたらすことができるかも知れない。」

 ガンジーの妻を含む同志16人が移住許可証なしでナタールからトランスヴァールへ州境を越え、逮捕を誘った。政府は挑発に乗って全員を逮捕し投獄した。
 数日後さらに11人が同じように逮捕されるべく、今度はトランスヴァールからナタールへ許可証を持たずに州境を越えた。しかし政府は今度は逮捕を控えたので、ガンジーの計画通り、11人はニューキャッスルまで36マイルを行進した。ここでは5000人のインド人年季労働者がヨーロッパ人所有の炭坑で働いていた。11人は炭坑夫を説得して、人頭税とサール判決に抗議するストライキに入らせた。……
 ガンジーは11月まで数千人のインド人を率いて抗議行動を続けた。
 ガンジーと同志たちは政府に対して
「我々はこれから移民制限法に違反する行為を行うから逮捕していただきたい」と通告した。しかし、政府は挑発に乗らず、ガンジーと同志たち全員が「国法陛下のホテルの客」となることはできなかった。
 ガンジーはこの間に三度逮捕された。彼は懲役6ヶ月または罰金60ポンドを宣告され、懲役を選んだ。
 ガンジーたちの運動は英国とインドの新聞に大きく報じられた。
 1914年1月、ヨーロッパ人の鉄道労働者が南アフリカ全土でストライキに入り、ボータ政権は存亡の危機に立たされた。ガンジーはただちに抗議行動を取りやめた。
「我々は敵の弱みにはつけ込まない」という理由だった。ガンジーの自伝によれば

 スマッツ将軍の秘書官の一人が苦笑して言った。「私は諸君を好まないし、助けてやりたいとも思わない。しかしどうすればよいのか。どうして諸君に手を挙げられるだろうか。諸君が英国人のストライキのように暴力を振るえば、こちらにもやりようがある。すぐに始末をつけてやる。ところが諸君は敵を傷つけようとしない。もっぱら我が身に苦痛を引き受けることで勝利を求めて、自ら課した礼儀と騎士道の限界を踏み越えない。こちらは手の出しようがなくて困ってしまうのだ」

 一九一四年六月、政府の代表でもなく官職もないガンジーは、スマッツ将軍と手紙をやりとりし会談を重ねて、あたかも対等の立場であるかのように交渉し協定を結んだ。ヒンドゥー教、イスラム教、パールシー教の伝統儀式による結婚はすべて有効と認められ、人頭税は廃止され、未納分の徴収は中止された。しかし連邦移住制限法は、政府側の形式的な譲歩として毎年六名の教育あるインド人の入国が認められたほかは、依然有効とされた。協定は妥協の産物だったが、ガンジーはこれを運動の勝利と考えた。
 この年、ガンジーは21年間を過ごした南アフリカを去った。以後はインドで非暴力直接行動を続けることになる。

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2008年6月22日 (日)

非暴力直接行動?(1)

 グリーンピースは非暴力直接行動をしているのだそうだ。

グリーンピースの非暴力直接行動は、たとえば有害な製品をつくる工場前に労働者や市民が座り込んだり、原生林の樹木に抱きついてチェーンソーによる伐採から守ろうとしたり、銃撃や砲撃のターゲットになった人や建物に「人間の盾」として身を寄せることで攻撃を思いとどまらせたりするのと同様、民主社会の機能不全を補う意図で行われる。自他の生命・身体を傷つけるやり方はしない。グリーンピースが、ガンジーやキング牧師など多くの先駆者から学んだこの非暴力原則を踏み外すことは、絶対にない。
(グリーンピース・ジャパン事務局長 星川淳氏 

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全文はhttp://www.greenpeace.or.jp/info/staff/jun.hoshikawa/monthlist_html?year=2008&month=1
 
 たしかにシーシェパードとは違って、acts of terrorismに手を染めたという証拠はないようだ。
 しかし「ガンジーやキング牧師など多くの先駆者から学んだ」などと自称する資格があるか? ない。断じてない。

 マハトマ・ガンジー(1869-1948)は、英国で弁護士資格を取り、1893年南アフリカに渡ったが、人種差別に衝撃を受け、在留インド人の権利を守る運動に取り組むようになった。

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(南アフリカの同志たちとガンジー)

 1908年1月、ガンジーはアジア人登録法による指紋捺印と登録を拒む運動を指導して同志たちとともに禁固2ヶ月の刑を受けた。最初の下獄であった。
 インド人問題担当相のスマッツ将軍は、ガンジーに対して「インド人が自発的に登録に応じるならば反対運動参加者を釈放し法律も廃止する」と約束した。ガンジーはためらったが妥協に同意し、二週間で釈放された。
 ところがスマッツ将軍は、やはりアジア人登録法は廃止しない、と言いだした。インド人が最後の一人まで自発的に登録したのではないから、インド人側が約束を破ったのだ、という口実だった。
 ガンジーと自発的に登録していた二千人以上の支持者は直ちにヨハネスバーグのハミダ・モスクの庭に集まり、自分たちの登録証を燃やした。ロンドンの『デイリー・メール』紙の通信員は、この事件をアメリカ独立戦争の契機となったボストン茶会事件(1773年)に喩えた。ガンジーが政治の問題で象徴的な行動を起こしたのはこれが最初だった。
 以後40年にわたってガンジーは非暴力直接行動によって戦い続けることになる。(続く)

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2008年6月21日 (土)

グリーンピース・ジャパンの諸君

 平凡社『世界大百科事典』より。これくらいは常識だよ。ひょっとして知らないでアメリカの手先になって、泥棒したのかな?

[アメリカ式捕鯨] アメリカではニューイングランド地方において,1712年マッコウクジラをおもな対象としたアメリカ式捕鯨が興った。マッコウクジラから生産される鯨駐(げいろう)は,1750年ころアメリカのろうそく工業を飛躍的に発展させ,やがてアメリカの重要な輸出品目となった。その後,ニューイングランド沿岸へのマッコウクジラの来遊量は減少してきた。そこで,マッコウクジラ漁場は西インド諸島から遠洋へと移っていった。1775年にはアメリカの独立戦争が起こったため,捕鯨業は大部分が一時中断したが,戦争終結後再び復興した。その後,マッコウクジラの漁場は,大西洋から太平洋へと拡大し,アメリカ式捕鯨が確立された。そのアメリカ式捕鯨の操業形態は,約400トンの帆船に4隻の捕鯨艇を積載しており,約1ヵ年の航海準備をして出港した。クジラを発見すると,まず捕鯨艇を下ろしてクジラに接近する。捕鯨艇には艇長の士官が最後部で操舵(そうだ)を担当し,銛手オールと呼ばれる銛手が先頭に,次いで舳手,船央漕手,三番漕手および艇尾漕手の6名が乗り組んでいる。漁具は,手槍(てやり),錨爪銛,トグル銛,ボートのみ(鑿),グリーンナー銃およびボンブランス銃から構成されていた。
 クジラから4~5mの距離に接近すると,手槍や銛を投げ,続いて銃で射撃する方法を用いた。 Harpooner
捕獲後は,クジラを捕鯨船の船側に係留した状態で解剖した。捕鯨船の乗組員は平均すると船長1名,士官4名,操舵手4名,大工1名,桶工(鯨油は伍詰にして貯蔵された)1名,司厨(しちゆう)員1名,給仕1名および水夫23名,合計36名程度であった。
 アメリカ式捕鯨は,太平洋へ進出するようになって盛況を続け,1846年の最盛期には,アメリカ船736隻,その他の国230隻の捕鯨船が操業し,1年間に1万頭以上のマッコウクジラを捕獲した。とくにアメリカでは46年当時,捕鯨産業に関連した人口は,7万人以上といわれ,漁場はインド洋を含む全世界に拡大した。しかし,世界の海で重ねてきた乱獲は漁場の荒廃をきたした。そのマッコウクジラ資源の減少が,アメリカ式捕鯨を壊滅へと導いた要因とも考えられているが,それにも増して石油の発見はアメリカ式捕鯨史上見のがすことはできない。すなわち,59年にペンシルベニア州で発見された石油は,灯油としてそれまでの鯨油に代わって登場した。そのため,鯨油の需要は急速に激減することになるが,61年勃発した南北戦争も捕鯨業の衰退を加速した。南北戦争終結後アメリカ式捕鯨は再び復興したが,その基地はそれまでのアメリカ大陸の大西洋岸から太平洋岸へと移った。当時の主たる生産品は,鯨油が石油に淘汰されたため,クジラひげであったが,それも鋼の開発によりやがて需要が減少した。さらに,1848年カリフォルニアのサクラメントで発見された大砂金層はゴールドラッシュを招き,大量の労働者を吸収したため,捕鯨業は決定的な打撃を受けた。そして,アメリカ式捕鯨も98年にはほとんど消滅した。

 メルビルの『白鯨』(1851年)も、小説を読めとは言わないけれど、DVDで見られるからね。

 ペリーの来航も太平洋での捕鯨の基地が欲しかったのが大きな理由の一つだというのは知っていますね。

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 ところで、鯨肉というと「給食で食べたのがうまかった」という人が多いけれど、そうかなあ? 堅くてまずかったような気がするけれど。冷凍ではない、採れ立ての鯨肉はうまかった。柔らかくて、冷凍物のような血のにおいがなくて、牛肉よりずっとうまかった。小型の鯨が漁師の網にかかることがあったのです。

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2008年6月20日 (金)

水着について(3)

 ヴィクトリア朝的お上品ぶりで日本を見るとどう見えたか。

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 ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズは、1854(安政5)年下田での見聞をもとに次のように断定を下した。「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。」
――平凡社『逝きし世の面影』p.296

 それから約半世紀後の明治38年ごろになると、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の通っている銭湯は混浴ではなくなっているようだ。
 しかし、女の裸は別に珍しいものではなかった。
 水島寒月君の提案する「俳劇」の趣向

「まず道具立てから話すが、これも極く簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が独り言のように心配した。「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。でその下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです。」…………「ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ」
http://neko.koyama.mond.jp/?eid=293820 より。この「挿絵でつづる漱石の猫」は傑作です。 

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2008年6月17日 (火)

水着について(2)

 1936年のベルリン五輪で男も上下つなぎの水着を着て泳いだのは、ヴィクトリア朝のお上品ぶりの名残だと思いますね。「女性の観客がいるではないか。胸毛なんかを見せるのは失礼だろう」という意識があったのだ。
 1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦が始まると、そんなお上品ぶりは吹っ飛んでしまった。1940年代前半に仮に水泳大会があったとしたら、男はパンツ一丁で泳いだと思いますね。
 男の水着などどうでもよろしいが、女の水着がずいぶん変わった。

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 1943年のベティ・グレーブルのピンアップ。GIの戦意高揚に大いに役立ったそうだ。しかし、これより40年ほど前と比べると何という変わり様だ。

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 1902年のBathing machineと水着の絵。ベージングマシンというのはむかしの小説に出てくるのでどんなものだろうと思っていた。だいたい19世紀の英国で盛んに使われたものらしい。1910年代くらいまでは使われたようだ。
 女性用水着はほとんど肌の露出がなくて泳ぎにくそうだけれど、こういうのでも水着姿で波打ち際まで歩く間に男性の視線で見られるのは困る、と当時の女性は思った。
 だから絵のような車輪つきの脱衣小屋があって、その中で水着に着替え、小屋を馬や人力や場合によっては蒸気機関で海の中まで引っ張って行ったのだ。

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 1829年のベージングマシン。ブライトンの海岸だそうです。水着がいっそうオールドファッションで、これでは泳げない。塩水につかってパチャパチャするだけで満足したらしい。この絵では泳いでいるのは女ばかりだ。海水浴場でも男性用と女性用のエリアが厳しく区別されていた。
 男だけの場合は、裸でもよかったらしい。シャーロック・ホームズの『獅子のたてがみ』では背中にひどい傷ができていたのだから、少なくとも上半身は裸で泳いだのだ。

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2008年6月16日 (月)

水着について(1)

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 北島君が世界記録を出したときは、モモヒキみたいなのを履いていたのですが、SPEEDOの水着は男子用でも上半身を覆うのが多いようですね。それで浮力がつくとしたらアンフェアだと思う。だいたい一人では着れないというのが変じゃないか。

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 しかし、第二次大戦前は、男でも上半身を覆うワンピース型の水着を着るのが普通だった。

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 1936年のベルリン五輪の日本男子水泳チーム。このときは前回のロサンゼルス大会ほどではないけれど、日本水泳陣は好成績を挙げた。金メダルは4個獲得。女子200m平泳ぎの前畑選手が有名ですね。「前畑がんばれ」
 当時の水着はもちろん天然繊維製で水を含んだから、パンツ一丁の方が速く泳げることは分かっていたはずだけれど、男でも裸体をさらすのは下品だという雰囲気があったのだろうか? 
ジョニー・ワイズミュラーのターザンは第1作が1932年だけれど、もちろん上半身裸だった。これは半分野蛮人だからやむを得ないということらしい。

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 ワイズミュラーは1924年パリ、1928年アムステルダムのオリンピック水泳で合計5つの金メダルを取った。オリンピックではもちろんワンピース型の水着で泳いだ。
 ベルリン五輪の次は、1940年に東京オリンピックが決まっていたのだけれど、これは戦争で中止になった。戦後1948年のロンドン五輪で再開されたが、日本は占領中で参加できず、1952年のヘルシンキ大会から参加した。戦後の男子競泳はパンツだけになっていたようだ。
 女子競泳は「スクール水着」みたいなのを着て泳いだ。

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 オーストラリアのドーン・フレーザー選手。彼女は1956年メルボルン、1960年ローマ、1964年東京の三大会で女子100m自由形に三連覇し、リレーを合わせれば4つの金メダルを取った。
 フレーザー選手は「全裸で泳がせてくれたら、100mで1秒は記録を縮められる」と言ったそうだ。

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2008年4月27日 (日)

五星紅旗が

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 長野ではあれほど派手に五星紅旗がひるがえるとは思わなかった。
 日本はすでに東京、札幌、長野と3回もオリンピックを開いて国威発揚につとめている。中国にだって国威を発揚する権利はあるわけだ。

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 1904年、仙台医専に留学していた魯迅は、ニュース映画で露探の支那人が日本軍に処刑されるシーンを見た。魯迅に衝撃を与えたのは見物している支那人たちが同胞の処刑に喝采する姿であった。支那人に愛国心はないのだろうか。
 それから百年経って中国のナショナリズムも十二分に発達していることが示されたわけだ。しかし日本人が外国へ行ってあんなふうに日の丸を振るなんてことはあり得ない。アメリカ人が星条旗を振るのも考えられないし、カナダ人がカエデの旗を振り回したりするはずがない。
 日本では厳重に警備するから聖火に突進する者はいないだろうと思っていたら、何人か逮捕された。卵を投げつけたやつもいた。中国ナショナリズムの発露を見せつけられて暴発したのか。
 しかし警備はしっかりしていて、一人も聖火に近づけさせなかった。さすがに日本の警察は偉い? 
 いや、考えてみれば、あれくらいの警備は英、仏、米の警察だってできたはずだ。聖火に近づくやつが結構いて、フランスの場合など消されたけれど、あれはどうも片八百長の気味があるね。わざと警備をゆるめたに違いない。

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 少なくとも「支那人が生意気な」という気分が働いていたことは確かだろう。
 英国の新聞の論調は「聖火リレー妨害は民主主義の勝利だ云々」だって。
 フランスの人権団体国境なき記者団のロベール・メナール事務局長は日本の対応を高く評価し、小競り合いはたいしたことではないとの見方を示した。
「(長野の聖火リレーは)民主主義に偉大な名前を与えた。ここでは、赤い中国の国旗を振る人々の隣で、別の人々がチベットの旗を振っていた」(メナール事務局長)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2383642/2868310
 
 ほめてくれたわけだ。
 中国のチベット人弾圧を弁護するつもりはない。しかし、欧米人に偉そうなことを言われたくないね。中国で、ベトナムで、インドで何をしてきたのか。
 パレスティナで何が行われているか。

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2008年4月18日 (金)

皇軍に感謝する

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 毛沢東主席は「皇軍に感謝する」と発言したことがある。
 1964年7月10日、毛主席は日本社会党訪中団(団長は佐佐木更三委員長)を接見した。
 このときの毛主席の発言について
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4a84d4450100063x.html

老毛感謝日本皇軍是大恩人」という記事がある。中国語の分かる人はご覧下さい。
 英語版から訳しておくと

 私は日本の友人たちにこう言ったのだ。彼らが「日本軍が中国を侵略して申し訳ない」と言うから、私はこう答えた。「とんでもない。もし日本の皇軍が中国の半分を占領しなかったら、中国人民はあなた方に対して団結することはできず、中国共産党も今日権力の座にはなかっただろう。日本の皇軍こそ、中国共産党の先生であり、大恩人であり、救い主なのだ。」

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2008年4月16日 (水)

綱引きを種目に加えよ

 オリンピックの種目のことです。
 オリンピックは運動会なのだから、綱引きがあるのは当然でしょう。玉入れもあってもよい。
 実際、綱引きは1920年(大正9年)の第7回アントワープオリンピックまでオリンピック種目に入っていました。

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 写真は1908年(明治41年)のロンドンオリンピックに出場したアメリカの綱引きチーム。このときは綱引きにはイギリスが優勝している。日本はこの大会には不参加。
 日本が参加するのは1912年(大正元年)のストックホルム大会から。このときの団長は叶姉妹の曾祖父にあたる嘉納治五郎であった。ただし、綱引きには参加せず、マラソンの金栗四三(1891-1984)など男子陸上選手だけが参加した。

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 金栗選手は日本での選考会で世界記録を出し、優勝候補と目されていたが、ゴールしなかった。一説によると、途中で市民の家でお茶とお菓子に誘われ、断り切れなくてレースを中断したと言われている。
 
 昔のオリンピックは今とはかなり違っていた。聖火リレーなんてのも、まだなかった。ちなみに聖火は英語ではHoly FireではなくOlympic Flameと言うようです。別に「聖」ではないのだから、日本語でもこういう即物的な言い方を採用したらどうだろう。
 古代オリンピックでは、大会期間中火を燃しておく習わしがあったようだ。

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 近代オリンピックで聖火(と一応呼ぶ)が初登場したのは1928年のアムステルダム大会から。古代と同じように、大会期間中火を燃しておくことにした。
 ギリシャからの「聖火リレー」という画期的なアイデアを実現したのは、1936年のベルリンオリンピック。

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 この大会はヒトラーの国威発揚に大いに役立った。

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2008年4月15日 (火)

後期高齢者?

 後期高齢者健康保険の天引きが始まりましたね。我が家でも母は私の国民健康保険を使っていたのが、年金から引かれることになった。
 しかし「後期高齢者」とは何だ? 後期があれば前期があるはずだ。
 65歳以上74歳までが「前期高齢者」だろうね。すると、後期高齢者とは75歳から84歳までかな? 
 それじゃ、85歳以上は何と呼ぶのか? 「くたばり損ない」かな。
 厚生労働省では「くたばり損ない健康保険」の早期導入に向けて鋭意検討を進めているそうです。

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2008年4月14日 (月)

中国の立場

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 われわれは「チベット独立」をたくらむ分裂勢力が、オリンピック精神と英・仏両国の法律を無視し、下心をもって聖火リレーを妨害・破壊したことを強く非難する。崇高なオリンピック精神を汚したこの卑劣な行動は、オリンピックを愛する全世界の人々への挑戦である。われわれは五輪聖火が担うオリンピック精神と「平和・友情・進歩」の理念は何人たりとも阻むことはできないと信じている。

 と中国大使館筋では仰せです。中国大使館ホームページからメールで「ご意見とご感想」を述べることができます。私も「毛沢東思想の旗を高く掲げて頑張って下さい」と激励の言葉を書いておきました。

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聖火リレーをどう迎えるか

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 日本での聖火リレーは、4月26日に長野県善光寺から18.5キロほどを走る予定だ。
 すんなり通してしまうのはもおかしい。しかし欧米諸国のように暴力的に妨害するか? 
 ダライラマも暴力による妨害には反対を唱えておられる。

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 無責任なことを言えば、日本では餃子をぶっつけるのが一番面白そうさだけれど、今回は慎むべきでしょう。
 日本独自の方法で「歓迎」したらどうか?
 善光寺からの18.5キロの沿道で、見物する人たち全員がチベット国旗を振って「大歓迎」するのはどうだろう。

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 これはごく簡単にできることだ。
 新聞社主催のマラソン大会では、何万本も紙製の粗末な旗を作って、沿道の市民に配っている。あれと同じことをすればいいだけだ。
 ああいう旗をたとえば十万本作るのにいくら要るか? 1本10円としても百万円だ。そんなに大した費用はかからない。私がちょっと金持ちだったら、自費で作って長野市民に配るね。チベット国旗準備委員会を結成して浄財を募っても、まだ間に合う。

 長野で何十万の市民が、黙ってチベット国旗を振りながら「粛々と聖火を迎える」。
 中国人「聖火防衛隊」などは入国拒否すればよろしい。デモではないのだから、警備の警官も取り締まれないはずだ。どうですか?

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2008年4月13日 (日)

スパイとスパイ小説(3)

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 1963年にソ連に亡命したKim Philby  キム・フィルビー(1912-1988)は、1968年にMy Silent Warという手記を刊行した。この本には、第二次大戦中に諜報部でフィルビーの直属の部下であったグレアム・グリーン(1904-1991)が序文を寄せている。

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 これはフィルビーの敵が予期していたような本ではない。誠実な態度でよく書けた本であり、面白い話も多い。バージェスとマクリーンが亡命してからのフィルビーの話は、私の読んだどんなスパイ小説よりもはるかにスリルに富んでいる。プロパガンダに満ち満ちているはずだ、と言われていたのだが、実際には、そんなことは全くない。信念と動機を堂々と述べるのがプロパガンダであるとすれば別であるが。もちろん彼にとって目的は手段を正当化するのである。しかし、およそ政治に関わる者ならば、行動から判断する限り、誰でも同じように考えているはずであり、口に出して言わないだけである。これは政治家がディズレーリであってもウィルソンであっても変わらない。「彼は国を裏切った」と言われるか。確かに裏切った。しかし我々のうちで、国よりも大切なものや人を裏切らなかった者がいるか? フィルビー自身の目からは、彼は来るべき世界のために働いていたのであり、それがそのまま「国のため」だったのだ。

 この本を読んだのはもう20年くらい前であるが、「スパイ小説とそっくりだ」と思ったことを覚えている。
 ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンのスパイ小説の「真似」のような感じがしたのだが、もちろんこちらの方が本物なのだ。(グリーンが明らかにフィルビーをモデルにした作品は『ヒューマン・ファクター』である。フィルビーがいなければル・カレのスパイ小説もなかった。)

「スパイ小説そっくり」のシーンは2箇所覚えている。
 ひとつは、スペイン内乱(1936-1939)のときである。フィルビーは特派員としてフランコ側に従軍してソ連のために情報を集めていた。あるとき尋問され身体検査を受けることになったが、ポケットには暗号表が入っている。どうすればよいか? フィルビーは隙を見て暗号表を飲み込んでしまうのである。
 もうひとつは外交官としてワシントンD.C.にいたときのこと。ソ連のスパイ管理官と連絡を取るのに、フィルビーは散歩に出て、予め打ち合わせてあった公園の木の幹にある空洞の中に書類を入れておくのだ。「そんな小説じみたことをしなくても、もう少しまともなやり方がありそうなものだ」と思うのは素人考えで、これが一番確実な方法だったらしい。
 スパイ活動がスパイ小説と似ているのは、このような具体的な「手法」についてだけではない。
 何のために諜報活動を行うか? そもそも諜報活動とは何か? こういう根本的な問題についても、ジョン・バカン、エリック・アンブラー、グレアム・グリーン、ジョン・ル・カレ、あるいはイアン・フレミングなどの考えたことと、実際にCIA、MI6、KGBなどの指揮者たちが考えていることの間に、そう大きな違いはないだろう、と思う。
 CIA元長官が手記を書いて米国のスパイ活動を赤裸々に告白する、なんてことはあり得ないから、これを実証するのはむつかしい。
 しかし、たとえば、ヒトラーの頭の中をのぞいてみることができたとしたらどうか? ワーグナーがそっくりそのまま入っていたのではないだろうか。第三帝国の滅亡は『神々の黄昏』だったはずだ。
 フィクションも現実も、人間が頭の中で考えたことを形にしたものなのだ。
   Erdichtung(フィクション)とRealpolitik(現実政治)を混同するなんてとんでもない、かどうか?

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2008年4月12日 (土)

スパイとスパイ小説(2)

 はじめから英語で書いてある小説ならば、CIAが大いに参考にしているのは言うまでもない。
 CIAはアルカイダの容疑者をキューバのグアンタナモ基地などに拘束して拷問を加えているが、看守は名前などを絶対に明らかにしないよう気をつけているのだという。

 これはトレヴェニアンの『シブミ』を参考にしたに違いない、と私は思う。
『シブミ』の主人公、ニコライ・ヘルは、大東亜戦争中の日本で少年時代を過ごした。白系露人の母が日本陸軍の岸川将軍の愛人となり、ニコライは日本で大竹七段について碁のプロ棋士の修業をしたのである。
 日本の敗戦後、二十歳を過ぎたばかりのニコライは巣鴨刑務所に拘束される。

その三年間の拘留中、ニコライは理屈の上ではスパイ行為と殺人の罪による裁判を待っていることになっていたのだが、法的手続きはついぞ開始されなかった。一度として裁判を受けず、刑の宣告も受けなかったが、そのために、ふつうの囚人に許されているごく簡単な特権ですら、彼は認めてもらえなかった。(早川文庫版上巻p.277)

 アルカイダ容疑者と同じである。ニコライも激しい拷問を受ける。ところが、3年後、占領軍と取引が成立してニコライは巣鴨を出ることができた。彼は「シブミ」を体得した超人的な暗殺者になっていた。
 ニコライは、自分を拷問した三人の行方を突き止め、一人ずつ巧妙な方法で殺して行く。
『シブミ』では、ニコライを尋問する男が独房に入ってきて
「わたしはダイヤモンド少佐だ、犯罪調査部」
 と自己紹介する。これが後に命取りになったのだ。彼はスキー中の「事故」で死ぬ。

 もちろんCIAも、この小説のような超人的な暗殺者が出現するとは思っていないだろう。
 しかし、容疑者を釈放した場合に、万が一にでも個人的な報復を受ける可能性は排除しておくべきだ、という考え方をCIAが取るようになったのは、SHIBUMI(1979年刊)があったからに違いないと、私は思う。
 現実の政治や戦争やスパイ活動がフィクションの影響を受けるなどという馬鹿なことがあるか??
「馬鹿なこと」は十分あり得ると私は思う。
 現実の活動もフィクションも、人間が自分の頭の中で考えたことが外に現れたものだ。人間が考えることにそう大きな違いはないのである。
 本物のスパイの書いたものをスパイ小説と比べてみればこれが分かるはずだ。(続く)

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2008年4月11日 (金)

スパイとスパイ小説(1)

佐藤 西木さんの『オホーツク諜報船』(角川文庫)は、ソ連諜報部によってスパイの役目を負わされる日本人漁師の物語で、私の愛読書のひとつです。あの本がロシア大使館のKGBステーションによって翻訳されているのを知っていましたか。連中は登場する人物をチェックするために、優れたノンフィクションや小説を訳して、徹底的に調査するんです。

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「佐藤」は佐藤優氏、『諸君』五月号で作家の西木正明氏を相手にした対談の冒頭の発言である。
 KGBが日本の小説をロシア語に訳して参考にしているというのは、デタラメではないと思う。
 CIAだって同じことをしているだろう。日本語のできる職員が日本のスパイ小説や冒険小説を読んでせっせと梗概を作っているはずだ。『オホーツク諜報船』は西木氏によれば「限りなくノンフィクションに近い」というのだが、そういうものだけでなく、かなり荒唐無稽なものも一応チェックしていると思う。
  上層部がその梗概を読んで、これはと思うものは全文を英訳させているはずだ。最近では『ウイグルの叛乱』など、全訳したのではないかと思う。

 これは日本人の作家がウイグル族のテロ活動に荷担するという話である。ウイグル族の反政府活動家たちが北京のオリンピック会場を爆破してしまうのはよいとして(?)、長距離バスに爆弾を仕掛けたりする。日本人の作家が、「チベット人は仏教徒で大人しいのがよくない。それに比べてウイグル族はイスラムだからガッツがある」というようなことを考えて、爆弾を運んでやったりして協力する。柘植氏はアメリカに対してテロを企むようなイスラムはやっつけるべし、という立場である。中国が相手なら何をしても構わないというのはちょっとひどい話だ。しかしテロのmodus operandi(手口)が具体的に書いてあるのは確かに「参考」になるはずだ。
 この本は2006年11月刊行である。中国がオリンピックの妨害工作を企てたかどでウイグル人多数を逮捕したと発表したのは最近のことだ。